その日、壁が叩かれていないことに気が付いたのは夜の九時過ぎだった。
――飲みにでも行ってるのかな
職場の人とは最低限の付き合いしかしていないとはいえ、たまには柊人だって飲みにいくことはある。
でも、今日は火曜日だ。平日に飲むなんてまず考えられない。
一応、手元に置いてあるスマホを確認してみるが、メッセージなども入っていなかった。
タバコを吸いに出ないってことは、もしかしたら具合が悪いのかもしれないが、昨日もベランダには行っていないから、柊人が調子悪そうだったかも分からない。
とりあえず、隣の部屋から物音が聞こえるか確認してみようと、いつもかけっぱなしのラジオの音量を下げたところで、デスクの上のスマホが鳴り出した。そこには柊人の名前が表示されていて、ちょうど良かったと思いながら手に取る。
「もしもし?」
『あのさ、仕事してるとこ悪いんだけど、剛士のとこ段ボールある?』
「段ボール?潰したのが四個くらいあるけど、それが……」
『あ、じゃあ今からそれもらいに行くから』
は?と聞き返す前に電話は切れ、そして三十秒もしないうちに玄関が開いて柊人が入ってきた。
「どこにある?」
そう聞かれ、パソコンデスクの前に座ったまま、キッチン横に置いてあるステンレスシェルフを指さすと、柊人はそこに立てかけてある段ボールのサイズを確認し、一つを選んで取り出した。
「サンキュ。これもらっていくな。じゃ」
それだけ言ってそそくさと帰ろうとする柊人に「ちょっとちょっと」と慌てて声をかける。
「意味わかんないんだけど、何、どうしたの?」
「猫がきた」
「猫?」
「そう、猫。急だったから餌とトイレくらいしか用意できなくてさ。前に猫は猫ベッドを買ってあげてもそれが入ってた段ボールに入るってネットで見たから、とりあえず段ボールを仮の寝床として用意してあげようと思って」
早口で一気にそれだけ言うと、再び「じゃ」と言って柊人は出ていってしまった。
猫。
まったくもって柊人と猫が結びつかなくて、ちょっと首を傾げる。
例えば野良猫を気にしているところを見たこともないし、猫を可愛いと言っているのも聞いたことがない。
そんな柊人が、何で猫なんか。
気になるし柊人の部屋に行ってみようかなと、靴箱の上に置いてある鍵が二つ付いているキーホルダーを手に取る。
片方は自宅の、そしてもう片方は柊人の家の鍵だ。ほぼ同じ形なので、区別がつくように柊人の家の鍵は持つところを油性マジックで部分的に黒く塗ってある。
そしてサンダルを引っ掛けたところでスマホが鳴った。今度はメッセージだ。
【言い忘れたけど、すごい警戒してるから、この猫が慣れるまでしばらく俺の部屋来るの禁止。玄関からの脱走も怖いし】
「はぁ?」
読んで思わず声が出る。
――なんだよ。
猫の方が大事だと言われた気がして、俺はキーホルダーを少し乱暴に靴箱の上に置くと、サンダルを脱いで家の中に戻る。
そこにまた、メッセージの着信音が鳴った。
少しむっとしたままスマホの画面に目をやると【あと、脱走が怖いからしばらくベランダにも出ないから】という一文がそこには表示されていた。
――なんだよ!
