十二年前、高校に入学してすぐの頃から、前の席に座る、黒目がちでいつもどこか遠くを見ているような瞳を持ったクラスメートが、俺は気になって仕方がなかった。
 口数は決して多くなく、でもいざ口を開くと自分の世界をしっかりと持っているそいつのことをもっと知りたくて、俺は何かと話しかけて少しずつ仲良くなっていった。
『俺は大丈夫だし、他の人と仲良くすればいいのに』
 ある日、教室移動をしているときに剛士は俺にそう言った。
『俺、話も面白くないし、それに一人でも大丈夫だから。さっきも声かけられてただろ』
『別にあいつは部活が一緒なだけだし、俺は矢島と一緒がいいからいいの。それにお前の話、面白いよ。もっと聞きたい』
『……そう言われるとプレッシャーで話せないんだけど』
 そのときの剛士の困りつつも嬉しそうな笑顔に、たぶん俺は恋に落ちたのだと思う。
 中学生の頃から、もしかしたら自分は男が好きなのかもしれないとは思っていた。でも、ここまではっきりと恋愛感情を覚えたのは初めてのことで、俺はその日から、寝ても冷めても剛士のことばかりを考える日々を送ることとなった。
 一方の剛士は、もともとはストレートだったのかもしれない。でもあの頃の剛士は初恋もまだで『誰かを好きになるってどういう感じなんだろうな』と言っていた。
 そんな剛士に二年生になる春に告白をし『誰かと恋愛する練習』だと言って、俺はこちらに引き込んだ。何も知らなかった剛士はそんな俺との関係性を戸惑いながら受け入れ、そして戸惑ったまま俺が望む行為を受け入れ、恋人として今日まで来てしまった。
 そんな剛士が、本当に俺に対して恋愛感情を持っているのかどうかは、分からない。初めてできたという親友への感情を俺から恋愛感情だと言われ、それをそのまま信じてきただけかもしれないとも思う。
 ぼんやりと昔のことを思い出しながら野菜を切っていた俺は、ふっと息を吐く。
 そう考えると、俺はまだ剛士に片思いしているようなものなのだ、きっと。
 だとしたら、改めて好きになってもらえるように好意を示して、口説くところからもう一度やり直してみるべきなのかもしれない。
 予定を聞いてデートに誘って、おしゃれなバーに飲みにいったりして。そうすれば、キスをするような雰囲気も作れるかもしれないし。
 切り終えた野菜をフライパンに移しながら、俺はさっきの剛士を思い出す。
 まずはこの後、髪の毛切った姿を褒めてみようか。似合うね、可愛いよって言ったら剛士は喜ぶだろうか。
「髪の毛似合うね、可愛いよ」
 試しに口に出してみる。ずっと剛士を褒めるなんてしていないから、すごくぎこちない感じだ。
「髪型、いい感じになったね。可愛いよ……可愛いな、のほうがいいか?可愛いよ……可愛いな」
「にゃ」
 いつの間にか足元にいた囲碁が返事をした。
「あ、囲碁も可愛いよ。可愛い可愛い。あー、囲碁に対してなら普通に言えるのになぁ。可愛いなー囲碁は」
「にゃ」
 きっと前の飼い主さんに可愛い可愛いと言われていたのだろう。可愛いと言われて俺のことですか?と言いたげにしっぽを振りながら反応する囲碁がちょっとおかしくて、やっぱり可愛かった。
 剛士も、褒めたらこんなふうに素直に受け取ってくれたらいいけどな、と思いながら俺は炒め終わった野菜を皿へと移した。
 
 しかしその夜、俺は結局一言も褒めることができないまま、剛士の家をあとにした。
 俺、高校生の時どうやって剛士を口説いてたんだろうか。
 空になった皿を左腕に抱えたまま、右手に持った鍵を鍵穴に差し込む。
 まず本人を目の前にして、素直に「その髪似合うよ、可愛いよ」と言うのは、どうにも照れくさくてなかなか口に出すことができないものだということがよく分かった。
 そこで、どうにかきっかけを作ろうと思って、俺は囲碁の話題を出してみた。
『そういえば、囲碁って可愛いなって話しかけると返事するんだよ』
『へー。柊人も可愛いって言ってあげてるの』
『言うようにしてる。まあ実際可愛いしさ』
そういえば、お前も髪切って可愛くなったよな、と若干無理はあるがさりげなく続けようとした俺の前で、剛士は首を傾げて言った。
『猫ってどのくらい、人の言葉理解してるんだろうな』
『さ、さぁ……』
『人間はさ、猫の言葉を理解できないのに、猫は人間の言葉を聞き分けるってすごくない?』
『まあでも、猫に比べて人間のほうが出せる音が多いから聞き分けやすいのかも』
『そっか、そういう考え方もあるね』 
 そんな話をしたかったわけではないのだが、そこから可愛さの話題に戻ることはできず、俺は褒めることを諦めてしまった。
「ただいまー囲碁」
