その日、最後の訪問先についたのは、午後の四時前だった。
家の前に自転車を停めると、汗がにじむ。
まだ五月末だが、そろそろ爽やかに走れる時期も終わりそうだなと思いながら、タオルで汗を拭いてチャイムを押す。
今日の夕飯はさっぱりしたものにしよう。そうめんがあったな、たしか。
きゅうりとわかめと、あとはツナ缶でもあればいいかもしれない。
「あ、安田先生よろしくお願いしまーす」
玄関を開けてくれた奥さんに笑顔で挨拶をしながら、でも、剛士はそうめんは昼に食べるもので夕飯に食べるものじゃないって言い張るしな、と考える。
最近、また剛士と夕飯を一緒に食べることが少しだけ増えた。
なぜなら、この一ヶ月くらい、毎回ではないものの、定時にあがったときにコンビニ帰りだという剛士と会うようになったからだ。
夕飯になるものをコンビニで買ったりしているようだが、一緒に食べるかと聞けば、二回に一回は頷く。
もしかしたら、俺のことを待ち伏せているのかなと思うのだが、しかし、向こうがいかにも偶然という感じで声をかけてくるので、その意図がよく分からず、こちらも偶然だなという態度で応じている。
付き合っている相手を待つのに、偶然を装う意味ってなんなんだろう。普通に会いたいと言ってくれればいいような気もするけど。
でもそういう自分だって、剛士に素直に会いたいと言えていないわけだから、向こうも同じような気持ちなのかもしれない。付き合いが長くなるほど、素直に言えないことが増えてくるって不思議なものだ。そう言えば、結局剛士の髪の毛のことも、褒めることができないままになってしまったっけ。
「す……」
少しだけぼんやりとしていた俺は、目の前のベッドで横になっている田仲さんの声にはっとした。いつも巻き込むように力の入っている右腕は少しずつ緩んできている。
「力、強かったですか?」
そう訊ねるとゆっくり首を横に振ってくれる。
「す……す」
「もしかして、俺に好きって言おうとしてます?」
冗談っぽく言うと、田仲さんはニヤッと笑った後、また口を開く。
「す、き、り……す、う」
「あぁ、腕が伸びてすっきりしますか?」
そう聞くと、田仲さんは笑顔でまた頷いて、左手の親指を立てて見せてくれる。笑顔を返した俺は、そのままゆっくりと右肘をできるだけ伸ばした後、その角度をキープしたまま今度は屈曲位に入っている手首を徐々に伸展させていく。
脳梗塞で、左脳のブローカー野を損傷した田仲さんは、こちらの言うことは日常会話程度であれば問題なく理解できるものの、話すことが困難だ。
ただ、もともと明るい性格だったらしく、臆することなく積極的にコミュニケーションを取ろうとしてくれるし、少しずつではあるが前よりも言っていることは聞き取りやすくなってきた。
「あ、先生、今日も右手を伸ばしている間に拭いちゃってもいーい?」
「もちろんいいですよー」
田仲さんの奥さんが、蒸したタオルを持ってきて、伸ばした肘や手首の内側を拭いていく。いつもは力が入っていてなかなか拭けないため、こうして伸ばしたときに綺麗にするのだ。
「田仲さん、ますますすっきりですね」
「あはは、顔も拭いたらすっきりいい男になるかしら~」
そんなことを言いながら、奥さんが、肘と手首を拭き終わったタオルを折りたたみ、その額のあたりを拭こうとする。
田仲さんは、そんな奥さんの手を左手でどけると、ベッドわきに立てかけてあるイラストのボードの中から、ものまね芸人が「ばかやろう」と言っている吹き出し付きのイラストを指さした。
「なんでよー、いい男になったらますますお世話をする気も増すってもんじゃなーい」
それに対して、やれやれといった感じで左手を持ち上げ、首をふる田仲さんを見て、思わず笑ってしまう。
