この年になって、その人を思うと涙が出そうなくらい恋い焦がれる人ができた。
しかも相手は、職場の上司であり、泣く子も黙るスーパードクター。いつしか俺は、そんな神様のような存在に狂おしい程恋をしていた。
きっかけとか、タイミングとかは全然記憶にない。
それこそ、誰に何を言われなくとも形を変えていく月のように、自然と恋に落ちていた。
あと何回、月が満ち欠けを繰り返したら、俺の心はあの人を諦めてくれるんだろうか。
なかったことにしてくれるんだろうか。
だってあんな奇跡みたいな人が、こんな平凡な俺のことを好きになってくれるはずがない。例え、地球がひっくり返ったとしても……。
「本当に馬鹿すぎる」
乾いた笑いが口から溢れた。
仕事が終わってから、一人トボトボと成宮先生のマンションに向かう。空には、お饅頭みたいに旨そうな満月が浮かんでいた。
最近になって成宮先生はよく俺を食事に誘ってくれる。しかも自宅にまで招いてくれるのだ。
最初の頃はその意味がわからずにひどく戸惑ったけれど、本当にただ成宮先生が作ってくれた料理を黙々と食べて、少し仕事のことを話したら解散。
ただそれの繰り返しだった。なにかよからぬことが起こるのかも……と淡い期待を抱いていたこともあったけれど、そんなのはただの取り越し苦労だと気づいてしまった。
それからは、「純粋な気持ちで食事をいただきにいく」という謙虚な思いで、成宮先生のマンションにお邪魔するようにしている。
この強過ぎる恋情が苦しくて、涙が込み上げてきてしまい……満月が滲んで見える。
まだ春は先なのに、そんな満月が朧月のように見えた。
その昔、文豪夏目漱石が『愛している』という言葉を『月が綺麗ですね』という言葉に置き換えた、という逸話が残されている。
きっと昔の男性は恥ずかしがり屋で、好きな人に面と向かって『愛してます』って言えなかったのかもしれない。
その、切ない程狂おしい恋心を、月に託したのではないだろうか。
「成宮先生…月が綺麗ですね」
いくら一人で呟いたって、想い人に届くはずなんかない。
俺は、月に想いを託すことすらできない弱虫だ。
好きだ、なんて伝えて成宮先生を失うことが、ただ怖かった。
「今日は三日月なんですね……」
仕事帰りに訪れた成宮先生のマンション。そのベランダで、ぼんやりと夜空を眺める。
今日成宮先生が作ってくれた料理は、俺の大好物でもある生姜焼きだった。ただの偶然かはわからないけれど、成宮先生は俺の好物をよく知っている。
生姜焼きと、デザートのプリンはとても美味しくて、俺は残さずペロリと平らげてしまったのだった。
食事が終わったんだから、さっさと帰ればいいのに……何をするわけでもなく時間を持て余している自分を、本当に馬鹿だと思う。
明日も仕事だというのに……。
でも、まだ帰りたくない。
だって、今帰ってしまったら、きっと不安に押し潰されてしまう。一人になって、孤独を実感するのが怖かった。
「まだ帰んねぇの?」
リビングの窓が開いて、自分のほうに近付いてくる足音が聞こえてくる。ふわりと温かな室内の空気にホッと息をつくと、その足音はすぐ隣で鳴り止んだ。
「成宮先生……」
「何してんの? もう深夜だぜ?」
成宮先生はベランダの手摺に背中を預けて、逆さまに月を眺めている。ポケットに手を突っ込み、気怠そうな顔をしていた。
今日も小児科病棟は多忙を極めたから、疲れているのかもしれない。
成宮先生の吐息が白い煙となり空に向かって登っていく光景がとても綺麗で、思わず視線を奪われてしまう。
この人は、悔しいくらいにかっこいい。それにすごく綺麗だし、男のくせに色っぽい。普段かけていない眼鏡をかけると更にイケメン化してしまうし、モデルみたいにスタイルだっていい。
本当に何から何まで完璧な人……。
何でこんなに、俺はこの人のことが好きなんだろう。
そんなことを考えると恥ずかしくて徐々に頬が熱を帯び始める。切なくなった俺は、唇をキュッと噛み締めた。
だって本当に馬鹿みたいじゃないか。一人で勝手に悩んで、苦しんで。あまりの独りよがりな恋に、恥ずかしくなってしまう。でも、すごく幸せなんだ。成宮先生の傍にいるだけで、心が温かくなってくる。
今の俺は感情の起伏が激しくて、どっと疲れを感じてしまった。
「あの、だって……だって、頼まれたんです」
「頼まれた? 誰に? 何を?」
成宮先生が眉間に皺を寄せながら首を傾げる。
「月にいる兎に、です……」
「兎?」
咄嗟に出た、俺のあまりにも子供染みた言い訳に、今度は呆気にとられたような顔をしている。
自分でもくだらない言い訳をしてしまった自覚があるだけに、俺はがっくりと肩を落とした。
これじゃあ、子供みたいだ……。
「今、兎たちが餅米を蒸かしてるんです。それで、少しの間火加減を見ててって……」
「へぇ、兎にね?」
「お風呂に入ってくるらしいです」
「ふふっ、それは可愛いな」
俺は恥ずかしさのあまり、顔を上げることさえできない。自己嫌悪から、拳を強く握り締めた。
もう消えてしまいたい……。
そんな俺の頭を成宮先生がそっと撫でてくれる。その温かくて大きな手の感触に、俺は恐る恐る顔を上げた。
「風邪ひくなよ?」
「成宮先生……」
あまりにも可愛らしく微笑まれたから、心臓が甘く高鳴る。徐々に鼓動が速くなるのを感じた。
幸せなのに、凄く苦しい。もう嫌だ、俺ばっかり。鼻の奥がツンとなる。
「そういうの、本当に止めてくだい」
成宮先生には気付かれないように、ポツリと呟く。
そんな弱虫の俺を、風呂上がりの兎が後ろ指を指しながら笑っている気がした。



