1章



 君とのファンタジーは
 星屑を撃ち落とすみたいに簡単に終わらせたくない。
 死生観とか、
 恋愛観とか、
 五感とか、そんな計り方で
 君を認識したくない。
 ただ、深夜に二人で誰もいない公園で
 夢を紡いでいたら、
 それだけできっと、
 君との幸せを感じることができるんだから。








 インスタの鍵垢に思いを書き殴るようになったのは中学生になって初めてiPhoneを手にしたからだ。
 お下がりのiPhoneは母の几帳面な性格を生き写したかのように細かな傷もあまりなく、状態がよかった。

 もらって最初にやったことは母が使っていた水色の手帳型のケースからiPhoneを取り外すことだった。
 そして、裸のままiPhoneを中学3年間、使い続けた。

 誰にも見られない私だけの世界は生きる虚しさや面倒くささ、漠然と目標もなく将来を目指すのが嫌な気持ちでたくさん埋まった。これだけ書けるんだから、文才があるのかもって勘違いして、別に作家になりたいわけでもない。
 ただ、私は私自身を冷静に見定めるために、鍵垢に、もやもやした頭の中を整理するため、ほぼ毎日、私自身に向けて、書き続けた。

 そして、高校に入り、新しいiPhoneに変えても、それを続けている。







 私と二人きりで過ごしていて、彼は退屈じゃないのだろうかって、いつも思うけど、彼は今日も真剣にオセロをやっている。
 別にそれでいいやって思う自分もいる。
 彼のiPhoneから山下達郎の「SPARKLE」が流れ始めた。

「つぎ、先輩の番ですよ」
「はーい」

 私がぼんやりして考えていることもたぶん、彼は何も悟らない。
 彼、深山瑛人(ふかやまえいと)は私の一つ下の後輩で、文芸部唯一のもう一人の部員だ。

 盤面から目を反らし、窓から外を眺めた。
 函館の10月の始まりはすでに色づき始めていて、グラウンド沿いに生えているイチョウの木々が、黄色く揺れているのが見えた。

 私が1年生のときに3年生の女の先輩が居たけど、その人が卒業して、私は一人きりになった。
 先輩は真面目だったらから、そのときは本を読んだり、持ち込んだキーボードをiPhoneに接続して、作品を書いていた。
 その作品をお菓子を食べながら、先輩と見せ合ってキャッキャしていた。

 先輩は高文連の北海道大会で優秀賞をとったり、北海道新聞の賞をとったり、結構、文才にあふれているような人だった。
 一方、私はそういう大会とは無縁のままで、明らかに先輩より才能がないように思えた。そして、先輩は卒業した。
 言ってたとおり、東京の大学の文学部に進学した。
 このまま、卒業までひとりぼっちかと思ってたら、深山が入ってきた。

 オセロは中盤に差し掛かっていた。
 そもそも、オセロを部室に持ち込んだのは深山だった。

 彼は物書きというよりは、どちらかと言うと、帰宅部でどこかの適当なコンビニでアルバイトをしていそうなタイプだった。
 
 陰キャってわけでもないと自分でキャラクターを作るようにワックスで髪をしっかりと、セットしていたし、放課後になると必ずワイシャツをズボンから出していた。深山はグレーのセーターを7七分丈くらい位置まで腕まくりして、右手でコマを持ったまま、盤面を睨んでいた。

「紫菜野(しなの)さん、飽きないですよね。オセロ」
「お互いさまでしょ」と私はそう言って、白のコマを盤面の右下側のほうに置き、黒いコマをひっくりかえした。

「先輩はミステリアスな雰囲気あるのに、こうやって、毎日、オセロやら、トランプに付き合ってくれるの、最高っす」
「そう? 文芸部だから、なんで生きているんだろうとか、文学の普遍的なテーマを話してもいいんだよ」
「ダサすぎですよ。それ。大体、太宰とか、芥川とか、そんなの読んで感銘受けるひと、今の時代いるんですか」
「ここに居たよ」
「え、先輩、そういうの読むんですか?」
 深山は黒いコマを盤面に置き、2枚、私のコマをひっくりかえしたあと、私を見つめてきた。

「違うよ。私の先輩」
「ですよね。先輩、そんなの読むタイプじゃないっすよね。ゴリゴリの文学少女って感じじゃないし」
「明日は、太宰と芥川の生涯について研究しようか」
 私は白いコマを盤面に置いた。そして、黒いコマを1つひっくり返したけど、盤面は劣勢のままだった。

 去年の今頃、先輩に太宰の素晴らしさについて、散々、熱弁されたことを思い出した。
 梓(あずさ)ちゃん、物書きだったら、一度は絶対に読んだ方がいいとか、ここの心理描写が素晴らしいんだよ、梓ちゃん、とか、そんなことを聞かせれて、そんなことに興味がない私は飽き飽きしながら、文学少女の先輩の話を聞いていた。

「それだったら、俺、明日、休みます」
「私もお休みいただきます」
「なんすか、それ。言い出しっぺなのに」と深山はゲラゲラ笑いながら、黒いコマを一番左端の角に置いた。

 深山のiPhoneから流れる山下達郎のおかげで、秋色のはずの小さな部室が夏のように爽やかに感じた。
 深山は最近、シティポップにハマっている。特に最近は山下達郎のアップテンポなシティポップばかり流していて、爽やかな歌詞が流れている、そんな日常にもなれてしまった。
 だけど、ここ最近、毎日、この曲を聴いているけど、嫌にならず、むしろ爽やかで好きな感じがした。

「ねえ」
「なんですか」
「たまにこのまま、死んじゃってもいいかなって思うときがあるんだよね。ふっとね」
「なんすか。それ、自殺宣言ですか」
 深山は大した興味もなさそうに私にそう返した。きっと、いつものことだって思ってるのかもしれない。また、私の死にたい病が始まったとか、そう思ってればいいし、深山はそんな話だってつきあってくれる。

「いや、違うけど」と私がそう言うと、ふっと、深山は微笑んだ。

「わかってますよ。本当に死ぬわけじゃないことくらい。いつもの死にたがり病でしょ。先輩の」
「深山くんはそう言うとき、ないの?」
「そりゃあ、毎日生きてたら、嫌なことたくさんありますから、死にたいなって思うことだってありますよ」
「――だよね」
 私は白いコマを盤面に置き、3つのコマをひっくり返した。これで、盤面に並ぶコマの数は五分五分になったように見えた。

「大体、死んで、どうなるんっすかね。魂抜けて、自分の死骸見て、俺死んでるとか、そういうありがちなことになるんですか?」
「そんなこと、私に聞かないでよ。死んだことないし」
 深山に言い返すと、確かにと言ったあと、ゲラゲラと笑い始めた。
 
 私もそれが少しだけ変なやりとりに感じて、思わず、笑ってしまった。もはや、情緒も何もない。別に私はふと思ったことを話し始めただけに過ぎないし、別にそれでもいいかって思った。こうやって、馬鹿みたいに笑い飛ばす深山のことはそれほど嫌いなわけじゃないじ、むしろ、そうやって、私の憂鬱を笑い飛ばしてくれた方が、私も気楽だった。

「だけど、紫菜野(しなの)さんのそう思う気持ち、ちょっとだけわかる気がしますよ」
 深山は笑いが終わったあと、ふと寂しそうな表情を浮かべて、そうぽつりと言った。そして、盤面では左上の角から徐々に黒色にひっくり返して、もう後戻りができないくらい、ゲーム上で私のことを追い詰めようとしていた。

「――わからないよ」
 私はいい女ぶって、何に対してわからないのか自分でもよくわかってないまま、深山にわかっている風に返してあげた。

「いや、わかりますよ。得体の知れない未来とか、生きることに対しての憂鬱、なんで生き続けなくちゃならないんだろうって言う無力感ですよ」
 深山からの予想以上の答えに私は思わず、微笑んだ。私自身がわかっていなかった心の底に沈めていたそんなよくわからない憂鬱を的確に言葉にしているような気がした。

 元々、深山はそんな文才があるのを知っていた。
 だから、本気で文章を書けば、大会でいいところまで行くんじゃないかって私は思っている。だけど、それを彼自身はきっと望んでいないのもなんとなくわかる。

「ねえ」
「なんすか」
「今日の帰り道、急に思い立って、私が死んだら、深山くんは私のこと恨むかな」
「――恨む?」
 深山は眉間に皺を寄せて、そう答えた。

「うん。私と最後に会ったのがきっと深山くんで、それで、いろんな面倒に巻き込まれるの。例えば、警察に事情聴取されたり」
「そんな、女子高生一人が自殺したくらいで、事情聴取なんてされませんよ」
「じゃあ、単純に、私と最後に会ったのが深山くんで、私に自殺されたから、後味が悪いから、私のことを恨むの」
「あー、なるほど。やっぱ、先輩ってバカですね」
「えっ」
「悲しむに決まってるじゃないですか。――こうやって、オセロでまかす相手がいなくなっちゃうんだから」
 そう言って、深山は盤面を真っ黒にした。まだ、コマを置けるマスは残っているはずなのに、私は手詰まりのまま、私のコマを全てひっくり返された。

「少しくらい、手加減してよ」
「これで3勝0敗。今日もコーラありがとうございまーす」
 ここ最近、学校の帰り道、いつもコーラを深山に奢っている。
 いつからか、オセロに負けた方がジュースを奢ることになって、私はほぼ毎日、負け続けている。

「大体、今、死んでどうするんですか。やり残してることの方がまだ、俺らには多いんじゃないですか」
「そっか。そうだよね。処女のまま、死んじゃうよね。それだったら私」
「いま、すごいこと、サラッと言っちゃってますよね」
「ねえ、深山くん。高校生の七割は処女なんだよ? だから、そんなに驚くことでもないと思うんだけど」
「はいはい。せめて処女卒業してから、自殺しましょうね」
 深山はそう言いながら、オセロのコマを片付け始めた。 







「毎日、コーラ飲んで、飽きないの?」
 私は自販機で買った350mlの缶コーラを深山に渡した。

「今日もあざーす」
 深山は別に嬉しくもなさそうに缶コーラを私から受け取り、缶を開けて、コーラを飲み始めた。
 市電の電停まで、歩いて5分くらい。

 いつも帰り道、深山は私が与えてるコーラを飲みながら、私と一緒に電停を目指す。これは偶然なんだけど、深山は私と地元が一緒で、同じ市電に乗り、終点の谷地頭(やちがしら)で降りる。
 そして、電停で反対方向に別れてさようなら。これが今年の4月から始まった私たちの日課だった。

 谷地頭は函館山の麓のほうで、ロープウェイ乗り場まで歩いて20分くらいで行くことができる。
 それが、深山と私の地元だ。深山とは函館山の麓にある中学校は一緒だったはずだ。だけど、学年も違ったし、面識もなかったから、私と深山が中学校時代、お互いに認識することはなかった。

「ねえ。深山くん」
「なんすか」
「さっき、得体の知れない未来とか、言ってたでしょ。深山くんって未来のこと、得体が知れないと思ってるの?」
「なんか、そうやって改めて言われると恥ずかしいな。中二病こじらせてるみたいで」
 深山はそう言ったあと、コーラをまた一口飲んだ。深山は何も悪気がなさそうだった。いつも、私はこうやって深山と帰っているとき、ジュースを飲んでいない。
 きっと、変だとも思ってもいないだろうし、今日は気が向いたからと言って、私にコーラを奢りかえすこともしない男だ。
 だから、私のことなんて、根本的にどうでもいいと思ってるのかなって、たまに思っちゃう。

「こないだまで、中二だったでしょ」
「ずるいな。それ。一つしか、歳、違わないのに」
 路地を抜けると、大きな通りと、電停が見えてきた。
 夕日は完全に沈み、オレンジ色の街はだんだんとあたりは薄暗くなり始めている。

「大体、先輩だって、そうじゃないですか。将来、何になりたいですか? 現段階で」
「――何にもなりたくない」
「でしょ? 俺、人なんてそんなもんなんじゃないかなって思うんですよ。最初から、夢や目標を言える子供は、それは天才っすよ。大体、子供の頃に思い描いてた夢通りの人生やったり、仕事したりできる奴が全世界のほとんどだったら、貧困国のほとんどの子供は医者になっているだろうし、日本みたいに恵まれてる国では町中に仮面ライダーやら、プリキュアやら、ウルトラマンで溢れかえってますよ」
 急に熱を帯びて話す深山が少しだけ可愛く見えた。
 こうやって、少しだけひねくれていて、秀才ぶって、バカみたいな話をする深山の話が私はすごく好きだ。

「いいよ。その謎理論。文芸部っぽい」
「まただ。ニヤニヤして、バカにしないでくださいよ。なんで先輩ってこう言う話すると、嬉しそうにするんですか」
「だって、面白いんだもん。深山くんの謎理論」
「大体、先輩の方が中二、こじらせてますからね。俺より。その自覚ありますか」
「あるよ。大体、私は社会不適合者なんだよ。すぐに死にたがるし、人様みたいに立派な夢も目標もないんだもん。ただ、無難に時が流れてくれたら、それだけで十分だって思ってる人間なんだから」
「お、自分のこと、しっかりわかってるじゃないですか」
 偉そうにと口にしようと思ったけど、私はやめて、深山に微笑むことにした。

「ねえ」
「今度はなんですか」
「いつも、この時期になると、思うんだけどさ、夏らしいことしとけばよかったなって思うんだよね」
「夏らしいことですか」
「そう。港まつりの花火眺めたりとか、誰かと見とけばよかったなって」
「へえ。先輩も月並みの高校生が求めることに憧れるんですね。ってか、大体、先輩だったら、黙ってても彼氏できそうなのに」
「こんな短い返しの間に、よく、私のこと的確に言えるね」
 私は半分、皮肉な気持ちも込めて、深山に返した。彼氏くらい、1年前にいたことあるよ。君が知らないだけで――。

 私と深山は電停までつながっている横断歩道の前で信号が青になるのを待っていた。
 道路と線路を挟んで向かい側には千代台(ちよがだい)公園の入り口があり、黄色く色づき始めた木々が風で揺れているのが見えた。
 
「俺、文芸部ですから」
 深山はそう言ったあと、コーラを一気に上へ傾けて、飲み干した。
 そして、空いた缶を右手で持ったまま、ぶらぶらさせていた。

「ねえ、深山くん。大体、秋になると人って、夏が恋しくなるんだよ」
「へえ、たまに詩人みたいなこと言いますよね。先輩って」
「そして、雪が降ると秋が恋しくなるし、桜を見ると、クリスマスが恋しくなる。その繰り返しできっと、大人になっていくんだよ」
 私は深山を無視して、話を続けた。
 私はしっかりとした大人になれるのかな――。

 そんなことを深山に聞きたくなったけど、そんなこと聞いても仕方ないことだって最初からわかっているから、私はそんなこと思っても深山には聞かない。
 こんな状態で私は大人になれるのだろうかって、いつも不安になるけど、いくら大人になった10年後の27歳の私を想像してみても、何もよくわからなかった。 

「そして、歳をとるたびにいらない思い出とかで気持ちが重くなって、切なさでどんどん胸が苦しくなっていくんだよ」
「17でそんなこと考えてたら、大人になるのしんどいっすよ。きっと」
「もうすでに、しんどいから大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
「それ、大丈夫って返答、間違ってます」と深山に呆れていそうな声で、そう言われた。







 市電は今日も重そうにノロノロと走りはじめた。
 甲高いモーター音が車内ひ響き渡る。私と深山は運よく、二人横並びで座ることができた。

「先輩、死なないでくださいよ」
 深山がぽつりとそう言ったから、私は思わず、深山の方を見た。目が合うと、深山はにっこりと微笑んでくれた。

「深山くん。私はね、死にたがりなだけだよ」
「そう言いながら、明日、手首に包帯巻いてたら、笑いますからね」
「最低だね」と私はそう言ったあと、ふふっと、笑うと、深山も笑った。

 別に死ぬ気はないよ。そんなことは自分でも十分わかっていた。
 ただ、自分が何をしたくて、高校卒業したあと、圧倒的に長い人生をうまくこなせるのかどうかが不安でわからないだけなんだ。

「先輩って、変な人ですよね」
「そんなに変かな。私」
「そもそも、なんで文芸部に入ったんですか。先輩なら、遊びにも困らないでしょ」
 そのセリフをそっくりそのまま、私は深山に返したくなった。別に部活なんてしなくたっていいのに、なんで、そんなことしてるんだろう。しかも進学校のこの高校でそんなことするのなんて、どうかしている。

「こう見えても私、人見知りなんだよ」
「もったいないですよ。遊びたいなら、遊べばいいのに」
「――深山くんは私と居たくないの?」
「そう言うわけじゃないっすよ。――俺はずっと居たいですよ」
「へえ。そうなんだ」
 私は自分でも驚くほど、平坦な言葉でそう返した。別に深山のことは嫌いじゃない。

 だけど、鈍感なふりをしていないと、このままの関係性を保つことができないんじゃないかって一瞬、頭の中で計算されたから、そうしただけだ。アナウンスで次の駅に着くことが告げられるのと合わせて、電車が減速し始めた。

「去年までさ、これでも真面目に文章書いてたんだよ」
「へえ。てっきりオセロやってたのかと思いましたよ」
「オセロは今年からでしょ。それにオセロ持ってきたの深山くんじゃん」
「あ、そうでした」
 深山は人懐っこい笑みを浮かべて、またゲラゲラと笑い始めた。
 こうやって深山は私のことをいじっては楽しんでいる節がある。深山こそ、コミュ力があるのになんで、私と一緒に冴えない文芸部なんかやっているんだろう――。

「私の二つ上の先輩、上手かったんだ。文章。私も無理矢理、小説書かされて応募したけど、全然、ダメだったな。先輩の足元にも及ばない幼稚な文しか書けなかった」
「先輩、自分が言うほど、悪い文章じゃないと思いますよ」
「いや、全然、次元が違う感じだったから、それで書くの嫌になっちゃったの」
 自分の下手くそな文章を少しだけ思い出して、ほろ苦い気持ちになった。

 主人公の女の子が、バンドのボーカルで、同じバンドのベースの男の子と付き合ってたけど、別れて、ギターの男の子と付き合い始めるけど、ドロドロになってバンドが空中分解して、結局、ギターの男の子にもすぐに振られて、ドラムの男の子とは友達のままでいるって話を書いた。
 先輩は優しいから、それだったら、もう少し、青春っぽい感じにしないと、大会用の内容にならないよって言われたけど、面倒だから、私はそのままその小説を大会に出した。

「へえ、もったいない。てか、書いてくださいよ。俺も書きますから」
「え、小説書けるの? 深山くん」
「何言ってるんですか。マジになったら、書けますよ。俺」
「そうなんだ。じゃあ、しばらくは深山くんの小説を読むことをモチベにして、生きるの頑張ろうっと」
「なんですかそれ。なんか、恥ずかしいな、それ」
 深山は右手を額に当てて、上を向いた。
 なんで、こんなに深山をからかうのは楽しいんだろうって、ふと思ったけど、それは深山が人懐っこい性格だからかもしれないな、なんて、なぜか、懐かしさを詰め合わせたような感覚がした。

「早く読ませてね」
「あ、先輩、ずるいですよ。だったら、先輩も書いてきてください」
「わかったいいよ。約束するね」
 私はそう言ったあと、左指の小指を立てて、そっと、自分の右膝に乗せた。深山を見ると、もう、耳が真っ赤になっていた。そして、頬も一瞬にして赤くなっていた。