ベランダでの時間が無くなれば、俺たちが会う機会はぐっと減ってしまう。
あいつ、俺に会わなくてもいいっていうのかと、ベランダに出ないこともよくある自分のことはとりあえず棚に上げてまたイラっとする。
そのまま返信せず、スマホをソファーに放り投げた俺は、パソコンの前に座って原稿の続きを書くことにした。
こんなことでいちいち文句を言うのも馬鹿みたいだし、ずいぶんと猫に夢中になってるみたいだし、俺からの返信なんてあったって無くたって、どちらでも構わないだろう、きっと。
しかし。
そうして、へそを曲げたままこちらからは連絡するものかと頑張っていた俺は、ついに日曜日の夕方になっても何の連絡もよこさない柊人に焦れて【何してんの】と嫌々ながらメッセージを送った。
原稿に集中しなければいけないのに、金曜日くらいから一時間おきどころか十五分おきくらいにスマホにメッセージが届いていないか確認してしまい、このままでは仕事に支障が出ると思ったからだ。
もちろん、着信は聞こえるように設定してある。設定してあるが、もしかしたら何かの拍子に聞き逃してしまっているのではないかと思ってチェックをしてしまい、そのたびにメッセージが来ていないことにちょっと落胆する自分が情けない。ラジオの音だって控えめにしているから、聞こえないわけがないのに。
それに、連絡が来ないだけでなく壁をノックしてくることがなくなったのも、少し俺の気持ちを不安にさせていた。あれには、ただいまの意味も込められていると思っていたが、柊人にとってはベランダにタバコを吸いに出るという合図でしかなかったのだろう。
もちろん、事故にあって帰れないでいるとか、病気で寝込んでいるとか、そう言うことはなさそうだった。昨日も今日も、ソファーに膝立ちになって何度か壁に耳をつけてみたところ、隣の部屋からは物音がしている。
はぁ、とため息をつき、そのまま腕を組んでテーブルの上のスマホの画面を見つめていてもメッセージは一向に既読にすらならず、足は貧乏ゆすりを始め、眉間には次第にシワが寄っていく。
なんかもう癪に障るが、これ以上メッセージを待つのは精神衛生上よろしくない気がする。
「ったくしょうがないな」
そう呟きながらしぶしぶスマホを手に取って、柊人に電話をかけると五コールくらい鳴らしたところで『ほいほーい』と柊人が出た。その声がやけに陽気でまた腹が立つ。
「あのさ。メッセージ送ったんだけど」
『え、マジで? ごめん、気づいてなかった。なんか用事でもあった?』
「用事でもなきゃ、メッセージ送ったり電話したりしちゃいけないってことかよ」
腹立ちついでに厭味ったらしくそう言うと『いや……だって』と柊人が少し戸惑ったような声を出す。
『お前、俺に用もなくわざわざ連絡してくるなんてないしさ』
そんなこと、と言おうとして、ちょっと考える。
ほんとだ。
俺、用事もなくメッセージ送ったり電話したりしたこと確かにないかも。
いやでもそれは、柊人がいつでも会えるところにいるからスマホを使う必要がなかったというだけで、まあ確かにベランダに俺が出ない日は柊人の方からちょっとした様子伺いのメッセージをくれたりはしてたけど、でも俺のほうからはノックが聞こえたら柊人が元気だって言うのは分かるから別にメッセージを送る必要はなかったていうかなんていうか。
そこまで考えて、何を言っても言い訳にしかならないことが分かった俺は話題を変えることにする。
「……猫は元気なの」
『あぁ、イゴ?元気だよ。ベッドの下に隠れてばっかだけど』
「何、イゴって」
『猫の名前』
「なにその名前」
『ゲームの囲碁だよ。白黒だからさ。なんか渋くてかっこよくね?』
「柊人の言うかっこよさの基準が分からない」
ちょっと呆れてそう言うと、電話の向こうで柊人が笑い、それから訊ねてきた。
『そういや剛士、夕飯は?一緒に食う?あ、今日も忙しい?』
