成宮先生に連れてこられたのは、屋上だった。


「普段はさ、ここは入れないんだけど、俺がここの管理責任者になってるんだ」
 そう言いながら、先生は屋上の扉の鍵を開ける。
 その瞬間、少しだけ夏の香りを含んだ夜風が、火照った体を冷やしていった。
「んー!気持ちいい!」
 成宮先生は、大きな伸びをしながら屋上からの景色を眺めている。
「水瀬、見てみろよ?綺麗だぜ?」
「あ、はい」
 慌てて先生の隣へ行って、屋上からの景色を見た俺は、思わず目を見開いた。


「すげぇ……」
「だろう?」


 今、俺の目の前には、遥か彼方まで続いている夜景が広がっている。
 キラキラと輝くビルの照明は、まるでダイヤモンドのようだし、屋上から見える車のライトは蛍の灯みたいだ。車が、まるでミニカーのように見えた。 
 空には、満天の星が一面に広がり、三日月がニコッリ笑いながら浮かんでいる。
 この世界が、自分だけの物になったようにさえ感じられた。


「綺麗だろ?」
「はい。凄く綺麗です」
「俺さ、疲れた時によく一人でここに来るんだ。ここに来ると、めちゃくちゃ落ち着く」


 気持ちよさそうに、夜風に目を細める成宮先生を見ていると、トクントクン……と、また甘い不整脈が再発してしまう。今度は呼吸も苦しいし、胸が締め付けられるように痛い。
 俺は、何かの病気に罹ってしまったのだろうか。
 成宮先生から目を離したいのに、ずっと見ていたい。
 だって、貴方はかっこよすぎるから。
 俺は、貴方みたいな医師になりたい。


「だーかーらー、そんなに見られると穴が開くっつーの」
「あ、すみません!!」
「ふふっ。変な奴だなぁ」


 トクントクン……。
 なんでだろう。
 成宮先生……俺、貴方をずっと見ていたい。


「先生……今日の先生、すごくかっこよかったです」
「ふーん。で?」
「で? って言われても……」
「なら、ご褒美でもくれんの?」
 成宮先生が、俺の顔を覗き込んでくる。
 あまりのイケメンのドアップに、俺の頬が火照っていくのを感じた。
 そして、どんどん胸の鼓動は速くなり、バクンバクンと痛いくらい高鳴り始める。


「ご、ごめんなさい。俺、飲み物くらい買っておけば良かったですね」
「別にいいよ」
「本当にすみません」
「違うご褒美貰うから」
「え?」


 次の瞬間、俺の頬に成宮先生の細くて長い指が触れてから、そっと額にかかる髪を搔き上げられる。
「……先生……?」
 そう問い掛けようとしたけれど、それはできなかった。


 チュッ。


 俺の唇は、成宮先生の柔らかい唇で塞がれてしまったから。


「はぁ……」
 甘い吐息を吐けば、もう一度優しく頬を撫でられる。
「もう一回、してもいい?」
 そのあまりにも優しい瞳に、俺は吸い込まれそうになった。


 駄目だ……逃げられない。
 俺は静かに頷いてから、そっと目を閉じる。
 どうしてかわからないけど、俺は生まれて初めての同性とのキスを、躊躇いもなく受け入れてしまった。
 男同士なのに、なんでだろう。全然嫌じゃない。
 それに、すごく気持ちいい。


 夢中でキスを交わす二人の甘い吐息が、都会の喧騒に搔き消されていった。

◇◆◇◆

「おはようございます、成宮先生」
「おぅ」


 翌日、俺はドキドキしながら出勤をした。
 昨日、あんなに情熱的な俺達にとったら初めてのキスを交わした後、顔を合わせる訳だから。もしかしたら何かか始まるかもしれない……俺の胸は否応なしにも高鳴った。
 もしかしたら、当直室にでも連れ去らされて、またキスをされるかもしれない。
 『好きだ』って熱っぽく囁かれて、そのままベッドに押し倒されて……そんな事を想像して、俺は眠れない夜を過ごした。


 それなのに、まるで俺の事なんて興味がないかのような素振りに、全身の力が抜けて行くのを感じる。
「おぅ、ってそれだけ?」
 もっと顔を赤らめるとか、視線を不自然に逸らすとか……可愛らしい反応が、この人にはできないのだろうか。
「何、間抜け面してんだ? 朝のミーティング行くぞ」
 呆れたような表情すら浮かべながら、成宮先生は俺を置いてさっさとナースステーションへと向かっていく。
「ちょ、ちょっと先生!」
 俺はそんな成宮先生を必死に追いかけた。


 その後も、成宮先生のいつもと変わらない塩対応に、俺は戸惑いを隠せない。
 もしかしたら、あの宝石みたいな夜景を目の前に交わした熱い口付けは、夢だったのではないだろうか。そう思えてしまう自分もいた。
 だって、成宮先生の視界には、俺は入っていないんじゃないか、とすら感じるのだから。


「そっか……あれは夢だったんだ」
 午後になって、俺が出した結論はこれだった。