――失敗した。
剛士が出ていったばかりの玄関の扉を見つめながら、俺は床に座り込みため息をつく。
こんなはずではなかった。
囲碁を予定外に飼うことになったから、まずは時間をかけて囲碁も含めた生活に慣れてもらって、それから引っ越しの話を持ち出すつもりだったのに、この部屋を出ることを前提にした内容をうっかり口走ってしまうなんて、ほんとバカだ。
もう立ち上がる気力もわかず、四つ這いでリビングの方まで戻り、人をダメにするクッションに顔を埋める。
剛士の困惑しきった顔が思い出されて、そのままクッションに頭突きをする。ぽすっぽすっという気の抜けた音が、自分の間抜けさを表わしているかのようだ。
思ってもみなかったって顔だったよな、と思う。そして全然乗り気でもないと言うことが分かってしまい、ただただつらい。
ふと、足の先にふわっとしたものが当たり、クッションから顔をあげると囲碁が寄ってきていた。
「お前が来たのも、逆にいいきっかけになるかもって思ってるんだけどな」
そう言って撫でると、のどからグーグーという音を出し始める。
「俺、こっからどうリカバーすればいいんだろうなぁ。囲碁教えてくんない?」
囲碁は床にそのままごろんと転がる。こういう仕草を見ると、本当に心を許してきてくれているんだなと感じられて、落ち込んでいた気持ちが少しだけ慰められる。
お腹の部分をわしゃわしゃと撫でると、囲碁が両手で俺の手を抱え込み、後ろ足をそろえて蹴りを入れてきた。ちょっと痛いのだが、手をお腹からどけると、仰向けの姿勢のまま手足を広げて期待をこめた眼差しでこちらを見るので、またついついお腹をわしゃわしゃとやりたくなってしまう。また手を離すとぱっと開く囲碁の手のひらの肉球が可愛い。
「あー、剛士のことも触りたい」
クッションに頭をつけたまま、囲碁を両手で撫でまわして蹴られる俺の口から、願望が漏れ出す。
キスして触ってめちゃめちゃに可愛がりたい。
触れなくなってどのくらい経つだろうか。囲碁が来たくらいからキスもしていないし、その身体に触れたのなんて、それよりもだいぶ前の話だ。
気持ちが知りたいからって、剛士相手に駆け引きみたいなことをしなければよかった。今まで一度だって向こうから好きだとか会いたいだとか言ってくれたことがないのに、自分が引いたところで剛士から求めてくれるなんてことはありえないことくらい、分かり切っていたことじゃないか。しかも、そのせいで誘うタイミングすらもう分からなくなってしまった。
飽きてしまったのか、囲碁が俺の手に軽く噛みつくと、身体を翻して離れていく。
「囲碁―、お前も離れていくのかぁぁぁぁ」
あーあ、とため息をついて、俺はもう一度クッションに顔を埋めた。
そういえば、このクッションを買ってソファーを捨てることにしたのも気に入らないみたいだったな。いい加減捨てたらって言っていたのは剛士のほうだったのに。一緒に買ったものだから一言断るべきだという理屈は分かるけど。
でも、一人であのソファーに座るのも寂しくなっていたのだ。ついつい剛士のためのスペースをいつも空けてしまうけど、そこには誰も座らないという日々があまりにも続きすぎて。
少しだけ顔をあげ、テレビの隣にあるソファーを見る。
あのソファーに座る俺の膝に剛士が頭を乗せ、寝転がってラノベを読むのが日課だったのは、もう何年前のことになるのだろう。
もうあんな日は戻ってこないのかもしれないと思うと切なくなり、俺はソファーから目を逸らすとまたクッションに顔を埋めた。
*
「今日はまた暗いっすね。しかも弁当でもないし。どうしたんすか」
「お前のせいだと言えないこともない」
「俺っすか?なんかありましたっけ?」
コンビニで買ってきた菓子パンの袋を開けながら、隣の席の阿藤が思案顔になる。
「あ、もしかして伊藤さんのとこからクレーム来たとか?違うんすよー。あそこの娘さんが、俺に連絡先を個人的に教えて欲しいってしつこいから」
「え、まさか教えたのか」
「教えてないっす。断ってむしろちょっと距離を取るようにしたら、なんか不機嫌になってたっぽいから、もしかしたら逆恨みのクレームが来たりしたのかなって」
「いや、違うけどさ。でも、お前もう少し気を付けないと」
