イメチェンをして、顔を合わせる回数は増やした。
ミラーリングも一応してみている。一緒に食事をするときに、できるだけ同じものを食べたり、お茶を飲むタイミングを合わせたりしている。
あとは、追いかけすぎてはいけないというから、夕飯に誘われても毎回は乗らないようにもしている。
しかし、柊人の様子に今のところ何も変化は見られない。あえて言えば夕飯によく誘ってくれるようになったが、まあそれは夕飯前に俺が待ち伏せをして顔を合わせることになっているからで、向こうも気を遣ってくれているのだろう。
スマホに書いた復縁するためのメモを見ながら、うーん、と考える。
やっぱり、特別扱いしたり、好意と感謝を伝えたりするのが足りないのかもしれない。
でも、情けないことに、いざ言おうと思っても気恥ずかしさが先に来てしまい、結局何も言えないままになってしまうことが多いのだ。同時に、今までいかに自分勝手な態度を柊人に対して取っていたのかも思い知って、少し落ち込んだりもする。
さらに、相手の役に立つという項目に関しては、びっくりするほど何もできていない。
囲碁の世話だって、俺ができることなんて何もない。この前も柊人が家事をする間に遊んでいてと言われたのに、囲碁はおもちゃを持つ俺を無視して、ずっと柊人について回っていたし。
「あーあ」
口に出してそう言いながら、スマホの画面を消す。
しかも、一昨日またコンビニで柊人がバスから降りてくるのを待ち構えて出ていったら、コンビニ飯ばっかり買うなと注意された。まだ、出前のほうが添加物だって少ないからそっちにしろと。
でも、ご飯でも買わなければしょっちゅうコンビニに行く理由なんて無くなってしまうわけで、そうしたら柊人と偶然会うチャンスを探すのは大変だ。
壁にかかる時計を見上げる。
もうすぐ五時半だ。昨日は行かなかったけど、今日はどうしよう。明日まで我慢したほうがいいだろうか。今日の夜中が締め切りのコラムも書き終えてないし、仕事に集中するべきな気もする。
でも、行っても会えるとは限らないんだから、明日まで我慢してもし会えなかったら、やっぱり今日行っておけば良かったって思うかもしれないし、やっぱり行っておこうか。
不思議なことに、前はしばらく会わなくても大丈夫だったのに、最近会う回数が増えたからか、二日も会わないとそわそわしてしまう自分に少し呆れる。
柊人にまた好きになってもらうつもりが、自分が柊人にますます会いたくなるなんて本末転倒だろう。
「あー、どうしよっかなー!」
そう声を出して後ろにあるソファーに寄りかかった俺は、何気なくベランダを見て、そして固まった。
「……」
窓越しに、やべっとでも言いたげな感じで、歩いている途中の姿勢のまま俺を見ているのは、囲碁だった。
「……おいおいおいおい」
おいおいおいおいおい。
何してんだあいつ。
急に動いたら逃げられそうな気もするけど、だからと言って、このまま見過ごすわけにもいかない。
しかも、自分の家をこえてよそのベランダまで行って、さらにどっかの家に入り込んだりしたら大問題になってしまうかもしれない。
でも、うっかり声をかけたことでビビらせて、柵の隙間から落ちたりしても困る。猫は2階くらいからなら落ちても大丈夫なんだろうか。
頭の中でぐるぐると考えているうちに、囲碁がこちらから目を逸らして再び歩き出し、慌ててベランダに出る窓を開ける。
「囲碁! 囲碁!」
俺がベランダに出ると同時に、囲碁は柊人の家とは反対隣の家のベランダへと行ってしまった。
「囲碁―! そっちはだめだってー! 囲碁―!」
仕切り板越しにそう呼びかけてみるも、俺の声に囲碁が反応するわけもなく、ゆうゆうと隣の家のベランダを通り過ぎると、仕切り板の横の隙間を通ってさらに向こうへと去っていく。