「ほら、どうしたの?」と深山に催促すると、深山の右手の小指がそっと私の小指と繋がった。







 もし、今、世界が滅亡しても、
 私は後悔なく喜んで死ぬかもしれない。
 大好きな人もいないし、
 目指すべき将来の夢も目標も野心も何もかもない。
 そもそも、なんで働いたり、子供を産んだり、
 あ、その前に結婚か。
 そんなことしなくちゃいけないのか、わからない。
 そんなことより、
 世界が終わる前に墜落した星屑の前で狼煙をあげて、
 輪になって踊ればそれでいいんじゃね?
 知らんけど。






「ほら、持ってきましたよ。先輩もだしてください」
 深山は右手に持っている白いUSBスティックを小刻みに振っていた。

 誇らしげな表情だ。
 そんなに自信があるのかって思ったけど、そんなことは言わずに、私は部室の古いノートPCを起動し、深山からUSBを受け取った。向かいの机に置きっぱなしの深山のiPhoneからは、小沢健二の『僕らが旅に出る理由』が軽やかに流れていた。

「私もできたよ。――笑わないでね」
「それは僕のセリフですよ。スカウターで、お互いに戦闘力を見ましょう」
「陰キャの戦闘力ってこと?」と私はすごくどうでもいいと言うようなニュアンスを込めて、単調な声色でそう返した。

「ちょっと、ボゲつぶしじゃないですか」
「私の戦闘力は53万です」
「ゴリゴリ元ネタ知ってるくせに」と深山はふてくされたようにそう言った。

 ハードディスクがカタカタと今にも壊れそうな音を立てながら、PCが起動した。
 起動してもしばらくの間はデスクトップにあるアイコンが全て消えたり、ついたりを繰り返し、相変わらず調子が悪そうだった。
 キーボードの左下に学校の備品シールが貼ってある。登録年が2013年と書いてあった。深山は私の向かいに座り、両手を組み、だるそうに身体を伸ばした。

「ねえ、どんな話なの?」
「先輩の話しこそ、どんな話なんですか」
 深山は簡単に話題を切り替えしてきた。
 人に作品をみせるなんて恥ずかしい。そんなのは私と深山の共通認識だ。

「なに、異世界系とか、そういうの書いてきたの?」
「そんなのわからないですよ。ラノベすら読まないのに」
「てかさ、そもそも、深山って本読むの?」
「読みますよ。だけど、他の人よりは読まないっすね」
「へえ、奇遇だね。私もだよ」
「そんなのとっくに知ってますよ。そんなに本が好きだったら、図書委員でもやればいいですよ」
「そうだね。それは私も同意見かもしれない。今の会話、ボイスレコーダーに録音して、図書室に突撃してきてよ」
「陰キャ戦闘力っパないっすね」
「学校、爆破予告して、爆弾抱えて屋上で叫ぶよりはいいでしょ」
「それ、どんな比較だよ」と深山は鼻でふっと笑った。

 だから、私も同じように鼻で笑って、深山から受け取ったUSBスティックをPCにさした。
 そして、表示されたフォルダーのなかが表示された。フォルダーのなかには『バカは表情を見ればイッパツでわかる』というワードファイルが一つだけ入っていた。

「なにこれ。ビジネス書みたい」
「そう、それです。先輩もバカなヤツ、嫌いでしょ?」思わず、液晶画面から、視線を外し、左斜め向かいに座っている深山を見ると、深山はスマホをいじりながら、ニヤニヤしていた。

「うん。バカは嫌いだよ」
「そんな小説です。俺、結構とがってるんで」
「わかった。読んでみるね」と私はそう言ったあと、『バカは表情を見ればイッパツでわかる』をクリックした。ワードが立ち上がり、文章が表示された。文字数は23,578字だった。思ったより、文量が多くて少しびっくりした。
 
 だけど、文章設定は縦書きじゃなく、横書きで初期設定のままだった。
 私も去年、同じように初期設定のままで書いた小説を先輩に見せたら、ちゃんと400字詰め原稿のフォーマットにしなくちゃ駄目だよって、言われて、直したことを思い出した。



『 
 バカは表情を見れば一発でわかる。それは簡単なことだ。
 口をあけたままで、よだれを垂らして、何もあとさきのことを考えないで無鉄砲に行動する。
 それが、バカの無邪気さで怖いところだ。
 
 鉄生一平(てつおいっぺい)はそんなことを考えながら、スタバのカウンター席から窓越しに夜の街を眺めていた。 

 鉄生の手に握っているスマートフォンがバイブレーションしたから、鉄生は通知を見た。
 そして、鉄生は、「バカからのLINEだ」と思い、ためいきをついた。

 クラスで一軍である鉄生は本当はやりたくもなかった。しかし、バカのなかで自分を痺れさせないためには、そのバカのなかにはいらないといけないと思ってもいた。のちの人生のために、百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)の域になるために、これは人生のなかでも社交性を身につける修行と位置づけ、一軍になることにした。

 無論、これは悟るための第一歩にすぎないから、鉄生は嫌々だが、クラスのグループLINEに入ったのである。
 本当は学校の外で相手をしたくない。だけど、一軍を演じるにはそういうことをしなければならないのだ。
 高校最後の一年間も無事平穏に過ごさなければならないのは、鉄生自身が一番、それをわかっている。』



「文章、意外と硬いんだね」
「おかしいなぁ。力抜いて書いたはずなのに」
「実は純文学、意識してる?」
「そういうのは、あとで話しましょうよ。とりあえず読んでください」
 深山は分が悪そうな表情で、そう答えたから、私は続きを読み進めることにした。







「面白かったよ」
「あざーす」
 深山はそう言って、わざとらしく大きく息を吐いた。
 別にそんな緊張することじゃないだろって言おうと思ったけど、このあと、私の小説が深山に読まれることを考えると、それを口に出すのはやめることにした。

 主人公の鉄生はクラスで一軍のまま、順調に過ごしていたけど、ある日、思いをよせていた一軍の女の子、蓮(れん)が理由はわからないけど、派手ないじめを受けることになった。鉄生はそれが嫌で、自分のクラスのポジションを顧みず蓮のいじめを阻止しようとしたが、結局、鉄生もいじめられることになる。

 だけど、今度は蓮が鉄生のいじめの証拠を大量に集めて、鉄生をいじめていたグループを退学に追い込み、蓮は鉄生のいじめを救うことで蓮をいじめていたグループも恐怖を感じ、蓮のいじめも止んだ。
 鉄生は何もしていないけど、蓮に好かれて、付き合って終わるっていうざまぁ要素もありつつ、純愛チックな話だった。
 
「純文学みたいに不条理な結果に終わるのかと思ったら、すっきりする感じでびっくりした」
「でしょ。こういうの楽しいですよね」
 急に深山は自信あり気で、満足そうな表情をしていた。
 
 ただ、文章が固いままだったから、少しだけ読みにくく感じた。
 「~だったのだ」とか、「~である」とか、こういう断定する言葉が多すぎて、文章のリズムを失っているように感じた。
 情景描写や、感情描写がすっと入ってこないところも、所々あった。

「ざまぁ、っていいよね。自分がクラスで上手くいかないこととか、失恋した傷とか、そういうのを忘れられるよね」
「なんか、そこまで言われると急に恥ずかしいなぁ」
「なにそれ。せっかく人が褒めてるのに」
 私が言うと、深山はそうですね、と言いながら、左手で口元を隠した。
 読みにくいところもあったけど、物語の展開に勢いがあり、きっとノリノリで書いたんだろうなって雰囲気が十分、伝わってきた。だから、単純に深山の小説は面白いと思った。

「鉄生が結局、一番、おバカだってところもいいよね」
「最初から、そういうオチにしたかったんですよ」
「人を小馬鹿にするヤツほど、実はバカだってこと?」
「そう、そういうことです」と深山はそう言って、席から立ち上がり、私の隣にきた。

「つぎは先輩の番ですよ」
「そうだね」
 私は制服のポケットに入れていたUSBを取り出し、PCにつなげた。そして、書いてきた小説を表示して、席を離れた。するとすぐに深山が私が座っていた席に座った。






「へえ、こんな感じなんだ。いいと思います」
 しばらくの沈黙を切り裂くように深山の声が狭い部室に響いた。
 
「――本当に?」
 まったく自信がなかったから、深山の最初の言葉が意外に感じたし、少しだけほっとした気持ちにもなった。

 話は主人公の女子高生、丸絵瑞希(まるえみずき)が、交通事故で死んでしまう彼、砂緒丈流(スナオタケル)をタイムリープして助けようとする話だ。
 彼の葬式の日になると、事故の前日になる。
 それを三回繰り返したけど、結局、丈流のことは救えずに彼へさよならを告げる話にした。
 深山がマウスのホイールを右手の中指でクルクルと音を立てて回していた。きっと、画面をスクロールして、全体を見てくれているんだと思う。

「あ、ここいいですよね。事故の前日に雨の中で丈流を振っちゃうシーン。なんか、未来変われって、感じ出てていい感じです」
「そっか。ありがとう」
「てか、先輩の小説のほうがバッドエンドじゃないですか。悲しい感じ出てていい感じですけど」
「文句あるの?」
 少しだけ深山の言葉が無神経に感じて、思わず私はムスッとした声でそう返してしまった。
 私はプライドが高い方ではないと思うけど、小説のことをとやかく言われると、なぜか無性に腹が立ってしまうときがある。

「いや、そうじゃないですけど、だって、最初、俺の作品のこと、バッドエンドかと思ったって言ったから」
「そうだよね。わかってるよ。ごめんね」
 私はわざと、こんな無意味なことをしてみた。
 きっと、瞬間的に深山に否定されたことがすごく嫌になったのかもしれないって、少しだけ思った。
 
「もう、怒らないでくださいよ。結構、好きですよ」
「えっ」
「この作品」
「――だよね。ありがとう」と私はそう言ったあと、ため息をついた。

 作品を誰かに褒められたのは初めてかもしれないって思った。
 先輩はダメ出しはしてくるけど、いいところを別に言ってくれるわけでもなかった。
 たぶん、私が一年生で、まだ小説が書いたことがないから、下に見られていたのかもしれない。先輩のあの苦笑いする表情を思い出すと、腹が立ってきた。

「てか、先輩、全然下手じゃないですよ。小説」
「え、下手だよ。だって、私、去年いた先輩にけちょんけちょんダメ出しされたよ」
「へえ。その人、そんなに上手かったんですか。小説書くの」
「うん。だって、賞とってたもん。いくつか」
「へえ。なんの賞だかわからないですけど、先輩の良さには気づかなかったんですね」
「別にかばわなくていいよ。私のことなんて。もう終わったことだし」
「卑屈にならないでくださいよ。――そんなに嫌なことされたんですか?」
 深山は急に心配そうな表情をしてそう言った。先輩は自分の才能に酔っていた。というか、完全に私のことを見下して、バカにしていた。

 だから、最後の方はまともな関係ではなかった。私が入学して半年で簡単に関係は壊れた。
 最初のころみたいに、お菓子を食べながら、くだらない話で盛り上がる先輩は賞を取るたびにいなくなってしまった。

 だけど、私はそれを押し殺して、そのままやり過ごすことにした。
 夏休みが終わる頃には、彼氏もできて、適当に理由をつけて、週に一度しか部活に出なかった。先輩は秋の高文連に作品を出してから、部活に顔を出さなくなった。
 受験勉強がどうとか言ってたけど、結局、推薦で東京の大学に行った。

「いや、別に」
 私は右手で頬杖をつき、左手の窓から景色を眺めた。
 グラウンドでは今日も変わらず、サッカー部と野球部が練習していた。もうそろそろ、マフラーが恋しくなるくらい気温が下がり始めているのに、元気そうに練習していた。

「紫菜野さん――。いや、梓さん」
 急に深山に名前を呼ばれて、ドキッとした。
 少しだけ、手のひらが熱くなる感覚がした。私はそんな動揺を隠すために黙ったまま、じっと深山を見つめることにした。

「嫌なことって、自分が思ってるよりも、心が傷ついていると思うんです。――だから」
「いや、いいよ。深山くんに言っても仕方ないから」
 別に深山くんには関係のないことだよ。
 去年、散々だった過去をまだ、私の中で整理できていないだけなんだ――。

「ねえ。そんなことより、深山くんの小説、面白いからさ、たまにこうやって書いてきてよ」
 私は深山を見つめたままそう言ったけど、深山の眉間に皺を寄せた表情は変わらなかった。深山の言いたいことはわかる。
 『話題を逸らすなよ』でしょ。きっと――。

「――そしたら、先輩も書いてきてください」
 深山はため息をついたあと、PCから自分のUSBスティックを抜いた。








 ガラスの中で君と過ごすのは、もう飽きたよ。
 二人きりで閉じ込められて、
 街の明かりすら感じ取れない試験管の中で、
 やることもないから、
 ずっとキスして、
 ずっと抱き合ったけど、
 何も変わらないね。
 もしかすると、
 世界なんて性格の悪い管理者が
 ニヤニヤしながら人が苦しむのを楽しんで見るのが
 趣味なのかもしれないね。







 私と深山は11月になっても変わらずオセロをしたあと、市電に乗って、地元に帰るを繰り返した。
 今日もそのルーティンの最中で、オセロ盤面は相変わらず劣勢――。

「ねえ」
「なんですか」
「――彼女できた?」
 私がそう聞くと、深山は、え、と言いながら、にやけていた。わかりやすいやつ。って思った。やっぱり、私にも女の勘なのか、シックスセンスなのかわからないけど、そんなのが備わっているんだって思った。

「そんなわけないでしょ」と深山は首を小刻みに振った。じゃあ、なんでにやけたんだよ。私のシックスセンスは一瞬で崩壊した。
「へえ。寂しいやつだね」
「先輩だってそうでしょ。――クリスマスはどうするんですか」と聞かれた。
「その前にデートとか、何かしらするでしょ。クリスマスを迎える前に」
「ということは誘われていないってことですね」
 深山からそう言われると少しだけ嫌味みたいに聞こえるのはなんでだろう。
 そもそも、私はクラスではほとんど話さないし、友達もあまりいない。去年、2つの出来事が重なって、私の心は疲れ切ってしまった。

「――今週末、付きあってください」と深山に言われたから、思わず持ったままだったオセロのコマを落としそうになった。
「いいよ。付きあってあげる」
 動揺しているのを深山に悟られまいと、私は精一杯クールな返事をしたあと、オセロのコマを盤面に置いた。







 そうして、深山に呼び出されたのは――。
 函館公園だった。

 というか、思いっきり私達の地元だ。家から歩いて10分もかからない場所だ。
 函館公園は比較的大きな公園で、奥には昔、図書館だった建物や博物館もある。ベイエリアか、五稜郭公園前の繁華街に行くのかと思ってたから、ちょっと拍子抜けした。

 もうすぐで見納めになる噴水を眺めながら、私はベンチに座っている。もうすぐ雪が降るはずなのに、今日は久々に気温が10℃を超えていて、心地よく感じた。
 きっと、今日が今年最後の暖かい日になるかもしれない。
 そう思うと、少しだけ寂しくなった。

 別に深山だから、おしゃれなんてしなくてもいいやとか思いながらも、結局、久々にフルメイクしたし、黄色いワンピースを着て、茶色の厚手のセーターを着ているし、完全に意識しちゃってる格好だ。
 そして、深山は遅刻してきやがった。iPhoneをタップして時間を見ると、すでに約束の時間より10分過ぎていた。

「梓さん」
 左側から声がしたから、顔を上げると、深山が悪気も無さそうにあどけない笑顔を浮かべながら、私の方に近づいてきているのが見えた。

「待ちくたびれて、死ぬかと思った」
「それはいつものことでしょ。さ、行きましょう」
 深山は悪びれたそぶりを見せずに、遊園地がある方を指さした。







 こどものくに。

 と書かれてた入口をくぐると一気に雰囲気が昭和になった。
 たぶん、昭和レトロだって、めちゃくちゃ喜ぶ人もいるかもしれない。メリーゴーランドにスカイチェア、ワイヤーでぶら下がっている飛行機が、回っていた。
 とにかく、回る乗り物が多い。そして、すべての遊具が年季が入っていて、デザインが昭和30年代で止まっているような雰囲気だった。

「こんなに小さかったんだね」
「ですよね。俺も久々だから、びっくりしてます」
 小さいときから、何回も来ていた。だから、久々にこの空間に入って、すべてが小さく見え、そして、手狭に感じた。小さいときはすべてが大きく見えていたから、ものすごく広がった世界に見えていたけど、今みると、小さなスペースにぎっしりとアトラクションが並べられていて、アットホームな雰囲気だった。

「もしかして、行く場所、もうバレてますか」
「あれしかないじゃん」
 私は奥にある小さな観覧車を指した。



 



 観覧車の前には《日本最古の観覧車》と書かれていた。
 赤、緑、黄色、ピンク、青、黄色、緑、ピンクの順に2人乗りの小さなゴンドラが8台ついていた。座席は外側を向いていて、椅子の上にビニールの雨除けがついただけの、開放感がある作りになっている。
 人生で初めて乗ったのがこの観覧車だから、ルスツにある大きい遊園地の大観覧車に乗ったときはゴンドラに扉がついていて、室内であることに謎の感動を覚えた。

 深山が買ったチケットを係員に見せると、すぐにゴンドラに案内された。

「赤色に当たりましたね」
「レアじゃん」
 8分の1しかないのにレアとかあるのかって、心の中で私は自分自身にツッコミを入れた。てか、そんなこと言ったら、青いゴンドラも一つしかないんだから、確率的にはって、理屈を考えても仕方がないやって思った。

 私が先に、赤いゴンドラのベンチに座ると、ゴンドラがかすかに揺れた。
 そのあと、私の左隣に深山が座ると、より揺れ幅が大きくなった。ゴンドラの幅が狭いから、深山と拳一つぶんしか隙間がなかった。係員が頼りないバーを下げた。

「ねえ」
「なんですか」
「てっぺんに着いたら、キスしようか」
「こんな丸見えなゴンドラじゃ、下から冷ややかな目線を浴びますよ」
「へえ、キスしたくないんだ」
「別にそういうわけじゃ」
 深山が言い終える前に観覧車がゆっくりと動き始めた。
 この観覧車はベンチが外側を向いているから、反時計回りにゆっくり登っていく。動き出したはずみで、ゴンドラがまた揺れた。

「ねえ、話さないとあっという間に終わっちゃうよ」
「わかってますよ。てか、結構、揺れますね」
「函館の観覧車は揺れるんだよ。エジソンは直流電気で商売したのと同じくらい、函館の常識でしょ」
「どんな例えですか、それ。揺れるのなんて俺だってわかってるよ、もう。あなたには共感能力は備わっていないんですか」
「それはあんまりだよ」
 私は自分勝手に不貞腐れたような演技をして、そう返した。

「すみません」
「嘘だって。ねえ、深山くん。だいぶ高くなってきて怖くなってきたー」
「棒演技だなぁ」と言う深山を無視して、私は拳ひとつぶん空いていた間を埋めるように左側に寄り、深山の肩に寄りかかった。深山の肩を通して、深山が息づかいを感じた。

「――梓さんの肩、あたたかいですね」
「――瑛人くんもね」
 深山を見ると、深山はそっと微笑んでくれた。
 だから、私はまた少しだけ意地悪がしたくなって、反対側を向いた。ゴンドラはもうそろそろ、頂点に差しかかろうとしていた。