「俺は何もしてないのに向こうから寄ってくるし、仕方なくないっすか」
そう言ってコーラを飲む横顔は、確かにイケメンである。
爽やかというよりは、パーマをかけた髪を明るく染めてピアスも開けている阿藤にはちょっとチャラい雰囲気があるのだが、その外見とPTとして働くときの柔らかで親切な態度のギャップがいいのか、訪問先の女性に言い寄られることが今までも何度もあったらしい。
もちろんプライベートでもモテる阿藤は、高校のときから彼女が途切れたこともほとんどないと前に言っていた。
まあ俺だって高校時代から剛士と付き合っているわけだから、途切れたことはないと言えるかもしれないけど。
「で、伊藤さんじゃないとしたら、何が俺のせいなんすか」
「お前の恋愛テクニックに従って引いてみたら、これ以上ないくらい距離が開いたままなんだけど」
「あー、例の愛しのダーリンっすか」
「そう」
男の恋人がいるということは、職場ではオープンにしている。ただ、剛士は付き合いだしてから今に至るまで、絶対誰にも言いたくないというスタンスなので、こうやって職場の人に話しているということは秘密だ。
「しかもさ。昨日久しぶりに会えたからちょっとテンションあがっちゃって、うっかり引っ越したいと思っていることを口にしたら、すげー困らせて」
「あぁ、一緒に暮らしたいって言ってましたもんね。嫌だって言われたんすか」
「さすがに嫌だとは言われてないけど、急にそんなこと言われてもって感じで、あとは無言になっちゃった」
「やっぱ安田さん重いと思われてるんじゃないっすか。一緒に住んだらめんどくさそうって」
「最近の俺は重くないはずなんだけどな……囲碁が来てからそれを理由にしてあまりうちのダーリンには構わないようにしてるし」
「もしかして、駆け引きしてるのがあからさますぎて、ドン引きされてるとか」
「そうだとしたら、もう何をしても裏目にしか出ないってことだよな……」
「まあ、ファイトです」
「こんな心のこもってない励まし聞いたの初めてだわ」
コンビニのおにぎりのフィルムをはがして、かぶりつく。今朝は弁当を作る気力もなかった。剛士が一緒に住んでくれたら、それだけで料理するモチベーションもあがるのに、あの様子からいってしばらくは無理そうだという現実にため息しかでない。
そもそも、この町に引っ越してくるときだって、俺は大学のときと同じように一緒に住もうと言ったのだ。
でも剛士は『一緒に住んだら絶対に甘えが出て、仕事にも妥協するようになりそうだから嫌だ』と断り、俺がじゃあいつになったらまた一緒に住めるのかと食い下がったら『お前に頼らなくてもいいくらい収入が安定するか、忙しくてもう一人じゃ無理ってなったときかな』と言っていた。
――それって、まさに今じゃねーのかなぁ。
二年前くらいから、剛士は仕事が忙しくなっていて、以前よりさらに不規則な生活を送っている。同時に、毎日のように出前を頼むようになってきたところを見ても、収入は問題なく得られるようになっているのだろう。
それでも、剛士が納得できるまで同居は待とうと思い、向こうから言い出してくれるのをずっと楽しみにしていた。
しかし、もうその約束さえ剛士の中ではなかったことになっている可能性もある。
冷たい麦茶をペットボトルから飲みつつ考える。
剛士にとって、今の俺って何なんだろうな。
あいつの人生に必要な存在だと思ってくれているんだろうか。
*
バスを降りて家の方向へ足を向けると、そのほぼ正面に西日が照っていた。
眩しさに少し目を細めた俺は、オレンジ色に染め上げられた住宅街の中、職場近くのスーパーで買ってきたキャットフードが入ったビニールをぶらぶらと揺らしながら歩いていく。
そこに、突然後ろから「柊人」と声がかかった。
思わぬ声に驚いて振り返った俺は、そのまま目を見開いて立ち止まる。
そこに立っていたのは、髪の毛をすっきりと短くカットした剛士だった。
しかも、いつもTシャツにハーフパンツ、そしてサンダルというのが定番の格好なのに、ジーンズをはいてボタンダウンのシャツを着ている。
「な……どうしたのお前」
「買いたいものがあってコンビニに来てた」
そう言って小さなビニール袋を掲げて見せてくる。
