入院した翌日に熱が下がった俺は、検査の結果他に問題となる症状もなかったため、結局病院には二泊するだけで済んだ。
 母親に付き添ってもらって帰り、いつも通りの我が家にほっとしながら見回したところで、スチールラックに見覚えのない箱が置かれているのに気づく。
「なにこれ」
「救急箱よ。いい、体温計、解熱剤、胃薬、風邪薬、消毒液、絆創膏、湿布を入れておいたからね。ちゃんと必要に応じて使いなさいよ」
「はーい」
「あと冷凍庫には固くならない保冷剤入れておいたから。熱が出たときとか頭にあてれるようなやつ」
「分かった」
「あとは、レトルトのおかゆも一応ね。この引き出しに四つ入ってるから。食欲がないと思った時に食べなさい」
「はい」
「もー、ほんと心配。よくここまで無事に生きてきたわね。安田くんに感謝してもしきれないわ」
「今日柊人に会った?」
「うん、朝にね」
 病院は夜間の付き添いができなかったため、母親は昨晩この家に泊まっていた。
 心なしか、部屋全体が綺麗になっている気がするなと思って、改めて見回していると「とにかくね」とお母さんが口を開く。
「安田くんにも言ったけど、ちゃんとこれからのことについて二人で話し合いなさい。お母さんの希望としては、できれば一緒に暮らして欲しいんだけどね。安田くんにはご迷惑かもしれないけど」
「うんまあ、話してみるよ」
 柊人とは、昨日の午前中に俺が目を覚ましたときから会っていない。あのときはまだ俺もぼんやりしていたし、夜にも柊人は来てくれたらしいが俺が寝てしまっていたので、何も話せないままだ。
「あ、そういえば、囲碁ちゃん可愛いわねぇ。昨日撫でさせてもらっちゃった。ときどき預かってるんですって?」
「あぁ、そうそう。柊人が仕事にいってる間、預かってんの。可愛いよね。俺、あいつのおかげで新しくもらえた仕事もあってさ」
「そうなの?」
「うん。それに、もしかしたら猫雑誌で連載持たせてもらえるかもしれない」
「あらほんと! そうしたら雑誌の名前とかまた教えて。お父さんのコレクションが増えるわ」
「コレクション?」
 聞き返すと、お母さんはおかしそうに笑った。
「ここだけの話、あんたが書いてる記事とかコラムとか、お父さんスクラップしてるからね。全部」
「そうなの?」
「そうそう。なんだかんだ言って自慢の息子の書いた記事だもの。あんたが雑誌で紹介した本もほとんど読んでるみたいよ」
 あんたの読書好きはお父さん似だしね、という母親の言葉にふと泣きそうになる。
 フリーランスのライターとして仕事をしていくと親に言ったとき、お父さんは『そんなんで生きていけるほど甘くない』と反対をし、最後まで納得してくれることはなかった。
 でも、柊人と生きていくにはそれしかないと思っていた俺は、その言葉に耳を貸すこともなくそのままフリーランスとなった。
 きっと、一生認めてもらえることはないけど、俺には柊人がいるからいいんだ、なんて、青臭いことをあの頃の俺は思っていたし、帰省したときにも面倒なことになるのが嫌で仕事について話題に出したことはなかった。
――それが、まさか応援してくれていたなんてな。
 思いもよらなかった事実に胸の中が温かくなるのを感じながら、俺はお母さんに笑顔を向ける。
「じゃあ、とりあえず猫雑誌でけっこう長い記事を書いたのが今月末に出るからお父さん宛てに送るよ。猫が出てくる小説とか漫画についての記事でさ。また他の雑誌でも何か書くことがあったら連絡するようにするし」
「あぁ、そうしてあげて。お父さん喜ぶわよ」
 笑顔を返してくる母親を見ながら、俺はいろんな面で頑なだったんだな、と思う。
 洋服の試着なんて必要ないと思い込んでいたように、同性愛なんて受け入れてもらえるわけがないと思い込んでいたし、フリーランスなんて受け入れてもらえるわけがないと思い込んでいた。