正直なところ、柊人からの連絡ばっかり気にしていて原稿が進んでないから忙しい。
それに、俺のことなんて今のいままで全然考えていなかったと言わんばかりの物言いも気に障る。
だけど、ここで忙しいと言ったら、またしばらく連絡が取れなくなるかもしれないわけで。
「……忙しいけど、夕飯食べるくらいの時間はある」
『オッケー。じゃあ、なんか作ってお前の家にあとで行くわ。七時くらいでいい?』
「うん」
『じゃ、後で』
「うん」
通話を切って、ちょっとだけほっとした俺は軽くため息をつき、夕飯までにできるだけ原稿を仕上げてしまおうと、パソコンにまた向かってキーボードを打ち始めた。
*
「囲碁って猫、どこで拾ってきたの」
自宅と俺の家を二往復して野菜たっぷりの和食を運んできてくれた柊人とちゃぶ台を囲み、みそ汁を飲みながら訊ねる。
「あぁ、拾って来たんじゃなくて、俺が担当してた患者さんが施設に入ることが決まってさ。そんで奥さんは息子さん家族と一緒に住むことになったんだけど、お孫さんの一人が猫アレルギーだからもらってくれる人探してるって言うから」
「それで引き取ったってこと?」
「そういうこと」
「じゃあ子猫じゃないんだ」
「いや、もう五歳だって。生後三週間くらいのときに、家の花壇の下に挟まって鳴いてたのを患者さんが見つけて保護したらしいよ」
「へぇ。じゃあ囲碁って名前つけたのもその人?」
「そう、囲碁が趣味だったんだってさ。見る?」
そう言って、柊人が自分のスマホを見せてくる。
「……いや、これ見せられても」
そこに映っていたのは、ベッドの下の暗がりで目だけが光っている、生き物であることだけはかろうじて分かる何かだった。
しかし当の本人はそれを気にする様子もなく、ニコニコと画面を見ている。
「これ、どこに隠れたか分からなくて探してたときに撮ったやつ。肉眼で見えなくてもスマホで写真撮ると勝手に明るさ調整してくれて、暗がりの様子もある程度見えるから便利だよな」
怖がるだろうからライトとかでも照らしたくなくてと柊人は続けたが、猫から見れば自分の隠れ家を人間が覗き込んできてるのは分かるだろうから、どちらにせよ怖がらせている気がしないでもない。
「でも、今日は俺がいる前でベッドの下から出てきて餌を食べてたから、一歩前進ってとこかな。ビビらせないように声もかけないでこっそり見守ってたけど、少しずつ慣れてきてくれてるのが分かるとやっぱ嬉しいもんでさ」
そう楽しそうに言う柊人の顔になんとなく既視感を覚える。
なんだったっけか。
そう考える俺の前で、しっぽで猫の気持ちはある程度分かるという得たばかりの知識を、柊人は嬉しそうに教えてくれた。囲碁はしっぽが長めだから特に分かりやすく、まだ下がったままということは警戒しているということなのだそうだ。
特に興味のない俺はふんふんと頷きながらそれを聞き流し、そして煮物を口に運んでいるときに思い出した。
この柊人の顔は、俺たちが付き合い始めてすぐの頃によく見せていた顔だった。
付き合うことになったはいいが、とにかく照れくさくて友達でいた頃よりもよそよそしくなってしまった俺に、柊人は何かと話しかけ、くだらない話で笑わせ、軽いスキンシップを取り、二人の間に俺が一方的に作り出す妙な緊張感を和らげてくれた。
決して面倒くさがることなく、俺の緊張がしだいに解けていくのをいつも柊人は楽しそうに見守ってくれていて、そんな柊人の優しさや穏やかさに惚れ直していたわけだが、あれは猫を懐かせるのと同じような方法だったのかと思うと、今さらながら微妙な気分にもなる。
そんな俺の気持ちなど知る由もない柊人はご飯を平らげると「じゃ、帰るな」と言って、先に食べ終えていた俺の食器と自分の食器を重ねて立ち上がった。
「え、もう帰んの?」
「だってお前忙しいって言ってたろ。囲碁にも早く俺に慣れて欲しいしさ」
当然のようにそう言って玄関に向かう柊人を立ち上がって追いかけ、背中に問いかける。