「いや、そうじゃなくて、その髪とか……格好とか」
「あぁ……変?」
「変じゃないけどさ」
変どころか、高校以来の短髪姿が可愛すぎて、目を離せない。
俺があまりにも見ているからか、ちょっと恥ずかしそうな顔をした剛士が近づいてくる。
「ちょっと気分転換したくて」
「そっか」
どういう心境の変化なんだろうと思いつつ、それ以上突っ込めず俺たちは並んで歩き出す。
少し低いところにあるその耳や、うなじをさりげなく見る。高校時代に並んで歩いていたときにも、よくこうやって盗み見ていたものだ。
ふと剛士が見上げてきて、少しだけやましい気持ちで見ていた俺は、慌てて目を逸らす。
「その袋に入ってるの、キャットフード?」
「うん」
「そのキャットフードって、どのくらいあげるの」
「え、囲碁に?」
「そう」
「朝と夜一回ずつ」
「量は?」
「量?前に飼われてたところで使ってた計量カップに線が引いてあって、それのとおりにあげてるからはっきりとした量は分かんないけど」
「ふーん」
なんだなんだ、と思う俺の隣で考えるようにしばらく黙った剛士は「猫を飼ってて一番大変なことって何」とまた聞いてくる。
「何、どうしたの。猫の記事でも書くのか」
「いや、そうじゃないけど……あぁ、でもそういう手もあるかも。まあいいや、とりあえず柊人が一番大変だと思うことって何?」
「大変なこと?」
もしかして、一緒に住むことを前向きに考えようとしてくれているのだろうか。そのために、囲碁の世話のことも知っておこうと思ってくれているのかもしれない。
思わず意気込んで「いや、そんな大変なことないし、俺が全部自分でやるから大丈夫。だから、昨日の話なんだけど……」と言いかけると、剛士の顔がさっと曇った。
「ごめん、その話はまだちょっと、なんていうか気持ちの準備ができてないから」
「あ、そっか……ごめん」
だから焦っちゃダメだって昨日反省したばかりなのに、と自分で自分を殴りたくなる。
剛士もまた黙ってしまい、二人で静かに歩道もない細い道路の端を歩き続ける。
「えっと……」
自分たちの住むアパートが見えてきたところで、俺は口を開く。
「仕事は進んでる?」
「あ、まあいつも通り」
「あんまり無理すんなよ」
「分かってる……あの、心配してくれてありがとな」
「……ど、どういたしまして?」
本当にどうしたんだろうか。
髪を切って、洋服を整えて、猫のことを聞いてきて、さらにお礼を言うだと?
少しだけ俺に笑顔を見せ、また前を向いて歩く剛士が俺の知っている剛士ではないみたいで、戸惑ってしまう。
もしかしたら。
自分は一人でも大丈夫なことをアピールしているのかもしれないと思いついて、少しだけため息をつく。
俺が一緒に住まなくても、一人でもやっていけることをアピールするために、身なりを整えて、ちゃんとお礼を言ってみたりして。猫のことは……たぶん俺がキャットフードを持っているから気になっただけだろう。そこまで深く考えているわけではなく。
アパートにつき、隣り合った郵便受けから同じチラシを取り出した俺たちは、階段を上る。
そして、剛士の部屋のドアの前についたところで、俺は「夕飯、食べにくる?」と声をかけてみた。
「あー……」
剛士が少し考えた後「うん」と頷いた。
「忙しいなら無理しなくてもいいけど」
「明日までの仕事だから大丈夫」
「徹夜とかにならない?」
「……」
「じゃあ、俺何か作ってお前の部屋行くから。仕事して待ってて」
「あの、あのさ」
「何?」
「迷惑なら無理しなくても。俺、出前取るし」
「お前が出前のほうがいいなら、それこそ無理しなくてもいいけど」
「いや、そんなことはない」
「じゃあ持ってくから。七時半くらいに行く」
「分かった」
ちょっとほっとしたような顔をした剛士の肩を軽く叩いて隣の自分の家に向かう。自分の部屋の鍵を開けたところで、こっちを見ていた剛士と目が合い、少し照れ臭いような気持で笑いかけると剛士も笑い返してきた。
――なんなんだ。この微妙な距離感。
玄関に入って思わず苦笑する。もう十一年も付き合っているのに、なんか変な感じだ。
あの髪型のせいかな、と思う。ちょっと幼くなったその姿に、片思いしていた頃の学ラン姿の剛士が重なる気がする。
