月末の土曜日、俺たちは新居に運び込まれた荷物を前に気合を入れていた。
 囲碁はうっかり蹴飛ばされたりすることのないように、寝室で餌とトイレとともに待ってもらっている。
「まず俺、仕事部屋を整えていい?」
「それがいいよな。じゃあ俺は台所を片付けるわ」
「俺は何すればいいっすか?」
 手伝いに来てくれた阿藤が聞いてくる。
「あー……」
「そうだな……」
「手伝いに駆り出しておいて、扱いに困るのやめてもらっていいっすか」
「じゃあさ、俺の仕事部屋のほう手伝ってもらっていい?本と雑誌を並べてもらえると助かるな」
「了解っす」
 そう答えて、仕事部屋にすることにした六畳の部屋に向かう剛士についていく阿藤を見送る。
 剛士も自分たちの関係をオープンにしていくと決めたということは、阿藤や宇崎さんにも伝えた。
『だからって、あれこれ聞くなよ』
 昨日、念のために阿藤にはそう釘をさしておいた。
 そうは言ってもあの阿藤だ。剛士が返答に困るようなことを言わなければいいけど。
 一抹の不安を抱えつつ、俺は段ボールを開けてまずは鍋などの調理器具から出していく。
 剛士の部屋にはもともと調理器具らしい調理器具はほとんどなかったので、どれも自分が使い慣れたものばかりだ。
 コンロの下にある大きな引き出し百均の書類ケースをセットし、そこに三つのフライパンと片手鍋、それからその蓋を並べ、続けて食器を入れていた段ボールを開ける。
 一番上に箱入りのまま納められているのは、親からプレゼントされたおそろいのご飯茶碗と汁椀だ。一緒に住むことになったことに対するお祝いらしい。
 親からこういうことをされるのは照れくさいものだが、あれだけ俺も、そして剛士も心配をかけたことを思うと、今さら恥ずかしいことなんて何もないような気もする。
 剛士から、自分たちの関係をなんで親が知ってるんだろと聞かれ、自分が聞いた話をすると『確かに、親同士が会ったら一発でバレるよな』と苦笑いをしていた。
『でも、良かった。おかげでこれからは堂々と一緒にいられるわけだし』
 そう言った剛士は、林さんのところにお礼のお酒を持って行ったときにも、林さんと猫雑誌の担当の編集者さんと飲みにいって俺とのことをいろいろ話してきたのだそうだ。
 もともと、好きな人にちゃんと告白をしようと思うという意気込みを剛士はその二人に伝えていて、林さんはあの日、ただの隣人とは思えない俺の動揺っぷりを見てその相手だと言うことを察したらしく、カミングアウトする前に向こうから指摘してきたらしい。
 言われてみれば、病院でもいつ頃からの友達なのか聞かれたくらいで、俺たちの関係性について何も突っ込んでこなかったのも林さんの気遣いだったのだろう。
――それにしても、俺に改めて告白しようって考えてたなんてな。
 俺の待ち伏せをしていたという話をしてくれたとき、剛士がスマホを開いて見せてくれた復縁するための方法を見て、思わず俺は悶えてしまった。
 特にミラーリングで、食事のときにいつも俺が食べるものを見ながら一緒のものを食べるようにしていた、というのが可愛すぎた。あまりにも小さな努力で、でも真面目な剛士のことだからきっと一生懸命にやっていたのだろうと思うといじらしくてたまらなかった。
 今は食事のときにあえてミラーリングはしていないようだが、それでもたまに同じものを手に取ったことに気づいたときにちょっと照れたように笑うのがまた可愛い。その顔が見たくて、たまに俺の方からこっそりとミラーリングをしているのは秘密である。

「やっすださーん」
 半分ほど食器をしまい終えたところで、阿藤が雑誌を一冊手に持って台所に来た。
「どうした?」
「ブックエンドが欲しいんすけど、矢島さんもどの箱に入ってるか分かんないって言うから」
「あー、本以外は俺が詰めたからな。ちょっと待って」
 そう言ってリビングに積まれている段ボールのところに行って「剛士 生活品など」と側面に書かれている箱を見つけて下ろす。
「こん中に入ってる。他のも、ほとんどが剛士の仕事部屋で使うことになると思うからこのまま持ってって」
「了解っす」
 そう答えた阿藤が少しだけ声を小さくして「これ、読みました?」と雑誌を渡してくる。
「なに?」
「矢島さんの書いたコラム」
「いや。読んでないけど……」
 渡された雑誌は今月号だった。
「さっき、矢島さんってどんなもの書いてるんすかって聞いたら、ちょうど俺が片付けてた雑誌のコラムとかって言ってたんで、読んでもいいか断って一番上にあったこれのコラム読んだんすよ」
「阿藤って文章とか読まなさそうなのにな」
「偏見偏見」
 雑誌を開いて目次から剛士の名前を探すと真ん中あたりに見つかる。
 そのコラムのタイトルを見て、俺は少しだけ首を傾げる。
「【自由落下に浮く恋は】ってタイトルも変わってるんすけど、中身もなかなかのもんすよ。おすすめっす」
 阿藤はそう言って笑うと、ブックエンドが入っている段ボールを持ち上げ、剛士の仕事部屋へと戻っていく。
 その後姿を見送り、俺はキッチンのシンクによりかかって、コラムのページを開くと読み始めた。