「なあ、もうタバコは吸わないの」
「あぁ、もう吸わないかな。ベランダからの脱走も心配だから出る回数を減らしたいし、もともと仕事とプライベートを切り替えるために吸ってただけだし。タバコがなくても囲碁がいれば、餌やったりすることで切り替えられるから」
俺を振り返り、いい笑顔でそう答えて「じゃ、おやすみ」と玄関を開けようとする柊人の腕を思わずつかむ。
「うわ、あぶね。なんだよ」
手に持った食器を落としそうになった柊人に少し呆れたような目を向けられ、俺は慌てて腕を離す。
これからもせめてただいまの合図くらいは欲しいんだけど、とか。
キスもしないで帰るのかよ、とか。
俺、今日シャワー浴びて待ってたんだけどな、とか。
そんな言葉を飲み込んで「いや、ごめん、ごちそうさまって言ってなかったなって思って」と俺は柊人に言う。
「なに今さら」
そう笑う柊人はいつも真っすぐだ。人の言葉の裏なんて読もうとせずそのまま受け取る。
それはときに有難く、ときにもどかしい。
「じゃあ……囲碁によろしく。柊人に慣れたら俺にも会わせてね」
「了解。じゃあな、頑張れよ」
結局俺に触れることもなく出ていった柊人を玄関で見送った俺は、ちょっとため息をついた後、両手で一年以上伸ばしっぱなしの髪をがしがしとかきむしった。
そしてぐちゃぐちゃになった髪の毛をそのままに、なんとも言えないもやつきを抱えパソコンの前へと戻り Enterキーを軽く押す。
もともと柊人は、世話焼き体質だ。だから何くれとなく俺の面倒を見てくれて構ってくれて誘ってくれて、俺もそうされるのが当然だと思っていた。
ところが囲碁が来たことで、柊人の興味や世話を焼きたい気持ちがそちらに一気に向かってしまったということなのかもしれない。
――マンネリ化してた恋人なんて、二の次になってもしょうがないよな。
「あーあ」
そう口に出して数秒だけ天井を仰いだ俺は、また正面に目を向け、スリープが解除されたモニターに映る書きかけの原稿を見る。
今書いているのは、とある恋愛小説の紹介記事だ。自分の恋愛だってなんだかよく分からないのに、その本に描かれた恋愛模様の儚さや美しさについて書き連ねている俺ってなんなんだろうな、と思いながら、髪の毛を手櫛で軽く整えて、髪ゴムで一つ結びにする。
締め切りは明日だ。できるだけ徹夜にならないよう頑張って仕上げようと、俺は首をぐるっと回した。
――飲みにでも行ってるのかな
職場の人とは最低限の付き合いしかしていないとはいえ、たまには柊人だって飲みにいくことはある。
でも、今日は火曜日だ。平日に飲むなんてまず考えられない。
一応、手元に置いてあるスマホを確認してみるが、メッセージなども入っていなかった。
タバコを吸いに出ないってことは、もしかしたら具合が悪いのかもしれないが、昨日もベランダには行っていないから、柊人が調子悪そうだったかも分からない。
とりあえず、隣の部屋から物音が聞こえるか確認してみようと、いつもかけっぱなしのラジオの音量を下げたところで、デスクの上のスマホが鳴り出した。そこには柊人の名前が表示されていて、ちょうど良かったと思いながら手に取る。
「もしもし?」
『あのさ、仕事してるとこ悪いんだけど、剛士のとこ段ボールある?』
「段ボール?潰したのが四個くらいあるけど、それが……」
『あ、じゃあ今からそれもらいに行くから』
は?と聞き返す前に電話は切れ、そして三十秒もしないうちに玄関が開いて柊人が入ってきた。
「どこにある?」
そう聞かれ、パソコンデスクの前に座ったまま、キッチン横に置いてあるステンレスシェルフを指さすと、柊人はそこに立てかけてある段ボールのサイズを確認し、一つを選んで取り出した。
「サンキュ。これもらっていくな。じゃ」
それだけ言ってそそくさと帰ろうとする柊人に「ちょっとちょっと」と慌てて声をかける。
「意味わかんないんだけど、何、どうしたの?」
「猫がきた」