剛士が出ていったばかりの玄関の扉を見つめながら、俺は床に座り込みため息をつく。
こんなはずではなかった。
囲碁を予定外に飼うことになったから、まずは時間をかけて囲碁も含めた生活に慣れてもらって、それから引っ越しの話を持ち出すつもりだったのに、この部屋を出ることを前提にした内容をうっかり口走ってしまうなんて、ほんとバカだ。
もう立ち上がる気力もわかず、四つ這いでリビングの方まで戻り、人をダメにするクッションに顔を埋める。
剛士の困惑しきった顔が思い出されて、そのままクッションに頭突きをする。ぽすっぽすっという気の抜けた音が、自分の間抜けさを表わしているかのようだ。
思ってもみなかったって顔だったよな、と思う。そして全然乗り気でもないと言うことが分かってしまい、ただただつらい。
ふと、足の先にふわっとしたものが当たり、クッションから顔をあげると囲碁が寄ってきていた。
「お前が来たのも、逆にいいきっかけになるかもって思ってるんだけどな」
そう言って撫でると、のどからグーグーという音を出し始める。
「俺、こっからどうリカバーすればいいんだろうなぁ。囲碁教えてくんない?」
囲碁は床にそのままごろんと転がる。こういう仕草を見ると、本当に心を許してきてくれているんだなと感じられて、落ち込んでいた気持ちが少しだけ慰められる。
お腹の部分をわしゃわしゃと撫でると、囲碁が両手で俺の手を抱え込み、後ろ足をそろえて蹴りを入れてきた。ちょっと痛いのだが、手をお腹からどけると、仰向けの姿勢のまま手足を広げて期待をこめた眼差しでこちらを見るので、またついついお腹をわしゃわしゃとやりたくなってしまう。また手を離すとぱっと開く囲碁の手のひらの肉球が可愛い。
「あー、剛士のことも触りたい」
クッションに頭をつけたまま、囲碁を両手で撫でまわして蹴られる俺の口から、願望が漏れ出す。
キスして触ってめちゃめちゃに可愛がりたい。
触れなくなってどのくらい経つだろうか。囲碁が来たくらいからキスもしていないし、その身体に触れたのなんて、それよりもだいぶ前の話だ。
気持ちが知りたいからって、剛士相手に駆け引きみたいなことをしなければよかった。今まで一度だって向こうから好きだとか会いたいだとか言ってくれたことがないのに、自分が引いたところで剛士から求めてくれるなんてことはありえないことくらい、分かり切っていたことじゃないか。しかも、そのせいで誘うタイミングすらもう分からなくなってしまった。
飽きてしまったのか、囲碁が俺の手に軽く噛みつくと、身体を翻して離れていく。
「囲碁―、お前も離れていくのかぁぁぁぁ」
あーあ、とため息をついて、俺はもう一度クッションに顔を埋めた。
そういえば、このクッションを買ってソファーを捨てることにしたのも気に入らないみたいだったな。いい加減捨てたらって言っていたのは剛士のほうだったのに。一緒に買ったものだから一言断るべきだという理屈は分かるけど。
でも、一人であのソファーに座るのも寂しくなっていたのだ。ついつい剛士のためのスペースをいつも空けてしまうけど、そこには誰も座らないという日々があまりにも続きすぎて。
少しだけ顔をあげ、テレビの隣にあるソファーを見る。
あのソファーに座る俺の膝に剛士が頭を乗せ、寝転がってラノベを読むのが日課だったのは、もう何年前のことになるのだろう。
もうあんな日は戻ってこないのかもしれないと思うと切なくなり、俺はソファーから目を逸らすとまたクッションに顔を埋めた。
*
「今日はまた暗いっすね。しかも弁当でもないし。どうしたんすか」
「お前のせいだと言えないこともない」
「俺っすか?なんかありましたっけ?」
コンビニで買ってきた菓子パンの袋を開けながら、隣の席の阿藤が思案顔になる。
「あ、もしかして伊藤さんのとこからクレーム来たとか?違うんすよー。あそこの娘さんが、俺に連絡先を個人的に教えて欲しいってしつこいから」
「え、まさか教えたのか」
「教えてないっす。断ってむしろちょっと距離を取るようにしたら、なんか不機嫌になってたっぽいから、もしかしたら逆恨みのクレームが来たりしたのかなって」
「いや、違うけどさ。でも、お前もう少し気を付けないと」