 トットットッと軽やかな足音を立てて、囲碁が玄関先まで迎えに来てくれる。
「囲碁は可愛いなー」
「にゃ」
「お前にならいくらでも言えるのにな。好きな相手になるとなんで言えなくなるんだろうな」
 無言で俺を見上げる囲碁の頭を軽く撫でて、俺はキッチンへと食器を運んだ。
 まずは、俺自身が褒めるという行為に慣れなくてはいけないのかもしれない。仕事モードに入って、患者さんを褒めるようなテンションでやればいけるだろうか。
 食器を洗いながら「お! 髪の毛切ったの正解ですね! すごくいい感じです!」と呟いてみる。
 あまりにも口説く雰囲気とかけ離れているし、これは却下だな。
「囲碁ちゃん! その姿勢ばっちりです! 背中も伸びていていいですね! そのままキープしてみましょう!」
 仕事モードついでに少し離れたところにいる囲碁を褒めると、大きな欠伸で返された。 



 翌朝、俺はソファーを粗大ごみに出すために、剛士を起こしにいった。
 剛士はベッドではなくソファーの上で毛布を体に巻き付けるようにして寝ていた。
「剛士、起きれる?」
「あ、うん……もうそんな時間?」
「そう、ごめん。昨日遅かったんだろ」
「徹夜にはならなかったから大丈夫」
 その髪の毛に寝ぐせがついているのを見て「短くなったから寝ぐせついてるな」と笑うと、剛士は俺をちらっと見て起き上がった。
 そんな寝ぐせがついているところも可愛いと思うのだが、不機嫌そうに「急いで直してくる」と言われて、それ以上何も言えなくなる。
 頭から水をかぶって寝ぐせを直した剛士と、ソファーを家の中から運び出す。
「囲碁は?」
「今だけトイレに入ってもらってる」
「じゃあ大丈夫か」
 玄関を大きく開けたまま、角度を変えながらなんとか廊下に出すと、俺が先頭となって後ろ向きで歩き、一段ずつ足元を確認しながら階段を降りていく。
 そんなに大きくないソファーだが、ずっと持っているとさすがに重かった。
 粗大ごみの収集場所はアパートから百メートルほど歩いたところにあり、半分ほどのところでいったん道端に下ろして休むことにする。
「なんかさ、このソファーを捨てるってなると少し寂しい気もして」
 剛士が腰に手をあててソファーを見下ろし、独り言のように言った。意外な言葉に少し驚く。
 一昨日、ソファーを捨てることに対して不満がありそうだったのは、俺が剛士に断らなかったことが原因なのではなく、捨てることに寂しさを感じていたからだったのだろうか。
 剛士の中でも、このソファーに二人で座っていた日が大切な思い出として残っているのなら、それはそれで嬉しいことだと思う。
 ただ、その一方で、そういった思い出はときに切なさを増幅してしまうわけで。
「そうだな。でも、一人で座り続けるのも寂しかったからさ」
 少しだけ複雑な気持ちで、そんな答え方をしてしまう。もし、剛士が今でも部屋に来てこのソファーに一緒に座っていたら、俺は捨てようとは思わなかっただろうから。
 嫌味っぽかったか、と思いちらっと見ると、俺の言葉が聞こえていたのかどうかも分からないくらい、何の感情も浮かんでいない顔で、剛士はソファーを見つめていた。
 三分ほど休んだ後、再度持ち上げて運んだ俺たちは、収集場所である道端にそっとそれを下ろし、粗大ごみのシールが貼られた思い出のソファーと無言でお別れをした。
「俺、あのソファーの上でお前のこと膝枕するの好きだったよ」
 アパートに向かって戻りながら、俺はできるだけ明るい声で言う。
「お前が寝転がりながらラノベ読んでるのとかいまだに覚えてる」
「俺は、柊人が俺の場所を空けて座ってるのを見るのが好きだったな。柊人の隣にはいつでも俺がいるんだって思えたから」
 淡々と剛士が答えた。
――柊人の隣にはいつでも俺がいるんだって思えた。
 俺にとって切なさしかなかったあの一人分のスペースが、剛士にとっては俺の愛情を感じるスペースになっていたという驚きと、それが過去形で表わされていることへの心もとなさを同時に感じる。
 今すぐ隣を歩いている剛士の手を握りたいと思う。自分の隣にいるのは、今でもお前なんだと分かってもらうために。
 でも、通勤や通学の人たちが行きかう道ではその手を握るわけにもいかず、俺は柊人の細い指を見ることしかできない。
「朝からありがとな」
 アパートに戻ってそう言うと「大丈夫。じゃあ仕事頑張ってね」と剛士が少しだけ笑顔になって答えてくれた。
「うん」
 剛士が部屋に入るのを見届けて、俺も自分の家に入り、トイレから囲碁を解放すると仕事に行く準備を始める。
 ソファーが思い出も一緒に持って行ってしまったかのように、部屋がやけにがらんと寒々しい雰囲気になったように感じられた。