ピピピピピピッ。


「ん、んん……」
 遠くでアラームが起床時間を知らせている。
 でも、聞き覚えのないアラーム音だ。俺のでも、成宮先生でもない……誰のアラームだろう。
「え?」
 俺が目を開けると、目の前にはイケメンのドアップが……。しかも、見慣れた成宮先生じゃない。成宮先生い雰囲気は似ているんだけれど、あの人より髪が短くて、少しだけ幼い顔立ち。
 一気に眠気が吹っ飛んでいくのを感じた。
「そっか……ここは智彰の家だった」
 俺は重たい体を起こす。
 昨日の醜態を思い出せば、顔に熱が籠ってくるし、恥ずかし過ぎて思わず叫びたい衝動に駆られた。
 もうこの世界から消えてしまいたい。
 そんな思いを振り切るために、俺は硬く目を瞑って頭を振る。
 今は何も考えなくていい……そう自分に言い聞かせながら。


「もう、あの人のことは忘れよう」


 これが俺が出した結論。 
 今は溜まっている有休を消化して、心の整理がついたらまた出勤すればいい。その時には、成宮先生の部下として接すればいいんだ。そう自分に言い聞かす。
 それもできそうにないなら、退職すればいいだけの話。
 昨日、柏木から着信が何回かあったけど、それに出る勇気が俺にはなかった。


 それからと言うもの、俺はすっかり智彰のマンションに居座ってしまった。だってここは本当に居心地がいい。俺からしたら天国のような場所だ。
 疲れ切った体に鞭打って成宮先生の相手をする必要もないし、家に帰ってまで気を遣う必要もない。


 きっと、成宮先生が上手く言ってくれているのだろう。職場からの連絡もなかった。
「わぁ、超いい天気。雲が綺麗だなぁ」
 窓から空を見上げれば、その青さに感動してしまう。
 毎日毎日、寝る暇を惜しんで働いて俺は、久し振りにゆったりとした時間が過ぎていくのを感じた。 


 仕事にも行かずにずっと家にいるものだから、自然と家政婦さんのように家事全般を請け負うこととなった。俺は元々家事ができる系男子だし、そんなことは全く苦にもならない。
 むしろ、疲れ切って帰ってくる智彰のために、掃除と洗濯をして、夕飯を作って彼の帰りを待っていることが、俺の楽しみになっていた。
「今日は肉ジャガでも作ろうかな」
 綺麗に畳んだ洗濯物をポンポンと叩いてから、大きく伸びをする。今日は天気がよかったから洗濯物もよく乾いたし、干した布団もふわふわになった。
「よし、夕飯の支度、頑張るぞー!」
 俺は鼻歌を歌いながらキッチンへと向かったのだった。

◇◆◇◆

「あぁ、疲れたぁ!!」
「おかえり、智彰」
 俺はつい成宮先生を出迎える癖で、智彰を玄関まで迎えに行った。
 そんな俺を見た瞬間、智彰の頭には耳が生えて、お尻にはブンブンと揺れる尻尾が見えたような気がする。
 その姿はまるで大型犬のようで、つい可笑しくなってしまった。
「ただいまぁ、葵さん! 疲れたよぉ!」
 そのまま勢いよく俺に飛びついてきたから、俺はバランスを崩しながらもギュッと智彰を抱き締めた。
「ふふっ。智彰は本当に甘えん坊だなぁ」
「だって、葵さんを見てると甘えたくなるんだもん」
「智彰、犬みたいだよ」
 俺は思わず声を出して笑ってしまった。


 俺は元々長男だから、こうやって甘えられることには慣れていたし、自分を頼ってくれる存在が好きなのだ。
 だから、犬みたいな智彰が可愛いなって思える。
 成宮先生には、こういう素直さや謙虚さなんて全くない。だから、余計に智彰が可愛く見えるのだろう。
 兄弟なのに全然違う。……でも、なんとなく似ている二人。
 でも俺は気付いてなんかいなかった。俺は無意識に、智彰の中に成宮先生の面影を見つけていたことに。