「俺は何もしてないのに向こうから寄ってくるし、仕方なくないっすか」
そう言ってコーラを飲む横顔は、確かにイケメンである。
爽やかというよりは、パーマをかけた髪を明るく染めてピアスも開けている阿藤にはちょっとチャラい雰囲気があるのだが、その外見とPTとして働くときの柔らかで親切な態度のギャップがいいのか、訪問先の女性に言い寄られることが今までも何度もあったらしい。
もちろんプライベートでもモテる阿藤は、高校のときから彼女が途切れたこともほとんどないと前に言っていた。
まあ俺だって高校時代から剛士と付き合っているわけだから、途切れたことはないと言えるかもしれないけど。
「で、伊藤さんじゃないとしたら、何が俺のせいなんすか」
「お前の恋愛テクニックに従って引いてみたら、これ以上ないくらい距離が開いたままなんだけど」
「あー、例の愛しのダーリンっすか」
「そう」
男の恋人がいるということは、職場ではオープンにしている。ただ、剛士は付き合いだしてから今に至るまで、絶対誰にも言いたくないというスタンスなので、こうやって職場の人に話しているということは秘密だ。
「しかもさ。昨日久しぶりに会えたからちょっとテンションあがっちゃって、うっかり引っ越したいと思っていることを口にしたら、すげー困らせて」
「あぁ、一緒に暮らしたいって言ってましたもんね。嫌だって言われたんすか」
「さすがに嫌だとは言われてないけど、急にそんなこと言われてもって感じで、あとは無言になっちゃった」
「やっぱ安田さん重いと思われてるんじゃないっすか。一緒に住んだらめんどくさそうって」
「最近の俺は重くないはずなんだけどな……囲碁が来てからそれを理由にしてあまりうちのダーリンには構わないようにしてるし」
「もしかして、駆け引きしてるのがあからさますぎて、ドン引きされてるとか」
「そうだとしたら、もう何をしても裏目にしか出ないってことだよな……」
「まあ、ファイトです」
「こんな心のこもってない励まし聞いたの初めてだわ」
コンビニのおにぎりのフィルムをはがして、かぶりつく。今朝は弁当を作る気力もなかった。剛士が一緒に住んでくれたら、それだけで料理するモチベーションもあがるのに、あの様子からいってしばらくは無理そうだという現実にため息しかでない。
そもそも、この町に引っ越してくるときだって、俺は大学のときと同じように一緒に住もうと言ったのだ。
でも剛士は『一緒に住んだら絶対に甘えが出て、仕事にも妥協するようになりそうだから嫌だ』と断り、俺がじゃあいつになったらまた一緒に住めるのかと食い下がったら『お前に頼らなくてもいいくらい収入が安定するか、忙しくてもう一人じゃ無理ってなったときかな』と言っていた。
――それって、まさに今じゃねーのかなぁ。
二年前くらいから、剛士は仕事が忙しくなっていて、以前よりさらに不規則な生活を送っている。同時に、毎日のように出前を頼むようになってきたところを見ても、収入は問題なく得られるようになっているのだろう。
それでも、剛士が納得できるまで同居は待とうと思い、向こうから言い出してくれるのをずっと楽しみにしていた。
しかし、もうその約束さえ剛士の中ではなかったことになっている可能性もある。
冷たい麦茶をペットボトルから飲みつつ考える。
剛士にとって、今の俺って何なんだろうな。
あいつの人生に必要な存在だと思ってくれているんだろうか。
*
バスを降りて家の方向へ足を向けると、そのほぼ正面に西日が照っていた。
眩しさに少し目を細めた俺は、オレンジ色に染め上げられた住宅街の中、職場近くのスーパーで買ってきたキャットフードが入ったビニールをぶらぶらと揺らしながら歩いていく。
そこに、突然後ろから「柊人」と声がかかった。
思わぬ声に驚いて振り返った俺は、そのまま目を見開いて立ち止まる。
そこに立っていたのは、髪の毛をすっきりと短くカットした剛士だった。
しかも、いつもTシャツにハーフパンツ、そしてサンダルというのが定番の格好なのに、ジーンズをはいてボタンダウンのシャツを着ている。
「な……どうしたのお前」
「買いたいものがあってコンビニに来てた」
そう言って小さなビニール袋を掲げて見せてくる。