 実際はそんなことなかったのに、そうやって、自分からいろんなことを否定して勝手に自分の中で完結させていた。
 どうにかしようと頑張るよりも、立ち向かうことから逃げていた方が楽だったから。
 そして、そうやって逃げて安全な世界だけにこもっていたから、俺の毎日はつまらないものになっていたのだと、今なら分かる。
「あ、あと安田くんにも言っておいたけどね。少なくとも明日くらいまでは消化のいいもの食べなさいよ。量も最初は少なめからね。とりあえずお昼はうどんにするから」
 そう言って台所に立った母親が、昨日のうちに買っていたらしい食材を冷蔵庫から出して料理の準備を始めるのを見て、俺も台所へと向かう。
 自分には、料理なんてできないと思っていたけど、これも思い込みかもしれない。
 何事も勉強だと、お母さんの隣に立って「作るところ見てていい?」と訊ねる。
「あら。料理にも興味が出てきた?」
「俺、柊人に頼りっぱなしだからさ。少しでもできること増やしたいなって思って」
「いい心がけだけど、まずはちゃんと切れる包丁を買ったほうがいいわね」
 大根を切り始めていたお母さんが、手に持った包丁を目の前にかざして呆れたようにため息をついた。



 お母さんは昼過ぎに帰って行った。
 まだ病み上がりだし、暑い中見送りはいらないと言われて玄関のところで別れた後、俺はデスクの前の椅子に座って、林さんに電話をかけた。
『おー! 矢島! 無事生還したか?』
 電話の向こうから元気な声が聞こえて思わず笑顔になる。
「はい、本当にありがとうございました。あの日、林さんが来てくれなかったら、俺、冗談でなく死んでたかもしれないんで」
『いや、良かったよ。でもさ、土気色って聞いたことあったけど、人間の顔ってマジで土みたいな色になるんだな。見た瞬間もう死んでるかもってちょっとびびったし』
「ほんとご迷惑をおかけして……」
『いやいや。でもさ、お前が締め切りを守らないタイプだったら、遅れても何とも思わなかっただろうし、電話してみようとか家に行こうとか思わなかったわけだから、やっぱり真面目に仕事をするって大事だなって思ったわ』
「あー、でも、結局今回のことで、二本原稿落としちゃってますし。ほんとすみませんでした。あの、もし間に合いそうなら今から書きますけどどうでしょうか」
『あぁ、なんとかするから心配すんな。もうちょっと休んでから復帰したほうがいいんじゃないか』
「いや、体力は確かにちょっと落ちてるんですけど、頭はすっきりしてますし、書くことは問題なくできると思います。むしろ一週間近く何も書いてないんでなんか物足りなくって」
『おめーもほんと仕事病だよな。あー、じゃあちょっと待ってな』
 そう言って少し電話口から離れたらしい林さんが「お待たせ」と数分して戻ってくる。
『コラムの方は明日までならぎりぎり間に合うみたいだな。もう一本は今週いっぱいまで余裕がある』
 カレンダーにメモをして俺は頷く。他の書評やクラウドソーシングで請け負っている記事の納期はすべて二十五日、もしくは月末にまとまっているから問題ない。
「これなら大丈夫です。終わったらすぐに送りますんで」
『了解。まあでも、無理そうなら遠慮しないで言えよ』
「はい」
『あ、あとさ、お前の初恋の相手の話、納得したわ。相手、あの隣に住んでる安田くんなんだろ。この前話したら高校からの友達だとか言ってたし。ま、今度和田と一緒に根掘り葉掘り聞かせてもらうから』
「あー……」
 自分から言う前にバレてしまったうえに、やっぱりあっさりと受け入れられていることに、林さんと和田さんを相手に意気込んでいた自分がなんだか恥ずかしくなる。
