『この前の記事、編集部内で評判良かったよ』
「ありがとうございます」
『締めの【孤悲《こい》する貴女たちへ捧げよう】っていうのも良かったな。【恋】に孤独で悲しいって当て字してるのって万葉集だっけ』
「そうですね」
『いつも通り客観的だけど、切ない気持ちにしっかり寄り添ってる感じもあったし。もしや好きな子でもできたんか?』
 俺は仕事用の椅子の背にもたれかかり、天井を見上げてぐるっと座面ごと回転する。
 あの記事を書いた日、夕飯だけ食べてあっさりと帰って行った柊人に抱いた微妙な感情が、無意識的に文章からにじみ出てしまったのだろうか。
「まさか。家の中で原稿ばっか書いてて、そんな暇ないですよ」
『お前、俺の3つ下だろ。魔法使い待ったなしだな』
「魔法使えるようになったら、この仕事辞めるつもりなんで待ち遠しいですね」
『魔法でできる仕事なんてないだろ』
「お金を魔法で生み出すんで大丈夫です」
『錬金術師かよ。まあ魔法使いになりたくないなら、今度うちに来たときにいい店連れていってやってもいいぞ』
「いいっす」
『固いなー矢島は』
 電話の向こうで、林さんが笑う。
 林さんは、俺が記事を書いている文芸誌の編集部の人であり、さらに大学時代の先輩でもある。
 上京して国文学科に進学した俺は、大学の文芸サークルにすぐに入会し、そこで当時四年生だった林さんと知り合った。
 最初は特に親しくしていたわけではなかったが、あるとき林さんの就職先が書店で予約してまで読んでいた憧れの文芸誌を出している出版社であることを知った俺が、飲み会の場でなけなしの勇気を振り絞って話しかけたのがきっかけで、顔を合わせれば二言三言交わすくらいの仲になった。
 そして、大学二年の終わりごろ、ふらりとサークルにやってきた林さんに、一人ライターが辞めてしまって穴埋めしないといけないんだけど、うちの雑誌で試しにコラム書いてみないか?と誘われたのが、この仕事を始めるきっかけになった。
 サークルで出した冊子を読んで、ほとんどのメンバーが創作をしていたのに対し、俺が古典文学とライトノベルの共通点をあげつらい好き勝手に比較分析したエッセイを書いていたのに興味を持ったと林さんは言っていた。正直なところ、あの当時は柊人に呆れられるくらいライトノベルにはまっていて、二次創作以外書ける気がしなかったから苦し紛れにそんな文章を載せることにしたわけだが、何が幸いするか分からないものである。
『それでな。今日電話したのはちょっと話があってのことなんだけど』
「はい」
 さすがに褒めるためだけに電話してくるとは思っていなかった俺は、いよいよ本題か、と椅子の上で姿勢を正す。
『実は、コラムを書いてもらってる【月刊りげん】が季刊誌になることになったんだよ。もちろん季刊誌になっても、引き続き矢島にはコラムお願いしたいと思うんだけど、年に四回になるんだ』
「あぁ……そうなんですか」
 原稿料に言及しないと言うことは、一本のコラムに対するそれは据え置きなのだろう。単純計算で「りげん」での収入が三分の一になるということか、と林さんに気づかれない程度にため息をつき、口を開く。
「残念ですね。タイトル通り、なんかこう肩の力がいい感じに抜けてる雑誌で、俺好きでしたけど」
 「りげん」というタイトルは、地方特有の語彙、または日常的な口語という意味のある「俚言」から来ていると、前に林さんに教えてもらったことがある。
『だよな。地方在住作家の地元紹介エッセイリレーとか、そこそこ評判も良かったし。でもまあ時代の流れで仕方ないところもあってさ。廃刊にならなかっただけでもありがたいよ』
「そうなんですね……で、すみません、早速であれなんですけど、なんか仕事あったらまわしてもらうことってできますか」
『まわしてやりたいのはやまやまだけど、文芸は今のとこなくてなぁ……矢島は文芸以外の記事でも書く気ある?』
「内容にもよりますけど、できるだけ努力します。でもあの、女性誌はちょっと無理かも……」
『あと二年で魔法使いのお前には無理かもな。分かった。とりあえずライター探してるって話があったらまた連絡するから』
「すみません。よろしくお願いします」
『おう。じゃあまたな。たまには編集部にも顔出せよ』
「はい。失礼します」
 通話を切り、今度こそ大きなため息をつく。
 とりあえず、登録しているクラウドソーシングで受ける案件を少し増やした方がいいかもしれないと、早速パソコンでページを開き、条件を絞ってライターの募集案件にざっと目を通していく。
 フリーランスという仕事柄、収入が不安定なのは仕方がないことだ。そのかわり新しい仕事も見つけやすい。そう思ってこなしていくしかない。
 正直、会社などに就職をせず、フリーランスという道を選ぶときにも、収入の面だけが不安材料だった。
 だが柊人が『稼げなくなったら俺が養ってやるから、やりたいことやってみればいい』と言ってくれたこと、そしてフリーランスであればネットでのやりとりが主になるし、柊人が職場を変わったとしてもどこへでもついていけると思って、覚悟を決めたのだ。
――柊人は今でも、もし俺が稼げなくなったら養ってくれるつもりはあるのかな。