【恋とは何か。これは、恋をしたことがある人もない人も持ったことがある疑問ではないだろうか。】

 そんな文章から始まった雑誌の一ページを埋めるコラムには、さまざまな有名な小説家の恋についての名言みたいなものが引用されていた。知っている人も知らない人もいるが、なんとなくどの人も恋を表わす言葉が激しいなと感じる。
 小説家、という人たちには物事がよりドラマチックに見えるものなのかもしれないと思いつつ俺は読み進めた。

【これらの名言を踏まえたうえで、恋とは何か、ともう一度考える。
 それは恥であったり、忍耐であったり、罪悪であったり、決闘であったり、狂気であったり、性欲を詩的に表したものであったり、惜しみなく奪ったり与えたりするものだと文豪たちは言っている。 
 しかしどれもどこか納得できるようで、自分の中にしっくりと来ないのも事実だ。つまり恋というものにはそれだけ無数の側面があるということでもあるだろう。
 では、私にとっての恋とは何か、と考えたときにいつも思い出すエピソードがある。
 高校生のとき、私は生まれて初めて恋をした。
 それはとても穏やかな恋で、でも確かに私の生活を一変させた。何を見ても何を聞いても、すべてのものが好きな人と結びついてしまうような日々が始まった。
 そんなある日、物理の授業で私は「自由落下」について学んだ。そして宇宙ステーションは「自由落下」をしているから、無重力状態になって人や物が浮くのだと知った初恋中の私が真っ先に思ったのは「恋と同じだ」ということだった。
 恋に落ち続けているから、自分の気持ちはこんなに浮ついているのかと妙に納得したのを覚えている。恋は凡人をも詩人にする力があるらしい。
 しかし、宇宙ステーションはただ「自由落下」しているだけではない。前方に進むための遠心力が同時にかかっているからこそあのようにいつまでも地球の周りを飛び続け、無重力状態を保っている。
 これを恋愛に当てはめるとすれば、恋する相手と過ごしていてうきうきとする、漢字で書けば「浮き浮き」とするその状態を保ちたいのなら、恋に落ち続けているだけではいけないとも言えるだろう。きっと、恋に落ちるのと同じだけのパワーを持って進んでいかなくては「浮き浮き」とした気持ちは地に落ちて、なんの感動も呼び起こさなくなってしまうのではないだろうか。
 これらが単なるこじつけであることは重々承知の上で、それでも私は今、自分の気持ちが浮いているのを感じている。
 一緒に生きていきたいと思う人と、そして猫がそばにいるからだ。彼らと一緒に未来へと歩んでいきたいと思えるからだ。
 恋とは何か、ということはやはり明言できない。しかし、私は確かに今恋をしていて、恋に落ちながら「浮き浮き」として進んでいるのだ。】

 ふと、目頭が熱くなる。
 剛士にはそんなつもりはなかったのかもしれない。
 でもこれは、俺に対する壮大なラブレターでもあった。

【きっと私はこれからも、果たして恋とは何なのかとときどき考えるだろう。私の恋は正しいのかと悩むこともあるだろう。
 そして明確な答えを見つけることはきっと一生できないだろう。
 しかし、かの有名な文豪たちも、だれ一人として万人が納得するような恋の定義は生み出せていないのだ。私が見つけることができなくてもそれは当然なのかもしれない。
 あなたにとっての恋とは、どのようなものだろうか。どんな小説の中に恋のヒントを見出し、共感していくだろうか。
 私もまたたくさんの本を読んでいく中で、新たに恋について学ぶことも発見することもあるだろう。そんな出会いを楽しみにしたいと思う。
 自由落下に浮く恋をこれからも大切に抱えながら。】

 コラムを読み終え、俺はそっとその雑誌を閉じて、自分の荷物が入っている段ボールを開けてその中に入れる。
 剛士は、全部の雑誌をとっておくと大変だからと言って、一年分の雑誌しか持たない主義だ。そのまま剛士のところへ置いておいたら、自分への愛が込められたコラムの載ったこの雑誌もいずれ捨てられかねない。
 一生をともにしていくのだという、そんな覚悟を改めてする。
 いつまでも剛士の恋心が浮いていられるように、ともに歩んでいこう。剛士の恋心が落ちそうなときにはそれを支えて再び一緒に飛べるような、そんな愛し方を俺はしていこう。
 台所に戻って食器をしまいながら、剛士を支えて飛ぶ自分をイメージする。
 ふと、羽根が生えている天使のような姿が脳裏に浮かんで、ちょっと笑ってしまった。俺にはあまりにも似合わない。剛士には似合いそうだけど。
 そこにまた阿藤が慌てたようにやってきた。
「安田さん……!!」
「なに」
「これ、矢島さんに渡すの気まずいんで預かってください」
「ん?」
 渡された小さめの箱に「あ」となる。
「悪い、一緒に入れてたの忘れてた」
「健康な成人男子なら普通のことなんで大丈夫っす。でもちょっと矢島さんには渡しにくいんで」
「了解。サンキュ」
 俺は苦笑いをして、その箱を受け取った。そこには男としてのたしなみであるゴム製品が入っている。
 阿藤って意外と空気を読むんだな、と剛士に変なことを言わないか疑ったことを反省しつつ、台所のまだ使っていない引き出しにとりあえず放り込むことにする。
 今日の夜に使うとき、ここならどこにいったか分からないということもないだろう。