「あ、見てー。海見えるよー」
 右側にはいるかのしっぽを作っているUの字を横にした海岸線と冷たそうな海が見えていた。

「あー、もう、頂点過ぎちゃったじゃないですか。俺の観覧車イベント返してくださいよ」
 頂点を過ぎたゴンドラは今度は後ろ向きに降り始めた。強い風で小刻みにゴンドラがまた揺れた。

「え、キスしないんでしょ」
「あー、もういいです。じゃあ、先輩が好きそうな話しますね」
「もういいですって」と私は失笑しながら言うのを深山は無視して、話を続けた。

「この観覧車は1950年に作られたみたいで、きっと、かなりの人が頂点でキスしたと思うんですよ。そして、その中から、何万組のカップルが生まれ、さらにその中から結婚をして、って考えたら、8台しかないゴンドラだけど、日本最古の観覧車がどれだけの人の人生のページになったかなんて考えるとすごく不思議じゃないですか」
 深山にしては私が好きそうな妄想話をしっかり仕込んできたんだなって思った。だけど、私だったら、そのうち、どれくらいの人が別れを決めて、どれだけの人が相手のことを愛想をつかしたのかって言ってただろうなって思った。
 
「一生懸命、考えてくれたの?」
「当たり前でしょ。そんなことでも言わないと、梓さん、ロマンティックなんて思わないでしょ」
「よくわかってるね」
「こう言うのってバックストーリーが大切なんですよ」
 ゴンドラはあっさりと残り4分の1の高さまで降りてきた。だから、甘いロマンスなんてきっと、この小さな観覧車のようにあっという間に楽しい時間は終わってしまうのかもしれない。

「ねえ」
「なんですか」
「私、観覧車でキスして始まったカップルって別れるってジンクス信じてるから、キスされなくて嬉しかったよ」
  左手をそっと、深山の左手の甲に乗せた。深山の手はあたたかかった。







 古い観覧車で君と二人でいる時間は貴重だね。
 君は私のことをしっかり考えてくれていて、
 すごく嬉しかった。
 手が取れてしまったテディベアを
 そっと縫い直すように
 君の手を私の首をそっと撫でて欲しくなった。 







「次、先輩の番ですよ」
「はーい」
 右手で頬杖をしていた姿勢を元に戻し、私はオセロのコマを取った。
 そして、適当に盤面に置き、黒いコマを一枚、ひっくり返した。作品を見せ合ってから、1か月経っていた。あのとき以来、また、文芸部はオセロ部に戻っていた。
 陰キャの男女が二人で、ただただ、オセロをしている。手元に置いている私のiPhoneからはJUDY AND MARYの『散歩道』が流れている。別にウキウキする雰囲気でもないのに、この曲のおかげで気持ちが軽くなっている気がする。
 
「先輩、また小説書いてくださいよ」
「深山くんこそ。また、ざまぁな話、書いてよ」
「俺、もう書きましたよ」
「え、早く言ってよ」と思わず食いついてしまった。本当に深山の小説を楽しみにしていた。だから、すぐに読みたかった。
「ダメですよ。だって、先輩の小説できてないでしょ」
「そうだけどさ。いつもコーラ奢ってるじゃん」
「いや、それは関係ないですよ。あれは俺がオセロに勝ったからであって」
「男らしくないなぁ」と私は深山を茶化すように催促した。

「ずるいなぁ。それ」と言いながら、深山はオセロのコマを盤面に置き、一気に盤面を黒くした。あの日、観覧車に乗ったあと、十字街まで歩いて、ラッキーピエロでチャイニーズチキンバーガーを食べて、深山とのデートは終わった。そのあとはいつも通り、こうやって二人でオセロをしている日々がまた続いている。

「ねえ。どんな話なの?」
「先輩も小説書いてくれば、そのうち、わかるでしょ」
「そっか、そういう話か。私への当てつけた小説ってことだね」
「話をややこしくしないでくださいよ。頭いいなぁ」
 深山は私によくわからない返しをして、右手を額にあてた。私は立ち上がり、深山が座っている机の横に両肘を乗せて、深山の顔を覗きこんだ。深山はいつものように困った表情をし始めた。この表情にするのが最高に楽しい。

「あー、もう、わかりましたよ。オセロ終わってからですよ」
「今日も私の負けでいいから、早く読ませてよ」
 右手の人差し指で深山の頬に触れようかと一瞬思ったけど、さすがに深山には刺激が強すぎると思い、そうするのをやめた。







「『このポンコツ女をどうにかしてください』って今度はラノベ書いてきたのかよ。ふかやまー」
「違いますよ。ラブコメです」
「ラノベじゃん」
 私はゲラゲラ笑いながら、ノートPCのモニターに映されている深山の小説を読み始めた。物語は主人公のポンコツ女、阿奈(アナ)が同じクラスで一番地味で影が薄い男の子、剛太(ゴウタ)に駅のホームに置いてあったカバンにつまずき、線路に落ちそうになったところを助けられたところから話が始まる。

 そして、阿奈は剛太のことが好きなんだけど、剛太にそっぽを向かれる。
 剛太は鈍臭い阿奈のことが最初は嫌いだった。理由は駅で助ける前にクラスで、阿奈が転んで、ペットボトルの水をかけられたからだ。だけど、駅で阿奈を助けてから、気になり始めて、アプローチするけど、阿奈は鈍感でわかっていない。そんな、すれ違いを繰り返して、なんとか二人は結ばれるっていうハッピーエンドな話だった。

「めっちゃいいね」
「でしょ?」
「やっぱりラノベだったよ」
「え、マジっすか」
「私、ラノベ読んだことないけど」
「相変わらず、いい加減ですね」と深山は呆れながら、そう言った。私はマウスのホイールで何度もクルクルと回し、最初のほうまで戻った。剛太が『鈍臭い女』って捨てゼリフを言っているシーンが目に入り、元彼に言われた『重すぎる女』って言われた言葉が妙にリンクして思い出した。
 息を吐き、マウスから手を離した。そして、PCの画面から目線を離し、深山をじっと見つめた。目が合うと深山はまた、困ったような表情をし始めた。

「最初の出会いが最低なのがいいよね。しかも、その前に水かけられたところは笑えた」
「あざーす」
 深山はこの間、読んだときと同じように淡々としたリアクションをしている。

「ねえ、ハッピーエンドなんて書いて楽しいの?」と私が言うと急に深山の表情が曇った。それはそうだよねって思いながら、私は去年のことを思い出した。

「って、私の先輩に言われて、めちゃくちゃ傷ついたんだ」
「いや、びっくりしたー」
 深山は一気に曇った表情から、いつもの柔らかい表情に変わった。
「てか、ひどいっすいね」
「でしょ。ハッピーエンドの小説、映画なんていっぱいあるのに」
「てか、ハッピーエンドにしなきゃ、今の時代、ドラマの視聴率取れないんじゃないんですか」
「だよねー。さすが深山」
 たぶん、深山と私はこういうところでも意見が一致するし、きっと、性格的になぜか相性がいいんだと思う。

 私は元々、メンヘラだけど、特にこじらせたのは去年の秋から冬にかけてだった。
 彼氏に振られて、仲良かった先輩から、色々、上から目線で言われるように嫌いになった頃から、インスタの鍵垢で書いている内容はどんどん荒んでいった。
 最終的に先輩には『あんたみたいに、何にも考えていないヤツは嫌いなんだよ』って言われて、元彼からは『お前とは付きあえきれない。あわないわ』って言われて、私はその傷の所為で、深山と出会うまで笑うことができなくなっていた。

 だから、深山といる時間は気がついたら、私のメンヘラを癒してくれていた。

「梓さんって、不思議ですよね。メンヘラ気質なのに、ハピエン好きだし、ギリギリのところで完全にメンヘラこじらせてるわけでもないし」 
「前向きなメンヘラだから、私」
「メンヘラなのが不思議ですよ」
「たぶん、いつかは治るよ。私のメンヘラ」
「いいえ。梓さんのメンヘラは治療不可能です」
 そう言われて、向かいの席に座っている深山をじっと睨みつけると、なぜか深山は右手を突き出して、ピースサインを送ってきた。







 なんとなく私たちは電停をとっこして、千代台公園を歩くことにした。
 公園の並木道はすでに葉っぱはなくなって、うっすらと雪が積もっている。
 白色の街灯が弱々しく道を照らしているけど、道に積もった雪が光を反射して、少しだけいつもの夜より明るく感じた。

 もうすぐ冬休みが始まる。時計はまだ16時なのに、外は真っ暗になっていた。
 冬至が近くて暗いし、寒いし、雪は積もっているしで、私は毎年、憂鬱な気持ちになる。そして、去年のクリスマス前、ちょうどこの時期に彼氏に振られて、人生で一番暗いクリスマスを過ごすことになった。
 M1観ても全然、楽しいとも思えなかったし、これから先、私は誰からも愛されないのかなって、寝る前にふと思うと、涙が溢れてきたりで、けっこう大変だった。

 私も深山もコートにマフラーをしていた。だけど、時折強く吹く、風でとても寒く、息をすっと吐くと、白かった。

「――梓さん」
「なに?」
「梓さんって大学、どこ行こうと思ってるんですか」
「あー、ねえ、瑛人くん。私、その話好きだと思う?」
「いや、大っ嫌いだと思います」
「じゃあ、話題にしないでよ」
 私は本当に嫌気がさして、話題を拒否した。なんで深山と一緒にいるときにそんなこと考えなくちゃいけないんだって思うと少しイライラした。

「俺、函館出て、どこかでなんかやろうって言うイメージ湧かないんですよ」
「――それ、私に相談するの」
「はい、てか、梓さんくらいしかわかってくれなさそうだし」
「そうなんだ」
 大きく息を吐くと、それにあわせて、息が白くなった。そして、そのあと、寒くて身震いをした。

「進学校に通う生徒のセリフじゃないよね」
「それ、そのまま梓さんに返しますよ」
「勉強なんて、クソ喰らえ」
「ロックだなぁ。てか、俺の相談乗ってくださいよ」
 深山は弱く笑ったあと、右手で前髪をいじった。

「別に夢なんてないよね。大学行って、社畜になってってなんの意味があるんだろうね」
「それを人は生きるためって言うんですよ。だけどさ、俺、そんな高み目指すの面倒なんですよ。普通に最低限、暮らせる仕事して、たまに東京、札幌とか旅行して、服買って、函館帰ってくる程度でいいんですよね。俺のQOL」
「俺のQ・O・L・O・V・E」
 深山は私の渾身のギャグをなかったことにした。ちょうどよく、強い風が吹き、道に積もったばかりの雪が粉のように舞い上がった。

「ラブリー深山ー、B・L・T」
「T・K・G」
「K・G・B」
「A・C・Japan」
「どんなCMだよ」と私が勝手に始めたゲームを強制終了すると、深山はなんすか、これって言って、ふっと、息を漏らすようにさらっと笑った。

「てか、意識低い癖にさ、意識高い言葉、使わないでよ」
「いいじゃないですか。たまには。てか、マジで俺の話、聞く気ないじゃないですか」と深山は珍しく、不機嫌そうな表情をしてそう言った。

「ごめん、マジな話だよね」
「そうです。マジな話です」
「ねえ」
「――なんですか」
「私は、上京しようと思ってるよ」
「え、意外」
「大学まではとりあえず、親のすね、かじりまくる。そして、大学卒業するとき、函館に戻るか、そのまま東京に暮らすか考える。というか、私の性格的に都会に適合するかどうかよくわからないから、とりあえず住んでみるって感じ」
「札幌でもないんですね」
「やっぱ、東京っしょ」
「根暗な癖にアクティブだなぁ」
 深山は悪気もなさそうに一言、余計なことを平然と言った。
 別にいつものことだし、そうやってところどころ、深山の素直なところが好きだ。

「私、言ったから、深山のプラン、教えてよ」
「どうしよっかなー」
「えー、ずるいよ」
 左手で深山の背中を叩くと、痛ったーと言って、深山はおどけた。それが面白くて、私は思わず笑った。

「――俺、最近、真面目に考えてるのが、市電の運転手」
「ん? 就職ってこと?」
「そうです。手に職をつけて、手堅く函館市役所の交通局で働くってことです」
「したら、大学出て、公務員でもよくない?」
「いや、俺、人と面倒なやり取りとかするの、マジで向いてないと思うんですよ」
 こんなに社交的な雰囲気なのに? って言いたくなったけど、そんなことは言わないで話を聞き続けることにした。

「でも、電車の運転手って基本、電車運転してればいいし、細かいこと、調整して、技術みがくって、俺の性分にあってると思うんですよ。ほら、JR入ると、とんでもない僻地とかに飛ばされるかもしれないじゃないですか。それだったら、函館の街の中をのんびり、電車走らせるのって、なんかかっこよくないですか?」
 別にそんなこと、意識したことなかったから、かっこいいかどうかって尺度で測るのは私には難しかった。
 だけど、なんとなくだけど、深山が市電を運転している姿は想像できた。

「ねえ。――キスしない?」
 深山の気配が急に私の右側から消えた。
 だから、私は立ち止まり、後ろを振り返ると深山は私の3歩くらい後ろで立ち止まっていた。

「ねえってば」
 反応しない深山の方まで、私は歩み寄り、そして右手で深山の左手を繋ぎ、歩き始めた。

「――観覧車では拒否したくせに」
 深山は低くて落ち着いた声でそう言った。
 真剣になると、いつもの声のトーンより少しだけ低くなる深山のことがやっぱりかわいく感じた。

 深山の手は暖かかった。
 きっと、さっきまで黒いコートのポケットに両手を突っ込んでいたからだと思う。
 誰かの手の感触を久々にしっかりと感じている気がする。
 これで明日から、雪が本降りになって、それが根雪になり、秋が終われば、最高の日だなってなんとなく思った。

「うん。マジ」
「梓さんって、バカですね」
 不意に右手を引っ張られる感覚がしたのと同時に私の身体が深山の身体にあたった。
 そのあとすぐに抱きつかれたから、顔を少しだけ上げると唇を塞がれた。








2章





 二人で雨に濡れたまま抱き合ったのはもう過去のことで、
 大好きな気持ちは永遠に感じた。
 もし、私たちが大人になっても、
 きっと、世界は大して変わらないから、
 この思いだけは
 初めてビーカーを温めて、
 沸点を確認したときのように
 くだらないことでも
 印象に残れば、それは立派な思い出になることを
 君とたくさん残したい。








「梓、いこうぜ」
 平吹(ひらき)はそう言って、私の左腕に腕を絡めてきた。
 平吹が着ている黒のMA-1の厚さをコート越しに感じる。そんな、強引な雰囲気の彼が好きだ。
 
 中田平吹とは大学2年生の秋に付き合い始めた。
 付き合い始めてから1年三か月。

 演劇研究同好会との飲み会に友達の絵里衣(えりい)に誘われたから、行ってみることにした。
 ちょうど、彼とわかれたばかりだったから、絵里衣が気を利かせてくれたんだと思う。
 その当時、絵里衣はまだ、演研を辞める前で、サークルに見切りをつけずに活動をしていた頃だった。

 最初はいや、無駄な気遣いするなよ。
 そもそも、私、演劇なんて興味ないし、同好会になんて入りたくないしって思っていく気にならなかったけど、絵里衣はそもそも、私のことを演研になんて勧誘する気なんてなかったみたいだし、演研を中心にその他もろもろがぞろぞろ集まるコンパみたいな飲み会だから、仲がいい友達いないと、気まずいじゃんって、理由でさらに私を誘ったらしい。

 ここからはありがちな話になった。そんな乗る気じゃなかった飲み会の席で平吹と一緒になり、好きな映画の話や、小説の話で盛り上がったあと、1次会抜け出して、終電を余裕で逃して、公園のベンチでベロチューされて、お持ち帰りされた。

「次の公演、下北でやるんでしょ」
「んだよ。俺、準主役級だから」
 平吹は得意げにそう答えた。

「へえ。どんな役やるの?」
「主人公をサポートする頭いい博士の役」
「ずいぶん、ガタイがいい博士なんだね」
「ジム通いしてる設定」
「ウケる」と私はそう言って、弱く笑った。

 平吹は182センチあって、筋肉質だけど、スポーツはあんまりやってこなかったから、運動音痴らしい。
 平吹は高校生のときから演劇を始めて、ドはまりしたから、大学に入っても演劇を続けている。平吹の腕の暖かさを感じながら歩く、渋谷は今日もキラキラしていて、サイネージの明かりがカラフルで眩しい。18時を過ぎ、日が沈み、よりその光が増している。東口前ので3Dのデジタル広告から、犬が舌を出して、飛び出している。最初、それを見たときは未来感を感じ、しばらく立ち止まってみたりしたけど、今となってはそれすら日常になっている。

 そもそも、北海道から出てくると、異国に入ったみたいにカルチャーショックが大きい。はっきりとものを言うと、すぐに距離を置かれるし、私はなまりがあまりない方だと思っていたけど、ちょっとしたイントネーションの違いでたまに言葉が伝わらなかったり、標準語かと思って、言った言葉が伝わらなかった。

 そして、必ずと言っていいほど、地元が北海道だというと、食いつかれる。
 特に函館って言うと、修学旅行で行ったとか、関東出身のヤツによく言われるのが嫌だった。
 話の流れでそうなんだ。もしかしたら函館で会ってたかもねー、とか言うけど、絶対、そんなわけないだろ。てか、僻地扱いするなって、バカにされたような気持ちと、大嫌いな社交辞令を交わす自分が嫌で、余計イライラする。

「ねえ」
「なに?」
「もしかして、無理してない?」
「は? 無理ってなんだよ」
「――ほら、稽古で忙しいんじゃないの? 本当は」
「大丈夫。今日は俺のパートじゃないところの稽古らしいから、たまたま休み」
「へえ。そんなことあるんだ」
 演劇とか、そういう芸術系って休みがないものだと勝手に思ってた。

「まだ、公演まで、2か月あるからな。来月はちょっとやばいかもしれないけど」
「へえ。そうなんだ。なんかさ、みんなでさ、常に練習して、そして、演出家が怒鳴って、厳しくて、泣き出す女子の世話をするまでがセットなのかと思ってた」
「パワハラすぎだろ。それ。どちらかと言うと、練習あと、飲みに行って、飲み過ぎた女の子を介抱するまでが練習だよ」
「ゲロを素手で受け止めるの?」
「バカ。きったねぇだろ」
「じゃあ、もし、私が潰れたら、私のは受け止められる?」
「そのときの気分次第だな」
「最低」と私が言うと、平吹は苦笑いをした。そして、信号も変わり、私たちは東口を目指し、また歩き始めた。

「――なあ」
「なに?」
「今日、俺の家で泊まらない?」
「ごめん女の子の日なの」
「マジかぁ。じゃあ、今度だな」
「ねぇ。ご飯くらい、食べようよ」
「いや、今日は疲れてるからいいや」
「嘘つき。――まあ、いいよ」
「嘘はついてないよ」
 実は嘘をついているのは私のほうだ。きっと、平吹は気づいていないと思うけど。すれ違いは今に始まったことじゃない。満たされない気持ちは別にどうでもよかった。
 ――ただ、優しくない世界が嫌になっただけだ。









 すれ違う日々は、つらいけど、
 わかりあえない方がつらいよ。
 レモンシャーベットをそっとスプーンで掬うように
 気持ちを丁寧に扱いたい。
 本当に私のことをわかってくれる人なんて、
 世界できっと数人しかいないはずだから。
 もし、君がそれに該当しないようなら、
 ネオンが輝いている月のダウンタウンで
 雰囲気でキスなんてしなかったよ。