『しかしさ、お前本当に片想いなの? ただの同級生でここまで一緒にいるって普通ないだろうし、どう見ても安田くんもお前のこと好きだろ、あれ。倒れてるお前のこと見て、安田くんのほうが死にそうな顔になってたしさ』
「いやー、うーん、どうなんですかね。まあでも、告白をちゃんとしていないのは事実なんですよ。でも、今回のことで、伝えたいと思ったときに伝えないといけないって、すごい実感したんで。うん。ちゃんと言って、またその結果報告も兼ねていろいろ話をさせてください」
『わかった楽しみにしてるからな。頑張れよ』
「はい。じゃあ、また改めてお礼に伺います」
『おう、元気になった顔見せに来てくれな』
「はい」
 また、仕事ができるということにほっとし、同時に、自分が思っていた以上にこの仕事が好きなんだと言うことも実感する。
 柊人といるために消去法で選んだような仕事だと思ってたけど、今思えば、実際には他にも選択肢があったはずなのに、就職について考えたとき俺の中には最初からこの仕事か、その他かという二択しかなかった。
 じゃあその他の仕事ってなんだ、と言われても、漠然と会社に勤めるということくらいしか想像できておらず、たぶんその時点で俺はこの仕事をしようと無意識的に決めていたのだと思う。
 キーボードのEnterキーを押すと、長く稼働していなかったパソコンから、ブーンという音が鳴り始めた。
 真っ暗だった画面に、ぱっとどこかの南の島の景色が映し出される。久しぶりすぎて見慣れているはずのそれですら、新鮮に感じられる。
 マウスをクリックし、パスワードを入力しながら、大学時代、書いたコラムが初めて雑誌に載ったとき、口下手な自分の中に渦巻くいろいろな感情や意見を、文章という形をとれば不特定多数の人に伝えることができるのだということに感動したのを思い出す。
 すっかりそんな気持ちは忘れていたけど、でも、あの感動が俺のライターとしての仕事の原点になっているのは間違いない。
 最近では、ミスの少なさだとか文章としての完成度の高さだとかそんなことばかり気にしていたけど、思い返してみれば「孤悲」を用いた書評や、「虚無のおやつ」のコラムや、この前の猫の本や漫画の紹介記事といったように、人からいい文章だと言われたときに書いたものはそこに自分の個人的な悲しみや楽しさや幸せや、そんな感情が入っていたものばかりだった。
 客観的な視点というのはライターとしては絶対に持っていなければいけないものだけど、もっと昔のようにむき出しの自分と言うものをそこにプラスしていってもいいのかもしれないと思う。
 例えば、紹介する本の女性の気持ちが分からないときにも、ありがちな意見を用いてなんとなく誤魔化して書くのではなく、素直に分からないことを認めて自分が感じたことを書けばいいのかもしれない。
 そのほうが、俺という個性を活かした文章を書いていけるような気がするし、そしてそれは、フリーランスのライターとしての強みにもなる可能性も十分にある。
――まずはコラムで「恋」について語ってみるか。
 「恋は罪悪」をはじめとする、古今東西の小説に書かれた恋についての名言や迷言を集めつつ、そこに自分の恋愛という概念に対する戸惑いなんかを含めて書けたら面白いコラムになりそうな気がする。
 それをお父さんも読むのかと思うと少し照れ臭い気持ちにもなるが、でも、自分が真剣に柊人と向かい合っていることを伝えられるいいチャンスとも言えるだろう。
 パソコンに表示された時間を見ると、まだ一時半だった。
 これなら、柊人が帰ってくるまでに必要な名言を集めてコラムの下書きまでは終えられそうだ。
 両手を組んでぐるぐると手首を回すようにした俺は、まずはコーヒーを淹れようと立ち上がり、ついでにラジオのスイッチをONにした。