確かこのアパートの二階は六部屋あるはずだ。
単身者用のアパートだし、こんな夕方五時半に家にいるような人間は、自分以外ほとんどいないんじゃないかなと予想する。早めに回収すればきっと大丈夫だ。
いったん部屋に戻り、スマホで電話をかけながら玄関の上の合い鍵を手に取って、柊人の部屋に向かう。
『もしもし?どうした?』
柊人の声が聞こえ、ちょっとほっとする。
「柊人の部屋から囲碁が脱走してる」
『え、マジで!?』
「俺の部屋のベランダ通り過ぎて、もう二軒隣まで行っちゃってる」
『うわー! マジかー! 暑くなってきたからと思って網戸にしといたのが良くなかったかぁ。一応固定もしておいたんだけどな』
「うん、今、柊人の家に入ったけど、お前の家の網戸、穴空いてるな」
『マジか……まさか破るとは……』
「で、とりあえず呼び寄せたいんだけど、なんか囲碁の好きなおやつとかないの。喜んで寄ってきそうなやつ」
話しながら、今こそ俺が役立つときかもしれないと、少しだけ張り切る気持ちになる。
『あー……それなら、キッチンの上の戸棚開けてもらっていい?そこに魚の燻製みたいなおやつが置いてあると思うんだけど』
「ちょっと待って……あぁ、これか。あったあった。とりあえずこれで呼んでみる」
『悪いな。ちょうど仕事終わったところだから、車通勤のやつに頼んで送ってもらうようにするわ。そしたらたぶん……あと十五分くらいで帰れるかな』
「分かった。まあできるだけやってみる」
『よろしくな。じゃあ後で』
「うん、後で」
電話を切って、おやつの袋を手に取ると、また自分の家に戻ってベランダに出る。
一応身体を柵の上に乗り出してのぞいてみるが、囲碁の姿はどこにも見えない。
「囲碁―! 囲碁―!」
呼びかけながら、手に持ったおやつを振ってみるが、音もするわけじゃないし、向こうから見えるわけでもないなと思い、手を下ろす。
「囲碁―! おやつだよー! おやつー! お前の好きなおやつー!」
何度呼びかけても、囲碁は現れない。
そのまま十分ほど呼びかけていると、自分は虚無に向かって呼びかけているのではないかという気すらしてきた。
――つまりこれは、「虚無への供物」。
手に持ったおやつを見てそんなしょうもないことを考える。
「虚無への供物」とは、日本探偵小説の三大奇書と呼ばれるうちの一つだ。
中井英夫の脳みその中に存在する、大小さまざまなからくり部屋をのぞかせてもらったような気になる、なんとも奇妙でどこか虚しくてそして芸術的な小説は、中学生の時に読んで以来、その掴み切れない本質に魅せられて何度となく読み返している。
大学生のとき、一度柊人に読ませてみたのだが「意味がほんっっっっっっとうに分からん!混乱する!!無理!!」と途中で断念して返されたあの本は、部屋の本棚のどこかに今も置いてあるはずだ。
しばらく読んでないからまた時間を見つけて読んでみようかな、でも長いんだよな、と思いながら引き続き虚無に呼びかけていると、ちらっとしっぽが見えた。
「囲碁! 囲碁―!」
ここぞとばかりに、おやつを振り上げると、二軒隣の家のベランダの柵から囲碁が頭を出して下を見ているのが見えた。
「囲碁! こっち! おやつ!」
ぶんぶんとおやつを振ると、囲碁がこちらに目を向けた。
振るのをやめて、囲碁に見せつけるようにおやつを掲げる。
「ほら、おやつ! おいで!」
すると囲碁はちょっと考えるように俺の方を眺めた後、のんびりと歩き出した。
こちらへ向かってくるのを確認し、ほっとしてベランダでしゃがみこみ、袋の口を開けて、削る前の鰹節みたいな形をした柔らかいおやつを出す。
隣の家との仕切り板の横の隙間から囲碁が顔を出し、ちぎったおやつを見せると、寄ってきてふんふんと匂いを嗅ぐ。