失語症の人は、簡単なコミュニケーションのために、イラストを使ったボードを作ることが多い。そこには一般的に、食事やトイレ、テレビといった、本人が周囲に依頼をするために使うイラスト、そして体調や感情を表現するようなイラストが取り入れられている。
しかし、田仲家のコミュニケーションボードは『なんかお父さんの口癖がなくなるのも物足りない気がするのよねぇ』という奥さんの発案により「ばかやろう」の他に「なんだそれは」「あれとってあれ」「愛してるぞ」などの台詞を言っている芸能人のイラストがいくつか載っている。
ちなみに「あれとってあれ」は、いくら口癖だったとは言え、何が欲しいのか言えない今は使えないんじゃないかと思ったが、田仲さんがたまにそれを指さすと「はいはい、あれね」と言って奥さんが持ってくるから驚きである。たまに間違うと、田仲さんが「なんだそれは」のイラストを指さし、奥さんは「あらー?」と言いながら「もう一回挑戦!」と言って別のものを取りに行く。
それから「愛してるぞ」のイラストについては『口癖だったんですか? 仲がよろしいんですね』とボードの説明を奥さんから受けているときに言うと、田仲さんは左手を目の前で大きく振って否定してきた。
『たまには言ってくれてもいいんじゃないかと思って、私が勝手につけたのよ』
そう言って大笑いする奥さんを田仲さんは呆れたように見ていたが、なんにせよ仲睦まじいし、楽しいご夫婦だ。
そんな田仲さんご夫婦の姿は自分にとっては憧れでもあるし、剛士との仲がいまいちしっくりこない今となっては、どうやったらこんなふうにずっと仲がいいままでいられるのか、師匠とあおいで教えを乞いたいくらいである。
ため息をつきそうなのをこらえて「じゃあ、立ってバランスの練習をしたら、今日も少しだけ外を歩きましょうか」と声をかけ、起き上がってベッドサイドに腰かけた田仲さんの右足に長下肢装具をつけていく。
田仲さんは、装具をつけた状態でクラッチを使いながらであれば一人で立つことができるし、家の中くらいならゆっくりと歩くこともできるが、まだバランスを崩しやすいため屋外での歩行には少し不安がある。奥さんも小柄なので、田仲さんが倒れたときに咄嗟に支えられないだろうということで、今のところ外を歩くのはリハビリ中だけだ。
勤めていた会社を定年で辞めた後、家のすぐ裏にある畑の一部を借りて作物を育てていた田仲さんの目標は、簡単な農作業ができるようになることで、歩行練習も、その畑に行って帰ってくるというものである。畑は今でも奥さんが手入れをしていて、たまに野菜をおすそ分けしてくれる。
「安田先生、良かったらトマト持っていって」
その日も、帰り際に奥さんが真っ赤に熟れたトマトを五個ほど袋に入れて持たせてくれた。
最初の頃は遠慮していたが、夫婦二人じゃ食べきれないし、腐らせるのももったいないからと言われてからは、ありがたくもらうようにしている。
「早速夕飯でいただきますね」
「いいわねぇ、お料理できる男の人って。私が若かったらアタックしてるところだわ」
朗らかに笑いながらそう言う奥さんの後ろで、田仲さんが「ばかやろう」のイラストを指さしていた。
*
バスの窓枠に肘をついて、外を眺める。剛士とたまに会うようになってから、座るのはいつもバス停近くのコンビニが見える左側だ。今日は剛士と会えるだろうか。
プ―――ッという音とともにバスの扉が開き、立ち上がった俺は、ICカードで料金を払ってコンクリートの歩道に降り立つ。
周りを見回してみるが、今日はいないようだ。
少しだけ残念な気持ちで数歩足を進めたところで、後ろから「矢島さん!」と呼びかける女の子の声が聞こえた。
え、と思って振り向くと、そこにはやはり後ろを振り向いている剛士がいて、その剛士のもとにコンビニの制服を着た女の子が「もー。買ったもの忘れるなんてコントみたい」と笑いながらビニール袋を持って駆け寄った。
