病院を出た俺は、重い足取りで自宅へと向かう。まるで、体に鉛がついているかのようだ。
 高級住宅地のタワーマンションの高層階に、俺の自宅はある。誰もが羨む、夢の城だ。それなのに、俺は自宅に帰ることが憂鬱でならない。


 大きな溜息をつきながら、エレベーターのボタンを押せば、俺の沈んでいく心とは裏腹に、体は上へ上へと運ばれて行く。
 重たいエレベーターの扉が開かれて、トボトボと廊下を歩けば、自宅の前へと嫌でも到着してしまった。
 電子キーで鍵を開けて、「よし」と気合を入れてからドアノブを思いきり引く。自然と嫌な汗が額に滲んだ。
「わ、眩しい」
 眩しい室内の照明に思わず目を細める。
 普通なら、誰もが早く家に帰りたいという思いで、一日を過ごしていることだろう。
 一秒でも早く家に帰って、美味しいご飯を食べて、温かいお風呂に入って、フワフワの布団に潜り込みたい……きっとそう思うはずだ。


 でも、俺は違う。
 なぜならば……。


「遅いぞ、葵」
 玄関の壁に寄り掛かり、その人物は軽く俺を睨み付けてくる。
「ご、ごめんなさい。記録が終わらなくて……」
「本当に記録か?看護師とナースステーションでイチャイチャしてたんじゃねぇの?」
「え? 見、見てたんですか?」
「見てた。凄く楽しそうにしてたから……」
 今度は、下唇を尖らせて子供みたいに拗ねた顔をしている。
「別に楽しそうにしてた訳じゃ……」
「いいや、楽しそうだった」
「そんなことない!」
「別にいいよ。葵は元々ノンケなんだから。俺なんかより、可愛い看護師のほうが好きだよな」
 くるりと俺に背を向けてリビングへと向かおうとしたその逞しい腕を、俺は咄嗟に両手で掴んだ。
「お願い、怒らないで成宮先生! 別に、あの看護師さんのこと、何とも思ってないから」
「ふーん……」
 まだ拗ねたような素振りを見せるから、腰に腕を回して正面から抱きついた。
「大丈夫です。俺は成宮先生だけのものだから」
 強く抱き締めて、その首筋に顔を埋める。お風呂に入ったのだろうか……成宮先生からは、シャンプーのいい香りがした。


 そう。俺と成宮先生は一緒に住んでいる。
 そして、俺が研修医時代からの恋人だ。


 正直言って、何でこんなハイスペック男が、自分の彼氏なのかなんて、未だに理解できていない。いや、きっと説明されても納得なんてできるはずなんてないだろう。
 俺は、別に取り柄がある訳でもないし、代々続く医者の子供という訳でもない、The普通系男子。よく「可愛い」なんて言われるけど、格段モテるということもないし。付き合った人の数なんて、片手で十分足りてしまう。
 普通過ぎて、つまらない男なのだ。
 見た目だって、どんぐりみたいな真ん丸な目に、フワフワのくせっ毛。今年で二十七歳になるのに、いつまでたっても子供みたいな外見をしている。
 身長も高くはないし、筋肉質でもない。俺を見た人は、「可愛い」ってまるで小動物を見たかのように目を輝かせるのだ。


 それでも、実習先の病院で見かけた成宮先生に憧れて、彼を追って小児科医になった。優しくて、真面目な働きぶりに、当時の俺は強い感銘を受けたから。
 成宮先生みたいに、誰からも好かれる医師になりたい……そう思って、辛い勉強や実習も乗り越えてきたんだ。
 そんな成宮先生を尊敬する思いは、今でも色褪せることなんてない。


「葵は俺の物だって?」
「はい。俺は先生だけの物です」
「フッ」
「え?」
 拗ねているのかと思って、一生懸命ご機嫌を取ろうとしていた俺の耳元で乾いた笑いが聞こえてきたから、思わず顔を上げる。
 そこには、不敵な笑みを浮かべた成宮先生がいた。
「葵が俺の物なんて、当たり前だろうが?」
「へ?」
「当たり前過ぎて、笑っちまう」
「…………」
 あぁ、この男が一瞬でも可哀想に思えた自分が馬鹿だったんだ……俺は酷く後悔してしまう。
「ほら、飯食うぞ。お前がのろま過ぎて、冷めちまうところだった」
 突然手を握られて、俺はリビングへと連れて行かれる。リビングに置かれたテーブルの上には、俺の大好きなハンバーグが湯気をたてている。リビング中に広がる香ばしい匂いに、思わず大きく息を吸い込んだ。
「わぁ! 美味しそう……ハンバーグだ」
 思わず目をキラキラ輝かせれば、成宮先生がクスクス笑い出す。
「葵は本当に子供だなぁ」
 無邪気な笑顔で頭を優しく撫でられれば、鼓動が少しずつ速くなって、甘く胸が締め付けられる。
 職場では見ることができない、成宮先生の笑顔。
 やっぱり、成宮先生はかっこいい。


「今日、咲ちゃんの採血を頑張ってたからな」
「え……?」
「お前にしたら頑張ったんじゃん? まぁ、結局は失敗したけどな」
 褒められているのか、貶されているのなんて分からなかったけど、こんなのはいつものことだ。これをいちいち気にしていたら、この人とは一緒にいることなんてできない。すぐに心が悲鳴を上げることだろう。
「いただきます!」
 俺は両手を合わせてから、大きなハンバーグに食らいつく。
「でっけぇ口だなぁ」
 そんな俺を見た成宮先生が、声を出して笑っていた。