 まあ世話焼きの柊人のことだから、俺が助けを求めたら間違いなく手を差しのべてくれるだろうけど。
 それが愛情から来るものか、責任感から来るものなのかは別として。
 ふと、猫が来て以来叩かれることのない壁に目を向ける。
 別に悲しくはないけど、でも、今の自分の気持ちには「恋」より「孤悲」という字が似合うなと、そう思った。


 
 俺が囲碁とようやく対面したのは、柊人がうちに段ボールを取りに来てから一ヶ月近く経った日曜の夜のことだった。
「びびらせないように静かに入れよ。寝室にいるから」
 玄関先に出てきた柊人にそう言われ、その後ろについて若干忍び足で家に入った俺は、リビングに入ってすぐのところにある扉から寝室をのぞきこみ、ベッドの上にこんもりと小さな黒い山を発見した。
「あれ?」
「そ、あれ」
「でかくない?」
「うん、でかいほうらしい」
 薄暗い上に真っ黒でよく分からなかったが、どうやら俺が見ているのは囲碁の後姿であるようだった。
「囲碁」
 優しい声で柊人が呼ぶと、その山の麓から突如しっぽが現れパタンと掛け布団を叩いた。
「いーご」
 再び呼びかける柊人の声に、またしっぽがパタンと動く。
「あれ返事してるの?」
「そうらしい。可愛いだろ」
 そう答える柊人の顔は声と同じくとても優しく、しかしいつもなら俺に向けられているはずのその表情が囲碁にしか向けられていないことに、少しつまらないような気分になる。
「近寄ってみるか」
 柊人が寝室の電気をつけて中へ入っていくのに再びついていくと、囲碁が顔だけをこちらに向けた。
 その額の部分は前髪をフロント分けしたようになっていて、前に柊人が『ハチワレ』という柄なのだと言っていたけど、頭の鉢が割れているような柄だからこういう名前なのかと納得する。いや、それとも漢数字の八から来ているんだろうか。
「いーご」
 柊人が名前を呼んで、その鼻の前に人差し指を伸ばすと、においを嗅ぐかのように鼻を近づけてくる。
 しゃがんでそんな囲碁と目線を合わせた柊人は、その顎の下を撫でてやりながら「今日はな、はじめましての人がきてるんだよ」と話しかけた。
 はじめましての人、という柔らかな表現に、PTとしていろいろな人と接する柊人の片鱗が見える気がする。柊人が自分以外と話している姿なんてもうずっと見ていないし、猫相手とは言えなんだか新鮮だ。
 隣に同じようにしゃがみ、気持ちよさそうに目を細める囲碁を見ていると、柊人が俺のほうへと顔を向けた。
「自己紹介でもしとく?」
「えー……あー、矢島剛士です。よろしく」
 何て自己紹介したらいいのかよく分からず、とりあえず真顔でそう淡々と言うと「仕事かよ」と柊人が笑う。
「なんだよ。よろしくにゃとか言うべきだった?」
「お、いいねいいね。囲碁と話すとき全部それで話してくれたらすげー萌えるわ」
「あほか」
「っていうか、よく考えたら、俺も囲碁に自己紹介したことなかったな。えーっと、改めて安田柊人です。よろしくな、囲碁」
 にこにこしながら自己紹介した柊人は立ち上がった。
「囲碁も隠れないし大丈夫そうだな。じゃあ、俺夕飯の用意してくるから、囲碁とちょっと遊んでやってよ」
 そう言って、棒の先に羽根がついたものをよこして寝室を出ていく後姿を見送り、囲碁へと目を戻す。
またそっぽを向いてしまったその顔の前で、とりあえずその羽根を揺らしてみる。囲碁はちらりと目を向けるが、手を胸の下に巻き込んだまま動こうとしない。
柊人に俺よりも優先されている、という先入観があるからか、その態度は身体の大きさも相まって見るからにふてぶてしい。
「急に知らないやつと遊べって言われても困るのも分かるけど、もうちょっと愛想よくしてもよくない?」
 俺は囲碁の横顔に小声で話しかける。
「俺だってこんな羽根で遊びたいわけじゃないのに、そっちに気を遣って揺らしてあげてるんだけど」
 すると囲碁の黒い左耳がぴくっと角度を変えてこちらを向き、猫の耳ってこんなふうに動くのか、と少し驚く。無視しているだけかと思ったら、ちゃんと話を聞いてくれているのかもしれない。
「俺はお前の飼い主の恋人なんだし、もうちょっと媚を売っておいたほうがいいと思うけどな」
 ゆらゆらと羽根を動かしながら、試しにさっきは言えなかった自己紹介をしてみる。
 そして、自分で言っておきながら「恋人」という言葉に気恥ずかしくなり、ぶんぶんと棒を大きく振ると、囲碁が迷惑そうに羽根から顔をそむけた。
 っていうか、全然羽根で遊ぶ気配ないな、こいつ。
 俺は振るのをやめて、囲碁の鼻先を羽根でくすぐってみる。それでも少しの間囲碁は無反応だったが、1分もしないうちに突然口をあけてガブッとその羽根に噛みつき、するっと胸の下から出した手で棒を抑え込むと、面倒くさそうに四つ足で立ち上がってベッドから降り、リビングの方へ行ってしまった。
「あれ、どうした囲碁。お腹空いたかー? 剛士に遊んでもらった?」
 囲碁に続いてリビングに出た俺は、全然遊ばないし、と柊人に言おうとして、さっきはその背中で隠されて気づいていなかった部屋の変化を見て立ち止まった。