「猫?」
「そう、猫。急だったから餌とトイレくらいしか用意できなくてさ。前に猫は猫ベッドを買ってあげてもそれが入ってた段ボールに入るってネットで見たから、とりあえず段ボールを仮の寝床として用意してあげようと思って」
早口で一気にそれだけ言うと、再び「じゃ」と言って柊人は出ていってしまった。
猫。
まったくもって柊人と猫が結びつかなくて、ちょっと首を傾げる。
例えば野良猫を気にしているところを見たこともないし、猫を可愛いと言っているのも聞いたことがない。
そんな柊人が、何で猫なんか。
気になるし柊人の部屋に行ってみようかなと、靴箱の上に置いてある鍵が二つ付いているキーホルダーを手に取る。
片方は自宅の、そしてもう片方は柊人の家の鍵だ。ほぼ同じ形なので、区別がつくように柊人の家の鍵は持つところを油性マジックで部分的に黒く塗ってある。
そしてサンダルを引っ掛けたところでスマホが鳴った。今度はメッセージだ。
【言い忘れたけど、すごい警戒してるから、この猫が慣れるまでしばらく俺の部屋来るの禁止。玄関からの脱走も怖いし】
「はぁ?」
読んで思わず声が出る。
――なんだよ。
猫の方が大事だと言われた気がして、俺はキーホルダーを少し乱暴に靴箱の上に置くと、サンダルを脱いで家の中に戻る。
そこにまた、メッセージの着信音が鳴った。
少しむっとしたままスマホの画面に目をやると【あと、脱走が怖いからしばらくベランダにも出ないから】という一文がそこには表示されていた。
――なんだよ!
ベランダでの時間が無くなれば、俺たちが会う機会はぐっと減ってしまう。
あいつ、俺に会わなくてもいいっていうのかと、ベランダに出ないこともよくある自分のことはとりあえず棚に上げてまたイラっとする。
そのまま返信せず、スマホをソファーに放り投げた俺は、パソコンの前に座って原稿の続きを書くことにした。
こんなことでいちいち文句を言うのも馬鹿みたいだし、ずいぶんと猫に夢中になってるみたいだし、俺からの返信なんてあったって無くたって、どちらでも構わないだろう、きっと。
しかし。
そうして、へそを曲げたままこちらからは連絡するものかと頑張っていた俺は、ついに日曜日の夕方になっても何の連絡もよこさない柊人に焦れて【何してんの】と嫌々ながらメッセージを送った。
原稿に集中しなければいけないのに、金曜日くらいから一時間おきどころか十五分おきくらいにスマホにメッセージが届いていないか確認してしまい、このままでは仕事に支障が出ると思ったからだ。
もちろん、着信は聞こえるように設定してある。設定してあるが、もしかしたら何かの拍子に聞き逃してしまっているのではないかと思ってチェックをしてしまい、そのたびにメッセージが来ていないことにちょっと落胆する自分が情けない。ラジオの音だって控えめにしているから、聞こえないわけがないのに。
それに、連絡が来ないだけでなく壁をノックしてくることがなくなったのも、少し俺の気持ちを不安にさせていた。あれには、ただいまの意味も込められていると思っていたが、柊人にとってはベランダにタバコを吸いに出るという合図でしかなかったのだろう。
もちろん、事故にあって帰れないでいるとか、病気で寝込んでいるとか、そう言うことはなさそうだった。昨日も今日も、ソファーに膝立ちになって何度か壁に耳をつけてみたところ、隣の部屋からは物音がしている。
はぁ、とため息をつき、そのまま腕を組んでテーブルの上のスマホの画面を見つめていてもメッセージは一向に既読にすらならず、足は貧乏ゆすりを始め、眉間には次第にシワが寄っていく。
なんかもう癪に障るが、これ以上メッセージを待つのは精神衛生上よろしくない気がする。
「ったくしょうがないな」
そう呟きながらしぶしぶスマホを手に取って、柊人に電話をかけると五コールくらい鳴らしたところで『ほいほーい』と柊人が出た。その声がやけに陽気でまた腹が立つ。
