あんなに綺麗だった桜の花びらが散って、新緑の季節となった。
キラキラと若葉は日差しに煌めき、爽やかな風にサラサラと揺れる。真っ青な空がどこまでも続いて、大きく深呼吸をしたくなった。
「気持ちいいなぁ」
あと少しで小児科病棟の研修も終わりを迎える。
そんな中、俺の病状はどんどん悪化していった。
最近では成宮先生の傍にいるだけで、動悸と息切れが激しい。その場に倒れそうになることもしばしばだ。
柏木に何か薬を処方してもらおうと、何度か彼を訪ねてはみたものの、笑顔で追い返されてしまった。そんな症状に振り回されながらも、なんとか研修は乗り切れそうだ。
ただ一つを除いては……。
沙羅ちゃんの容体は、一向に回復へ向かって行かない。低め安定……そう言ってしまえばそうなんだけど、日に日に蒼白くなっていく顔を見れば、何とかしてやりたいと思うのだ。
「水瀬、沙羅ちゃん、そろそろ輸血に踏み切るぞ。相当貧血が進行している」
「輸血、ですか?」
「そうだ。このままじゃ手遅れになる」
俺の前に最新の採血結果を置いて、貧血の項目をトントンと指さす。
「それから、ご両親にはかなり危険な状態であることを説明したおいたほうがいい」
「そんな……」
「仕方ないだろう。これが、今の医療の限界なんだ。俺達は、神様じゃない」
そう話す成宮先生の顔は、苦痛に歪んでいた。
その顔を見れば、凄く苦しいんだろうな……って言うのが、痛い程伝わってくる。それは、俺よりももっともっと強い物だろう。
「わかりました」
俺は、小さく頷いた。
成宮先生と一緒に、沙羅ちゃんのご家族に『非常に危険な状態である』という説明をした。
我が子のこんな告知を聞けば、泣いて取り乱すのかなって思っていたけど、取り乱すこともなく冷静に説明を聞いている。俺は、それがとても不思議だった。
二人きりになった時に、成宮先生にそっと問い掛けた。
「なんで沙羅ちゃんのご両親は、あんなに冷静だったんですか?」
「沙羅ちゃんはさ、生まれながらに病気を持っていた。今まで何回も生死の狭間をさ迷って、なんとか一命を取り留めて……の繰り返し」
成宮先生が、自動販売機で買ったコーヒーを一本俺に手渡してくれる。
自分のコーヒーはブラックなのに、俺に手渡したコーヒーには砂糖が入っていたことに、少しだけ感動してしまった。
前に、ブラックコーヒーは苦手だと話したことを覚えていてくれたんだ。
「沙羅ちゃんのご両親は、今まで精一杯頑張ってきた。だから、きっと覚悟みたいなものがあるんじゃないかな……」
「覚悟?」
「そう。俺は親になったことはないし、これからもなることはないから、良くわかんねぇけどさ」
「え?」
「ただ、親が子供を思う気持ちって凄いよ。これだけは確かだ」
その言葉が、俺の胸に強く響く。
だから、『なんで先生は、親になることがないんですか?』って聞いてみたかったけど、俺はその言葉を飲み込んだ。
◇◆◇◆
その日は突然訪れる。
ううん。来るべき日が、来たのかもしれない。
出勤と同時にPHSが鳴り、俺と成宮先生は急いで病棟に向かった。その時には、すでに沙羅ちゃんの体に付けられている機械のアラームが鳴り響き、忙しなく看護師が走り回って、その場は騒然としていた。
「先生、沙羅ちゃんが……」
今にも泣きそうな看護師さんが、俺に縋るような視線を向けてくる。
俺の手に、小さな命がのしかかった瞬間だった。
「どうしたら……」
体がカタカタ震えて、体温が一気に引いて行くのを感じる。
今まで習ってきた授業や、頭に叩き込んできた教科書が、全然役に立たないことを思い知った。頭が真っ白になり、思わず叫び出したい衝動を必死に抑える。
「大丈夫だ。俺がついてる」
「先生……」
「とりあえず、ハムスターみたいにプルプル震えてないで、せめてハッタリでもいいからチワワくらいの威勢を見せてみろよ?」
「は、はい」
先生の優しい笑顔に、俺は救われたのだった。
「とりあえず、どうすんだ?」
「あ、はい。まず心拍数が落ちてるので強心剤を点滴に入れて、低体温になってるから保温して……輸血をします」
「OK。上出来だ」
俺は大きく深呼吸をして、邪魔な白衣を脱ぎ去った。
やれるだけのことはやったけど、沙羅ちゃんの容体は変わらなかった。
朝、沙羅ちゃんのご両親に連絡を入れたら、すぐに面会に来てくれた。ずっと沙羅ちゃんのベットの近くで、優しく話しかけたり、体を擦ってやっている。それでも、沙羅ちゃんが反応することなんてなかった。
その光景を見ているだけで、俺の目頭が熱くなる。
「なんとかしてあげたい」
という医師としての思いに、
「可哀そう」
と思う同情の心。
その二つの感情が、俺の中でグラグラと揺れて、まるでナイフのように心をズタズタに切り裂いていった。