「ほら、これ好きなんだろ」
そう言ってコンクリートの上に置くと、はぐはぐと食べ始める。
よし、と思ってまた少し部屋に近づいたところに置くと、そこまで歩いてきて、またはぐはぐと食べる。
次に部屋の中に入って床におやつを置くと、さすがに囲碁が少し警戒する様子を見せた。
「大丈夫だよ、囲碁」
ここで抱っこでもすればいいのかもしれないが、生まれてこの方、猫を抱っこしたことなんてない。
こんなことならば柊人の家に行った時に抱っこする練習をしておけばよかった、と思いながら少し離れて様子を見ていると、おそるおそる囲碁も入ってきた。
ほっとして、できるだけ囲碁から離れたところを通って窓に手をかけて閉めようとしたところで外から声が聞こえてきた。
「けっこう綺麗なアパートっすね」
「なんでお前まで車から降りてんだよ」
返事をする声は柊人のものだ。ということは、話している相手は職場の人なのだろう。
「ここまで来たんだしお邪魔したいなー」
「いや、送ってもらって助かったけど、マジでそれどころじゃないから」
「でも、誰もベランダにいないし、もう捕獲済みなんじゃないっすか」
「分かんないだろ」
そこまで聞いて、囲碁にもう一度おやつをあげ、ベランダに出てみる。もちろん窓はしっかり閉める。
「柊人」
「あ」
声をかけると下の通りに停めた車の横に立っていた男が二人、こちらを見上げた。
「あぁ、この人が……」
いかにもリア充っぽい男が口を開いたところで、それに被せるように「そう! 隣に住んでる友達!」と柊人が言う。
そんなに強調しなくても、と思うが、まあそう言うのが一番無難なのはよく分かっている。そもそも、今の自分たちは本当に友達なのかもしれないし。
「はじめまして。矢島です」
そう言って頭を下げると「阿藤です! 安田さんにはお世話になってまっす」という元気な返事が返ってくる。
「柊人、囲碁なら今俺の部屋にいるから」
「マジで? あー良かったー。お前抱っこもしたことないのに、よく捕まえられたな」
「最後はおやつで釣りまくった」
そう言って笑うと、阿藤くんが小さい声で何かを柊人に言って、柊人が軽くその脇腹を小突くのが見えた。
「俺、もう少し囲碁預かっておくし、送ってもらったならコーヒーくらい出したら」
何を話しているんだろうと思いながら声をかけると「矢島さんやっさしい!」と阿藤くんが陽気に言って、柊人がため息をつく
「分かったよ。じゃあコーヒーだけな。剛士、網戸をどうにかしてから、囲碁のこと迎えに行くから。一時間くらい頼める?」
「了解」
じゃあ、と阿藤くんにぺこりと頭をさげて部屋の中に戻ると、そこにはすでに囲碁の姿がなかった。
「あれ? 囲碁?」
そういや、柊人の家に来た最初の頃、ベッドの下に隠れてたって言ってたっけ。そう思い出して、ベッドの方を見に行く。柊人の部屋のベッドとは違い、下に収納がついているタイプだから入れないだろうけど。
案の定ベッドのあたりには囲碁はおらず、あとどこか暗がりになっていて隠れられそうな場所は、と考えてソファーの後ろを覗き込むと、ちらっと影が動くのが見えて安心する。
まあ、いる場所が分かれば、あとは剛士が来たときに呼んでだしてもらえばいいと思い、スリープ状態のパソコンのEnterキーを押し、ラジオのスイッチを入れる。
今夜締め切りのコラム、いまいち筆が乗らず書いては消し書いては消しとしていたが、さっき、囲碁を呼んでいたときに手に持ったおやつを「虚無の供物」と感じたのがネタとして使えそうだと思い、キーボードの上に指を走らせる。
ラジオから静かに流れるポップスと、キーボードのカタカタという音だけが響く部屋の中に、自分以外の生命がそっと息を潜めているのかと思うと少しだけ不思議な気分だった。
