窓際には小さな箱や台が組み合わされたキャットタワーが置かれ、そのキャットタワーにつながるように、高さの違うカラーボックスが階段状に置かれている。
もともとそこに置かれていた二人掛けのソファーはテレビの横というよく分からない場所に追いやられ、代わりに床にはやけに大きなクッションが二つ置かれていた。
「……模様替えしたんだ」
「あ、そうそう。前に囲碁が住んでたの一軒家だったから、少しでも家の中で動けるように工夫してみようと思って」
「でも、こんなとこにソファー置いたらテレビ見れないし邪魔じゃない?」
「いや、そのソファー古いし、この機会に捨てようと思うんだ。明後日に粗大ごみの回収があるから、出勤前に出すの手伝ってもらってもいいかな」
「え」
「あ、予定も聞かないでごめん。会ったら言おうと思ってたんだけど、なかなか会う機会なかったからさ。無理そうなら職場の人に頼むけど」
キッチンのすぐ横に置かれた二人掛けの小ぶりなテーブルの上に焼き魚を運びながら柊人が言う。
その足元で囲碁が柊人を見上げているのを見て、焼き魚を盗んで食べたりしないのかなと会話と関係ないことを考えながら俺は口を開く。
「まあ……大丈夫だけど」
「ごめんな。助かるわ。朝起こしに行くから」
柊人は笑顔で言って、今度はみそ汁を鍋からお椀によそう。囲碁は先ほどと位置を変えず、そんな柊人を目で追っている。
せめてテーブルに持っていくくらいのことはやろうと、俺はキッチンに行き、みそ汁の入ったお椀を受け取った。
「よろしくー」と言って、もう一つのお椀も渡してくる柊人の顔は、いつもと変わらず穏やかだ。
つまり、ソファーを捨てることに対して、後ろめたさだとかそういったものは何も感じていないと言うことだろう。
あのソファーは、一緒に住みはじめたばかりのころに二人で選んで買ったものだ。そして、ここに引っ越すことが決まったときに、柊人が使いたいからと言って持ってきた。
安物だったし、引っ越し荷物を減らすためにも、捨てて新しいものを買えばいいんじゃないかと俺が言ったときに『だっていろんな思い出が詰まってるしさ』と柊人は答えた。
『このソファーにお前と一緒に座るのが当たり前だったから、なんか手離せない』
そんなもんかな、とそれを聞いたときは思っただけだったが、確かに引っ越した後、柊人の部屋に来てソファーに座ると、その肌触りや座り心地になんだか安心したのを思い出す。
でも、最近は柊人の部屋でテレビを見ながらのんびりすることは少なくなっていたし、あのソファーに座ることもあまりなかった。だから柊人がもういらないと判断したのも分からないでもない。
分からないでもないけど、なんだか引っかかる。
「囲碁、お前にもちょっとだけな」
柊人が床にしゃがみこみ、人間用とは別にしておいたらしい魚の身をほぐして小皿に入れはじめた。
その丸まった背中に「なあ」と俺は声をかける。
「ん?」
柊人が、俺を笑顔で見上げる。
「なんで俺に一言も相談しないでソファー捨てるの」
「え?」
「このソファー、もともとは二人で折半して買ったやつなのに」
「あ、あぁ、そう、だよな。ごめん」
目をぱちくりとして柊人が謝った。その顔には思わぬことを言われた、と書いてある。
「別に捨てるなって言うわけじゃないけど。どうせ俺は最近座ることもなかったし」
俺が少し不機嫌そうに言うと、ふっと少し困ったように柊人が笑う。