「たまにね、なんで上手くいかなかったんだろうって考えるときがあるんだ」
「忘れなよ。その男の子のこと」と絵里衣は穏やかに私のことを慰めてくれた。大学のカフェテリアのカウンター席で絵里衣と横並びになって、コソコソと話していた。

 別に大学で話す必要はなかったけど、なんとなく、そこでコーヒーを飲みながら話すことにした。いつもだったら、渋谷とか、代官山とか、その辺りのカフェに行くけど、テスト前でレポート祭りで、疲れてたのと、たまたま二人とも6限と7限を入れてない日だったから、移動するや店を探すのも面倒になって、大学にとどまってダラダラすることにした。

 絵里衣は上京して、唯一、私と息が合う友達だ。なぜかわからないけど、絵里衣はまるで私の心を見透かしたように、的確に優しい言葉をくれる。だから、裏表がなく、天使みたいな、そんな絵里衣のことをこの3年間でかなり信頼していた。

「今さ、別れてからしばらく経った状態じゃん。なのに、なんで元彼のことなんか思い出しちゃうんだろうね」
「誰だって、そういうこと、あると思うよ」
「そしたらさ、絵里衣はそういうことあるの?」
「ううん。今の彼としか付き合ったことないから、ごめん、わからない」
「そっか。てか、なんでこんなに長く付き合えるの?」
 絵里衣は彼と高校のときから付き合い始めたらしい。確か、高校2年生のときに付き合い始めたって言ってたから、たぶん、付き合ってから4年くらい経ってるんだと思う。

「うーん、私たちの場合、ちょっと特殊だったから」
「特殊?」
「うん。最初、彼のこと、タイプでもなかったし、むしろ、ワイワイ騒いでる1軍男子だったから、毛嫌いしてた」
「え、そしたら、どうやって接点作ったの?」
 3年間で始めて、ここまで絵里衣の彼との出会いについて、踏み込んだかもしれない。いつもの絵里衣なら、もうだいぶ前の話だし、私の話聞いてもつまらないよって言ってはぐらかされていた。そもそも、絵里衣は彼のことをあまり話したがらないタイプだった。そういう、あっさりしているところが好きなところだ。絵里衣とはなぜか自分を取り繕うことなく、自然体で話せるのはきっと、そういう適度に相手のことを思いやり、自分をセーブできるからだと思う。

「――いじめから助けてくれたの」
「え、いじめられてたんだ……」と私がそっと言うと、絵里衣は静かに頷いた。
「あ、その。ごめん。別に引いてるわけじゃないんだけど――」
「びっくりした?」と絵里衣は微笑みながらそう聞いてきたから、私も静かに頷いた。心臓の心拍数がゆっくり音を立てながら上がり始めたのがわかった。なにか、聞いちゃいけなことを聞いてしまった気がする――。

「大丈夫だよ。気にしないで。私が話したくなったから、勝手に話してるだけだから」
 絵里衣に私の心の中をすぐに読み取られたかのように私が思っている懸念点を絵里衣はフォローしてくれた。

 どうしたら、こんなに気遣いができるんだろう――。
 こんなことしてたら、大変だよって思い、絵里衣のことが心配になった。

「それでね、彼がね、いじめから救ってくれたの」
「すごいね」
「うん。どちらかといえば、嫌いだったのに、一気にヒーローになったの。あとね、彼、1軍でクラスの中心みたいに回ってるけど、本当は繊細なところとか、抱えてた悩みが私と一緒だったり、コンプレックスを武器にしちゃってるところとかあって、それがすごくて、関心しちゃったのもあるんだよね」
「そうなんだ。運命的だね」
「うん、腐れ縁になっちゃった」
 絵里衣はそう言って、弱く笑った。そのあと、左手で頬杖をつき、何かを思い出しているように見えた。私は紙カップに入っているコーヒーを手に取り、一口飲んだ。

 たぶん、絵里衣は繊細だし、気遣い上手すぎる。
 だから、そういうことをできる絵里衣のことを都合のいい話相手として利用されたり、自分の話しかしない人たちに絵里衣は疲れ切ってるんだと思う。だから、絵里衣の交友関係は大学に入ってから、最初は人並みだったのが、3年経った今では、ごく少数になっているのも、そういう理由があるのかもと思った。

「ごめんね、私の話じゃなくて、梓の話だよね」
「違うよ。そういう話、絵里衣から聞けて嬉しい」
「え、嬉しいの?」
 絵里衣はわかりやすく頬杖をやめて、私を見つめてきた。
「うん。絵里衣は聞き上手すぎるから、いつも話、聞いてもらっちゃってるしさ。居心地いいし。てか、平吹といるときより、気持ち楽なんだよね」
「えー、それは問題ありだな。やっぱり、最近、上手くいってないんでしょ」と絵里衣は私にちょっかいをかけるような声色で、そう聞いてきたから、なんでわかるのー、と言って、右手で前髪をいじった。

「ほら、梓ちゃん。いい子だから話してごらんよ」
「――なんかさ、最近、平吹のことが好きってことが自分の中で自信が持てなくなってきてるような気がするんだ」
「最初のうちはよくあるよね」
「平吹と付き合う前に色々ありすぎたからだと思うけど、私のこと、本当に見てくれてるのかなって、たまにものすごく不安になる」
「相変わらず、メンヘラこじらせてるねぇ」
「GPSアプリ入れてないだけ、マシでしょ」
「そこまで行ったらアウトだね」
「だけど、嘘ついたりしてる」
「嘘?」
「うん。自分を守るために」
 こないだ平吹についた嘘を思い出した。そして、そのときの彼の表情も。

「――梓、さすがだね」
「えっ」と私は何がどういうことなのかわからないから、少し驚いて、そう返したけど、絵里衣はコーヒーを一口飲んだあと、微笑み返してくるだけだった。








 下北沢駅の長い地下からいくつものエスカレーターに連れていかれて、ようやく地上に出た。2
 月でも16℃も気温があるから、私の中ではすでに気分は春だった。

 平吹にもらったパンフをバッグから取り出した。
 パンフは白黒のデザインで6人が左右に3人ずつVの字で意味ありげな表情をしていた。
 そして、パンフの真ん中には《殺した犯人は誰だ?》と斜めに書かれていた。

 一昔前のどっかのデザインをパクっている癖に、その全てがダサさを醸し出しているパンフは一体、誰が作ったんだろう。パンフの中で平吹は右上を向いて、考え込むような表情をしていた。博士っぽい白衣を着て腕組みをしている姿がただでさえダサいパンプをさらにチープなものにしているような気がする。

 そもそも、顔が大学生で若いままなんだから、博士みたいに歳をとっている役の雰囲気が、出ていない。だけど、1週間前に会った平吹はめちゃくちゃ役作り、頑張ったって言い張っていた。本当かよと思いながら、平吹からチケットとパンフを受けとった。
 裏面には話のあらすじと、役者の一覧、そして、劇場の名前と地図、公演スケジュールが書かれていた。役者の一覧にはちゃんと平吹の名前もクレジットされていた。

 私はパンフに乗っている地図をもとに夕方で人がごった返している下北沢商店街を歩き始めた。








「あー、大変だーーー! 私が作ったタイムマシーンになんてことをするんだ!!!」
 平吹は小さな劇場いっぱいに響き渡る大きな声で、わざとらしく叫んでいた。タイムマシーンって設定の青色のドラム缶から、モクモクと白い煙が出ている。
 きっと、ドライアイスの煙だろうけど、劇場で見ると安っぽいけど、確かにそれっぽく見えた。

 そもそも、ドラム缶がタイムマシーンっていうのも、小劇場でありそうな小ボケに感じた。平吹は前に、舞台では、どんなものでも言い張れば、そういうものになるんだよって、ドトールで力説していたの思い出した。

「タイムマシーンがあるから、こんなアリバイがあるのに犯行が容易いんだよ!」
「さあ、白状しなさい。ポンコツ博士。誰がそのタイムマシーンに乗ったの?」
 主人公と女刑事がそれぞれ、安っぽいセリフを、いかにも深刻そうな雰囲気で言っているけど、ちっともこっちには届いていないような気がする。私より三列先にお客さんは首を下に向けていて、深い眠りに入っているのが一目でわかった。
 自分たちが頑張って、やっていることに対して、客が堂々と寝ている姿を舞台から見るのは一体、どんな気持ちなんだろう――。それだけ、ストーリーが破綻していた。
 
「知らないぞ。私は。私はただ、研究の一環として、5人に過去に行ってもらっただけだ」
 クライマックスに入って、可能性ある人物が5人もいるって、しんどいだろ。それ。
「それも、1か月前までと、タイムスリップする日にちを限定した」
「じゃあ、この人は見覚えあるかしら」
 女刑事はそう言って、ジャケットから写真を取り出し、平吹に見せた。すると、平吹は驚いた表情をして、わざとらしく、写真を落とした。

「この女だけは、特別に2か月前までタイムスリップしてもいいと……許可を出した」
 すでに情報がめちゃくちゃだ。そもそも、なぜ5人って言ったんだ? なぜタイムスリップは1か月前に限定したって言ったんだ? そもそも、なんでその女だけ、特別に2か月前ってなんだ?
 違う意味で、謎が深まり、それもあまり回収されないまま、舞台が終わった。

 カーテンコールになり、みんなで仲良く手を繋いで、ありがとうございましたーって言うと、客席からまばらに拍手の音が鳴り始めた。そして、主人公役だった人物がもし、自分の彼女が死んで、その犯人がタイムスリップした友達だったらどうなるかっていう、思いつきをこの舞台にしました。ってあまりにも誇らしげにいうから、私は下唇を噛み、俯いて、笑いを堪えるのに必死だった。









 つまらない劇をやる役者ってどんな気持ちで演じているんだろう。
 きっと、つまらないことがわからない、
 自己中心的な考えでやっているのかな。
 そんなに自己顕示欲が強いなら、
 深海の底でチョウチンアンコウ相手に客商売すればいいのに。
 そこで話題になったら、
 そのうち、クジラやいるかにも伝わって、
 そのうち、ペンギン相手にやるようになるかもしれないよ。
 私だったら、きっとそうする。








「お疲れ」
「ありがとう」
 平吹は満足げな表情をして、そう答えた。明治通り沿いの渋谷3丁目のスタバで朝から期間限定のフラペチーノを飲んでいた。昨日、午後の最終公演が終わったあと、平吹は打ち上げで飲みに行ったらしい。だけど、私のことを気にかけてくれたのか、昨日の夜、今日の朝、会おうって誘われたから、平吹と会った。まだ、平吹は私のことを意識してくれているんだと思ったら、それだけで少し憂鬱だった気持ちが和らいだ気がした。

「相変わらず、演技は上手かったね」
「演技″は″?」
 平吹は少しだけ驚いた表情をした。だけど、疲れているのか、顔は浮腫んでいて、髪はいつものようにセットされておらず、ボサボサの状態だった。

「うん。平吹の演技は迫力があったよ。相変わらず、劇団の中で一番、声通ってるし、伝わってくるものがあった」
「ならよかった。俺、今回もめちゃくちゃ頑張ったからなー」
「そうだね」
 私はそう言って、チョコソースがたっぷり入っているフラペチーノを一口飲んだ。口の中いっぱいに深いチョコレートの甘さと深さ、そして、コーヒーの苦味を一瞬で感じた。壁側のクッション席に座っている平吹は両手を上げて、大きな身体をだるそうに伸ばしていた。平吹のオレ様感は自信と余裕に満ち溢れていて、好きなところでもあるけど、たまに嫌いになる。私はいつも、奥の席に座らせてもらえず、手前、通路側の木の椅子に座ることが多い。
 というか、奥の席、座れよ。って言われたことがなかった。たまになんで大柄なこいつとなんか付き合っているんだろうって、少しだけ思うときがある。

「俺、最近、考えてることがあるんだ」
「え、なに?」
 私は低い声でそう言うと、平吹はニヤニヤ表情を浮かべて、右手で自分の顎を触り始めた。
「――役者になろうかなってな」
「てなって、なにそれ。珍しく自信なさげじゃん」
「いや、今、この劇団で活動するのもいいけど、俺、才能あると思うから、マジで、舞台俳優とか、ガチのタレント目指そうかなって」
 才能あると思うからとか、自分で言っちゃうところ。
 たまにどうにかならないのかって思っちゃう。
 高校一年生の深山瑛人くんの方が、大人っぽくて、地に足をつけたこと言ってたなって思ったけど、瑛人はもう、私にとってみれば過去のいい思い出の断片にすぎなかった。

「へえ。せっかく上京したからね」
 上京したと言っても平吹は神奈川県小田原市出身のバリバリ関東圏出身の人だ。

「だろ? チャンスはさ、自分から取りに行かないといけないと思うんだよ」
 まだ、なにもチャンスなんて来ていないのに、なにを根拠にこの男はチャンスと言っているのだろうか。そのバカなところが好きだけど、たまにイライラして嫌になる。

「じゃあ、事務所のオーディションとか受け始めるの?」
「そうそう。あと、本多劇場の大きいハコとかでやってる有名そうな劇団に入って、オーディション受けながら、たまに大学行きながらって感じでやりたいな」
「たまに大学って」
 私は思わず、鼻で笑ってしまった。別に悪気はないけど、この人は一体、なにがしたいんだろう。
「それで、日本一の俳優に俺はなる」
「海賊王みたい」
 私は絵空事をほったらかして、もう一口、フラペチーノを飲んだ。平吹は自信に満ち溢れた表情で、右手に拳を作り、ッシャとコンプレッサーの空気が抜けたような独り言をほざいて、自分の世界に浸っていた。

「――つまらなかったよ」
「は?」
「劇自体、めちゃくちゃつまらなかった」
「は? なんだよ。急に話戻したな。てか、普通にムカつくんだけど」
 平吹のさっきまでキラキラしていた表情が一気に曇り始めた。機嫌が悪くなると、平吹は決まって、眉間に皺を作る。気持ちが表情に出てわかりやすいタイプ。そう言う意味では才能に溢れているのかもしれない。

「いや、だってさ、あの脚本、オリジナルでしょ? いらないセリフ多いしさ、ハッピーエンドじゃないし、設定ザルだしさ。それでさ、安い小劇場のノリをさらに薄めたようなギャグでスベってるしさ。あんな状態になる前に誰か、指摘しなかったの? そう言うところ」
「″さ″が多いよ」と平吹は急に笑いを堪えるような表情をしながら、そう言ってきたから、余計にイライラした。
「道産子だから、イライラするとこうなるの」
 あー、北海道だったら、こんなどうでもいいところ指摘されないのにって、思ったけど、この人はそのどうでもいいところがいつも気になるらしい。

「ねえ、どうなの。その辺」
「――脚本の内容は役者がどうこう言う問題じゃないから」
「だけど、アマチュア劇団なんだから、おかしいところあったら、普通、言うしょや。はんかくさい」
「……はんかくさい?」と平吹はピンと来ていない表情をしていた。
「んー。あー、えっと――。バカでしょってこと」
 私がそう言うと、平吹はゲラゲラ笑い始めた。はんかくさいって、白菜がどうしたこうしたってことかと思って、みんなで鍋つついて話せみたいなことかと思ったわ。田舎臭い言葉だな。それって。なんの笑いのツボに入ったのかわからないけど、しばらくゲラゲラ笑っていた。
 てか、そんなのニュアンスで察しろよ。私は揚げ足を取られたような気分になり、自分の話をちゃんと聞いてくれていないような、そんな気持ちになった。

「――それにさ、公演料2500円もお客さんからもらってるんでしょ」
「だけど、俺は梓にチケットあげただろ。あれ、自腹だからな」
「そう言う問題じゃないの。それは招待してくれて、嬉しかったけど、それとこれとは話が違うよ」
 ため息を吐いたあと、もう一口フラペチーノを飲んだけど、腹立たしい気持ちは治らなかった。

「だけど、泣いてるお客さんもいたよ。梓は知らないだろうけど」
「嘘でしょ。あれで?」
 思わず本音が出てしまった。それを聞いた平吹はまた、渋い表情になった。本当にずいぶんと顔色が変わる男だ。ポーカーフェイスと無縁すぎる。

「あぁ。最後、死んだ彼女の幽霊が出てくるだろ? 主人公が犯人見つけたあと。彼女が犯人見つけてくれてありがとう。もっと君と一緒に生きたかった! だけど、私はもういないの。だから、私はずっと外から君を見つめ続けるね」
 劇場で見た通りの再現度で平吹は身振り手振りを加えて、演技しながらそう言った。私は別に興味がなかったから、右手でフラペチーノを持ち、ストローを咥えたまま、それを見ていた。

「おい、興味なさすぎだろ」
「だって、そこ、笑うの我慢してたところだから」
「お前、マジ、最悪だな。それでも感動しました。泣けましたって言われて、結構、好評だったんだよ。てか、そんなに酷評する癖に、梓はなにも作ったことも書いたこともないじゃん」
 そのものの言い方で、高校一年生の頃を一気に思い出した。
 あれから、5年近く経っているけど、先輩に嫌なことを言われたことをぎゅっと濃縮された状態で思い出して、首を弱く左右に振って、息を吐いた。

「――いや、あるよ。高校生のとき」
「え、脚本? まさかの演劇部だったの?」
「……文芸部」
「そんなん、なにも発表しない根暗クラブじゃん」
「三年間作ってたよ。三年生のときに北海道のコンクールで賞もらった。小説で」
「へえ。すごいじゃん」
 お前の過去の栄光なんて微塵も興味ないと言いたげな、小バカにするような表情でそう言われたから、素直に嬉しいと思わなかったし、別にあれは自分の嫌な過去を清算するために本気出しただけだったから、別に栄光ともなんとも思ってない。ただ、あのときは本気で、瑛人と色々、試行錯誤して勉強して作った小説だった。
 だから、二人で作ったようなものだねって言って、喜んで、副賞の図書カード5万円分を二人で山分けして本をめちゃくちゃ買った。
 別にそれだけだよ。

「俺は演劇部で、全国大会、優勝だけどな」
 別にそこ、張り合わなくていいよ。
「――もういいや。ごめんね。疲れてるのにありがとう」と言って、私はコートを着て、バッグを持ち、中途半端に残ったフラペチーノを片手に店の出口へ歩き始めた。だけど、平吹は私のことを呼び止めようともしなかった。








「もう、無理だよ。絵里衣」
「大変だったね」
 店を出て、すぐに絵里衣にメッセージを送ったら、会ってくれることになった。
 絵里衣が誘ってくれて、ヒカリエの11階にあるイタリアンでパスタを食べることにした。窓側のテーブル席で向かいあって、頼んだパスタを待っている。窓からは外に置かれた観葉植物と、ガラス張りの柵がついているテラス、その奥に渋谷の低層階のグレーのビル街が見えている。こういうお店に来ると、私は今、東京で暮らしているんだと実感するし、3年も東京で暮らしているのに未だに慣れていない気持ちにもなる。

 大学がない時期なのに、絵里衣はしっかりと大学近くで会ってくれた。絵里衣は神奈川県の実家から、通学しているはずだから、渋谷まで出てくるのも大変なはずなのに、わざわざ会ってくれた。本当に嬉しい。
 もしかしたら、最近は平吹に会うよりも嬉しいかもしれない――。

「ねえ、梓」
「なに?」
「梓なら、きっと、もっと、いい人いると思うよ」
「――ありがとう。だけど、私、もう、いい人に出会えないかもしれない」
「え、どうして?」と絵里衣が言ったとき、後ろから失礼しますと声をかけられて、私が頼んだチキンレモンクリームパスタと絵里衣が頼んだ生ハムのカルボナーラを店員から渡され、そして、店員はスマートに去っていった。