「あ、ごめんなさい。うっかりしてた」
「うっかりのレベルじゃないですよぉ」
困ったように笑う剛士を、真っ黒な髪の毛をおだんごにまとめた清楚な雰囲気の女の子は可笑しそうに見上げて「じゃあまた明日!」と言ってコンビニへ小走りで戻っていった。
その後姿に「ありがとう」と声をかけた剛士が、こちらを見て気まずそうな笑みを浮かべる。
「あ、おかえり、柊人」
「ただいま。何、さっきの子、知り合いなの」
剛士が、自分以外の人間と会話しているのを見て、なんだか胸がざわざわする。しかも、名前を知っているなんて、ただの店員と客でそんなことってあるんだろうか。
「あぁ、うん、知り合いって言うか、三週間くらい前だったっけな。俺、買い物したときに財布をコンビニに置きっぱなしで帰っちゃって」
「なんで財布を置きっぱなしにするようなことになるんだよ」
並んで家に向かって歩きながら呆れて訊ねる。昔から剛士はちょっと抜けているところがある。そこも可愛いけど。
「支払いしようと思ったら現金がなかったから、カウンターに財布を置いてスマホで支払って、そのまま」
「気をつけないと」
「うん。分かってる。それであの子、真田さんって言うんだけど、真田さんが財布の中に入ってた仕事用の名刺を見て俺に電話してきてくれてさ。そこからちょっと話すようになって」
「……また明日ねって言われてたけど、お前毎日来てるの?」
そう聞くと、隣を歩く剛士の耳が少し赤くなった。
「あ、いや、毎日ではないけど。でも真田さんはいつもこの時間にバイトに入ってるから、会うこと多くて」
「へぇ……若そうだったな」
「うん、二十三歳だって」
「ふーん……」
「昼間は病院で調理の仕事してるんだってさ。で、仕事柄、俺がおにぎりと麺類ばっかり買ってるの見てると栄養バランスが心配になるって言われて、最近は買うものを助言されたりしてて。今日も、麺でもこれならまだマシだからって言われて、サラダパスタとカップのスープ買ってきた」
そう言って見せてくるコンビニ袋の中身を、今すぐにその手から取り上げて、投げ捨てたい衝動にかられる。
俺が炭水化物ばかり食べるなって言っても聞かなかったのに。
トマトジュース飲んでるからって言って止めなかったのに。
あの子の助言は聞き入れるなんておかしくないか。
口を開けたら責めてしまいそうで、返事もせずに歩いていると「柊人は何持ってんの?」と剛士が聞いてくる。
「あぁ……トマト」
「何か作んの?」
何を作ったって、関係ないだろ。どうせ食べないんだし。
心の中でそう詰りながら「さあ。まだ決めてない」と返事をする。
本当は、これをもらったときから、ミネストローネを作ろうと思っていた。剛士は生のトマトは好きじゃないけど、調理をすると食べるしスープが好きだから。でもやめた。そのままカットしてそうめんと一緒に食ってやる。
俺がそっけない態度なのに気づいたのか、剛士もそれ以上何も話しかけてこず、二人で黙って歩き続ける。
――あぁ、そうか。
ふと、剛士と最近よく会う理由を思いついて、一人納得する。
俺を待ち伏せしているわけではなく、さっきの子がいる時間に合わせてコンビニに行っているから、よく会うってことなのか。
だからと言って、剛士があの子のことを好きなんだろう、とまではさすがに思わない。
もともと剛士はかなりの人見知りだ。
そして、人見知りだけどというか、人見知りだからというか、とにかく一度心を許すとその相手に懐く。
たぶん、さっきの子と顔を合わせる中で心を許して、知らない人に接客をされるより、あの子に接客されるのがいいと思うようになったんだろう。
きっと、それだけだ。
それだけだ、と思いたい。
アパートにつき、そろって郵便受けをのぞいて階段を上る。
「じゃあ……」