「あのさ。メッセージ送ったんだけど」
『え、マジで? ごめん、気づいてなかった。なんか用事でもあった?』
「用事でもなきゃ、メッセージ送ったり電話したりしちゃいけないってことかよ」
腹立ちついでに厭味ったらしくそう言うと『いや……だって』と柊人が少し戸惑ったような声を出す。
『お前、俺に用もなくわざわざ連絡してくるなんてないしさ』
そんなこと、と言おうとして、ちょっと考える。
ほんとだ。
俺、用事もなくメッセージ送ったり電話したりしたこと確かにないかも。
いやでもそれは、柊人がいつでも会えるところにいるからスマホを使う必要がなかったというだけで、まあ確かにベランダに俺が出ない日は柊人の方からちょっとした様子伺いのメッセージをくれたりはしてたけど、でも俺のほうからはノックが聞こえたら柊人が元気だって言うのは分かるから別にメッセージを送る必要はなかったていうかなんていうか。
そこまで考えて、何を言っても言い訳にしかならないことが分かった俺は話題を変えることにする。
「……猫は元気なの」
『あぁ、イゴ?元気だよ。ベッドの下に隠れてばっかだけど』
「何、イゴって」
『猫の名前』
「なにその名前」
『ゲームの囲碁だよ。白黒だからさ。なんか渋くてかっこよくね?』
「柊人の言うかっこよさの基準が分からない」
ちょっと呆れてそう言うと、電話の向こうで柊人が笑い、それから訊ねてきた。
『そういや剛士、夕飯は?一緒に食う?あ、今日も忙しい?』
正直なところ、柊人からの連絡ばっかり気にしていて原稿が進んでないから忙しい。
それに、俺のことなんて今のいままで全然考えていなかったと言わんばかりの物言いも気に障る。
だけど、ここで忙しいと言ったら、またしばらく連絡が取れなくなるかもしれないわけで。
「……忙しいけど、夕飯食べるくらいの時間はある」
『オッケー。じゃあ、なんか作ってお前の家にあとで行くわ。七時くらいでいい?』
「うん」
『じゃ、後で』
「うん」
通話を切って、ちょっとだけほっとした俺は軽くため息をつき、夕飯までにできるだけ原稿を仕上げてしまおうと、パソコンにまた向かってキーボードを打ち始めた。
*
「囲碁って猫、どこで拾ってきたの」
自宅と俺の家を二往復して野菜たっぷりの和食を運んできてくれた柊人とちゃぶ台を囲み、みそ汁を飲みながら訊ねる。
「あぁ、拾って来たんじゃなくて、俺が担当してた患者さんが施設に入ることが決まってさ。そんで奥さんは息子さん家族と一緒に住むことになったんだけど、お孫さんの一人が猫アレルギーだからもらってくれる人探してるって言うから」
「それで引き取ったってこと?」
「そういうこと」
「じゃあ子猫じゃないんだ」
「いや、もう五歳だって。生後三週間くらいのときに、家の花壇の下に挟まって鳴いてたのを患者さんが見つけて保護したらしいよ」
「へぇ。じゃあ囲碁って名前つけたのもその人?」
「そう、囲碁が趣味だったんだってさ。見る?」
そう言って、柊人が自分のスマホを見せてくる。
「……いや、これ見せられても」
そこに映っていたのは、ベッドの下の暗がりで目だけが光っている、生き物であることだけはかろうじて分かる何かだった。
しかし当の本人はそれを気にする様子もなく、ニコニコと画面を見ている。
「これ、どこに隠れたか分からなくて探してたときに撮ったやつ。肉眼で見えなくてもスマホで写真撮ると勝手に明るさ調整してくれて、暗がりの様子もある程度見えるから便利だよな」
怖がるだろうからライトとかでも照らしたくなくてと柊人は続けたが、猫から見れば自分の隠れ家を人間が覗き込んできてるのは分かるだろうから、どちらにせよ怖がらせている気がしないでもない。
「でも、今日は俺がいる前でベッドの下から出てきて餌を食べてたから、一歩前進ってとこかな。ビビらせないように声もかけないでこっそり見守ってたけど、少しずつ慣れてきてくれてるのが分かるとやっぱ嬉しいもんでさ」