分かってる。また面倒なことを言い出したなとでも思っているんだろう。自分でもそう思うし。
「うん、でも確かに一言断るべきだったな。ごめんな。どうしてもキャットタワーとか棚とか置こうと思ったらソファーを置ける場所がなくなっちゃってさ。でも、代わりに買ったあの大きいクッション、人をダメにするって言われてるだけのことはあって、座り心地がすげーいいの。あとで座ってみてよ」
「……分かった」
柊人から目をそらし、俺は大人しく椅子に座る。
俺との思い出があるからって言って大事にしてたんだから、ちょっとくらい捨てるのを寂しく感じたりしているんじゃないか、と思ったけど、柊人の態度から察するに未練のミの字もないようだった。
「じゃあ食べようか」
柊人が正面に座り、二人で「いただきます」と声をそろえる。
「俺さ」
食べ始めてすぐ、ご飯を口に運びながら、柊人が口を開いた。
俺はみそ汁を一口飲み、柊人の顔に目を向ける。
「お前も知ってのとおり、あんまり物欲ないだろ。まあ家も生活できればいいやって感じで気にもしてなかったしさ。でもこうして囲碁が来て、あれこれ部屋に置くものとか考えるようになったら、なんか楽しくなってきて」
「へー」
「猫も人もくつろげる部屋がいいなって思うようになったんだよな。でも、部屋のことなんて考えたこともないから、いろんなインテリアが載ってるアプリをスマホにダウンロードして、最近それよく見てんの。あのクッションも、1DKに住んでる人がソファー代わりに使ってるの見て、勢いでポチッてさ」
それで今は、リビングに置く棚が気になっていると、柊人は嬉しそうに話し続けた。やっぱりいつまでもカラーボックスって言うのもどうかと思うし、と。
――生き生きしてるな
叩かれない壁を見つめて「孤悲」だなんて言葉を思い浮かべていた自分とあまりに違いすぎて、実は二人の間に見えない幕があって、俺たちは違う世界線を生きているのではないかと疑ってしまうほどだ。
俺、最近なんか楽しいと思ったことあったっけ。
ちょっと考えてみるがまったく思いつかず、やれやれと焼き魚に箸を伸ばした俺の前で柊人は続けた。
「まあでも、そういう大型の家具はここを出るまでに、ゆっくり選べばいいかな。せっかくだから全体で統一感も持たせたいし、それに……」
「え?」
聞き間違いだろうか、と思う。
「ん?」
「柊人この部屋出るつもりなの?」
「あ、別に今すぐってことじゃないけど、このままずるずるとお前と隣同士で住み続けるのもどうかと思うから、そろそろ新しい部屋を見つけて引っ越したいかなって。ほら、囲碁にとっても、もっと広い部屋のほうが快適だろうし、いい機会だと思ってさ」
思わぬ話に、理解が追いつかない。
ソファーだけじゃなくて。
俺のことも捨てて出ていくつもりなんだろうか。
「……いや、ちょっと待って。急にそんなこと言われても」
「あ、ごめん。でもお前も仕事頑張ってるし、もう収入も大丈夫そうだろ? それにさ、しばらく前からベランダにもあんまり出てこなくなったし、剛士もそろそろ限界を感じてるのかなって思ってたんだけど……あれ、違った?」
ついさっきまで楽し気に未来を語っていた柊人の表情が、困ったなと言いたげに曇っていくのを見つめる。
もう柊人の中では、俺たちの仲はマンネリどころか終わりを迎えているという認識だった?
しかも、これまで隣に住んでいてくれたのは、収入が不安定な俺を心配してくれていたから?
