「あのさぁ、水瀬(みなせ)。お前はいつになったら採血がまともにでるようになんの? それでも医者なわけ?」
「うっ……す、すみません」
「子供の血管は細いんだから、これって決めたら絶対外すな。それに何回も痛い思いをさせたら可哀想だろうが」
「すみません……」
「ったく、世話が焼けんなぁ」


 俺、水瀬葵の横で大きな溜息をつくのは、芸能人も御用達の某有名総合病院、小児科の若きエース、成宮千歳(なるみやちとせ)だ。サラサラの長い髪を耳にかけながら、俺を軽く睨み付ける姿は悔しいくらいイケメンで。『綺麗』という形容詞が、この人には一番ピッタリ当てはまる言葉だと思う。
 モデルみたいにすらりとした長い手足に、人形のように整った顔立ち。色素の薄い髪がサラサラと揺れて、切れ長の瞳はいつも慈愛に満ちている。
 加えて、成宮先生がいるだけで、その場は爽やかなミントの香りに包まれたような感覚に陥るから不思議だ。
 廊下ですれ違う看護師や患者さん、同性までもが頬を赤らめて振り返り、甘い溜息をつく。みんなが望む全ての物を兼ね備えた、実力派若手医師。
 誰にでも物腰柔らかく接し、患者やスタッフからの信頼も厚い。
 頭脳明晰で容姿端麗。人望まであるなんて、全く非の打ち所のない人間なのだ。だから、悔しいけど、俺は何も言い返せない。


「で、何号室の誰の採血ができないの?」
「506号室の(さき)ちゃんです」
「はぁ? お前、この前もあの子の採血できなくて俺に泣きついてなかったっけ?」
「は、はい。すみません」
「すみませんじゃねぇよ。ったく。ほら行くぞ」
 成宮先生は俺に背を向けると、さっさと病室へ向かって歩き出してしまう。
「あ、待ってください!」
 必死に成宮先生をついて行くのだけれど、リーチの長さが全然違う俺は、ほぼ走って追いかけることになってしまう。 
 そんな俺たちを見た看護師さんたちが、「カルガモの親子みたいで可愛い」とクスクス笑っている。それを見た俺は、心底情けなくなってしまった。


 なんでなんだろう……なんで、成宮先生は俺だけにこんなに冷たくて厳しいんだろう。
 みんなに向ける笑顔や優しさが、俺に向けられることなんてない。いつも怒られてばかりで、褒められたことなんか一度もないし。
 今だって、必死に成宮先生を追いかけている俺を気にする素振りなんて全くなく、どんどん歩いて行ってしまう。まるで俺の存在なんて、成宮先生には見えていないようだ。
 どんなに頑張ってついて行こうとしても、距離は離れて行くばかりだった。


「咲ちゃん。何回も針を刺してごめんね? よく頑張った。いい子だね」
「うん! 咲、頑張ったよ!」
 俺が苦戦した採血を、いとも簡単に終わらせてしまった成宮先生が、笑顔を浮かべながら咲ちゃんの頭を撫でている。
 それが余程嬉しいのか、咲ちゃんはニコニコしていた。ついさっきまで泣きべそをかいていたのに……。咲ちゃんの右腕には、俺が失敗した採血の跡が痛々しく残されていた。
「咲ちゃんは本当に強い子だよ」
「えへへっ」
 そんな二人のやり取りを見ていた俺は、目頭が熱くなるのを感じる。自分の不甲斐なさに泣きたくなった。


「ほら、この検体、至急で出しといて。あと検査項目も追加しといたから」
「あ、はい」
 病室を出た途端に、血液の入ったスピッツを押し付けられる。咲ちゃんに向けられていた笑顔は、すっかり消えてしまっていた。
「こんなんで、俺の手を煩わせんな」
「す、すみません……」
 今にも泣き出しそうな俺を残して、成宮先生は行ってしまう。ポツンと取り残された俺は、自分が情けなくて、悔しくて、唇をギュッと噛み締めた。
 プルルルルル。
 その瞬間、胸ポケットに押し込まれているPHSが鳴って、俺は一気に現実に引き戻される。
「はい、水瀬です。はい、はい、はい……わかりました。すぐに行きます」
 患者さんの急変を知らせるcallに、俺は大きな溜息をつく。落ち込んでいる暇なんてない。俺にはやらなきゃいけない事がたくさんあるんだ。
 そう言い聞かせて、自分を奮い立たせた。

◇◆◇◆

「はぁ……終わったぁ……」
 今日一日の業務を終えた俺は、倒れ込むようにナースステーションに椅子に座り込んだ。
 いつの間にか窓の外は真っ暗で、看護師さんの数がやけに少ないことに気付く。
「あ、もう夜勤帯かぁ」
 結局、昼食もまともに食べられなかった俺は、カロリーメイトにかじりつく。糖分が一気に体に染み込んで行くように感じられて、ホッと胸を撫で下ろした。


「水瀬先生、お疲れ様です」
「あ、お疲れ様です」
「こんなに遅くまで大変ですね」
 夜勤の看護師さんが声をかけてきてくれる。
 自分と同じ年くらいだろうか。優しそうで、可愛らしい子だ。きっと、こんな子と結婚したら幸せになれるんだろうなぁ……ってボンヤリと思う。
「でも、水瀬先生の指導係は研修医時代から変わらず、あの優しい成宮先生ですから。本当にラッキーでしたよね」
「あはは、本当にラッキーでしたよ……」
 彼女の純粋な言葉に、つい頬が引きつってしまう。乾いた笑いが口をついた。
 『優しい』成宮先生、かぁ……。
 俺は、一緒に働いていて、成宮先生のことを優しいだなんて一度も思ったことがない。そもそも、優しくされたことがないんだから。
「顔も良くて頭もいい。おまけに性格までいいなんて……ああいう完璧な人は、天使みたいな人と結婚するんでしょうね?」
「へぇ、天使ですか……」
「そう、天使です。きっと可愛らしくて優しくて、家柄も良くて、スタイルも抜群!  
 そういう人と結婚するはずです」
「そうでしょうか……」
「絶対そうですよ!」
 キラキラした顔でそう話す彼女の言葉が、空っぽの自分の胸に鋭い刃となって突き刺さる。苦しくて、切なくて、無意識に胸を鷲掴みにした。