「でもさ、葵さん。なんで突然仕事を休んだり、兄貴を避けなきゃいけないわけ?」
「ん?」
 突然問い掛けられた俺は、テーブルに食事を並べていた手が止まってしまう。それから、足に根っこが生えたかのように動けなくなってしまった。
 だって、できたら触れられなくないし、そもそも思い出したくもない。
 でも智彰からしたら気になるのは当然だろう。突然彼氏と別れて、仕事も当分行きません、なんて普通はあり得ない話だから。
「こんだけ協力してあげてるんだから、俺には知る権利があると思うけど?」
「う~ん」
 俺は唇を尖らせながら、意味不明の唸り声を上げてしまう。できることなら、もう少し心の整理がつくまで、そっとしておいてほしかった……というのが本音だった。
「なぁ、葵さん?」
「絶対引かない? 俺のこと嫌いにならないって約束してくれる?」
 泣きそうな顔で智彰の事を見つめたら、明らかに智彰が動揺しているのがわかった。
 それでも自信に満ちた顔でニコッと笑ってくれる。その顔はやっぱり成宮先生にそっくりで、俺は思わず視線を奪われてしまった。


「大丈夫。葵さんが、今から話す内容次第ではさ……俺が葵さんをお嫁さんにもらってあげるよ。兄貴より幸せにしてやるから……遠慮なく話して?」
「智彰……お前は本当にいい奴だな」
「え? それ本気で言ってる?」
 俺が目を輝かせながら智彰を見つめれば、智彰が呆れた顔をしながら大きな溜息をついた。
「普通さ、ここまで言われれば気付くでしょうに?」
「ん? 何が?」
「はぁ……もういいや、話を続けてよ」
「うん」
 智彰が心底呆れたような顔で俺を見つめた後、「どうぞどうぞ」と言うようなジェスチャーをして見せる。
 それに背中を押された俺は、勇気を振り絞り重たい口を開いた。


「実は……」
「実は?」
 俺の緊張が伝染したかのように、智彰まで緊張したような顔をしている。息を呑む音が聞こえてきそうだ。 
 その場の空気がピンと張り詰める。
 もう、どうにでもなれ。悪いのはあの人だ。
 俺は拳を握り締めて、智彰を見上げる。極度の緊張から、指先が氷のように冷たくなった。


「千歳さんとしてるとこを、柏木に見られた……」
「してるとこって? 何をしてたの?」
「だから、その……」
「まさか!? う、嘘でしょう!?」
 智彰がこれでもかというくらい目を見開いたから、俺は顔を真っ赤にしながら頭を抱えて蹲った。
「それとも、チュウしてるとことか?」
「違う違う……ガンガン本番ってとこ……」
 もう顔から火が出そうで、両手で顔を覆いながら、ブンブンと勢いよく首を横に振る。


 もう聞かないで……思い出したくもない……。
 これ以上聞かれたら、死んじゃう……。


「もしかして病院でしてたの?」
「うん。医局で……」
「い、医局!?」
「うん。ごめんなさい」
「それはそれは……」
 智彰が沈黙してしまったことが凄く怖い。
 軽蔑されても仕方ないことをしてしまったという自覚があるだけに、俺は本当に自分が情けなかった。


「と、とりあえず冷めちゃうから飯食おう?」
 落ち込み過ぎて、顔さえ上げられない俺の頭を智彰が優しく撫でてくれる。
「美味しそうな肉ジャガだね。ありがとう」
 智彰の優しい言葉に、涙が溢れ出しそうになる。これで智彰に愛想をつかされたら、俺は本当に一人ぼっちになってしまうから。
「最低な奴だって軽蔑した?」
「別に軽蔑までは……ただちょっと……いや、かなりびっくりしたかな」
「……だよね……」
 柏木の顔すら見ることのできない俺は、唇を噛みしめて俯く。
 極度の緊張から解放された俺は、もうその場に立っていることさえやっとだった。
「気が済むまでここにいればいい。大事にしてやるから」
 そんな優しい智彰の声を聞く余裕すら、今の俺にはなかった。