そう楽しそうに言う柊人の顔になんとなく既視感を覚える。
なんだったっけか。
そう考える俺の前で、しっぽで猫の気持ちはある程度分かるという得たばかりの知識を、柊人は嬉しそうに教えてくれた。囲碁はしっぽが長めだから特に分かりやすく、まだ下がったままということは警戒しているということなのだそうだ。
特に興味のない俺はふんふんと頷きながらそれを聞き流し、そして煮物を口に運んでいるときに思い出した。
この柊人の顔は、俺たちが付き合い始めてすぐの頃によく見せていた顔だった。
付き合うことになったはいいが、とにかく照れくさくて友達でいた頃よりもよそよそしくなってしまった俺に、柊人は何かと話しかけ、くだらない話で笑わせ、軽いスキンシップを取り、二人の間に俺が一方的に作り出す妙な緊張感を和らげてくれた。
決して面倒くさがることなく、俺の緊張がしだいに解けていくのをいつも柊人は楽しそうに見守ってくれていて、そんな柊人の優しさや穏やかさに惚れ直していたわけだが、あれは猫を懐かせるのと同じような方法だったのかと思うと、今さらながら微妙な気分にもなる。
そんな俺の気持ちなど知る由もない柊人はご飯を平らげると「じゃ、帰るな」と言って、先に食べ終えていた俺の食器と自分の食器を重ねて立ち上がった。
「え、もう帰んの?」
「だってお前忙しいって言ってたろ。囲碁にも早く俺に慣れて欲しいしさ」
当然のようにそう言って玄関に向かう柊人を立ち上がって追いかけ、背中に問いかける。
「なあ、もうタバコは吸わないの」
「あぁ、もう吸わないかな。ベランダからの脱走も心配だから出る回数を減らしたいし、もともと仕事とプライベートを切り替えるために吸ってただけだし。タバコがなくても囲碁がいれば、餌やったりすることで切り替えられるから」
俺を振り返り、いい笑顔でそう答えて「じゃ、おやすみ」と玄関を開けようとする柊人の腕を思わずつかむ。
「うわ、あぶね。なんだよ」
手に持った食器を落としそうになった柊人に少し呆れたような目を向けられ、俺は慌てて腕を離す。
これからもせめてただいまの合図くらいは欲しいんだけど、とか。
キスもしないで帰るのかよ、とか。
俺、今日シャワー浴びて待ってたんだけどな、とか。
そんな言葉を飲み込んで「いや、ごめん、ごちそうさまって言ってなかったなって思って」と俺は柊人に言う。
「なに今さら」
そう笑う柊人はいつも真っすぐだ。人の言葉の裏なんて読もうとせずそのまま受け取る。
それはときに有難く、ときにもどかしい。
「じゃあ……囲碁によろしく。柊人に慣れたら俺にも会わせてね」
「了解。じゃあな、頑張れよ」
結局俺に触れることもなく出ていった柊人を玄関で見送った俺は、ちょっとため息をついた後、両手で一年以上伸ばしっぱなしの髪をがしがしとかきむしった。
そしてぐちゃぐちゃになった髪の毛をそのままに、なんとも言えないもやつきを抱えパソコンの前へと戻り Enterキーを軽く押す。
もともと柊人は、世話焼き体質だ。だから何くれとなく俺の面倒を見てくれて構ってくれて誘ってくれて、俺もそうされるのが当然だと思っていた。
ところが囲碁が来たことで、柊人の興味や世話を焼きたい気持ちがそちらに一気に向かってしまったということなのかもしれない。
――マンネリ化してた恋人なんて、二の次になってもしょうがないよな。
「あーあ」
そう口に出して数秒だけ天井を仰いだ俺は、また正面に目を向け、スリープが解除されたモニターに映る書きかけの原稿を見る。
今書いているのは、とある恋愛小説の紹介記事だ。自分の恋愛だってなんだかよく分からないのに、その本に描かれた恋愛模様の儚さや美しさについて書き連ねている俺ってなんなんだろうな、と思いながら、髪の毛を手櫛で軽く整えて、髪ゴムで一つ結びにする。
締め切りは明日だ。できるだけ徹夜にならないよう頑張って仕上げようと、俺は首をぐるっと回した。