剛士の家の玄関の前でそう声をかけた俺を「うん。また」と見上げた表情は、いつもと特に変わりない。
――なあ、あの子のこと、気になってんのか。
喉元まで出かかっている問いをぐっと飲みこむ。
もし、そう聞いたとしても、剛士は困惑するだけだろう。
俺に、恋とはこういうものだと一方的に教えこまれてしまった剛士は、仮にあの子のことを気になっていたとしても、その気持ちが何なのかにすぐには気づけないだろうから。
だとしたら、わざわざ自分の気持ちに気づかせるようなことは言わないほうがいい。
あぁ、キスしたいな、と思う。
キスして抱いて、お前の恋人は俺なのだと改めて思い出させて、自分だけに目を向けさせたい。
でも、断られたらと思うと、怖い。
「……どうかした?」
そう問われて、剛士のことを見ながら立ち尽くしていた自分に気づく。
「いや、別に。ちょっとぼーっとしてた」
「疲れてるんじゃないの」
「まあ、暑くなってきたからな」
「じゃあさ。俺が囲碁の世話しにいってやろうか」
「いや、別に囲碁の世話って言っても……」
そう言いかけたところで、あ、せっかく家に来てくれるって言ってるのを断るとか、俺バカじゃねーのかと気づき「でも、来てくれるんなら助かる。俺が帰るとかまって欲しくてなかなか家事ができないから遊んでやってよ」と慌てて答える。
「分かった。じゃあ、パスタだけ冷蔵庫に入れたらそっち行くわ」
「ん、分かった。鍵開けとくから」
「分かった」
やっぱり剛士の考えていることはよく分からない。
分からないけど、とりあえず囲碁に感謝だな、と思いながら俺は家へと向かった。
今日はやっぱりミネストローネを作ることにしよう。あとはご飯を炊いて、メインは鶏肉のソテーにでもして。パスタは明日の昼にでも食べるように言えばいい。
「ただいまー」
少しだけ元気になって玄関を開けると、足音を聞いて待ち構えていたらしい囲碁が、白い靴下を履いたような前足を揃えて出迎えてくれた。
家の前に自転車を停めると、汗がにじむ。
まだ五月末だが、そろそろ爽やかに走れる時期も終わりそうだなと思いながら、タオルで汗を拭いてチャイムを押す。
今日の夕飯はさっぱりしたものにしよう。そうめんがあったな、たしか。
きゅうりとわかめと、あとはツナ缶でもあればいいかもしれない。
「あ、安田先生よろしくお願いしまーす」
玄関を開けてくれた奥さんに笑顔で挨拶をしながら、でも、剛士はそうめんは昼に食べるもので夕飯に食べるものじゃないって言い張るしな、と考える。
最近、また剛士と夕飯を一緒に食べることが少しだけ増えた。
なぜなら、この一ヶ月くらい、毎回ではないものの、定時にあがったときにコンビニ帰りだという剛士と会うようになったからだ。
夕飯になるものをコンビニで買ったりしているようだが、一緒に食べるかと聞けば、二回に一回は頷く。
もしかしたら、俺のことを待ち伏せているのかなと思うのだが、しかし、向こうがいかにも偶然という感じで声をかけてくるので、その意図がよく分からず、こちらも偶然だなという態度で応じている。
付き合っている相手を待つのに、偶然を装う意味ってなんなんだろう。普通に会いたいと言ってくれればいいような気もするけど。
でもそういう自分だって、剛士に素直に会いたいと言えていないわけだから、向こうも同じような気持ちなのかもしれない。付き合いが長くなるほど、素直に言えないことが増えてくるって不思議なものだ。そう言えば、結局剛士の髪の毛のことも、褒めることができないままになってしまったっけ。
「す……」
少しだけぼんやりとしていた俺は、目の前のベッドで横になっている田仲さんの声にはっとした。いつも巻き込むように力の入っている右腕は少しずつ緩んできている。
「力、強かったですか?」
そう訊ねるとゆっくり首を横に振ってくれる。
「す……す」