囲碁に、柊人の恋人だと図々しく自己紹介したさっきの自分を思い出し、無性に恥ずかしくなった俺は視線をテーブルへと落とす。柊人にとっての俺は、とっくに恋人ではなかったのかもしれない。
そのまま何も言葉にすることができない俺に「ごめんな、俺、なんか独りよがりだったな」と申し訳なさそうに柊人が言ってくる。
「また今度、改めて話そうか。心配なこととか不安なこととかさ、遠慮しないでなんでも言ってくれていいから」
「……分かった」
「とりあえず夕飯食おうか。冷めちゃうし」
「うん」
その後、お互い黙りこくったまま夕飯を食べ終えた俺たちは、気まずい空気のまま玄関で別れた。
もちろん、おやすみのキスなどすることもなく、少し強張った笑顔で見送ってくれた柊人に、俺もぎこちない笑顔を返すことしかできなかった。
久しぶりに柊人の家に行くからと、今日までに仕上げなければいけない仕事をすべて終わらせていた俺は、家に帰り、電気をつけたあとソファーに座ってぼんやりと考えを巡らせ始める。
柊人が、俺から離れていく。
なんというか、考えたこともなかった。柊人がそばにいるのは当然のことで、このまま一生なんとなく一緒に過ごしていくものだとしか思っていなかった。そのせいか、柊人がいなくなることを想像してもまったく実感がわかず、どうしようとは思うし多少ショックも感じているものの、悲しいとかそんな気持ちにはならない。
ただ、柊人がいなくなれば、俺はこの先ずっと一人で過ごすことになるだろうということだけは分かる。
こんな引きこもって仕事しかしていない、偏屈でつまらないやつを好きだと言ってくれる人なんてこの先現れないだろうし、仮に現れたとしても、お互いの気持ちを探り合い、気遣いながらデートに出かけ、タイミングをはかってキスをし、その先へ進みという恋愛における労力を考えるだけでも知恵熱がでそうだ。
――そもそも同じ労力をかけるなら、柊人を引き留めるのにそれを使ったほうがずっといいしな。
ふとそんな考えが浮かんできて、あぁ、と思う。
そうか。柊人にそばにいてもらうために、努力すればいいのか。
でも努力するとして、何をすればいいのか、柊人との付き合いの中では常に受け身だったうえ、その他の恋愛経験がまったくない自分には想像もできない。
まずは何事も勉強だと、俺はソファーから立ち上がり、仕事用のデスクに向かった。
デスクのペン立てから鉛筆を手に取り、プリンターのところに置いてあったコピー用紙の束から1枚の紙を抜き出してちゃぶ台の前にあぐらをかき、ハーフパンツのポケットからスマホを取り出す。
「復縁……方法……」
呟きながら検索窓に入力すると「心理学」というサジェストが出てきたので、それをクリックし、とりあえず一番上のホームページから順に見ていく。
中には、いかにも怪しげなものもあり、でもこんなものにもすがりたいほど、復縁したいと必死に思う人が多いということなのかもしれないと思ったりもする。
必要そうなところだけ紙に書き出しながら十個ほどの記事を読み、とりあえず有用そうなポイントにチェックをつけた俺は、今度はスマホのメモ帳アプリを開いて書き込んでいく。
【1.顔を合わせる回数を増やす】
【2.相手を特別扱いする。お前にしか言えない、など】
【3.こまめに好意と感謝を伝える】
【4.役に立つところをアピール。囲碁の世話とか?】
【5.イメチェンする】
【6.相手と同じ行動をする。ミラーリング】
【7.追いかけすぎると逃げられるから注意。あくまでもさりげなく】
メモに書いた箇条書きを腕を組んで見つめ、まずはどこからできるだろうかと考える。
会えないことには始まらないけど、急に会おう会おうと言ったら逃げられるかもしれないし、そもそもそういうことを言ったことがないから、ハードルも高い。