キラキラと若葉は日差しに煌めき、爽やかな風にサラサラと揺れる。真っ青な空がどこまでも続いて、大きく深呼吸をしたくなった。
「気持ちいいなぁ」
あと少しで小児科病棟の研修も終わりを迎える。
そんな中、俺の病状はどんどん悪化していった。
最近では成宮先生の傍にいるだけで、動悸と息切れが激しい。その場に倒れそうになることもしばしばだ。
柏木に何か薬を処方してもらおうと、何度か彼を訪ねてはみたものの、笑顔で追い返されてしまった。そんな症状に振り回されながらも、なんとか研修は乗り切れそうだ。
ただ一つを除いては……。
沙羅ちゃんの容体は、一向に回復へ向かって行かない。低め安定……そう言ってしまえばそうなんだけど、日に日に蒼白くなっていく顔を見れば、何とかしてやりたいと思うのだ。
「水瀬、沙羅ちゃん、そろそろ輸血に踏み切るぞ。相当貧血が進行している」
「輸血、ですか?」
「そうだ。このままじゃ手遅れになる」
俺の前に最新の採血結果を置いて、貧血の項目をトントンと指さす。
「それから、ご両親にはかなり危険な状態であることを説明したおいたほうがいい」
「そんな……」
「仕方ないだろう。これが、今の医療の限界なんだ。俺達は、神様じゃない」
そう話す成宮先生の顔は、苦痛に歪んでいた。
その顔を見れば、凄く苦しいんだろうな……って言うのが、痛い程伝わってくる。それは、俺よりももっともっと強い物だろう。
「わかりました」
俺は、小さく頷いた。
成宮先生と一緒に、沙羅ちゃんのご家族に『非常に危険な状態である』という説明をした。
我が子のこんな告知を聞けば、泣いて取り乱すのかなって思っていたけど、取り乱すこともなく冷静に説明を聞いている。俺は、それがとても不思議だった。
二人きりになった時に、成宮先生にそっと問い掛けた。
「なんで沙羅ちゃんのご両親は、あんなに冷静だったんですか?」
「沙羅ちゃんはさ、生まれながらに病気を持っていた。今まで何回も生死の狭間をさ迷って、なんとか一命を取り留めて……の繰り返し」
成宮先生が、自動販売機で買ったコーヒーを一本俺に手渡してくれる。
自分のコーヒーはブラックなのに、俺に手渡したコーヒーには砂糖が入っていたことに、少しだけ感動してしまった。
前に、ブラックコーヒーは苦手だと話したことを覚えていてくれたんだ。
「沙羅ちゃんのご両親は、今まで精一杯頑張ってきた。だから、きっと覚悟みたいなものがあるんじゃないかな……」
「覚悟?」
「そう。俺は親になったことはないし、これからもなることはないから、良くわかんねぇけどさ」
「え?」
「ただ、親が子供を思う気持ちって凄いよ。これだけは確かだ」
その言葉が、俺の胸に強く響く。
だから、『なんで先生は、親になることがないんですか?』って聞いてみたかったけど、俺はその言葉を飲み込んだ。
◇◆◇◆
その日は突然訪れる。
ううん。来るべき日が、来たのかもしれない。
出勤と同時にPHSが鳴り、俺と成宮先生は急いで病棟に向かった。その時には、すでに沙羅ちゃんの体に付けられている機械のアラームが鳴り響き、忙しなく看護師が走り回って、その場は騒然としていた。
「先生、沙羅ちゃんが……」
今にも泣きそうな看護師さんが、俺に縋るような視線を向けてくる。
俺の手に、小さな命がのしかかった瞬間だった。
「どうしたら……」
体がカタカタ震えて、体温が一気に引いて行くのを感じる。
今まで習ってきた授業や、頭に叩き込んできた教科書が、全然役に立たないことを思い知った。頭が真っ白になり、思わず叫び出したい衝動を必死に抑える。
「大丈夫だ。俺がついてる」
「先生……」
「とりあえず、ハムスターみたいにプルプル震えてないで、せめてハッタリでもいいからチワワくらいの威勢を見せてみろよ?」
「は、はい」
先生の優しい笑顔に、俺は救われたのだった。
「とりあえず、どうすんだ?」
「あ、はい。まず心拍数が落ちてるので強心剤を点滴に入れて、低体温になってるから保温して……輸血をします」
「OK。上出来だ」
俺は大きく深呼吸をして、邪魔な白衣を脱ぎ去った。
やれるだけのことはやったけど、沙羅ちゃんの容体は変わらなかった。
朝、沙羅ちゃんのご両親に連絡を入れたら、すぐに面会に来てくれた。ずっと沙羅ちゃんのベットの近くで、優しく話しかけたり、体を擦ってやっている。それでも、沙羅ちゃんが反応することなんてなかった。
その光景を見ているだけで、俺の目頭が熱くなる。
「なんとかしてあげたい」
という医師としての思いに、
「可哀そう」
と思う同情の心。
その二つの感情が、俺の中でグラグラと揺れて、まるでナイフのように心をズタズタに切り裂いていった。