「よろしくお願いします!」


 小児科病棟の医師が普段待機している医局で、俺は深々と頭を下げる。
 そこは、研修医時代に来たことがある見慣れた部屋ではあるけど、やっぱり何度来ても緊張する。おまけに、小児科病棟には、俺が研修医時代の指導医だった成宮千歳がいるのだ。


『俺のところに嫁に来い』


 あの言葉は一体なんだったのだろうか。
 結局は、あの後色んな課をローテーションしていた俺は、成宮先生に会うことは一度もなかった。
 ただ、どこの課へ行っても、どの部署に行っても、女子はみんな成宮先生の話題で持ち切りだった。


 『小児科』と一言で言っても、新生児から中学生。それから生まれつき障害をお持ちの成人になった方までと、患者さんの年齢層も幅広く、内科から外科や脳外、加えて精神科までの知識が求められる世界だ。
 俺は、幼稚園くらいの子供と関わるのが好きなんだけど、そうも言ってられない。


 でも、俺は小児科医を希望した。
 悔しいけど、俺は成宮先生みたいな小児科の医師になりたかったから。


「あ、いらっしゃい。水瀬君だっけ?」
「はい。よろしくお願いします」


 俺は、小児科部長の小山武(こやまたけし)先生に頭を下げる。
 見た目は清潔とは言えないけど、この世界では有名な方だ。スラッとした長身なのに少しだけ猫背で、いかにも『小児科医』という優しい雰囲気をしている男性である。
「今年の新人は君だけだよ。残念だね」
 小山先生が飄々と話を続ける。
「君の指導は、研修医の時から引き続きで成宮先生にお願いしましたから」
「えぇ!?」
 俺は思わず目を見開いた。
「成宮先生、よろしくお願いしますね」
「はい、かしこまりました」
 そんな俺の思いなど露知らず、小山先生に向かい成宮先生がニッコリ微笑んで見せる。


「では、そんな感じで頑張ってね」
 ヒラヒラと手を振りながら、小山先生は行ってしまった。


「こ、小山先生……適当過ぎるでしょう……」
 俺の呻き声が静かな室内に響き渡る。
 そこには、俺と成宮先生だけが取り残された。
 これは、ライオンの檻の中に仔猫が投げ入れられたようなものだ。

 ど、どうしよう……!?


 恐る恐る成宮先生を盗み見れば、相変わらず本当に整った顔立ちをしている。凄く綺麗なのに、冷たさは感じられない。
 スっと切れた瞳が、彼の聡明さを引き立たせていた。
 それでいてスーパードクターと持て囃される程の、技術と知識を持ち合わせている……どこまで完璧な人なんだろう、と悔しいけど惚れ惚れしてしまう。


「そんなに見られたら穴が開くんだけど?」
「え?」
 成宮先生は読んでいた医学者をパタンと閉じると、スラッと長い足を組み換え、ソファにドカッと寄りかかった。
「俺のこと見過ぎ」
「え、あ、すみません!」
 成宮先生に見とれていたのは事実で、俺の頬が一瞬で熱くなる。そんな俺を見て、成宮先生がニヤリと意地悪く笑った。
 あの小山先生に見せた笑顔は、一緒にして消え去っている。


「で? 俺のとこに嫁に来る決心はついたのか?」
「え?」


 やっぱりあれは現実だったんだ……そう思い知らされた瞬間。
『俺は、男性とお付き合いすることはできません』
 答えはとっくの昔に決まっているはずなのに、その言葉を口に出すことができない。


 この中途半端な状況を終わらせたい気持ちと、指導医となる成宮先生との関係を壊したくは無い……この二つの考えが天秤に掛けられて、ガチャガチャと音をたてながら揺れている。
 ずっと前から、答えは出てるのに……。


「申し訳ありません。もう少し時間をください」
「ふーん。好きにしたら」
 気怠そうに立ち上がると、前髪を無造作に掻き上げる。
「とりあえず、病棟内のオリエンテーションするからついて来い」
「は、はい」
 俺は仏頂面した成宮先生の後を必死に追いかけた。


◇◆◇◆


「ここが見ればわかると思うけど、ナースステーションです。ここのナースは、皆さん優秀な方達ばかりなんですよ。ね? 師長」
「もう先生ったら、口が上手いんだからぁ!」
「えー? 事実じゃないですか? いつも助かってますよ」
「本当ですかぁ?」


 師長と呼ばれた五十代くらいの女性が、満面の笑みで先生と話をしている。まるでお花畑にいる少女のようだ。
 いつの間にか、先生の回りは看護師さんだらけになっている。
 その輪の中心で天使のように微笑む成宮先生……相変わらずの二重人格ぶりに、俺は呆気にとられてしまった。


「では水瀬君。次に行きましょうか?」
「先生、また顔を出してくださいね」
「はい、喜んで」
 成宮先生は、最後に極上の笑顔と爽やかな風を残して、ナースステーションを後にした。


 廊下の角を曲がった瞬間、成宮先生が突然立ち止まる。
「今の人がこの小児科病棟の師長であり、御局の花岡(はなおか)さん。困った時はあの人に頼りな? 力になってくれるから」
「はい。わかりました」
「ただ、看護師の世界は大奥だから、周りの看護師の人間関係を良く観察して上手く立ち回れよ」
「え?」
「看護師を敵に回すと怖いぜ?」
 成宮先生が不敵に笑う。
 その笑顔に、俺は身が引き締まる思いがした。


「まぁ、こんなもんかな?ope室とか、薬局、検査室あたりはわかってるだろ?」
「はい。大丈夫そうです」
「じゃあとりあえずは、俺について歩いて、研修医じゃなくて医師としての仕事を覚えてくれ」
「はい」
「見ての通り、小児科医は明らかな人手不足だ……できるだけ早く、戦力になってほしい」
「はい!頑張ります!」


 元気良く返事をした俺を見た成宮先生が、目を丸く見開いた後ケラケラと笑い出す。
「お前、本当に元気だよな?」
「あ、はい。すみません……」
「ううん、全然いいよ。子供みたいで可愛いし」
「え?」


 成宮先生がフワリと微笑んだ瞬間、俺の心臓がトクンと甘く高鳴る。
「え? トクン?」
 鈍感な俺は、その甘い不整脈の原因が全くわからなかった。