となると、まずは柊人の帰宅時間に合わせてさりげなく外に出て顔を合わせるのがいい気がする。
あとは、イメチェンか。
伸ばしっぱなしの髪の毛の先を指でつまむ。特に長くすることにこだわっているわけではない。ただ、髪の毛を伸ばしていると、小まめに床屋に行かなくても一つに結べば邪魔にならないので、大学時代から伸ばしているだけだ。
思い切って高校時代と同じくらい短くしてみようか、と思い立つ。
だって、あの頃の俺を柊人は好きになって告白してくれたわけだから。
――じゃあ、明日の午前中は床屋に行って、あとは六時くらいにコンビニにで待ち伏せて、さりげなく顔を合わせるって感じにしてみるか。
やることが決まってようやく落ち着いた俺は、明日床屋に行くために今晩のうちに仕事をできるところまで進めておこうと、立ち上がってキッチンにコーヒーを淹れに向かう。
柊人がどんな反応をするのか、少しだけ楽しみな気がした。
もともとそこに置かれていた二人掛けのソファーはテレビの横というよく分からない場所に追いやられ、代わりに床にはやけに大きなクッションが二つ置かれていた。
「……模様替えしたんだ」
「あ、そうそう。前に囲碁が住んでたの一軒家だったから、少しでも家の中で動けるように工夫してみようと思って」
「でも、こんなとこにソファー置いたらテレビ見れないし邪魔じゃない?」
「いや、そのソファー古いし、この機会に捨てようと思うんだ。明後日に粗大ごみの回収があるから、出勤前に出すの手伝ってもらってもいいかな」
「え」
「あ、予定も聞かないでごめん。会ったら言おうと思ってたんだけど、なかなか会う機会なかったからさ。無理そうなら職場の人に頼むけど」
キッチンのすぐ横に置かれた二人掛けの小ぶりなテーブルの上に焼き魚を運びながら柊人が言う。
その足元で囲碁が柊人を見上げているのを見て、焼き魚を盗んで食べたりしないのかなと会話と関係ないことを考えながら俺は口を開く。
「まあ……大丈夫だけど」
「ごめんな。助かるわ。朝起こしに行くから」
柊人は笑顔で言って、今度はみそ汁を鍋からお椀によそう。囲碁は先ほどと位置を変えず、そんな柊人を目で追っている。
せめてテーブルに持っていくくらいのことはやろうと、俺はキッチンに行き、みそ汁の入ったお椀を受け取った。
「よろしくー」と言って、もう一つのお椀も渡してくる柊人の顔は、いつもと変わらず穏やかだ。
つまり、ソファーを捨てることに対して、後ろめたさだとかそういったものは何も感じていないと言うことだろう。
あのソファーは、一緒に住みはじめたばかりのころに二人で選んで買ったものだ。そして、ここに引っ越すことが決まったときに、柊人が使いたいからと言って持ってきた。
安物だったし、引っ越し荷物を減らすためにも、捨てて新しいものを買えばいいんじゃないかと俺が言ったときに『だっていろんな思い出が詰まってるしさ』と柊人は答えた。
『このソファーにお前と一緒に座るのが当たり前だったから、なんか手離せない』
そんなもんかな、とそれを聞いたときは思っただけだったが、確かに引っ越した後、柊人の部屋に来てソファーに座ると、その肌触りや座り心地になんだか安心したのを思い出す。
でも、最近は柊人の部屋でテレビを見ながらのんびりすることは少なくなっていたし、あのソファーに座ることもあまりなかった。だから柊人がもういらないと判断したのも分からないでもない。
分からないでもないけど、なんだか引っかかる。
「囲碁、お前にもちょっとだけな」
柊人が床にしゃがみこみ、人間用とは別にしておいたらしい魚の身をほぐして小皿に入れはじめた。
その丸まった背中に「なあ」と俺は声をかける。
「ん?」
柊人が、俺を笑顔で見上げる。
「なんで俺に一言も相談しないでソファー捨てるの」
「え?」