「とりあえず、食べようか」と私が言うと、絵里衣は頷いて微笑んでくれた。









「なんかさ、大学、卒業したあと、自分がどうなるのかってわからないんだよね」
「あー、わかるかも。私もそうだよ」と絵里衣は食後に出されたタージリンを飲みながらそう言った。
「てか、そもそも高校生のときからそうで、やりたいことなんて元々、私、ないんだよね。だけど、田舎に居続けるのもどうなんだろうって思って、上京するために大学に入ったんだ」
「だけど、その大学もあと1年で終わろうとしている」
「そう。そう言うことなのさ」と言ったあと、私はアールグレイを一口啜った。

「私たちって死ぬために生きているようなものだからね」と絵里衣が不意にそう言ったから、私は確かにって、なんとなく感心してしまった。
 絵里衣のお団子ヘアは顔が小さくて、華奢な絵里衣にぴったり似合っていた。たまにぷくっとした小ぶりで丸みのある柔らかそうな唇に触れたくなるけど、別に性的な目線じゃなくて、ただ、可愛いテディベアの毛並みを撫でて確認して、やっぱり気持ちがいいって感じるみたいに、そんな好奇心のようなものだ。

「絵里衣とはやっぱり、価値観があうわー。――私、高校生のとき、いっとき、つらいことばかり続いて、なんのために生きてるんだろうって、死にたがりのときが長かったんだよね」
「なんとなく、そんな雰囲気出てるよ」
「え、うそ。幸薄い感じ出てるかな」
「あ、ごめん。そういう変な意味じゃなくて。ほら、20歳過ぎた私たちくらいの年代って、みんな何者にもなれるって思ってるじゃん。そう言う変な自信とか、そういうのないよね。梓って」
「だって、所詮、夢は夢のまま終わるじゃん。そういうのって、まだ自分の人生は先が長いと思っているから、未来に無限の可能性を感じるんだよ。――だから、一回、本気で死にたいって思ってたら、そういうのがはぎ取られたのかもしれない」

 高校の文芸部の先輩は今や、一冊の小説で50万部を売った、超売れっ子作家になっていた。雑誌のインタビュー記事や、テレビのインタビューを受けているのをいくつか見た。
 その中で、高校時代のことを『一人しかいない文芸部で黙々と書いていた』と答えていて、もう、あの人の記憶に私は存在すらしないんだと、もやもやした気持ちになった。

「ふふっ。そうなんだ」
「えー、なんで笑うのさ」
「だって、達観してるなって思って」
「そういう、絵里衣だって、歳のわりに落ち着いてるよ?」
「だって、私はさ、人に対して元々、臆病だから。本音で話さない、建前ばかりの人は好きじゃないかな」
「そしたら、夢を語っている人は嘘つきとか、見栄っ張りが多いって言いたいの?」
「いや、そういうわけじゃないけど、ただ、そういう生き急ぐ生き方が嫌いなのかも」と絵里衣はそう言ったあと、タージリンを一口、飲んだ。細い指でティーカップを持ち、紅茶を飲む姿が絵里衣が生き急いでいない証拠のように見えた。

「だからさ、しっかりしない夢の話をされるのって、私、なんでかわからないけど、すごい嫌悪感があるの」
「それはわかるー。別に夢を笑うわけじゃないけど、無理するなって思っちゃうんだよね」
「そうそう。夢を持つことはいいことなのかもしれないけど、堅実的な夢じゃないと共感できないんだよ。私」
「つまり、地に足つけろってことだよね」
「そう。夢ばっか見てないで、最低限生活することだけに意識しろってこと。それにさ、たぶん、平吹って自分のことばかり考えてて、私との将来なんて微塵も今は考えてくれてなさそうなんだよね」
「あー、よくないね。それ」
「でしょ? 私、就職、地元でしちゃおうかなとも思ってるんだ。だけど、もし、相手にその気があるなら、もうちょっと東京いてもいいのかなとも思ってる」
「そうだね。ねえ、どうせだったら、うちの実家の方で一緒に仕事しようよ。湘南方面で」
「海の家でもやる?」
「いいね。夏だけ毎日働いて、冬は冬眠するみたいな感じで」
「最高だね。スポーツ選手みたい」
「だけど、根暗な私たちの性格的に無理だね」と絵里衣がそう言ったあと、お互いにゲラゲラと笑った。








 夜の霧雨の中で、もう二度と会うこともない君と出会う夢を見た。
 湿度で息ができない中で、
 君に抱きしめられて、
 世界なんて滅べばいいのにって、
 君の耳元で囁いたら、
 悲観しすぎだよって言われた。
 そのまま、なぜか真夜中のローソンで、
 1リットルの雪印のコーヒー牛乳を買って、
 長いストローを二つさして、
 一つを二つにして、
 君と平等なほろ苦い甘さを感じた。







 いつから、私の人生はこんな状態になったのだろう。
 誰か一人から、愛されるだけで十分なのに、いつの間にか、あう、あわない。
 すれ違い、重なり合いが続き、結果として、私は無数の男と付きあうことになってしまった。

 4月になり、周りは就活をしているようだけど、私は未だにやりたいことなんて思いつかなかった。
 遊ぶためのお金を手に入れるために朗読ガールのバイトを週に一度やることくらいしか続けていない。

 時給は6千円。
 だから、4時間入れば、2万4千円。それを週に一度で、大体、10万円くらいになる。
 しかも、シフトは自由シフトだから、お店のシステムで自分でシフトを入れて、五反田に出勤して、官能小説を読むだけでこれだけの金額がもらえる。

 寝転がったスナフキンが描かれている春色のマグカップのなかにインスタントのミルクティーを入れた。
 そして、電気ケトルで沸かしたばかりのお湯を入れ、何年も前に100均で買った銀色のスプーンでかき混ぜた。
 そして、キッチンから、リビングにマグカップを持っていき、ローテーブルに置き、座った。

 去年、新潟の燕三条で金物工場のファクトリーツアーを見たときに無数のスプーンがプレス機で一気に型を抜かれて、型抜かれた平たいままのステンレスを職人さんが一つ一つ的確な早さでスプーンの頭部の丸い部分をプレス機にかけていたのを、ふと思い出した。

《なにその謎理論》と平吹からメッセージがあった。画面が表示されたままのiPhoneに人差し指で触れて、プッシュ通知を押して、LINEを起動させた。

《近い人から食べていくのお味はよかった?》と私はそうメッセージを送信したあと、昨日撮ったばかりのホテルから出てくる平吹ともう一人の女、演研でみたことある女が手を繋いで出てきている画像を送った。すぐに送信した画像の横に既読がついたけど、次の返信は5分待っても来なかった。

 他の風俗店と違うのは本当に声だけを客にあげる仕事だから、客と会わなくて済むことだ。うちのお店はマジックミラーで隔てれていて、マイクでやりとりをする。だから、客とコミュニケーションをとるのは最初と最後だけの挨拶で済む。あとはそれっぽく、官能小説を読むだけ。

 3年もやっていたら、なぞに評判がよくて、最初、3千円だった時給は簡単に上がっていた。
 シフト入れると、すぐに指名で埋まる。売る身体は声だけでよかったと思った。

 前に客から、懐かしい感じがするって言われたけど、声だけで懐かしくなるってどんな経験したら、そんなこと感じるんだろうって思った。そして、いつものように出勤を終えて、五反田駅まで歩いていると、ホテルの前から平吹とその女が出てくるのを見てしまった。
 というか、お互いに不幸だ。
 平吹も大学から少し離れた五反田だったら、私に会わないと思っていただろうし、私も五反田で始めた理由は大学から少し離れているから都合がいいなって思ったからだ。

 きっと、平吹にそのバイトをしていると言ったら、ドン引きされることは分かっていたから、黙っていた。
 適当に中華料理店で皿洗いのバイトを週に1回していると言った。
 
 だけど、その割に私がお金を持っていることを彼は気づいていなかった。
 というか、気づいていたとしても、世間知らずだから、もしかしら、本当に皿洗いでこれだけ稼げるんだって思い込んでいた可能性すらある。

 目の前に平吹がいたら、パンチをして顎を粉砕させたいイライラは最高潮に達していたけど、結局、私なんて、平吹にとってみれば、その程度の価値だったのかもしれない。

 別に浮気されたっていいよ。
 だって、これで浮気されたの3人目――。

 最初の二人は浮気が付き合って1か月でそれぞれわかってしまった。
 一人目は私のことをセフレ目的にし、1か月の間、とにかく狂ったようにやりまくった。
 そいつに私の処女を捧げた。だけど、そいつには彼女がいた。

 二人目は付き合い始めて1日目でヤったあと、2週間はラブラブなような気がした。
 だけど、3週間目にもっと合う女の子見つけたから、別れてと言われた。
 そして、周りの噂を考慮すると、どうやら、私が付き合う1か月前から、仲がよかった女がいたらしい。先に彼女になったのに、私は選別され、リサイクルへ回された。

 私としっかり向き合ってくれた彼氏は深山だけだった――。

 テーブルに置きっぱなしのiPhoneがバイブレーションした。だから、すぐにiPhoneを手に取り、ラインのプッシュ通知をタップした。

《違うんだよ》
 5分考えて、それだけかよ。バカじゃないの。

《さよなら。 最低な思い出をどうもありがとう! 私の匂いを懐かしみながら、どうぞ泣いてください》
 私は呪いをかけて、そう返信した。









3章



 すべてが終わったあとで、
 クリームソーダを飲むのは最高だ。
 ひとりで飲む緑色の爽やかな液体は
 いつでも優しくて、
 いつでも信頼できるような気がした。
 青い海にはコーラを
 白い浜辺にはクリームソーダを
 つまらない日常を彩るには
 そんなことで現実逃避するしかない。






「結局、私たち、海の家なんて開かなかったね」
「ウケる。なんで海の家だったんだろう」
「楽そうとか、甘っちょろいこと言ってたんじゃない?」
「もう2年前のことなんて黒歴史だよね」
 絵里衣と久々に会った。私が誘って、絵里衣の実家が近い、鎌倉で一緒に遊ぶことにした。
 堂々と平日のど真ん中で有給を使って、5月の陽気の中で食べ歩きをするのは最高だった。
 そして、歩くのに少しだけ疲れたから、二人で小町通りの真ん中あたりにある抹茶カフェで、抹茶パフェを食べながら、だらだら話していた。

「2年目から、仕事急にキツくならなかった?」と絵里衣にそう聞かれたけど、あまりピンとこなかった。絵里衣は地元のホテルで働いているらしい。
「私は大丈夫だったなー。てか、お互いに接客業につくなんて思わなかったね」
「陰キャなのにね」と絵里衣がそう言ったあと、二人でゲラゲラ笑った。

「空港の仕事、大変そう」
「オンタイムとか、時間にシビアなところとか、イレギュラー対応とか、そういうのは大変だけど、ミスはしなくなったよ」
「へぇ。頑張ってるんだ」と絵里衣に言われて、私って頑張ってるんだとふと思った。
「たぶん、LCCだから、フルキャリアの会社より、気楽なところはあると思う。別に接遇とかも、最低限やってればうるさく言われないし」
「そうなんだ。なんか、そう言う仕事の密着ドキュメントで見たとき、縦社会で怖そうって思っちゃったんだよね」
「うちは比較的新しい会社で、外から入ってきてる人が多いから、そう言う感じないんだよね。ホテルはどう?」
「うん、シフト、週3日しかないから、最高だよ」
 絵里衣はそう言って、ピースサインを私に向けてきた。

「私たちがこうなるって思わなかったね」と絵里衣はそう言いながら、抹茶パフェを一口食べた。
「そうだね。周りは大手にしっかりと勤めて、高い給料もらってるのに私たちはあえて、その逆を行ってるっていうね」
「生きるためには仕方ないよね。キツい仕事したくないし、別に最初からお金たくさん貰うつもりもないし」
「だから、大学のときの友達で会ってるの梓だけだもん」
「てかさ、みんな幸せなのかな。転勤もまああるじゃん。そういういいところに勤めると」
「そして、責任もね」
「私たちって、無責任だよね」
「梓、だから、海の家、開きたかったんだよ。私たち」
「あー、もっと楽な仕事に就きたいなー。最低限の生活できるような仕事」
 私はそう言ったあと、テーブルに突っ伏すと、絵里衣はゲラゲラ笑い始めた。

「そうだ」と言って、私は状態を起こして、絵里衣に聞きたいことを聞くことにした。
「梓、どうしたの?」
「恋愛は? 高校生から付き合ってる彼とは進んでる?」
「うーん、進むっていうか、そろそろ結婚するかも」
「え、もしかして、プロポーズされたの?」
「いや、そうじゃないんだけど、今週末、ドライブに行こうって言われた」
「えー、いいな。どこいくの?」
「箱根、1泊2日だって」
「エロいねぇ」と私はすかさずそう返すと、返し早すぎって言いながら、絵里衣は笑った。

「え、箱パカされるんじゃない?」
「どうだろう。指輪なしで言われるかもしれないよ」
「箱パカされて、箱の中見たら、指輪なしで、一緒に買いに行こうって言われるパターンってこと?」
「え、そんなパターンあるの?」
「らしいよ。ananで見た」
「エロいねぇ」と今度は絵里衣にそう返されたから、意味わからないよ。と言うと、二人で周りを気にせずに大きい声で笑った。

 こうして、楽しくしているのも久しぶりな感じがした。仕事ではあまり仲がいい同僚や先輩はいないから、いつもぼっちだった。高校、大学ともう7年もぼっちをやっているから、慣れてはいたけど、チームワーク重視のグランドスタッフの仕事をやっていると、より孤独な感じがした。
 週5日、羽田空港第一ターミナルと家を往復するだけの日々。休日は誰とも会わずにネットフリックスで映画とドラマを観て、ブックオフで買った本を読むだけだった。こんな日々だから、家賃が高い東京に居続ける意味が見出せないでいた。

「梓は?」
「喪女のままだよ」
「喪女ではないでしょ。意図的に自分から恋愛を避けてるんだから」
「そう。いいこと言うね。モテなくはないんだよ。私」
「というか、モテるじゃん。だって歴代の彼氏、何人だっけ?」
「4人」
「ほら」と絵里衣はそう言って、残りの抹茶パフェを細長いスプーンで掬い、パフェを食べ切った。だから、私も中途半端に残っていたパフェを絵里衣と同じように食べ切った。

 平吹と別れてから、私は恋愛するのが嫌になってしまい、そして、そのままの気持ちで大学を卒業し、今の仕事を始めた。
 そして、去年は1年目だったから、仕事を覚えることに集中したし、仕事関係の仲間から、男と出会えそうな誘いをすべて断った。

 私はずっと、男運が悪い。毎回のように浮気されるのは、もしかしたら、私自身に原因があるのかもしれない。
 だけど、その原因はわからないから、私は6年暮らしても、あまり肌にあっていないように感じる東京に住み続け、惰性で生命維持をしている。

「なんか、航空業界だったら、パイロットとか、出会いありそうなのに」
「そうかもね。だけど、部署違うようなものだから、ほぼ、無理かな。派手な人は同期入社のCA経由で集めるらしいけど、私はそういうの嫌だから出てない。だから、無理ゲーだよ。グランドは女ばっかりだし」
「へえ――。そっか」と絵里衣がそう言ったあと、しばらくの間、自然に沈黙が訪れた。なんとなく頬杖をついて、右側を見た。窓越しに小町通りの人出が増えているのが見えた。ちょうど、左手につけている時計を見ると、ちょうど、13時を過ぎていた。きっと、午後に入ったから、混み始めたんだと思う。小町通りのアスファルトは多くの人の所為で、ほぼ見えなくなっていた。

「ねえ、梓」
「ん? なに?」
 私は絵里衣の方を向き、絵里衣をじっと見つめた。

「――なんか、すっかり、殻に閉じこもっちゃったよね」
「大学卒業したからじゃない。だってあと少しでアラサーになるんだよ」
「大人になって落ち着くのと、殻に籠るのはまた違うよ」
「――そうかな」
「いい人、見つかるといいね」と絵里衣にそう言って、微笑んでくれた。たぶん、普通の人だったら、嫌味って捉える人もいるかもしれないけど、絵里衣は素直にそう言うことを、いつも言ってくれるのはわかっていたから、私もそうだねと言って、微笑み返した。








 大学から7年住んだワンルームの部屋は引越しの搬出が終わり綺麗さっぱりした。
 出しっぱなしだった、折り畳めるマットレスも、その下に敷いていた、ベッドスノコ、白いローテーブル、そして、カラーボックスもすべて、引越し業者に渡してしまった。部屋に残されたのは最低限の荷物をまとめた銀色のキャリーバッグだけだった。

 上京しても、私にはマジックはかからなかった。
 みんな東京に憧れて、住み始めて、都会に慣れて、いつしか田舎をバカにするようになるけど、私はもう帰りたくて仕方がなかった。特に大学を卒業してからは、せっかく東京に住んでいるのにキラキラしたところに行かなくなってしまった。

 だから、服も社会人になってほとんど買い足さなかった。
 大学生のとき買ったものがそのままオシャレ着のままだし、今着ている、股下まで丈がある白のバスクTシャツももう、3度目の夏を迎えた。
 
「たくさんの夢をくれて、どうもありがとう」

 部屋にお礼すると、不自然なくらい声が反響した。










 すべての思い出は幻想に過ぎなかったんだって、
 すべてが終わってから、ふと気づいた。
 元々、世界を広げたかっただけだから、別にもういいんだよ。
 楽しいこともそこそこあったけど、
 心に残った傷は結構深いよ。
 もう、これ以上傷つく前にやめておくよ。
 さよなら東京。 







 たぶん、しばらく乗ることもない山手線にゆられている。
 本当は新宿から、中央線に乗り換えた方が早いのはわかっていたけど、あと少しだけ、見慣れた東京の景色が見たくなって、新宿をスルーして、内回りに乗り続けた。それも駅から乗るときにわざわざ、ホームの端っこまで歩き、一番前の一番手前のドアから電車に乗り込んだ。運転席側にあるガラスにもたれかかり、ドア越しに流れていく銀色のビル街を眺めた。

 11時の黄色い光を浴びて、ビルは眩しく、そして、青く反射していて、この中で一体、何人の人が朝から晩まで働いているんだろうって、思うと不思議に感じた。もう、これでしばらく使うこともない、Suicaのアプリはあとでアンインストールしておこうと思った。








「絵里衣、ありがとう」
「ううん。最後の日、休み取れてよかった。お見送りしたかったもん」
「絵里衣って最高だね」
 グランスタのなかにある北欧風のパン屋で、搾りたてのモンブランと、パンオショコラ、そして、砂糖とミルクを入れたコーヒーで都民最後のランチをとっている。東京駅の駅ナカで絵里衣とあっさり再会を果たしたあと、私が最後に搾りたてのモンブランが食べたいと言ったら、絵里衣はいいよ。しばらく来ないもんね、と言って、いつものように優しく受けいてくれた。

 黒いお皿の上に黄色く細く、柔らかい線がデニッシュの上にかかっていた。それをフォークで掬い、口に入れると栗の優しさと、クリームの柔らかさを感じた。だから、私と絵里衣は一口目を食べて、お互いにおいしいと言ったあと、しばらくの間、無言で食べた。