「もしかして、俺に好きって言おうとしてます?」
冗談っぽく言うと、田仲さんはニヤッと笑った後、また口を開く。
「す、き、り……す、う」
「あぁ、腕が伸びてすっきりしますか?」
そう聞くと、田仲さんは笑顔でまた頷いて、左手の親指を立てて見せてくれる。笑顔を返した俺は、そのままゆっくりと右肘をできるだけ伸ばした後、その角度をキープしたまま今度は屈曲位に入っている手首を徐々に伸展させていく。
脳梗塞で、左脳のブローカー野を損傷した田仲さんは、こちらの言うことは日常会話程度であれば問題なく理解できるものの、話すことが困難だ。
ただ、もともと明るい性格だったらしく、臆することなく積極的にコミュニケーションを取ろうとしてくれるし、少しずつではあるが前よりも言っていることは聞き取りやすくなってきた。
「あ、先生、今日も右手を伸ばしている間に拭いちゃってもいーい?」
「もちろんいいですよー」
田仲さんの奥さんが、蒸したタオルを持ってきて、伸ばした肘や手首の内側を拭いていく。いつもは力が入っていてなかなか拭けないため、こうして伸ばしたときに綺麗にするのだ。
「田仲さん、ますますすっきりですね」
「あはは、顔も拭いたらすっきりいい男になるかしら~」
そんなことを言いながら、奥さんが、肘と手首を拭き終わったタオルを折りたたみ、その額のあたりを拭こうとする。
田仲さんは、そんな奥さんの手を左手でどけると、ベッドわきに立てかけてあるイラストのボードの中から、ものまね芸人が「ばかやろう」と言っている吹き出し付きのイラストを指さした。
「なんでよー、いい男になったらますますお世話をする気も増すってもんじゃなーい」
それに対して、やれやれといった感じで左手を持ち上げ、首をふる田仲さんを見て、思わず笑ってしまう。
失語症の人は、簡単なコミュニケーションのために、イラストを使ったボードを作ることが多い。そこには一般的に、食事やトイレ、テレビといった、本人が周囲に依頼をするために使うイラスト、そして体調や感情を表現するようなイラストが取り入れられている。
しかし、田仲家のコミュニケーションボードは『なんかお父さんの口癖がなくなるのも物足りない気がするのよねぇ』という奥さんの発案により「ばかやろう」の他に「なんだそれは」「あれとってあれ」「愛してるぞ」などの台詞を言っている芸能人のイラストがいくつか載っている。
ちなみに「あれとってあれ」は、いくら口癖だったとは言え、何が欲しいのか言えない今は使えないんじゃないかと思ったが、田仲さんがたまにそれを指さすと「はいはい、あれね」と言って奥さんが持ってくるから驚きである。たまに間違うと、田仲さんが「なんだそれは」のイラストを指さし、奥さんは「あらー?」と言いながら「もう一回挑戦!」と言って別のものを取りに行く。
それから「愛してるぞ」のイラストについては『口癖だったんですか? 仲がよろしいんですね』とボードの説明を奥さんから受けているときに言うと、田仲さんは左手を目の前で大きく振って否定してきた。
『たまには言ってくれてもいいんじゃないかと思って、私が勝手につけたのよ』
そう言って大笑いする奥さんを田仲さんは呆れたように見ていたが、なんにせよ仲睦まじいし、楽しいご夫婦だ。
そんな田仲さんご夫婦の姿は自分にとっては憧れでもあるし、剛士との仲がいまいちしっくりこない今となっては、どうやったらこんなふうにずっと仲がいいままでいられるのか、師匠とあおいで教えを乞いたいくらいである。
ため息をつきそうなのをこらえて「じゃあ、立ってバランスの練習をしたら、今日も少しだけ外を歩きましょうか」と声をかけ、起き上がってベッドサイドに腰かけた田仲さんの右足に長下肢装具をつけていく。