ミラーリングも一応してみている。一緒に食事をするときに、できるだけ同じものを食べたり、お茶を飲むタイミングを合わせたりしている。
あとは、追いかけすぎてはいけないというから、夕飯に誘われても毎回は乗らないようにもしている。
しかし、柊人の様子に今のところ何も変化は見られない。あえて言えば夕飯によく誘ってくれるようになったが、まあそれは夕飯前に俺が待ち伏せをして顔を合わせることになっているからで、向こうも気を遣ってくれているのだろう。
スマホに書いた復縁するためのメモを見ながら、うーん、と考える。
やっぱり、特別扱いしたり、好意と感謝を伝えたりするのが足りないのかもしれない。
でも、情けないことに、いざ言おうと思っても気恥ずかしさが先に来てしまい、結局何も言えないままになってしまうことが多いのだ。同時に、今までいかに自分勝手な態度を柊人に対して取っていたのかも思い知って、少し落ち込んだりもする。
さらに、相手の役に立つという項目に関しては、びっくりするほど何もできていない。
囲碁の世話だって、俺ができることなんて何もない。この前も柊人が家事をする間に遊んでいてと言われたのに、囲碁はおもちゃを持つ俺を無視して、ずっと柊人について回っていたし。
「あーあ」
口に出してそう言いながら、スマホの画面を消す。
しかも、一昨日またコンビニで柊人がバスから降りてくるのを待ち構えて出ていったら、コンビニ飯ばっかり買うなと注意された。まだ、出前のほうが添加物だって少ないからそっちにしろと。
でも、ご飯でも買わなければしょっちゅうコンビニに行く理由なんて無くなってしまうわけで、そうしたら柊人と偶然会うチャンスを探すのは大変だ。
壁にかかる時計を見上げる。
もうすぐ五時半だ。昨日は行かなかったけど、今日はどうしよう。明日まで我慢したほうがいいだろうか。今日の夜中が締め切りのコラムも書き終えてないし、仕事に集中するべきな気もする。
でも、行っても会えるとは限らないんだから、明日まで我慢してもし会えなかったら、やっぱり今日行っておけば良かったって思うかもしれないし、やっぱり行っておこうか。
不思議なことに、前はしばらく会わなくても大丈夫だったのに、最近会う回数が増えたからか、二日も会わないとそわそわしてしまう自分に少し呆れる。
柊人にまた好きになってもらうつもりが、自分が柊人にますます会いたくなるなんて本末転倒だろう。
「あー、どうしよっかなー!」
そう声を出して後ろにあるソファーに寄りかかった俺は、何気なくベランダを見て、そして固まった。
「……」
窓越しに、やべっとでも言いたげな感じで、歩いている途中の姿勢のまま俺を見ているのは、囲碁だった。
「……おいおいおいおい」
おいおいおいおいおい。
何してんだあいつ。
急に動いたら逃げられそうな気もするけど、だからと言って、このまま見過ごすわけにもいかない。
しかも、自分の家をこえてよそのベランダまで行って、さらにどっかの家に入り込んだりしたら大問題になってしまうかもしれない。
でも、うっかり声をかけたことでビビらせて、柵の隙間から落ちたりしても困る。猫は2階くらいからなら落ちても大丈夫なんだろうか。
頭の中でぐるぐると考えているうちに、囲碁がこちらから目を逸らして再び歩き出し、慌ててベランダに出る窓を開ける。
「囲碁! 囲碁!」
俺がベランダに出ると同時に、囲碁は柊人の家とは反対隣の家のベランダへと行ってしまった。
「囲碁―! そっちはだめだってー! 囲碁―!」
仕切り板越しにそう呼びかけてみるも、俺の声に囲碁が反応するわけもなく、ゆうゆうと隣の家のベランダを通り過ぎると、仕切り板の横の隙間を通ってさらに向こうへと去っていく。