「あー、最高。最後の晩餐にうってつけだったわ」
「ランチだけどね。そういう細かいところもしばらく会わないから許してあげる」
「ありがとう。絵里衣のそういうところ、好きだよ」
「なんか、口説かれたんですけど」と絵里衣はそう言って、いつものようにゲラゲラと笑い始めた。そういうところは大学生の頃から、全く変わっていないし、擦れないでそういうところは変わらないところが、やっぱり信頼できるし、好きだった。

「結局、東京に馴染めなかったのかも」
「やめてよ。なんかその感じ、夢やぶれて、お国に戻りますみたいになってるよ」
「そうかな。夢なんて元々なにもなかったけどね」
「そのわりによくやったよ。梓は」
「――ありがとう」
 モンブランと、その下にあるデニッシュをフォークで切って掬い、それを口に含んだ。デニッシュのブランデーのほろ苦さが、より口の中で強く感じる。

「梓は、きっと、慣れたところで家族がいるところで一回、休んだほうがいいよ。本当に一人でよく頑張ってたよ」
「優しいね。泣けてきちゃうよー」
「本当はそういうのは彼氏が言う役なんだから、早くいい人、見つけてね」
「嫌だよー。絵里衣と別れたくないよー」
「俺よりきっと、もっといい人が見つかるよ」
「急に宝塚」と私が言うと、もう、言い始めたのそっちだからねと絵里衣は右手の人指し指で私をさして、また笑い始めた。
 ずっとモンブランばかり食べていたから、今度はパンオショコラを一口目をかじった。かじると、サクサクの表面の生地がトレーの中に落ちた。パンを口に含むと、クロワッサンのバターの風味とチョコの風味が一気に広がり、頭の中がファンタジーになった感覚がした。

「パンオショコラもやばいね」
「マジで。私も食べよう」
 絵里衣も私と同じようにパンオショコラの一口目を口に含むと、目を見開き、うーんと言いながら、目尻にシワを寄せて幸せそうな表情をした。
「やばいよね?」
「やばいね。最高なんですけど」
 そして、私たちはまた、モンブランを食べたときのようにしばらく無言のまま、黙々とパンオショコラを食べ続けた。








「あー、最高だったー。北海道帰りたくねぇ」
「早く、北へ帰りなさい」
「ひどーい、これから波が高い津軽海峡渡るのに」
「トンネルでね」
「旅情がないねぇ」
 モンブランと、パンオショコラでお腹がいっぱいだった。パン屋を出て、駅ナカの地下を歩きながら人混みの中を二人で横並びでゆっくり歩いている。新幹線までまだ、20分くらいある。

「これ、かわいい。おみやげにいいじゃん」と絵里衣が指差したほうを見ると、ケーキ屋さんのショウウインドウにカップケーキがたくさん並んでいた。ケーキは、パンダや、ねこ、いぬの顔がクリームとチョコで立体的に作られていて、みんなこっちを覗き込むような表情をしていた。
「かわいい」
 私たちはお店に吸い寄せられるようにショウウインドウの方へ思わず足がむいた。

「ハリネズミ、かわいいね」と絵里衣はチョコクリームに小さいクランクチョコがまぶされているカップケーキを指さした。
「ねー、隣のうさぎ、おいしそう」
「確かに。耳のクッキー、顔面のクリームつけて食べたい」
「たぶん、いちごのクリームだよね」
「だと思う」
「だけど、さすがにお腹いっぱいだなぁ。はぁ。もっと早く知りたかった」
「おみやげに買っていけば?」
「もう、東京ばな奈、買っちゃった」
「あー、残念」
 絵里衣がそう言い終わるのとあわせて、私たちの歩みはまた、八重洲口方面のエスカレーターの方に向いた。









「わざわざいいのに」
「少しでも一緒にいたいから」
 新幹線のホームまで登るエスカレーターで、ひとつ前の段にいる絵里衣は私を見下ろしている。絵里衣の濃い緑色のサロペットの裾と、柔らかそうな白いリネンブラウスが上から吹き下ろす風で揺れている。私はジーンズに白いバスクTシャツだから、ボーイッシュな見た目の私に対して、絵里衣は落ち着いた色で、より大人っぽくて都会にいるお姉さんの雰囲気が出ているように感じた。

 ――これで本当に東京が終わる。

「これで、思い出とも、さよならだね」と絵里衣が冷静な声でそう言ったから、私は思わず、はっとしながら、うんと静かに頷いた。
「――楽しかったよ」
「また遊ぼうね。どんな未来になっても」
「そうだね。――絵里衣。今までありがとう」
「梓こそ、ありがとう。私たち、最高だったね。――というか、これ、永遠の別れみたいで嫌だな」と言って、絵里衣は照れくさそうに笑い始めた。

「だよね。私も思った。だけど、大学も社会人になってからも、絵里衣いなかったら、もっと大変だったと思うから、本当に感謝してるよ」
「だから、永遠の別れになってるって。今度は横浜でデートしようね」
「わかった。山下公園でベロチューしようね」と言って、ベロを出すと、絵里衣に左肩を叩かれた。私と絵里衣が永遠の契りを交わし終わるのにあわせたかのようにエスカレーターはホームまで私たちを連れてきた。

 ホームの左右にはもう、新幹線が到着していて、右側にはどこに行くのかわからない白い新幹線が止まっていて、左側には、いつものエメラルドグリーンのはやぶさが止まっていた。はやぶさのドアはもう開いていたから、私は乗り込むことにした。

「したらね。本当にここまでお見送りしてくれてありがとう。楽しかったよ」
「ね、楽しかったね。梓、また、ラインちょうだい。エッチな長通話しようぜ」
「おっけー。ドンキでローター買っておくわ」
「え、函館ってドンキあるの?」
「田舎、バカにするなよ。メガだから」
「てか、最後にこんな会話でいいのかよ」と絵里衣はそう言った途端、私と絵里衣は盛大に笑い始めた。どうせ、新幹線のモーター音とか構内放送とかで騒がしいから、下品に笑っても誰にも冷たい目で見られなかった。
 
「ねえ、真面目にさ、函館にも遊びに来て。落ち着いたら」
「おっけー。結婚する前になんとかお金貯めて遊びに行くね」
「したらね。本当に行くわ」と言うと、絵里衣はバイバイと言って、手を小さく振ってくれた。

 私はキャリーバッグを持ち上げて、新幹線の中に入った。そして、左手に持っている切符に書かれた指定席の番号を確認して、真ん中くらいの席に着いた。3列シートの一番窓側の席に着いた。まだ、隣の人は来ていないから、私はキャリーバッグを荷物棚の上に乗せた。
 そして、シートに座り、リクライニングを少しだけ倒した。

 ふと、窓を見ると、ホームで絵里衣が手を小刻み振っていた。だから、私も手を振った。
 うっすらとガラスに写った自分の顔がおー、と驚いた口をしていて、間抜けに見えた。まもなく発車すると、車内アナウンスが流れた。

 ずっと手を振っているのもあれだと思い、私は右手を開いたり、閉じたりを何度か繰り返してみた。
 すると、絵里衣も同じように右手を開いたり閉じたりを繰り返してきた。だから、今度は私からじゃんけんをしかけてみた。

 チョキを出したら、グーを出されて、私は負けた。
 それで、声を出さないで笑いながら、絵里衣を見ていた。外から発車ベルの音が鳴っているのが聞こえた。

 すると、絵里衣が私の方に近づいてきて、ガラスに手をくっつけてきた。絵里衣の手のひらがぎゅっと、平面に見えた。
 だから、わたしもガラス越しで絵里衣の手のひらをあわせた。

 そして、絵里衣を見つめながら、数秒間、じっとそのままでいた。冷房の所為でガラスは冷たかった。そっと、手を離すと、絵里衣も手を離した。
 そして、絵里衣はじゃあねって言ってそうに口を動かして、手を振ってくれた。
 そのあとすぐに、新幹線がゆっくり走り始めた。







4章





 夢は終わりがあるから楽しんだよ。
 君がいつかそう言ったことを思い出した。
 海の青さは変わらず、
 穏やかに流れる時間も変わらず、
 そして、私はそんな変わらないはずの世界で
 一人だけ取り残されて、
 置いていかれている感覚になる。
 一人、スタバで飲んだ甘いフラペチーノも
 すべて淡い思い出になってしまえばいいんだ。
 このまま。





 函館の実家に帰ってから、一週間後に引っ越し業者が来て、東京の荷物がすべて届いた。
 ダンボールを開けると、セーターを取り出すと、東京のときのワンルームの部屋の匂いがした。実家の私の部屋は高校生のときのまま、ときが止まったままで、高校生のときに読んでいた小説がカラーボックスに入っていた。

 実家の私の部屋は東京のワンルームよりも広いから、東京からの荷物を入れてもガランとした印象は変わらなかった。
 iPhoneでスピッツのヒバリの心をリピートで流しながら、荷ほどきをした。
 
 しばらく、私は家事の手伝いをする以外は、久々に何もしないで過ごした。
 親は一人娘が東京でボロボロになっていたことを察してくれているのか、とにかく休みなさいと言われて、過保護にされているように感じた。だから、私は家の家事をやれることはやって、年金暮らしが始まったばかりで、暇を持て余している両親の話し相手になるために部屋にひきこもらずにリビングで、他愛のない話をして、過ごした。

 そんなことしているうちに、6月は過ぎ、7月に入ってすぐに失業保険の書類が届いたから、黒のレギンスに白のTシャツワンピースを着て、書類を出しにいくことにした。
 







 玄関の鍵を締め、鍵を抜いた。気温は殺人的ではなく、良心的な22℃くらいだった。
 まだ、朝の空気が残っていて、潮風は冷たかった。バッグに鍵を入れたあと、AirPods取り出し、それを耳につけた。そして、iPhoneでSpotifyを開き、JUDY AND MARYのOver Driveを再生した。それだけで一気に夏らしくなった。

 昔、深山に「秋になると夏らしいことしとけばよかったって後悔するんだ」って言ったのを、ふと思い出した。
 25歳になった今、高校生の頃なんてもう、ずっと前の話になる。
 そのとき、深山は生意気に『へえ。先輩も月並みの高校生が求めることに憧れるんですね』とか、ほざいてた。

 だけど、私の男運はその深山がマックスだった。付き合っていたときは瑛人くんなんて言って、わざわざ「くん」づけしちゃうくらい、深山のことがかわいく感じたし、私もしっかり、深く愛そうと思った。
 だけど、そのあとは距離と、時間の問題ですべてがすれ違って、そして、関係は消滅してしまった。

 手に持ったままのiPhoneを操作して、ラインを開いた。
 そして、友達リストから深山を見つけ出した。高校のときの海と空が写った青っぽいアイコンは変わってなかった。アイコンをタップすると、トークは6年前で止まっていた。

《梓さんなら、きっといい人みつかりますよ どう考えても釣り合ってない俺と付き合ってくれて、ありがとうございました 夢みたいで楽しかったです》とメッセージが書いてあったけど、私はそのあと返信しなかった。自分から振ったのにそのメッセージで、胸が締め付けられて、自分の気持ちでぐちゃぐちゃになって、返す言葉が見つからなかった。

 しかも、最後のメッセージだけ、文芸部の先輩のときみたいな、懐かしい距離感の言葉で返されたから、余計にオセロを一緒にやったこととか、一緒に本気出して、小説作って、大会で優勝したこととか、そういうのが全部あわさり、感情がぐちゃぐちゃになった。

 そして、気づいたら、私は瑛人と一緒に乗った小さい観覧車がある函館公園にたどり着いていた。








 あの日と同じように噴水の前のベンチに座り、噴水を眺めていた。
 平日の午前中だからか、同年代くらいの母親と、2歳くらいの子供が噴水の前で、水に触れていた。


 そっか、もう、結婚して子供生んでる人もいるんだなって、東京にいるとあまり意識することなかったことを不意に意識してしまった。
 私はもう恋愛をしなくなって、もう4年近く経っていた。
 
 本当はもう、誰かと結婚したかった。
 仕事だって、空港の仕事をしていたから、もしかしたら、普通の事務職とか、デスクワークに適応するのはちょっと大変かもしれない。
 
 だけど、別に最低限生きていければいいし、どうせなら、今日、失業保険の手続きをしたあと、結婚相談所に直行してしまうのもありかもとも思った。

 それか、もう、人生自体を終わらせてしまって――。
『悲しむに決まってるじゃないですか。――こうやって、オセロでまかす相手がいなくなっちゃうんだから』と深山が言って、オセロの盤面を真っ黒にしたのを思い出した。あのときから、深山は私のこと、必要としてくれていたんだって、思うと、私ってホントに何やってるんだろうって思った。

 もしかしたら、深山だって、結婚してるかもしれない。
 私のことを本当に大切にしてくれそうな人を失ってしまったんだ。
 一方的に自分から振って。

 最悪だ。

 このまま、雨に打たれたい気分だったけど、雲ひとつない透き通った青空は爽やかで、右手を太陽にかざしてもものすごく眩しかった。









 公園から、電停までゆっくり歩き、市電を待っている。
 東京の感覚がまだ抜けてなくて、車も人もまばらな地元のいつもの空気に順応しきれていないような気がした。
 iPhoneでニュースの見出しを親指で辿っていると、芸能ニュースに平吹の写真と見出しが乗っていた。

 《新ライダーは内田平吹 舞台俳優異例の抜擢》

 わざとらしく決め顔をしている宣材写真が鼻につく。
 だけど、本当に夢を叶えてしまったことが衝撃だし、嬉しいような虚しい気持ちになった。

 結局、平吹の夢や将来設計は地に足がついていたんだ――。
 
 一瞬、おめでとうってラインを送りたくなったけど、二股浮気野郎だったことを思い出して、一気に腹が立つ感情が蘇ったから、辞めることにした。

『大体、子供の頃に思い描いてた夢通りの人生やったり、仕事したりできる奴が全世界のほとんどだったら、貧困国のほとんどの子供は医者になっているだろうし、日本みたいに恵まれてる国では町中に仮面ライダーやら、プリキュアやら、ウルトラマンで溢れかえってますよ』

 高校一年生の深山が言っていたことはもしかしたら嘘なのかもしれないって思えるくらいだ。私が嫌いになった人は有名になるジンクスのこと、なに現象って言うんだろう。

 私はiPhoneを見る気も失せて、バッグにしまった。Spotifyのバッググラウンド機能で再生されている銀杏BOYZの恋は永遠に耳を澄ませることにした。









 失業保険の手続きは簡単に終わってしまった。
 その用事を済ませると、今日もやることがなくなってしまった。

 だから、そのまま、電停まで行き、帰りの電車を待つことにした。
 東京だったら、こうやって外に出たら、寄り道できるところが選びきれないほど、いっぱいあったけど、このあたりにはドラッグストアくらいしかない。

 千歳町の電停で待っているのは私だけだった。反対側の電車に乗れば、五稜郭公園や湯の川温泉へ行けるけど、一人でそんなところに行く気分にもなれなかった。かと言って、函館駅前や、元町で降りて、ベイエリアを散歩したり、明治時代に使っていた大使館を見たりする気にもなれなかった。

 こうやって寂しくなったとき、よく絵里衣と遊ぶことで気持ちを解消してたんだなって、今さら思い返してしまった。
 そんなこと、考えいるうちに電車がやってきて、私の前に止まり、ドアが開いた。








 電車も空いていて、私は簡単にシートに座ることができた。電車は甲高いモーター音を立てて、ノロノロと重そうに動き始めた。
 
 『先輩って、変な人ですよね』
 
 この街に帰ると、深山との思い出が勝手にリンクされてしまう。
 その度に、どうでもいい切ない思い出が脳内で再生されるし、生きるのが下手だったJKのときを思い出してしまう。というか、未だに生きるのが下手だから、今こうして、失業保険の手続きを終えた帰りなんだろうけどさ、25歳になってもどうやって生きるのが正しいのかよくわからないんだよ。

 私も大風呂敷を広げた夢とか持てばいいのかもしれないけど、今さら、わからないよ――。
 そんな夢や希望なんて。

 iPhoneをバッグから取り出し、検索ボックスに『死にたい』と打って、それをしばらく眺めたあと、バックスペースキーを連打して、消した。

 そのあとすぐに高校の文芸部の先輩だった人の名前を入力して検索をかけた。
 そしたら、大学生だったとき、50万部の大ベストセラーを出した先輩は、最近、本を出していないみたいだった。

 大量の印税をもらったら、モチベーション下がったんじゃないかと思ったら、思わず、ふっと弱く鼻で笑ってしまった。
 だけど、別に私の両隣には誰も座ってなかったし、向かいに座っているおばあさんも耳が遠そうだった。
 
 成功したのに、ハードルが上がったみたいでかわいそうって思うと、すごくいい気分になった。

 次に平吹の名前を検索して、さっきみた記事のURLをコピーした。
 そして、ラインを起動し、そのURLを絵里衣に送った。

《平吹、仮面ライダーになるってよ》
 と続けてメッセージを送ったけど、既読はつかなかった。きっと、今日は1日中通し勤務なのかもしれない。いつもだったら、こんなくだらないこと書いても、すぐに返してくれる。

 そんなことをしているうちに電車はあっという間に地元である終点の一つ手前の電停に着きそうだ。
 だから、私は降車ボタンを押し、バッグから財布を取り出した。車内を見渡すと、もう、車内には私以外、誰もいなかった。
 電車はゆっくりと減速していき、そして、あまりショックを感じずに止まった。

 立ち上がって、前の方へ向かった。そして、運賃と整理券を運賃箱に入れた。

「――もしかして、梓さん?」
 また、私は昔の記憶とリンクしてしまったんだ。深山の優しい声を感じた。

「梓さんでしょ」
 えっ。違う――。
 思わず、私は運転手の方を向いた。

「やっぱ、そうじゃん」と言って、運転手の制服姿の深山が微笑んだ。







「どうせ、次で終点だから、乗って行ってよ。運賃いいから」
「――ありがとう」と私はそう言うと、開いてた扉はバタンと閉まった。

「捕まっててくださいね。ちょっと飛ばしますよ」
「いや、いいよ。飛ばさないでよ」
「嘘です。この電車、40キロも出ないから」
 深山が両手でそれぞれのレバーをガチャガチャ操作すると、電車はノロノロと動き始めた。電車が動き始めて少しだけ、お互いに黙ったままだった。電車がレールのつなぎ目を渡るたびに、がたんと車内に鈍い音が響いた。

「――帰ってきてたんだ」
「うん。ちょっとね」
「いつまでいるの?」
「――ずっとかな」
「え、マジ? ――仕事は?」
「やめちゃった」
「やっぱ、梓さんのメンヘラは治療不可能ですね」と深山は前を向いたまま、ふふっと弱く笑ってそう言った。深山とはたぶん6年ぶりくらいに話すけど、全然変わってなかった。

「――瑛人くんは順調そうだね」
「そうだね。梓さんより、俺、メンヘラこじらせてないから、なんとかやれてますよ」
「あ、それ、皮肉?」
「違いますよ。変わってなくて、ちょっと嬉しいってこと」と深山がそう言ったあと、深山は右手のレバーを操作すると、空気が入る音がして、徐々に電車が減速し始めた。

「あ、今、話しかけないでください。これ、ミスると車止め突っ込んじゃうんで」
「私はそれでもいいよ」
「俺が駄目だから」
 深山は声は笑っていたけど、真剣そうな表情は変えずにこまめにレバーを操作して、そして、電車は終点の谷地頭に着いた。深山はドアを開けずに、そのまま運転席で何かを操作していた。

