囲碁が脱走して二週間が経った。
 洗面所の方からザッザッと砂をかく音がして「はいはい」とパソコンの前から立ち上がる。
 それでもザッザッという音は止まらず「囲碁―、もういいってば」と洗面所に入ると、入れ替わるようにさささっと囲碁は出ていった。
 砂をかくのは自分の匂いだとかそういった痕跡を消すためだと聞いたが、囲碁は俺が行くまでかなりしつこくかき続ける。こうなってくると、片付けてくれる人を呼ぶために砂をかいているのではないかという気すらしてくる。
 これ、昼間に柊人の家で留守番してるときとかどうしてたんだろうか。いなければ諦めてある程度砂をかいたところでやめてたのかな。
 そんなことを考えながら猫のトイレのそばに置いてあるスコップで固まりをすくい、トイレに行ってそれを流す。
 やれやれ、とスコップを戻し、手を洗ってパソコンの前に行くと、囲碁にパソコン用の椅子を奪われていて、思わずため息をつく。
「お前な」
 なんですか、という顔で見上げてくる囲碁は、もうすっかり我が物顔でこの家に居座っている。

 逃げ出した囲碁を我が家で預かった日、囲碁を迎えにくるついでに柊人は夕飯を持って来てくれて、それを二人で食べているときに切り出しにくそうに口を開いた。
『これからの時期暑くなる日も増えてくるけど、今日みたいに窓を開けていてまた網戸破られたりしたらたまんないし、でも、こんな時期から秋までずっとエアコンっていうのもどうかなって思ってさ。それで、図々しいとは思うんだけど、もし剛士が大丈夫なら俺が仕事に行ってる間、囲碁のこと預かってくんないかな。そのお礼に、俺、毎日お前の夕飯作るから』
 どう?とこちらの様子をうかがうように聞いてきた柊人に、俺は食い気味で『いいよ』と頷いて見せた。
 それなら、わざわざコンビニで待ち伏せをしなくても柊人に毎日会えるし、しかも柊人の役にも立てる。それに、囲碁が脱走するのは部屋が狭いからだと引っ越しを早められても困る。
 つまり、俺にとっては願ったり叶ったりの申し出だった。
 ほっとしたような顔をした柊人は『じゃあ週末に必要なもの買ってくるから、来週から頼むわ』と言い、ソファーの後ろからなかなか出てこない囲碁を引っ張り出し、手を噛まれながら抱っこして帰って行った。
 そうして次の月曜日から我が家に来るようになった囲碁は、最初はやはりソファーの後ろに隠れていたものの、二日もすると慣れたのかおそるおそる出てくるようになり、四日もすると人の家のソファーの上で長々と寝そべるようになり、一週間も経つとなぜか人のトイレについてくるようになり、そして二週間たった今となっては、パソコンの椅子から降ろした途端にデスクに飛び乗り、人が仕事をしているパソコンの横に居座ってグーグーと喉を鳴らしている。
 別に何もしていないというか、むしろ放っておいたのになぜ懐いてきているのか意味が分からないし、たまにキーボードに腕を乗せてきて意味の分からない文字の羅列がパソコンの画面に並んだりするので邪魔である。
 でも、なぜか。
 意外と邪魔されるのも悪くないと思う自分もいるのだ。
 しかも、囲碁のおかげで新しく回してもらえた仕事もある。
「意外と福の神だったりしてな」
 俺は目の前に居座る囲碁の喉のあたりを撫でる。囲碁はもっと撫でろと言わんばかりに喉をのけぞらせて押し付けてきた。



「猫って、静かな人が好きなんだってさ」
 夕飯を食べながら囲碁がやたらと寄ってくるという話をすると、柊人は面白そうに言った。
「あんまり構われると嫌がるんだって。だから剛士のことに気に入ったんだろ」
「なるほど……ほったらかしてるから逆に寄ってくるのか」
「悪いな。もしかして仕事の邪魔になってる?」
「まあ……邪魔になってないって言ったら嘘になるけど、別に大丈夫」
「ほんと?無理しなくていいからな」
「うん」
「あと、俺がこうして夕飯持ってくるのは? 邪魔になってない?」
「いや、逆にメリハリがつくのかも、と思い始めてる」
 そうなのだ。前は書いている時間を中断されると思っていたが、逆に夕飯までにここまで終わらせようという形で進めることで、以前よりも集中して書けるようになってきている気がする。
「そっか。なら良かった」
 柊人は笑顔になると、カットしただけのキュウリを味噌マヨネーズに付けて口に運ぶ。
「このキュウリ、美味しいな」
 ミラーリング継続中の俺も、柊人に合わせてキュウリを口に運びながら言う。
「あぁ、これね。今俺がリハビリで行ってる家の家庭菜園で取れたやつでさ。今日、歩行訓練ついでに畑に行って、その場で収穫してくれたやつもらってきた。今OTさん、あ、OTって作業療法士ね、その人が片手でも収穫できる自助具を試作中だから、それを試してみたんだけど」
 仕事のことを話す柊人は、いつもより少しだけ饒舌になる。
 それだけ仕事が好きなのだろうし、人当たりが良くて、元気で、前向きで、世話焼きの柊人には客観的に見てもリハビリの仕事はぴったりだと思う。それに今の訪問リハという職場も。
 もともと柊人は、ここの近くの総合病院で四年間働いていた。