確かこのアパートの二階は六部屋あるはずだ。
単身者用のアパートだし、こんな夕方五時半に家にいるような人間は、自分以外ほとんどいないんじゃないかなと予想する。早めに回収すればきっと大丈夫だ。
いったん部屋に戻り、スマホで電話をかけながら玄関の上の合い鍵を手に取って、柊人の部屋に向かう。
『もしもし?どうした?』
柊人の声が聞こえ、ちょっとほっとする。
「柊人の部屋から囲碁が脱走してる」
『え、マジで!?』
「俺の部屋のベランダ通り過ぎて、もう二軒隣まで行っちゃってる」
『うわー! マジかー! 暑くなってきたからと思って網戸にしといたのが良くなかったかぁ。一応固定もしておいたんだけどな』
「うん、今、柊人の家に入ったけど、お前の家の網戸、穴空いてるな」
『マジか……まさか破るとは……』
「で、とりあえず呼び寄せたいんだけど、なんか囲碁の好きなおやつとかないの。喜んで寄ってきそうなやつ」
話しながら、今こそ俺が役立つときかもしれないと、少しだけ張り切る気持ちになる。
『あー……それなら、キッチンの上の戸棚開けてもらっていい?そこに魚の燻製みたいなおやつが置いてあると思うんだけど』
「ちょっと待って……あぁ、これか。あったあった。とりあえずこれで呼んでみる」
『悪いな。ちょうど仕事終わったところだから、車通勤のやつに頼んで送ってもらうようにするわ。そしたらたぶん……あと十五分くらいで帰れるかな』
「分かった。まあできるだけやってみる」
『よろしくな。じゃあ後で』
「うん、後で」
電話を切って、おやつの袋を手に取ると、また自分の家に戻ってベランダに出る。
一応身体を柵の上に乗り出してのぞいてみるが、囲碁の姿はどこにも見えない。
「囲碁―! 囲碁―!」
呼びかけながら、手に持ったおやつを振ってみるが、音もするわけじゃないし、向こうから見えるわけでもないなと思い、手を下ろす。
「囲碁―! おやつだよー! おやつー! お前の好きなおやつー!」
何度呼びかけても、囲碁は現れない。
そのまま十分ほど呼びかけていると、自分は虚無に向かって呼びかけているのではないかという気すらしてきた。
――つまりこれは、「虚無への供物」。
手に持ったおやつを見てそんなしょうもないことを考える。
「虚無への供物」とは、日本探偵小説の三大奇書と呼ばれるうちの一つだ。
中井英夫の脳みその中に存在する、大小さまざまなからくり部屋をのぞかせてもらったような気になる、なんとも奇妙でどこか虚しくてそして芸術的な小説は、中学生の時に読んで以来、その掴み切れない本質に魅せられて何度となく読み返している。
大学生のとき、一度柊人に読ませてみたのだが「意味がほんっっっっっっとうに分からん!混乱する!!無理!!」と途中で断念して返されたあの本は、部屋の本棚のどこかに今も置いてあるはずだ。
しばらく読んでないからまた時間を見つけて読んでみようかな、でも長いんだよな、と思いながら引き続き虚無に呼びかけていると、ちらっとしっぽが見えた。
「囲碁! 囲碁―!」
ここぞとばかりに、おやつを振り上げると、二軒隣の家のベランダの柵から囲碁が頭を出して下を見ているのが見えた。
「囲碁! こっち! おやつ!」
ぶんぶんとおやつを振ると、囲碁がこちらに目を向けた。
振るのをやめて、囲碁に見せつけるようにおやつを掲げる。
「ほら、おやつ! おいで!」
すると囲碁はちょっと考えるように俺の方を眺めた後、のんびりと歩き出した。
こちらへ向かってくるのを確認し、ほっとしてベランダでしゃがみこみ、袋の口を開けて、削る前の鰹節みたいな形をした柔らかいおやつを出す。
隣の家との仕切り板の横の隙間から囲碁が顔を出し、ちぎったおやつを見せると、寄ってきてふんふんと匂いを嗅ぐ。