「さ、点検やりますよ」
 深山は運転席から、立ち上がり、運賃箱を押して、私の前に出てきた。

「点検?」
「ほら、早く忘れ物ないか見くださいよ」
「え、私もやるの?」
「だって、困るでしょ。爆弾とかしかけられてたら」
「簡単に死ねるね」
 こんな片田舎の電車の中でテロなんてあるわけないのに、私はまるで自分が高校生のときに戻ったみたいにそう深山に返した。

「全然、かわってないね」
 深山はニヤニヤしながら、私を見ながら、そう言ってきた。

「変わったよ。――私だって。ほーら、垢抜けたでしょ」と言って、両手を広げて、その場でくるっと一回転してみた。
「はいはい、行きますよー」
 深山はいつもの調子で、ふーんと言って、何もなかったかのように反対側の運転席へ歩き始めた。

「あ、ちょっと待ってよ」
「この電車、あと5分で発車するんで、お急ぎください」
 こういうとき、深山がふざける、この感じが懐かして、もう少しだけ話していたいと思った。

「やっぱり、変わってない」
「そうそう人なんて変わらないですよ」と深山はそう言いながら、運賃箱を左側にスライドさせて、運転席に入った。そして、運賃箱を元に戻し、なにかのボタンを操作すると、運賃表の自動音声が流れ始めた。

「俺、この運用で最後なんですよね」
「最後?」
「そう。湯の川の手前に車庫があるでしょ? あそこまでこれ、運転したら今日の仕事、終わりってこと」
 そのあと、後ろのドアが開いた。
「そうなんだ」
「梓さん、どうせ暇でしょ?」
 前を向いていた深山はわざわざ私の方を振り返って、ニヤニヤした表情でそう聞いてきた。
「――オセロでもする?」
「相変わらず、バカだね。――そういうところが好きだったんだけどなぁ」
 そう言われて、切ない青さを思い出し、胸が高鳴った。
「――瑛人もね」
「とりあえず、駒場車庫前まで、ドライブ付き合ってください。ほら、整理券、取ってきて」
 私はゆっくり頷いたあと、高校生のときのことを思い出しながら、深山に微笑んであげた。








 私は深山に言われた通り、駒場車庫前で降りた。
 運賃を入れて、深山とアイコンタクトをすると、深山は「ありがとうございました」と業務ぽい感じで言った。

 アイコンタクトを受け取れよと思ったけど、よく考えたら、仕事中、特に接客業だったら、プライベートと仕事のスイッチを切り替えるのが難しいのを思い出した。
 
 私が電車を降りたあと、車内アナウンスで「乗務員交代のため、少々お待ちください」と深山が言っているのが聞こえたから、深山が電車から降りてくるのを待つことにした。

 結局、地元の隣駅の谷地頭から、ここまで40分くらい電車に乗った。その間にずっと、iPhoneを見ていたから、バッテリーが残り50%を切ってしまった。

 《浮気野郎がヒーローになって登場! トゥワーーーーー 平吹のTwitterのアカウント見つけたよ》
 と絵里衣からの返信にニヤけながら、送られたリンクをタップしたのが間違いだった。

 平吹のXなんか遡るんじゃなかった――。
 深山が降りてきて、すぐに電車が発車した。

「うまいね。運転」
「マジっすか」
「うん。だって、ずっとiPhone見てたけど酔わなかったよ」
「めっちゃ最高の褒め言葉じゃん」と深山はそう言って、ニヤニヤして嬉しそうだった。

「じゃあ、俺、事務所行って、点呼して、着替えてくるんで20分くらい待っててください」
「わかった」というと、じゃあ、あとでと言って、深山は白手をつけている右手を上げた。そして、向かいにある車庫の方へ向かっていった。
 こんなところで、待たされてもって思ったけど、待つしかなさそうだ。

 あと、二駅くらい行けば、湯の川温泉の温泉街がある。
 だから、この辺りは私と深山の地元に比べると比較的栄えている場所でもあった。右手に行くと、函館競馬場があるし、左手の湯の川方面に行くと、アーティストのと全国ツアーでよく使われる函館アリーナと、その向かいには生協のスーパーと数店舗のテナントが入っている小さいショッピングセンターがある。
 
 下手なところで待つよりマシだと思いながら、私はショッピングセンターに書店が入っていることを思い出した。手に持ったままのiPhoneを操作し、ラインを起動した。そして、深山のアイコンをタップしてトークを開いた。

 《梓さんなら、きっといい人みつかりますよ どう考えても釣り合ってない俺と付き合ってくれて、ありがとうございました 夢みたいで楽しかったです》のメッセージの下に送ったメッセージが表示された。
 
 《生協で待ってるから》
 久々に胸を弾ませながら、私は歩き始めた。









 書店の文庫本コーナーをぼんやり眺めている。
 いつもの見慣れた定番のラインナップが並んでいた。

 ゆっくり歩きながら、平台を目でなぞるように見ていると、『西の魔女が死んだ』とか『四畳半神話大系』とか『二十億光年の孤独』とか、昔読んだ本が平台においてあった。

 その中の偉大なる作品と一緒に先輩が50万部も売った『切実に君とりんごの皮を剥きたい』も一緒に並んでいた。
 その本を手に取り、裏表紙を見るとこう書いてあった。

 《無気力の女子高生、花村みずきはある日、電撃が走るほど桐山トオルに恋をした。桐山トオルは大嫌いだった世界を破壊するために爆弾を作り始める。出会うはずのない二人が出会ってしまい、恋と戦争を片付けるためにある約束をすることになる――。20歳の新鋭作家、初撃のデビュー作》

 別に本が悪いわけじゃない。
 私は先輩が大嫌いだから、その本をめくることもせず、売り場に戻した。
 だけど、思いとどまって、私はそれをもう一度、手に取った。

 そして、雑誌コーナーに行き、芸能誌の中から、平吹が表紙になっている雑誌を見つけた。
 平吹がポストしていた通り、本当に平吹が表紙になっている雑誌が存在した。それも手に取り、レジへ向かった。








 100円ショップにも寄って、欲しい物をすべて買い終えると、ちょうど、iPhoneの通知音がバッグの中から鳴った。
 iPhoneを見ると、懐かしい青いアイコンと一緒に新着メッセージがありますとプッシュ通知が表示されていた。

《おまたせしました クリーム色のハスラーです》
 というメッセージと、わざわざ自分の車を撮ったと思われる画像も一緒に送られていた。

「マメなやつ」とぼそっと、誰にも聞こえない声でつぶやいたあと、鉛筆で書かれたハートマークのなかに、赤い文字でThank youと書かれたシックでかわいいスタンプを送り返した。










「なに買ったの?」
「私の敵」
「相変わらず意味不明なこと言うね」と深山は言いながら、ハンドルを左に切り、駐車場から道路に出た。

「ねえ。一日、何往復してるの?」
「4往復くらいかな」
「電車運転したあとに車運転するの大変じゃない?」
「意外とそうでもないよ。慣れたらこんなもんって感じ」
「そうなんだ。てか、免許取ってたんだね」
「当たり前でしょ。車ないと暮らせないもん」
「だよね」
 電車の中だと、お互いに久々な感じもなく、なめらかに話せてたのに深山と二人きりの車の中だと、ぎくしゃくしている。
 軽自動車だから、運転席と助手席の間が狭くて、深山を近くに感じる。
 妙に肩に力が入っちゃってるから、きっと深山から見たら、私は小さく見えているに違いない。

「――梓さんは免許取ったの?」
「いや、ないよ」
「これから、函館住み続けるなら、やばいね」
「そうだね。ドンキにすら行けないわ」
「ドンキでなに買うのさ」
「ローター」と返すと深山はゲラゲラ大声で笑い始めた。深山は黒のボーダーの長袖Tシャツ一枚と、青いジーンズでラフな格好をしていた。長袖の裾を肘くらいまで、めくりあげていた。高校生のときは細い印象だった腕は筋肉質になっていて、うっすらと血管が青く浮いていた。

「とりあえず、近くのラッピでもいいですか?」
「いや、先に砂浜に連れて行って」
「砂浜?」と深山はちらっと私を見て、どうしてと言いたげな表情を見せた。
「やりたいことがあるの」
「やりたいこと?」
「うん。ちょっと付き合ってね」
 ちょうど車が赤信号で止まったから、深山を見て、弱く微笑むと、深山もまた微笑み返してくれた。








 五稜郭の繁華街を抜け、JRの線路をオーバーパスして、2つのフェリーターミナルの横を通り、20分くらいで七重浜に着いた。
 車を降りると潮の香りと、波の音が聞こえた。砂浜の先に見える海は2時過ぎの太陽を反射して、白く輝いていた。
 左手側には手を丸めたみたいな形をした函館山とフェリー埠頭の先端が見えた。

「そういえば、梓さんとドライブするの始めてだったね」
「そうだね。――楽しいね」
「まーた、思わせぶりなこと、言って」
「――本当だよ」
 海から弱くて冷たい風が吹いた。目の前の砂浜には何組かのカップルが歩いていた。
 ここは別に王道の観光地でもなんでもない。

 地元の人なら、一度は行ったことがある砂浜だ。
 右手には北海道の足のつま先まで続く、弧を描いた海岸線が見えている。遠くの山は少しだけ霞んでいて、透過が30%くらいしかない白に包まれていた。
 私は深山のことを見ずに、人気がないほうへ歩き始めた。

 別に気まずいわけじゃない。
 だけど、お互いに黙ったまま、砂浜を歩き始めた。

 大学生の頃、朗読ガールのお金でラフォーレ原宿で買った白の大きいリボンがついた、クロスサンダルはあっという間に砂まみれになり、足裏はざらざらし始めていた。
 20歳くらいのとき、平吹と付き合っている頃に買ったから、このサンダルももう5年くらい経ってしまっている。

 そもそも、グランドスタッフの給料を初めて見たとき、あまり、大金をもらったという感覚や、ようやっと一人で稼いだという感覚がなかった。時給換算すると、朗読ガールをやっていたときの方が高かった。だけど、最低限の社会的信用をその安い給料で手に入れるのことができて、節制して、淡々とした日々をこなすには十分だった。

 朗読ガールの仕事は楽しかったけど、早く抜けないと沼ると思った。
 だから、内定がもらえた段階で足を洗った。

「ねえ、大学生の頃の私、なにやってたと思う?」
「俺が、働いていて、路面電車の免許を取っている間に、男とイチャイチャしてた」
「ビッチに見えるってこと?」
「すぐそういう話の持っていき方するんだから」
 深山は上を向きながら、あーあと続けてそう言った。
 
「じゃあ、どういうことさ」
「これは俺が勝手に思ってるイメージですよ。東京の大学に行くってことは遊びに行くようなもんでしょ。だから、異性交友だって、当たり前だし、猥談しまくって、盛り上がるのも当たり前。俺は、運よく興味あることで、高卒でちゃっかり就職しちゃったから、飲み会でおじさんの猥談を聞いて、ゲラゲラ笑ってただけ」
「つまり、どう言うこと?」
「若すぎて、お互いに価値観の違いすぎるところで遠距離恋愛したところで、今冷静に考えたら、そりゃあ、上手くいかないでしょってこと」
 深山はそう言ったあと、立ち止まって、流木を拾った。そして、それを海に投げた。弧を描いて、木の枝は飛んでいき、やがて着水し、絶妙な浮力で軽そうに浮いていた。

「――怒ってるよね」
「そりゃあ、そうでしょ。青柳町で会ったとき、ぶん殴ろうかと思いました」と深山はそう言ったから、私はじっと深山のことを見た。深山は不貞腐れたような表情をしていた。――それはそうか。だって、深山が頑張っているときに、私から振ったんだし。
 少しだけの沈黙のあと、深山は急にゲラゲラ笑い始め、何度も両手を叩いて、再び歩き始めた。私はどうリアクションすればいいのかわからず戸惑った。

「あー、ウケるなぁ。そんなわけないでしょ」
「えっ?」
「嘘ですよ。冗談。そんなわけないしょや。千歳町でバッグミラー越しに梓さん、車内に乗ってきたときは動揺しましたよ。――だけど、そのあと、冷静になったら、単純に嬉しかった」
「え、市電乗ったときからわかってたの?」
「そりゃあ、そうでしょ。平日の昼間、空いてる時間にこんな洒落た格好したお姉さんが乗ってきたら、どの運転手も見ますよ。女に飢えてるから」
「オスになったね」
「違うって。目につきやすくなる環境だってことが言いたいんだよ。俺は」
「わかるよ、それくらい」
「はいはい、だから、話戻すけどさ、谷地頭行きの運用で、梓さん乗ってきたってことは青柳町で降りるなって思ったんだ。あー、どこかに行って帰るんだって。それで考えたら、千歳町の周りで用事ある人って、大体、失業した人だから、帰ってきたんだって思ったのさ。じゃあ、今日、谷地頭で折り返したら、仕事終わって、明日休みだし、青柳町で梓さんが降りるときに手だけ振ろうと思ったってこと」
 そのあと、深山は両手を伸ばして、大きく息を吸った。

「なんで、手振るだけなのさ。気づいてたのに」
「ほら、他のお客さんいて、イチャイチャし始めたら、クレームくるでしょ。観光都市だから、市電って意外と厳しいんですよ。接客」
「へぇ」
「だけど、神がかってた。十字街でお客さん、梓さん一人になったから、なんでもできるじゃんって」
「私とヤろうと思ったの?」
「バカ。乙女なら、俺の胸のときめきに共感してくれよ」
「野郎のときめきとか、ときメモくらい女からしたらどうでもいい」
「ったく、もういいや。要はそう言うこと。めっちゃ奇跡だって言いたかったんだよ」
 そう言って、今度は本当に深山が不貞腐れた表情になったから、私はそれを見て笑ってしまった。

 こうやって、ちょっかいかけるといつもこうして、不貞腐れるのが、かわいかった。はるか遠くに行っていたはずの高校生のときが一気に戻ってきたような気がした。
 深山の髪は運転手の制服の帽子の所為でぺしゃんこになっていたけど、ショートで頑張って、ウルフカットっぽい、デザインになっているのがわかった。
 ヘアセットした深山の姿が見たいなって思った。

 こうやって、歩いているうちに駐車場から結構遠くまで来てしまった。
 立ち止まり、歩いてきた方を見ると、駐車場前の砂浜にいる何人かの人たちの姿は親指の平に乗せられるくらいになっていた。
 また風が吹き、左手に持ったままだった、本が入っているビニール袋がバサバサと弱い音を立てた。

「てか、なんで、それ持ってきたの? 車に置いてくればよかったしょ」
 袋を指さして、深山は不思議そうにそう言った。
 ――そうだった。肝心なこと、忘れていた。

「過去を殺めようと思うの。付き合って」
 袋から、雑誌と文庫を取り出し、砂浜に捨てるようにその2冊を砂浜に落とした。
「あーあ、本の神様に怒られますよ」
 深山が本を拾おうとしたから、私は右手で、深山を止めた。

「え、わざと?」と深山は戸惑った表情をことをわざとらしく私に見せてきた。袋から、100均で買ったものを取り出し、袋を縛って、その袋と、買ったものを一緒にTシャツワンピースのポケットに突っ込んだ。
「まずはこいつ」
 屈んで、右手で文庫を持ったあと、深山に見せつけた。

「『切実に君とりんごの皮を剥きたい』? 50万部突破」
「そう。50万部も売れてるの。私の先輩」
「――まだ恨んでるんですか」
「当たり前でしょ。私をメンヘラにした張本人。確実に私の大学生活に負の影響を与えた」
「てか、それ気になるから、ちょっと見せてよ」
「えっ、ちょっと」と私がいい終わる前に深山は私から文庫を取り上げ、裏表紙を見たあと、パラパラとページをめくって、ざっと中を見た。

「へぇ。面白そう」と深山は満足そうな顔をして、私に文庫を返してくれた。
「そうじゃなくてさ」
「爆弾作る男って、キモいね」
「わかってるねぇ。深山くんは」
「文芸部みたいなノリだなぁ」
「でしょ。私のメンヘラは治らないって昔、言ってたよね」
「いや、ちょっと違うな」
「ちょっと?」
「うん。治療不可」
「おんなじじゃん」
 私は文庫を砂浜の上に置き、次に雑誌を手に取り、それをさっきと同じように深山に見せた。

「じゃあ、この人は何の罪に問われてるか、わかる?」
「誰ですか。このクソみたいなイケメンは」
「自己中浮気ライダー」
「てか、俳優と付き合ってるの?」
「付き合って″た″」
「へぇ。すごいじゃん」と深山は平坦な声で感心がなさそうだった。

「で、この高スペック男に浮気されたんですか?」
 そう聞かれたから、私は静かに頷いた。今、深山に言われて気づいたけど、やっぱり、世間から見ると俳優になっちゃえば、あんなポンコツでもハイスペックになるんだって、どうでもいいことに感心した。あとでこの新しい発見を絵里衣にラインで教えてあげよう。

「――可哀想な梓さん」と深山はぽつりとそう言った。深山も私の前に屈んで、そっと私から雑誌を取り上げた。そして、文庫と同じように雑誌を開き始め、平吹の特集が組まれているページを開いた。
「へえ。深夜のドラマ出てたんだ」
「そうなんだ」
「え、知らなかったの?」
「だって、今日、知ったんだもん」
「じゃあ、それまで全然、接点もないんだ」と言われて、うんと頷いた。だけど、本当はまだラインをブロックしてないから、完全に接点が消えたわけでもないような気がした。

「別れてから、4年以上経つからね」
「――したら、浮気に気づいて別れたんだ」と言われたから、私はもう一度、静かに頷いた。そして、また深山は雑誌のほうに目線を落とし、雑誌をパラパラとめくり始めた。
「なにこれ。『そして、憧れの仮面ライダー俳優へ』って書いてあるじゃん」と深山はそう言って、雑誌の内容を読んでいるようだった。
「そうらしいよ」
「てか、梓さん、見てよこれ。こいつ、こんな顔してますよ」と言って、深山は雑誌を右手に持ったまま、両手に腰を当てて、斜め上を向いて、口を半開きにして、舌を出して、目をわざとらしく見開いて、スカしたような表情をしていた。それを見て、私は思わず、笑ってしまった。たぶん、平吹が雑誌でやると、これがアンニュイになるのかもしれないけど、深山のはギャグだ。

「ちょっと、笑わせないでよ」と言って、右手で深山の腕を叩いた。叩くと同時に、痛ったー、と言って深山も笑い始めた。
「だって、あいつの顔、面白かったから。それに、梓さんの知り合いだったなら、会ったことないけど、余計おもしろくて」
「一応、1年ちょっと付き合ったんだけど。あんなんだけど」
「へえ。すごいね。俳優の卵と付き合ってて」
「だけど、クズだったよ」
 右手の人差し指で、砂の感触を確かめた。力を入れて押し込むと、指は徐々に砂の中に入っていた。砂の中までしっかり温かくなっていた。

「ねえ、瑛人くん」
 そう深山のことを呼びながら深山を見つめると、深山は目を見開いた。

「――なんすか」
「ライダーになれる人も、小説家になれる人も世の中、いるみたい」
 深山は鼻で笑ったあと、微笑んでくれた。昔みたいに目尻に皺を寄せて、屈託のない、純粋そうな笑顔で。

「夢なんて、所詮、幻想ですよ。こいつらが、梓さんを不幸にした分、幸せになったってだけですよ」
「――そんなの私だけ、損してるじゃん」
 右手で、砂をぎゅっと掴むと、指の隙間から、さらさらと砂が流れ落ちた。右手を開くと、手のひらには僅かに残った温かい砂が乗っていた。