 そしてそこで経験を積んだ後、かねてからの希望であった、地域の訪問リハができる施設へと移った。昔一緒に住んでいたお祖父さんのところへ、訪問リハで来ていた理学療法士の影響でこの職を志した柊人にとって、それは自然な流れだったのだろう。
 特に相談はされなかったが、昔から訪問をやりたいという話は聞いていたので、決まった後に報告されて、良かったなと言ったのを覚えている。
――柊人は昔から迷うことなく自分の道を進んできたからな。
 相槌を打ちながら、楽しそうに片手で収穫できる器具の仕組みについて説明する姿を眺める。
 柊人が迷うことなく進めてきたのは仕事に関することだけでない。
 俺と付き合い始めたときも、大学に入ってルームシェアをするときも、二人でこの地に来るときも、柊人は決断力のない俺を引っ張って進んできてくれた。
 だから、柊人がこのアパートを出ていくと決めたのなら、俺にそれを止めることができないのは、本当は分かっている。
 柊人の中ではそれはもう決まっている未来なのだから。
 自分にできるのは、それを少しでも先に延ばすことと、その日までに少しでもまた自分を好きになってもらうこと。それだけだ。
「剛士の方は?最近仕事どうなの」
 自助具の説明を終えた柊人にそう聞かれ「あぁ」と答える。
「そういえば今度、猫雑誌の特集でそこそこ長いページを担当することになった」
「え? 猫雑誌で? 何書くの?」
「猫の出てくる本や漫画について特集するんだってさ」
「あー、なるほど」
 先日、林さんから電話が来て『この前のコラムで、虚無のおやつって言って猫のこと書いてたろ、お前。でさ、それを見た猫雑誌のほうの編集者からオファーが来てんだけど』と言われたのだ。
 もし評判が良いようであれば、その後も猫雑誌の中で、本や漫画のコーナーを設けるかもしれないらしい。
「本は編集部の人が選ぶことになってるから、今度編集部に顔出してその人と打ち合わせてくる予定になってる」
「いつ?」
「来週。えーっと」
 俺はデスクの前に貼ってある、書き込みができるカレンダーを振り返る。
「木曜日か。まあ一時に編集部へ行くことになってるから、朝はゆっくりだし囲碁は預かるよ。帰りはもしかしたら遅くなるかもしれないから、柊人が帰ってきたときに囲碁を引き取っていってくれれば。暑かったらエアコンつけたままで出かけるから」
「編集部の人って、いつもの林先輩じゃないんだ」
「いや、猫雑誌を担当してる人だから別。この前電話で話したけど明るそうな女の人だったな」
「へぇ……」
「だからその日は夕飯いらないから」
「作って冷蔵庫に入れておいてもいいけど」
「でも、終わる時間によっては先輩とかと食べてくるかもしれないし。もし食べなかったとしてもコンビニでも寄って帰ってくる。たまにならコンビニ飯でも大丈夫だろ」
「……まあな」
 少しだけ物言いたげな柊人の気分を和らげようと俺は笑顔で言う。
「それに、前に俺が財布忘れたときに連絡くれた真田さんって子。あの子が俺が姿を見せなくなったから心配になったみたいでこの前電話くれたからさ。大丈夫なことアピールするのにそろそろ顔出さないといけないしな」
「は?」
「情けないよな。この年になって心配されるとか」
「いや、っていうか何、あの子と連絡取ってんの」
「別に連絡取ってはないけど、前に財布忘れたときに、俺の財布で見つけたっていう名刺をそのままあげたから、それ見て連絡してくれたんじゃないのかな。ほら、俺の食生活のこともともと気にしてたし」
「……」
 まったくお前は、あんな若い子にまで心配かけるなよとでも言われるかと思ったが、そのまま柊人は黙ってしまった。
 なんとなく不機嫌そうな雰囲気に話を続けるのもはばかられて、俺も黙ったままご飯を食べながらちらっと上目遣いで柊人のことを盗み見る。
 しかし柊人は真顔で黙々とご飯を食べていて、こちらに目もくれない。
 なんだろう。今のどこにそこまで機嫌を損ねる要素があったのかよく分からない。真田さんに心配をかけるような俺に思った以上に呆れているのだろうか。
 沈黙が数分続き、困ったなと思ったころで、柊人は大きくため息をついた後、ようやく口を開いた。
「あのな。まずよく知らない相手に簡単に連絡先を教えるな」
「あぁ……」
「お前は警戒心がなさすぎる。今回の子はそうじゃないかもしれないけど、電話番号を気軽に教えたことでいらないものを売りつけられたり、変な集まりに勧誘されたりするかもしれないんだから」
「……そこまでバカじゃないつもりだけど」
「いいから。あと、コンビニ行ったら、手料理食べさせてもらうようになったから心配しなくても大丈夫だってその子にちゃんと言っとけ」
「分かった」
 なるほど、柊人の心配性が発動したのか。
 俺は柊人の態度にようやく納得し、何も考えずに名刺をあげたことを反省しつつご飯を口に運ぶ。
 柊人は、俺に対してちょっと過保護なところが昔からある。それはこうして柊人から見ると呆れるような行動をちょくちょく俺が取るからだろう。
 自分でも、少しぼんやりした性格だというのは自覚している。本の世界にばかり没頭していたせいか、特にプライベートでは人との距離感がへたくそであることも。
 もっとちゃんとしないとな、と思う。
 柊人に呆れられないように。一緒にいるのが面倒だと思われないように。