「このソファー、もともとは二人で折半して買ったやつなのに」
「あ、あぁ、そう、だよな。ごめん」
目をぱちくりとして柊人が謝った。その顔には思わぬことを言われた、と書いてある。
「別に捨てるなって言うわけじゃないけど。どうせ俺は最近座ることもなかったし」
俺が少し不機嫌そうに言うと、ふっと少し困ったように柊人が笑う。
分かってる。また面倒なことを言い出したなとでも思っているんだろう。自分でもそう思うし。
「うん、でも確かに一言断るべきだったな。ごめんな。どうしてもキャットタワーとか棚とか置こうと思ったらソファーを置ける場所がなくなっちゃってさ。でも、代わりに買ったあの大きいクッション、人をダメにするって言われてるだけのことはあって、座り心地がすげーいいの。あとで座ってみてよ」
「……分かった」
柊人から目をそらし、俺は大人しく椅子に座る。
俺との思い出があるからって言って大事にしてたんだから、ちょっとくらい捨てるのを寂しく感じたりしているんじゃないか、と思ったけど、柊人の態度から察するに未練のミの字もないようだった。
「じゃあ食べようか」
柊人が正面に座り、二人で「いただきます」と声をそろえる。
「俺さ」
食べ始めてすぐ、ご飯を口に運びながら、柊人が口を開いた。
俺はみそ汁を一口飲み、柊人の顔に目を向ける。
「お前も知ってのとおり、あんまり物欲ないだろ。まあ家も生活できればいいやって感じで気にもしてなかったしさ。でもこうして囲碁が来て、あれこれ部屋に置くものとか考えるようになったら、なんか楽しくなってきて」
「へー」
「猫も人もくつろげる部屋がいいなって思うようになったんだよな。でも、部屋のことなんて考えたこともないから、いろんなインテリアが載ってるアプリをスマホにダウンロードして、最近それよく見てんの。あのクッションも、1DKに住んでる人がソファー代わりに使ってるの見て、勢いでポチッてさ」
それで今は、リビングに置く棚が気になっていると、柊人は嬉しそうに話し続けた。やっぱりいつまでもカラーボックスって言うのもどうかと思うし、と。
――生き生きしてるな
叩かれない壁を見つめて「孤悲」だなんて言葉を思い浮かべていた自分とあまりに違いすぎて、実は二人の間に見えない幕があって、俺たちは違う世界線を生きているのではないかと疑ってしまうほどだ。
俺、最近なんか楽しいと思ったことあったっけ。
ちょっと考えてみるがまったく思いつかず、やれやれと焼き魚に箸を伸ばした俺の前で柊人は続けた。
「まあでも、そういう大型の家具はここを出るまでに、ゆっくり選べばいいかな。せっかくだから全体で統一感も持たせたいし、それに……」
「え?」
聞き間違いだろうか、と思う。
「ん?」
「柊人この部屋出るつもりなの?」
「あ、別に今すぐってことじゃないけど、このままずるずるとお前と隣同士で住み続けるのもどうかと思うから、そろそろ新しい部屋を見つけて引っ越したいかなって。ほら、囲碁にとっても、もっと広い部屋のほうが快適だろうし、いい機会だと思ってさ」
思わぬ話に、理解が追いつかない。
ソファーだけじゃなくて。
俺のことも捨てて出ていくつもりなんだろうか。
「……いや、ちょっと待って。急にそんなこと言われても」
「あ、ごめん。でもお前も仕事頑張ってるし、もう収入も大丈夫そうだろ? それにさ、しばらく前からベランダにもあんまり出てこなくなったし、剛士もそろそろ限界を感じてるのかなって思ってたんだけど……あれ、違った?」
ついさっきまで楽し気に未来を語っていた柊人の表情が、困ったなと言いたげに曇っていくのを見つめる。
もう柊人の中では、俺たちの仲はマンネリどころか終わりを迎えているという認識だった?
しかも、これまで隣に住んでいてくれたのは、収入が不安定な俺を心配してくれていたから?