「――仕方ないですよ。世の中、不平等なんだから」
「だから、全部、清算して、少しくらい、お釣りもらおうかな」
 私は右手についた砂を払って、Tシャツワンピのポケットから、ライターを取り出した。深山はそれを見て、察したのか、もう驚いた表情をしていた。そして、自然に雑誌を砂浜の上に置き、雑誌の上に、文庫を乗せてくれた。
 昔から、こういうところが気がきく。こういうところを見ると、深山って頭いいなって付き合っていたとき、思っていたのを思い出した。

「過去を火葬して、埋葬するの」
 青色のライターのプラスチックのボディには、100均のお店のシールが雑に貼ってあった。ワンタッチ式の着火レバーを引こうとしたけど、安全対策の所為で、硬くて、一生懸命、親指に力を入れたけど、なかなかレバーが下まで降り切らなかった。中途半端に蓋が開くたびに、シューとガスが漏れる音がした。それを見て、深山はまた笑い始めた。

「全然、慣れてないじゃん。貸して」
 ライターを渡すと、深山は簡単に火をつけて、そして、消した。
「あれ、こんなに硬いんだっけ。ライターって」
「なんでこんなに使いにくいんだろう」
「無駄な安全対策ですよ」とそう言ったあと、深山はライターを私に返してくれた。私はもう一度、親指に力を込めて、レバーを引くと、ようやく、火がついたから、ライターを文庫に近づけると、角の部分がゆっくり燃え始めた。




 



 燃え尽きて、灰になった新刊本を書店の袋に入れたあと、手が黒くなったから、海で手を洗った。
 その様子を深山は大人しく見守ってくれた。きっと、燃やされた本人たちはこんな儀式が行われたことなんて、想像もしていないんだろうなって思った。しかも、今は眼下にもない、私なんかにそんなことをされているなんて思いもしないだろう。

「手、洗えた?」と深山が私の隣に来て、そう言った。深山の手には灰になった本が入っている袋を持っている。
「ありがとう」
 私は深山からビニール袋をもらおうとした。だけど、深山はうまい具合に私の手をよけて、そのまま歩き始めた。だから、私も慌てて、深山を追うように深山の隣まで駆けた。

「俺と別れたときも、こういうことしたの?」
「そんなわけないでしょ。もっと、エグいことしたよ」
「なにさ」
「――メッセージを既読スルーした」
「全然、エグくないじゃん。むしろ、めっちゃかわいい」
「深山――」
 私は立ち止まって、両手をぎゅっと握りしめ、力を込めた。深山は振り向き、そして、すぐに立ち止まった。
「いや、瑛人くん」
 そう言い終わると、一気に辺りは静かになった。いや、実際は静かではない。相変わらず、波が押し寄せる音は聞こえているし、どこかを飛んでいる、カモメの鳴き声、遠くの道路を走っているトラックの音。私以外の時間は止まっていなかった。

「わがままで、不器用で、瑛人のこと傷つけてばっかりで、すれ違いの所為にして、自分に甘くて、大変なのも想像できなくて、なのに私のこと、全部肯定してくれてたのに――」
「ホント、バカだろ!」
 深山の声が辺りに響いた。私は今まで、伝えることができていなかった気持ちが胸の中で、すべてをミキサーでミルクと一緒にぐちゃぐちゃにしたように、思いが一気に涙になりつつあった。そこにそんな、急に大きな声でそんなこと言われて、涙が一粒、右目から溢れてしまった。

「――バカで、メンヘラだけど、俺のこと弟みたいな扱いして、いじったりしてさ。なのに、久々にあったら、俺の今の状況も聞かずにそんなこと急に話し始めるしさ。マジでバカで、不治の病くらいメンヘラな癖にさ。一方的にそっちから振っておいて、久々に再会したら、そんなこと言ってさ。意味不明なことばかりするけど、なぜか、そんなところが好きなんだよ! バカ梓」
 深山の話を聞いているうちにもう、私の顔は無数の涙で、ファンデーションが剥がれているのを感じた。右手で目頭を拭いても涙がとまらなくて、呼吸も乱れている。

「私、バカだからさ、ずっと、深山のこと、思い出してたんだ。――大学時代の恋愛は散々だったから、余計、深山が私のこと見てくれていたのに、私が――。私が全部、終わらせてしまったから。最低だって自分のこと、思ってた」
「梓さん。大した理由もないのに、人を振るのホント、よくないですよ。――俺は全然、遠距離でも耐えれたと思うし、年に2、3回、帰省した梓さんと頑張って過ごせば、そのうち、大学卒業したときには、函館に帰ってきて、一緒に過ごせるんだろうなって漠然と思ってたのに。――帰ってくるの遅いよ」
 深山は左手で、何度か、髪をくちゃくちゃとしたあと、私にも聞こえるくらい大きなため息を吐いた。

「ずっと。今まで――。――ごめんね」
「――初めて素直になってくれたね」
 気がつくと私は深山の胸の中にいた。強く抱きつかれているのを背中で感じたから、私も離したくなくなって、深山の背中にきつく抱きついた。深山の胸の中で、少しだけ汗の臭いがする深山のTシャツをぐちゃぐちゃにした。
 本当に久しぶりに深山の匂いを感じた。
 そして、いろんな、ほろ苦かった思い出が頭の中でまた、鮮やかになっていっているような気がした。








「別に俺はさ、安定を狙って運転手やってるわけじゃないんだ」
「だけど、ある意味、高校のときに運転手になりたいって言ってたから、夢、叶ってるよね」
 夏至前の日差しが、ハスラーのダッシュボードを強く照らしていた。あっという間だった。車の時計を見ると、もう、17時を過ぎていた。深山の車に乗ったあと、すぐに私は高校生のときみたいに親に今日、遅くなると、ラインを送っておいた。車は函館山へ向けて、来た道を戻っている。
 国道の反対車線は帰宅ラッシュが始まっていて、中心部から、郊外へ多くの人たちが帰ろうとしていた。

「そうだけどさ、これはあくまでも俺が一番社会の中で、どうすれば一番、他人に迷惑をかけずに堅実で、ストレスが少なく、そこそこの人生を進むことができるかなって考えて、案外、一人でコツコツ技術を極めるの向いてるんじゃないかなって思ったのが始まりだから、運転手は夢でもなんでもないと思ってるんだ」
「そうなんだ」
「そう。俺はたまたま、高校卒業するときにちょうどよく、4月から運転手募集してたから、それ応募したら、受かっちゃったって感じだったし、俺以外は10個も上の社会人だった人が同期だったから、電車運転手の憧れとか、そういうの強い状態で入ってきてたから、逆に申し訳なくなっちゃったな」
「それはちょっとつらかっただろうね」
「普通に乗務員養成訓練自体、めちゃくちゃ厳しいから、大変だった。だけど、俺はそういう熱量のある人よりも電車に対して、思い入れがないから、冷静に電車の運転上手くなってやろうって思ってやってたら、自然と上達したなぁ」
「すごいね。――そういうの本当に尊敬するよ」
「ホントかなぁ。なんか、梓さんに言われると、信用できないな」
「ホントだってば」
 私が笑いながら、そう答えると深山も一緒になって笑ってくれた。
 さっきまで、泣いていたのが嘘みたいに、この何気ないやりとりをするのがすごく楽しい。信号待ちで車が止まると、深山は両手を上げて、大きなあくびをした。

「ごめん、疲れてるよね」
「いや、これはいつものことだよ梓さん。始発シフトのとき、4時半に起きるんだけど、いつもこの時間が一番眠いんだ」
「――無理して付き合ってくれてありがとう」
「なに言ってるのさ。こんなチャンス二度となかったかもしれないんだよ?」と深山が行っている途中で信号が青くなり、車はウインカーをあげて、右折レーンに入っていった。

「私、そういう地に足つけて将来のこと、しっかり考えてる瑛人くんのこと、好きだったよ」
「そりゃあ、どうも」
 深山はハンドルを回して、車を右折させた。道の先に緑で生い茂っている函館山が見えてきた。

「だから、 元彼が役者を本気で目指すって21歳になって急に言い始めたのは許せなかったなぁ」
「浮気ライダー?」
「そう。ふわふわしたことばっかり言ってたし、考えてるのがいつも自分のことばっかりで、私のことなんて見てくれなかったな。その上、普通に彼女、別な場所で作ってたし」
「最低だね。てか、元彼の話されるの複雑な気持ちだなぁ」
「いいじゃん、浮気してたんだし」
「それ関係ないじゃん。聞かされる方の身にもなってよ」
「いいじゃん。あなたに私の処女あげたんだから」
「もっと関係ないじゃん」
 深山は目を細めて、一瞬、ちらっと私の方を見てきたから、私は右手の人差し指で、深山のほっぺをさした。深山はすぐに前を向いたから、私はすっと指を離した。
 
「――ねえ。私と別れたあと、いい人いた?」
「一回、成人式きっかけで同級生と一年、付き合ってみたけど、ダメだったな」
「だけど、一年も続いたんだ」
「中身のない一年だったよ。毒にも薬にもならない恋」
「へぇ」
「あ、ずるいな。自分の元彼の話はする癖に、人の元カノの話には興味ないのかよ」
「そんな女の話聞いても、腹立つだけだもん」
「ほらね。やっぱりこういう気持ちになるでしょ? 少しは自分の行いを振り返った方がいいですよ」
「それができないからメンヘラなんだよ」
「はいはい、お薬出しておきますねー」
 ちょうど、車は函館駅前を通りすぎた。右側を見ると、銀色の函館駅がまだオレンジ色にならない白い西日を反射していた。








 車は生い茂る木々をかき分けるように、クネクネした急な上り坂を上がっていく。
 軽でパワーが足りないから、エアコン切るねと言って、深山は左手でエアコンをオフにして、右手だけでカーブに対処していた。

「ねえ」
「なに? 今忙しいんだけど」
「いいじゃん。話聞いてよ」
「崖から落ちても知りませんからね」
「一緒に天国行こうね」
「それで、なにさ?」と私のことをあしらうかのように深山はそう答えた。
「高校生のとき、私に死なないでくださいって市電で言ったの覚えてる?」
「――覚えてるよ。あのとき、一番病んでたでしょ。梓さん。ヤバいなって感じあったもん」
「だよね。本当にあの言葉がなかったら、私、今、ここにいなかったかも」
 私がそう言い終えると、車内はしばらくの間、沈黙が流れた。そして、どんどん急な坂を登っていく、副賞として、高度がついてきていた。時折、木々の間から、小さくなった函館の街が見えていた。

「――まあ、そうかもしれないね、とは気恥ずかしくて言えないけどね」
 車は急なヘアピンカーブに差し掛かり、深山はハンドルを2回、左に切った。そして、車はゆっくりしたスピードでカーブを抜けた。
 
「私、高校、大学で死ななかったの、その言葉のおかげだったんだ。あとは向こうで出会った親友のおかげ」
「そうなんだ。――だいぶ、大人になったね」
「まあね。私は死にたがりなだけだよ」と言いながら、『そう言いながら、明日、手首に包帯巻いてたら、笑いますからね』と高校一年生の深山がそう言っていたのを思い出した。








 見慣れていたはずのイルカの尾は久々に見ると、思わず、展望台の柵から身を乗り出したくなるくらい綺麗だった。
 ちょうど、太陽がオレンジ色になり始めていて、左側の海がキラキラ、オレンジ色を反射していて、街全体も黄金色になり始めていた。

「梓さん、付き合ってください」
「遅いよ。てか、もう言われてたつもりになってた」
「やっぱり、この景色をバックに告白するのは鉄板でしょ」
 手すりに両肘をつけて、深山は前を見たままだった。深山と私の間には、半歩だけ隙間があったから、私は左に半歩ずれて、左肩を深山の肩にくっつけた。

「函館公園の観覧車でキスしなかった癖に、函館山では告白するんだ」
「いつの話さ、それ。もう時効でしょ」
「ベタに振り切らないのが好きだったのに」
「え、じゃあ、今は?」
「――こういうのもありだね」
「梓さん、あんた、ずいぶん丸くなったねぇ」
「大人になったからね」
 そう言って、左を見ると、深山は微笑み返してくれた。あなたも十分、大人になったね。と言いたくなったけど、それを私が口にするのはなんか、変な感じになりそうだから、やめることにした。

「――梓さん」
「――なに?」
「もう離したくない」
 突然、低い声で冷静にそんなこと、言われたから、心臓が一気に爆発しそうになった。学生の頃みたいにすぐに舞い上がる感覚じゃないけど、ただ、冷静にドキドキしている。

「――夜にはまだ、早いよ」
「いいじゃん。お互い、大人になったんだし」
 深山は手すりから、両肘を離した。そして、私はそっと右手を握られた。

 
 



5章




 二度と戻れないところまで人生行くと、
 守る方に力を入れてしまう。
 だから、人は臆病になるし、
 外に出たくなくなる。
 だから、失うことなんて考えたくないし、
 世界終末時計の秒針が進んでも、
 本当に滅亡するなんて考えもしないのと同じように、
 淡々とこの人生を死に向かって歩いていきたい。





 シルバーリングごと左手の薬指そっと右手で握る。
 そして、目をつぶって、数秒間、呼吸を整える――。

 深山瑛人が死んでから、私の世界は灰色になった。結局、人生なんて、あっという間だ。あれだけ、死なないでくださいと言っていた瑛人が簡単に死ぬんだから、世の中、不条理もいいところだと思う。
 葬式が終わって、3か月、そんなことをずっと考えていた。
 27歳になった私は、一体、これから先、なにを見て、なにをして生きていけばいいのかよくわからなくなった。

 目を見開き、ローテーブルに置いてあるマグカップを手に取る。コーヒーはもうだいぶ冷めてしまった。
 テーブルに飾っている瑛人の写真の前には瑛人のムーミンのご先祖さまの絵がついているマグカップを置いている。
 もちろん、その中もインスタントコーヒーで、湯気はもう上がりきっていた。

 テーブルにおきっぱなしのiPhoneからは山下達郎の「さよなら夏の日」が流れている。

 もうすぐ、朝の5時になる。瑛人が始発便担当のときの癖で、私は4時に起きて、夜の8時に寝る生活リズムを続けていた。
 そのリズムを葬式が終わり、瑛人が灰になったあとも続けた。

 エアコンをつけずに、リビングの窓と、反対側の寝室の窓を開けているから、朝の冷たい空気が家の中をゆっくり冷やしてくれていて、気持ちがよかった。
 ぬるくなったコーヒーを一口、飲んでも、満たされない気持ちは変わらなかった。

 iPhoneを手に取り、インスタを起動した。
 高校生のときから、鍵垢のままのこのアカウントにはもう、スクロールするだけじゃ、遡り切れないほどの文章が書かれていた。
 それらは日記がわりに、気持ちが向いたときに書き続けた。今は瑛人がいた日常の気持ちを書き殴った文章を見るのすら、嫌になるから、プラスボタンを押して、新しい投稿の画面を表示した。









 生と死は対極にあるってことはよく言われているけど、
 そんなのなんてどうでもいいんだよ。別に。
 だって、死ぬために生きてるんだからさ、
 それを知らないで生まれてくるなんて、
 なんか勝手に不公平に思っちゃうよね。
 
 もし、君との時間をもっとしっかりと過ごしていたら、
 この喪失は和らいだのかな。
 違うと思う。
 君のいない日常は失恋じゃなくて、
 私の根幹をなす前提が消えてしまったのと同じかもしれない。

 だから、私は君のいない世界で、
 うまく踊れる自信もないし、
 うまく歌える自信もないよ。
 うまく書くことだって、
 できないだろうし。

 チャールズブコウスキーの死をポケットに入れてを読むような、
 笑いが欲しいよ。






 「――瑛人」
 連絡を受けて病院に行くと、瑛人の意識はもうなかった。
 頭に包帯を巻いていて、朝、着ていた服は脱がされていて、病院の水色の薄手のガウンを着させられていた。
 左腕は点滴の管がつながっていて、胸には、赤、緑、黄色の線が出ていて、心電図に繋がっていた。顔には酸素マスクがついていた。
 瑛人が寝ているベッドまでいき、ベッドと同じ高さにしゃがみこみ、両手で瑛人の右手を握った。

 瑛人の手はあたたかかった。
 そして、左手を離し、頭を撫でたけど、起きる気配はなかった。
 
 医者の声がしたから、医者の方を見ると、あまりにも頭を強く打ちすぎている。
 もしかしたら、数日で脳死判定するかもしれないと言われた。

 ――へえ、そうなんだ。
 他人事のように私は心の中でそう呟いた。
 
 別に昨日まで病気でもなんでもなかった。ただ、コンビニに突っ込んできた車に押し挟まっただけだ。そのとき、頭を強く打ったらしい。骨も何本も折っている。なんでそんなところに、車が突っ込むタイミングで雑誌コーナーなんかにいたんだよ。
 ――バカでないの。

 気づくと涙が止まらなくなっていた。瑛人の左手を強く握っても、下唇をギュッと強く噛んでも、涙は止まらなかった。

 その数日後、瑛人は簡単に生きるのを諦めてしまった。





 
6章




 朝の日差しに弱いふたりは、
 夜道を歩くのが好きだったね。
 
 いろんな人たちがメジャーを行くなか、
 私たちはマイナーを選ぶような、そんな鋭さを共有したい。





「どう?」
「よかったよ。最高だね」
「やったー。これ、新人賞取れるでしょ。出版したら50万部超えするんじゃない」
 私はニヤけが止まらなかった。瑛人はこっちを見て、微笑んだ。大学から使っている古いMacBook Airの画面にはWordが表示されている。瑛人はいつものように上へスクロールしている。

「まだ、応募すらしてないのに」
「夢見過ぎだって? いいじゃん、書き終わったんだだから、その瞬間くらい、自分のこと、天才だと思いたいの」
「そうだね。――てか、実名はやめてよ。俺、死ぬの嫌だな」
「わかった、じゃあ、今、一括で置き換えてよ。瑛人が決めて」
 じゃあ、と瑛人はそう言いながら、「梓」を瑞希に、「深山」を「砂緒」に、そして「瑛人」を「丈流」にした。

「なんか、見覚えあるんだけど」と言うと、瑛人はニヤニヤしながら、バレた? と聞いてきた。だから、うんと小さく頷いた。
「初めて読ませてくれたタイムスリップする小説の登場人物の名前、いまだに覚えてる俺、すごいでしょ」
「くだらないね」と返しても、瑛人はまだニヤニヤしていた。

「絵里衣も、平吹も変えないとね」
「んだね」
 そう言って、私は「絵里衣」を「蓮」に「平吹」を「鉄生」に変えたあと、瑛人の表情を伺うように見つめた。

「覚えてたんだ」
「いい女でしょ。初めて読んだ小説の登場人物の名前、覚えてるの」
「まだ、覚えてたのかよ。恥ずかしいな、これ」
 瑛人は左手で口を覆った。だけど、にやけているのは左手だけじゃ隠し切れてなかった。

「てかさ、俺、死ぬところ、蛇足すぎでしょ」
「違うよ。――これだけ、愛してるってことを伝えたいの」と私がそう言い終わると、瑛人はふっといつものように小さく鼻で笑った。

「結婚してもメンヘラは治らないんだよ」
「梓さんのはやっぱり不治の病だね」
 瑛人にそう言われたから、私は瑛人の左手にそっと右手を乗せた。瑛人の手はあたたかくて、当たり前だけど、しっかり生きていた。

「ねえ」
「――なに?」
「純度100%の恋を君にあげる」
 こうして私はすぐに死にたいと微塵も思わなくなった。