「ほら、これ好きなんだろ」
そう言ってコンクリートの上に置くと、はぐはぐと食べ始める。
よし、と思ってまた少し部屋に近づいたところに置くと、そこまで歩いてきて、またはぐはぐと食べる。
次に部屋の中に入って床におやつを置くと、さすがに囲碁が少し警戒する様子を見せた。
「大丈夫だよ、囲碁」
ここで抱っこでもすればいいのかもしれないが、生まれてこの方、猫を抱っこしたことなんてない。
こんなことならば柊人の家に行った時に抱っこする練習をしておけばよかった、と思いながら少し離れて様子を見ていると、おそるおそる囲碁も入ってきた。
ほっとして、できるだけ囲碁から離れたところを通って窓に手をかけて閉めようとしたところで外から声が聞こえてきた。
「けっこう綺麗なアパートっすね」
「なんでお前まで車から降りてんだよ」
返事をする声は柊人のものだ。ということは、話している相手は職場の人なのだろう。
「ここまで来たんだしお邪魔したいなー」
「いや、送ってもらって助かったけど、マジでそれどころじゃないから」
「でも、誰もベランダにいないし、もう捕獲済みなんじゃないっすか」
「分かんないだろ」
そこまで聞いて、囲碁にもう一度おやつをあげ、ベランダに出てみる。もちろん窓はしっかり閉める。
「柊人」
「あ」
声をかけると下の通りに停めた車の横に立っていた男が二人、こちらを見上げた。
「あぁ、この人が……」
いかにもリア充っぽい男が口を開いたところで、それに被せるように「そう! 隣に住んでる友達!」と柊人が言う。
そんなに強調しなくても、と思うが、まあそう言うのが一番無難なのはよく分かっている。そもそも、今の自分たちは本当に友達なのかもしれないし。
「はじめまして。矢島です」
そう言って頭を下げると「阿藤です! 安田さんにはお世話になってまっす」という元気な返事が返ってくる。
「柊人、囲碁なら今俺の部屋にいるから」
「マジで? あー良かったー。お前抱っこもしたことないのに、よく捕まえられたな」
「最後はおやつで釣りまくった」
そう言って笑うと、阿藤くんが小さい声で何かを柊人に言って、柊人が軽くその脇腹を小突くのが見えた。
「俺、もう少し囲碁預かっておくし、送ってもらったならコーヒーくらい出したら」
何を話しているんだろうと思いながら声をかけると「矢島さんやっさしい!」と阿藤くんが陽気に言って、柊人がため息をつく
「分かったよ。じゃあコーヒーだけな。剛士、網戸をどうにかしてから、囲碁のこと迎えに行くから。一時間くらい頼める?」
「了解」
じゃあ、と阿藤くんにぺこりと頭をさげて部屋の中に戻ると、そこにはすでに囲碁の姿がなかった。
「あれ? 囲碁?」
そういや、柊人の家に来た最初の頃、ベッドの下に隠れてたって言ってたっけ。そう思い出して、ベッドの方を見に行く。柊人の部屋のベッドとは違い、下に収納がついているタイプだから入れないだろうけど。
案の定ベッドのあたりには囲碁はおらず、あとどこか暗がりになっていて隠れられそうな場所は、と考えてソファーの後ろを覗き込むと、ちらっと影が動くのが見えて安心する。
まあ、いる場所が分かれば、あとは剛士が来たときに呼んでだしてもらえばいいと思い、スリープ状態のパソコンのEnterキーを押し、ラジオのスイッチを入れる。
今夜締め切りのコラム、いまいち筆が乗らず書いては消し書いては消しとしていたが、さっき、囲碁を呼んでいたときに手に持ったおやつを「虚無の供物」と感じたのがネタとして使えそうだと思い、キーボードの上に指を走らせる。
ラジオから静かに流れるポップスと、キーボードのカタカタという音だけが響く部屋の中に、自分以外の生命がそっと息を潜めているのかと思うと少しだけ不思議な気分だった。