田仲さんは、装具をつけた状態でクラッチを使いながらであれば一人で立つことができるし、家の中くらいならゆっくりと歩くこともできるが、まだバランスを崩しやすいため屋外での歩行には少し不安がある。奥さんも小柄なので、田仲さんが倒れたときに咄嗟に支えられないだろうということで、今のところ外を歩くのはリハビリ中だけだ。
勤めていた会社を定年で辞めた後、家のすぐ裏にある畑の一部を借りて作物を育てていた田仲さんの目標は、簡単な農作業ができるようになることで、歩行練習も、その畑に行って帰ってくるというものである。畑は今でも奥さんが手入れをしていて、たまに野菜をおすそ分けしてくれる。
「安田先生、良かったらトマト持っていって」
その日も、帰り際に奥さんが真っ赤に熟れたトマトを五個ほど袋に入れて持たせてくれた。
最初の頃は遠慮していたが、夫婦二人じゃ食べきれないし、腐らせるのももったいないからと言われてからは、ありがたくもらうようにしている。
「早速夕飯でいただきますね」
「いいわねぇ、お料理できる男の人って。私が若かったらアタックしてるところだわ」
朗らかに笑いながらそう言う奥さんの後ろで、田仲さんが「ばかやろう」のイラストを指さしていた。
*
バスの窓枠に肘をついて、外を眺める。剛士とたまに会うようになってから、座るのはいつもバス停近くのコンビニが見える左側だ。今日は剛士と会えるだろうか。
プ―――ッという音とともにバスの扉が開き、立ち上がった俺は、ICカードで料金を払ってコンクリートの歩道に降り立つ。
周りを見回してみるが、今日はいないようだ。
少しだけ残念な気持ちで数歩足を進めたところで、後ろから「矢島さん!」と呼びかける女の子の声が聞こえた。
え、と思って振り向くと、そこにはやはり後ろを振り向いている剛士がいて、その剛士のもとにコンビニの制服を着た女の子が「もー。買ったもの忘れるなんてコントみたい」と笑いながらビニール袋を持って駆け寄った。
「あ、ごめんなさい。うっかりしてた」
「うっかりのレベルじゃないですよぉ」
困ったように笑う剛士を、真っ黒な髪の毛をおだんごにまとめた清楚な雰囲気の女の子は可笑しそうに見上げて「じゃあまた明日!」と言ってコンビニへ小走りで戻っていった。
その後姿に「ありがとう」と声をかけた剛士が、こちらを見て気まずそうな笑みを浮かべる。
「あ、おかえり、柊人」
「ただいま。何、さっきの子、知り合いなの」
剛士が、自分以外の人間と会話しているのを見て、なんだか胸がざわざわする。しかも、名前を知っているなんて、ただの店員と客でそんなことってあるんだろうか。
「あぁ、うん、知り合いって言うか、三週間くらい前だったっけな。俺、買い物したときに財布をコンビニに置きっぱなしで帰っちゃって」
「なんで財布を置きっぱなしにするようなことになるんだよ」
並んで家に向かって歩きながら呆れて訊ねる。昔から剛士はちょっと抜けているところがある。そこも可愛いけど。
「支払いしようと思ったら現金がなかったから、カウンターに財布を置いてスマホで支払って、そのまま」
「気をつけないと」
「うん。分かってる。それであの子、真田さんって言うんだけど、真田さんが財布の中に入ってた仕事用の名刺を見て俺に電話してきてくれてさ。そこからちょっと話すようになって」
「……また明日ねって言われてたけど、お前毎日来てるの?」
そう聞くと、隣を歩く剛士の耳が少し赤くなった。
「あ、いや、毎日ではないけど。でも真田さんはいつもこの時間にバイトに入ってるから、会うこと多くて」
「へぇ……若そうだったな」
「うん、二十三歳だって」
「ふーん……」
「昼間は病院で調理の仕事してるんだってさ。で、仕事柄、俺がおにぎりと麺類ばっかり買ってるの見てると栄養バランスが心配になるって言われて、最近は買うものを助言されたりしてて。今日も、麺でもこれならまだマシだからって言われて、サラダパスタとカップのスープ買ってきた」