「いや、そうじゃなくて、その髪とか……格好とか」
「あぁ……変?」
「変じゃないけどさ」
変どころか、高校以来の短髪姿が可愛すぎて、目を離せない。
俺があまりにも見ているからか、ちょっと恥ずかしそうな顔をした剛士が近づいてくる。
「ちょっと気分転換したくて」
「そっか」
どういう心境の変化なんだろうと思いつつ、それ以上突っ込めず俺たちは並んで歩き出す。
少し低いところにあるその耳や、うなじをさりげなく見る。高校時代に並んで歩いていたときにも、よくこうやって盗み見ていたものだ。
ふと剛士が見上げてきて、少しだけやましい気持ちで見ていた俺は、慌てて目を逸らす。
「その袋に入ってるの、キャットフード?」
「うん」
「そのキャットフードって、どのくらいあげるの」
「え、囲碁に?」
「そう」
「朝と夜一回ずつ」
「量は?」
「量?前に飼われてたところで使ってた計量カップに線が引いてあって、それのとおりにあげてるからはっきりとした量は分かんないけど」
「ふーん」
なんだなんだ、と思う俺の隣で考えるようにしばらく黙った剛士は「猫を飼ってて一番大変なことって何」とまた聞いてくる。
「何、どうしたの。猫の記事でも書くのか」
「いや、そうじゃないけど……あぁ、でもそういう手もあるかも。まあいいや、とりあえず柊人が一番大変だと思うことって何?」
「大変なこと?」
もしかして、一緒に住むことを前向きに考えようとしてくれているのだろうか。そのために、囲碁の世話のことも知っておこうと思ってくれているのかもしれない。
思わず意気込んで「いや、そんな大変なことないし、俺が全部自分でやるから大丈夫。だから、昨日の話なんだけど……」と言いかけると、剛士の顔がさっと曇った。
「ごめん、その話はまだちょっと、なんていうか気持ちの準備ができてないから」
「あ、そっか……ごめん」
だから焦っちゃダメだって昨日反省したばかりなのに、と自分で自分を殴りたくなる。
剛士もまた黙ってしまい、二人で静かに歩道もない細い道路の端を歩き続ける。
「えっと……」
自分たちの住むアパートが見えてきたところで、俺は口を開く。
「仕事は進んでる?」
「あ、まあいつも通り」
「あんまり無理すんなよ」
「分かってる……あの、心配してくれてありがとな」
「……ど、どういたしまして?」
本当にどうしたんだろうか。
髪を切って、洋服を整えて、猫のことを聞いてきて、さらにお礼を言うだと?
少しだけ俺に笑顔を見せ、また前を向いて歩く剛士が俺の知っている剛士ではないみたいで、戸惑ってしまう。
もしかしたら。
自分は一人でも大丈夫なことをアピールしているのかもしれないと思いついて、少しだけため息をつく。
俺が一緒に住まなくても、一人でもやっていけることをアピールするために、身なりを整えて、ちゃんとお礼を言ってみたりして。猫のことは……たぶん俺がキャットフードを持っているから気になっただけだろう。そこまで深く考えているわけではなく。
アパートにつき、隣り合った郵便受けから同じチラシを取り出した俺たちは、階段を上る。
そして、剛士の部屋のドアの前についたところで、俺は「夕飯、食べにくる?」と声をかけてみた。
「あー……」
剛士が少し考えた後「うん」と頷いた。
「忙しいなら無理しなくてもいいけど」
「明日までの仕事だから大丈夫」
「徹夜とかにならない?」
「……」
「じゃあ、俺何か作ってお前の部屋行くから。仕事して待ってて」
「あの、あのさ」
「何?」
「迷惑なら無理しなくても。俺、出前取るし」
「お前が出前のほうがいいなら、それこそ無理しなくてもいいけど」
「いや、そんなことはない」
「じゃあ持ってくから。七時半くらいに行く」
「分かった」
ちょっとほっとしたような顔をした剛士の肩を軽く叩いて隣の自分の家に向かう。自分の部屋の鍵を開けたところで、こっちを見ていた剛士と目が合い、少し照れ臭いような気持で笑いかけると剛士も笑い返してきた。
――なんなんだ。この微妙な距離感。
玄関に入って思わず苦笑する。もう十一年も付き合っているのに、なんか変な感じだ。
あの髪型のせいかな、と思う。ちょっと幼くなったその姿に、片思いしていた頃の学ラン姿の剛士が重なる気がする。