囲碁に、柊人の恋人だと図々しく自己紹介したさっきの自分を思い出し、無性に恥ずかしくなった俺は視線をテーブルへと落とす。柊人にとっての俺は、とっくに恋人ではなかったのかもしれない。
そのまま何も言葉にすることができない俺に「ごめんな、俺、なんか独りよがりだったな」と申し訳なさそうに柊人が言ってくる。
「また今度、改めて話そうか。心配なこととか不安なこととかさ、遠慮しないでなんでも言ってくれていいから」
「……分かった」
「とりあえず夕飯食おうか。冷めちゃうし」
「うん」
その後、お互い黙りこくったまま夕飯を食べ終えた俺たちは、気まずい空気のまま玄関で別れた。
もちろん、おやすみのキスなどすることもなく、少し強張った笑顔で見送ってくれた柊人に、俺もぎこちない笑顔を返すことしかできなかった。
久しぶりに柊人の家に行くからと、今日までに仕上げなければいけない仕事をすべて終わらせていた俺は、家に帰り、電気をつけたあとソファーに座ってぼんやりと考えを巡らせ始める。
柊人が、俺から離れていく。
なんというか、考えたこともなかった。柊人がそばにいるのは当然のことで、このまま一生なんとなく一緒に過ごしていくものだとしか思っていなかった。そのせいか、柊人がいなくなることを想像してもまったく実感がわかず、どうしようとは思うし多少ショックも感じているものの、悲しいとかそんな気持ちにはならない。
ただ、柊人がいなくなれば、俺はこの先ずっと一人で過ごすことになるだろうということだけは分かる。
こんな引きこもって仕事しかしていない、偏屈でつまらないやつを好きだと言ってくれる人なんてこの先現れないだろうし、仮に現れたとしても、お互いの気持ちを探り合い、気遣いながらデートに出かけ、タイミングをはかってキスをし、その先へ進みという恋愛における労力を考えるだけでも知恵熱がでそうだ。
――そもそも同じ労力をかけるなら、柊人を引き留めるのにそれを使ったほうがずっといいしな。
ふとそんな考えが浮かんできて、あぁ、と思う。
そうか。柊人にそばにいてもらうために、努力すればいいのか。
でも努力するとして、何をすればいいのか、柊人との付き合いの中では常に受け身だったうえ、その他の恋愛経験がまったくない自分には想像もできない。
まずは何事も勉強だと、俺はソファーから立ち上がり、仕事用のデスクに向かった。
デスクのペン立てから鉛筆を手に取り、プリンターのところに置いてあったコピー用紙の束から1枚の紙を抜き出してちゃぶ台の前にあぐらをかき、ハーフパンツのポケットからスマホを取り出す。
「復縁……方法……」
呟きながら検索窓に入力すると「心理学」というサジェストが出てきたので、それをクリックし、とりあえず一番上のホームページから順に見ていく。
中には、いかにも怪しげなものもあり、でもこんなものにもすがりたいほど、復縁したいと必死に思う人が多いということなのかもしれないと思ったりもする。
必要そうなところだけ紙に書き出しながら十個ほどの記事を読み、とりあえず有用そうなポイントにチェックをつけた俺は、今度はスマホのメモ帳アプリを開いて書き込んでいく。
【1.顔を合わせる回数を増やす】
【2.相手を特別扱いする。お前にしか言えない、など】
【3.こまめに好意と感謝を伝える】
【4.役に立つところをアピール。囲碁の世話とか?】
【5.イメチェンする】
【6.相手と同じ行動をする。ミラーリング】
【7.追いかけすぎると逃げられるから注意。あくまでもさりげなく】
メモに書いた箇条書きを腕を組んで見つめ、まずはどこからできるだろうかと考える。
会えないことには始まらないけど、急に会おう会おうと言ったら逃げられるかもしれないし、そもそもそういうことを言ったことがないから、ハードルも高い。
となると、まずは柊人の帰宅時間に合わせてさりげなく外に出て顔を合わせるのがいい気がする。
あとは、イメチェンか。
伸ばしっぱなしの髪の毛の先を指でつまむ。特に長くすることにこだわっているわけではない。ただ、髪の毛を伸ばしていると、小まめに床屋に行かなくても一つに結べば邪魔にならないので、大学時代から伸ばしているだけだ。
思い切って高校時代と同じくらい短くしてみようか、と思い立つ。
だって、あの頃の俺を柊人は好きになって告白してくれたわけだから。
――じゃあ、明日の午前中は床屋に行って、あとは六時くらいにコンビニにで待ち伏せて、さりげなく顔を合わせるって感じにしてみるか。
やることが決まってようやく落ち着いた俺は、明日床屋に行くために今晩のうちに仕事をできるところまで進めておこうと、立ち上がってキッチンにコーヒーを淹れに向かう。
柊人がどんな反応をするのか、少しだけ楽しみな気がした。