そう言って見せてくるコンビニ袋の中身を、今すぐにその手から取り上げて、投げ捨てたい衝動にかられる。
俺が炭水化物ばかり食べるなって言っても聞かなかったのに。
トマトジュース飲んでるからって言って止めなかったのに。
あの子の助言は聞き入れるなんておかしくないか。
口を開けたら責めてしまいそうで、返事もせずに歩いていると「柊人は何持ってんの?」と剛士が聞いてくる。
「あぁ……トマト」
「何か作んの?」
何を作ったって、関係ないだろ。どうせ食べないんだし。
心の中でそう詰りながら「さあ。まだ決めてない」と返事をする。
本当は、これをもらったときから、ミネストローネを作ろうと思っていた。剛士は生のトマトは好きじゃないけど、調理をすると食べるしスープが好きだから。でもやめた。そのままカットしてそうめんと一緒に食ってやる。
俺がそっけない態度なのに気づいたのか、剛士もそれ以上何も話しかけてこず、二人で黙って歩き続ける。
――あぁ、そうか。
ふと、剛士と最近よく会う理由を思いついて、一人納得する。
俺を待ち伏せしているわけではなく、さっきの子がいる時間に合わせてコンビニに行っているから、よく会うってことなのか。
だからと言って、剛士があの子のことを好きなんだろう、とまではさすがに思わない。
もともと剛士はかなりの人見知りだ。
そして、人見知りだけどというか、人見知りだからというか、とにかく一度心を許すとその相手に懐く。
たぶん、さっきの子と顔を合わせる中で心を許して、知らない人に接客をされるより、あの子に接客されるのがいいと思うようになったんだろう。
きっと、それだけだ。
それだけだ、と思いたい。
アパートにつき、そろって郵便受けをのぞいて階段を上る。
「じゃあ……」
剛士の家の玄関の前でそう声をかけた俺を「うん。また」と見上げた表情は、いつもと特に変わりない。
――なあ、あの子のこと、気になってんのか。
喉元まで出かかっている問いをぐっと飲みこむ。
もし、そう聞いたとしても、剛士は困惑するだけだろう。
俺に、恋とはこういうものだと一方的に教えこまれてしまった剛士は、仮にあの子のことを気になっていたとしても、その気持ちが何なのかにすぐには気づけないだろうから。
だとしたら、わざわざ自分の気持ちに気づかせるようなことは言わないほうがいい。
あぁ、キスしたいな、と思う。
キスして抱いて、お前の恋人は俺なのだと改めて思い出させて、自分だけに目を向けさせたい。
でも、断られたらと思うと、怖い。
「……どうかした?」
そう問われて、剛士のことを見ながら立ち尽くしていた自分に気づく。
「いや、別に。ちょっとぼーっとしてた」
「疲れてるんじゃないの」
「まあ、暑くなってきたからな」
「じゃあさ。俺が囲碁の世話しにいってやろうか」
「いや、別に囲碁の世話って言っても……」
そう言いかけたところで、あ、せっかく家に来てくれるって言ってるのを断るとか、俺バカじゃねーのかと気づき「でも、来てくれるんなら助かる。俺が帰るとかまって欲しくてなかなか家事ができないから遊んでやってよ」と慌てて答える。
「分かった。じゃあ、パスタだけ冷蔵庫に入れたらそっち行くわ」
「ん、分かった。鍵開けとくから」
「分かった」
やっぱり剛士の考えていることはよく分からない。
分からないけど、とりあえず囲碁に感謝だな、と思いながら俺は家へと向かった。
今日はやっぱりミネストローネを作ることにしよう。あとはご飯を炊いて、メインは鶏肉のソテーにでもして。パスタは明日の昼にでも食べるように言えばいい。
「ただいまー」
少しだけ元気になって玄関を開けると、足音を聞いて待ち構えていたらしい囲碁が、白い靴下を履いたような前足を揃えて出迎えてくれた。