ピンポーン。


 真夜中に、機械音が静かな空間に響き渡った。
 少しの沈黙の後、インターフォン越しから「どちら様ですか?」という声が聞こえてくる。俺は少しだけ罪悪感を感じながらも、そっと声をかけた。


智彰(ちあき)、葵だよ。開けてくれるかな?」
「え? 葵さん?」
「うん、葵だよ。ごめんね、黙ってきて」
「ちょ、ちょっと待っててね。今行くから」
 突然の来客に驚いたのだろう。声が上擦っている。
「葵さん、どうぞ中に入って」
 優しい笑顔と共に、マンションのドアが開く。
 俺はその瞬間、体からどっと力が抜けていくのを感じたのだった。
 

「ごめんね、こんな真夜中に」
 部屋に入るなり、俺は深々と頭を下げる。俺は両手にいっぱいの荷物を、「よいしょ」と床に下ろした。
「別にいいけど、どうしたの?」
「ん~、別に。しばらく智彰のマンションに泊まらせてもらおうと思って……」
「は?」
 あまりにも突拍子もない俺の発言に、智彰が思わず目を見開いた。
 明らかに戸惑っているのが、見て取れる。


「泊まる場所って、葵さん、彼氏と同棲してるんだろう?」
「そうだけど……」
 痛い所を突かれた俺は、唇を尖らせたまま俯いた。
 だって、今の俺には帰る場所なんてないんだから。
 俺の実家はここからは遠いし、親友の柏木は実家暮らしだし……。他に何日か泊めてほしいなんて、図々しいことを頼める友達なんていない。
 ホテル住まいも考えたけど、長期間の滞在は金銭的な面で不安を感じる。
 そんな中、真っ先に頭の中に浮かんだのが智彰の顔だった。


「その彼氏から逃げたいんだよ。もう、あの家には戻らない」
「逃げたいって……なんかあったのか?」
「あった……けど言いたくない。ただしばらく仕事は休む予定だし。彼氏とは……」
 目頭が熱くなってきたから、唇をギュッと噛み締めた。
「彼氏とは?」
 小刻みに震える背中を、智彰が優しく摩ってくれる。
「彼氏とは別れたから」
「はぁっ?」


 俺と成宮先生が付き合って大分時間がたったけど、喧嘩したのなんか智彰は見たこと無いのかもしれない。ましてや別れ話なんて。
「良くわからないけど、訳ありなんでしょ? じゃあさ、優しい智彰君が、可愛い葵さんを慰めてあげますよ」
 

そう言いながら、智彰は俺を抱き締めてくれる。
「でもさ、予想もしなかった、突然の可愛らしい迷い犬の訪問は……すごく嬉しいよ。ゆっくりしていって」
 そう言いながら微笑む智彰は本当にイケメンで……男の俺でもドキドキしてしまった。


 智彰は俺より二つ年下で、同じ大学の出身だ。今は研修医として頑張っているけど、将来的には緩和ケア病棟で働きたいって言っていた。 
 人生最後の瞬間を過ごす人たちの支えになりたいなんて、本当に優しい智彰らしいなって思う。
 しかも、智彰はイケメンと言うことで、大学でも病院でも有名人だった。
 色素の薄い髪は短く整えられ、フワッといつもシャンプーのいい香りがする。整った顔立ちに、モデルのようなスタイル。そして、優しい物腰。彼に会う人全員を、幸せな気持ちにさせてくれる……そんな不思議な存在。
 それは、俺以外の人に見せる、優しくて穏やかな成宮先生にとても良く似ていた。


「兄貴、葵さんが出て行ったから、きっと今頃焦ってんじゃん無い?」


 そう、似ているも何も『成宮智彰』は、『成宮千歳』の実の弟だ。


 と言っても、付き合いは智彰の方が長い。
 共通の知人の飲み会で知り合った智彰とは、なんやかんやで馬が合うのだ。ちょくちょく二人きりで遊びに行ったり、今日みたいに俺が智彰の家に泊まったりすることもある。
 智彰は兄である成宮先生と違って、気を遣わないし、素の自分を曝け出すことができた。


「もうあんな馬鹿兄貴なんか放っておいて、ずっとここにいればいいよ」
「ありがとう、智彰」
「いいっていいって。俺と葵さんの仲じゃん」
 俺をギュッと抱き締めながら、頬に軽く唇を寄せてくる。
「あ、相変わらず距離が近い……」
 俺はそんな智彰に、いつもドキドキさせられっぱなしだ。


 智彰はいつもスキンシップが激しくて、距離がすごく近い。友達からは「お前等付き合ってんの?」って聞かれるほどだ。
 俺は、智彰を恋愛対象でなんか見たことがなかったから、いつもムキになって否定してたけど、智彰は怒ることもなくただ笑っていた。
 そんな穏やか智彰は、成宮先生のように裏表があるわけでもなく、誰にも分け隔てなく優しくしてくれる。
 そう、こんな俺にだって……。


 それなのに、いつの間にか、俺は智彰の兄である成宮先生と恋人同士になってしまったのだから、人生って何が起きるのかわからないなって思う。
 
 
「けど布団一組しかないよ? しかもベッドシングルだし」
「いいよ。俺いつもみたいにソファーで寝るから」
「でも、葵さんがずっとここにいるなら、そういうわけにもいかないでしょう?」
「そっか……。じゃあ、一緒に寝ようか?」
「はぁ?」
「なに?」
 智彰が、俺の言った何気ない一言に目を見開く。口まで半開きにして、イケメンが台無しだって思う。
「案外男二人でも、一枚の布団に寝られるもんだよ?」
「あー、そうなんだ」
「うん。布団はそのうち買ってくればいいよね」
「りょう、かい……」
 顔を赤くしながら鼻の頭を掻く智彰。
 でも、俺は智彰がなんでそんなに驚いているのかがわからなかった。


「いつも二人でくっついて寝てるんだな?」
 智彰が、少しだけ寂しそうに俺の方を見て笑う。
「簡単に想像つくよな、あんた達が仲良くくっついて寝てる光景がさ」
「智彰……?」
 俺は智彰が何を考えているかわからなかったら、子供をあやすように無意識に頭を撫でてやる。智彰はそんな俺の手を掴み、そっと唇を寄せた。
「ちょ、ちょっと……智彰!? きょ、距離が近い!」
 そんなあまりにも自然なイケメンの仕草に、恋愛経験の少ない俺はドキドキして、思わず声が裏返ってしまった。


「しばらくここにいるの?」
「……いてもいい?」
 俺が智彰を見上げれば、今にも泣き出しそうだった顔に、一瞬で笑顔が戻った。
「うん! ずっとずっと一緒にいよう?」
「ずっと、ここにいていいの?」
「いいよ。ずっとここにいな?」
「本当!? ありがとう」
 俺は嬉しくて、思わず智彰に飛びつく。そんな俺を優しく受け止めてくれた。


「ずっとさ、葵さんを独り占め出来たらいいのにな……」
 耳元で、智彰の切ない声が響く。
「この迷い犬に、首輪をつけることができたら……どんなに幸せだろうな」
 痛いくらいギュッと抱き締めてくれる智彰に、なんやかんや言っても寂しくて仕方がない俺は、夢中でしがみつく。


 寂しくて、悲しくて……心が壊れてしまいそうだった。