「柊人、アイス買いに行きたいからコンビニまで付き合って」
 夕食後、どうやって切り出せばいいのか分からず悶々としながらリビングでテレビを見ていると、母さんが声をかけてきた。
「え、こんな時間に?」
「いいでしょ。小豆のアイスが食べたいの」
「まあいいけどさ」
 これはいいチャンスかもしれないと、俺はすぐにソファーから立ち上がる。
「俺は宇治金時」
 親父がそう言って「はいはい」と母さんが答える。
 実家に置きっぱなしにしてあるつっかけを引っ掛けて外に出ると、むわっとした熱気に包まれた。
「夜もなかなか気温が下がらないわね」
 そう言って歩き出した母さんに並ぶようにして足を進める。
「あんたは何食べるの」
「何かな。ソーダ味がいいかも」
「昔から好きだもんね」
「まあね」
 夏の夜は、昼間よりも自然の匂いが強く香る気がする。
 生垣にからまるツタが白い花を咲かせているのを横目に、俺はかすかに甘い香りを含む空気をゆっくりと吸った後「あのさ」と切り出した。
「今日、姉ちゃんに聞いたんだけど」
「あぁ、その話ね。お母さんも優美から聞いた。あの子ときどきうっかりしてるわよね」
「あー、うん。っていうかさ、この話って親父も知ってんの」
「もちろん」
「そっか……」
 それ以上言う言葉が見つからず黙って歩いていると、母さんが口を開いた。
「実はね、一昨日、矢島くんのお母さんから電話をもらって」
「連絡取ってるんだ」
「そうそう。四年前だったかしら。ショッピングセンターで偶然会って、まあ話しているうちにあんたたちが同じアパートに住んでるってことが分かって、お母さんたちびっくりしたのよね。そんな話聞いてなかったし」
「あぁ……」
「それで、何も言ってこないってことは、たぶんお付き合いしてるってことなんだろうねってなったわけ。でも本人たちが隠したがっていることをあんまりつついてもいけないだろうし、言ってくるまで待ちましょうって、久美子さんと……矢島くんのお母さんとね、そう話して。まあ自分たちの気持ちを整理する時間が欲しかったっていうのも本音だけど」
 有難いことだと思う。即否定をするようなことをせず、受け入れようと努力してくれていたということだ。
「それで、あんたたち順調にお付き合いしてるわけ?」
「うーん、まあ……」
「じゃあ、矢島くんが紹介できるように頑張ってるって言ってた相手は、あんたってことでいいのね?」
「……なにそれ」
 胸がドクンと鳴る。
「剛士が、そんなことをおばさんに言ったって?」
 あの剛士が?家族や友だちに絶対知られたくないって言っていた剛士が?
「直接久美子さんに言ったわけじゃなくてね、弟くんと矢島くんとでスーパーに行ったときに、矢島くんの友達と会ったんですって。それで、その子が矢島くんに彼女はいないのかって聞いたみたいで」
 心臓の音がうるさい。剛士が何を言っていたのか、聞きたいけど聞きたくなくて、耳を塞ぎたくなる手を必死に握る。
「そしたら、来年くらいには恋人として紹介できるように頑張ってるところって答えてたみたいでね。弟くんは、まだあんたたちのことは知らないから、久美子さんにお兄ちゃんに好きな人ができたみたいだって教えてくれたんですって。だから、今さらそんなこと言いだすなんて何かあったのかしらねって電話がきて」
 好きな人って、誰だ。
 俺は絶句したまま、機械的に足を動かす。
 変に思われたくないからと俺たちの関係を隠したがっていた剛士が、紹介できるように頑張っていると明言するとしたら、きっとその相手は女の子で。
 だとしたら、考えられる人は一人しかいないだろう。
 今日の朝、剛士のスマホに映し出されていた名前を思い出す。剛士が、電話がかかってきたことを当たり前のように受け止めていた、あの子の名前を。
 ついに気づいてしまったのかな。
 俺に対する感情と、女の子に対して感じる本物の恋愛感情が違うということに。
 やっぱり、無理に我慢したりしないで、真田さんとの食事なんて行くなって言えば良かった。あの日、コンビニに寄っていくかなんて、理解あるふりをしなければ良かった。
 もう。
 何もかも遅すぎるけど。
 急に重くなった足を止めて、数歩前を行く母親の背中に声をかける。
「……母さん」
「ん?」
「ごめん。俺、ちょっとコンビニ行けない」
「え?……ちょっと柊人。どうしたの」
 自分でもこらえられない涙が頬を伝っていくのをそのままに、振り向いた母さんの前で俺は立ち尽くした。
「たぶん、その相手俺じゃないよ」
「え?」
「ごめん、この際だから言うけど。俺はもともとゲイでさ。中学生くらいから自覚もあったし。でも、剛士は」
 その名前を口にしたとたんにまた涙がこぼれる。
「あいつは、そうじゃないかもしれないんだ。俺が好きだって言ったから、付き合ってくれてただけで。ずっと俺が一緒にいて、あいつに必要とされるようにやってきたから、それを恋愛と勘違いしていただけなのかもしれなくて」
 そばに寄ってきた母親が「なんか心当たりでもあるの?」と静かに聞いてくる。
「ある……最近、連絡を取り合ってる女の子がいるから、その子じゃないかな。年下の、可愛い感じの子」
「そう」
 三十近い男が母親の前で、しかも恋愛のことで泣くなんて情けなさすぎると思いながらも、俺は道の真ん中で涙をただ流し続けた。
 そんな俺をしばらく黙って見ていた母親は「じゃあ、ここで待ってなさい。アイス買ってくるから」と言って、道の先で明るく輝くコンビニの方へ足早に歩いていった。
 さすがにこのまま道路に立っているわけにもいかないだろうと、畑の脇に立つガードレールに近づき、そこに寄りかかる。
 道路の向かいでは、ジジッという音を立てながら不規則に点滅している街灯の灯りが雨の日の窓越しのようにぼやけて輝いていて、それを眺めながら震える呼吸を整えるように長く息を吐く。
 ついに、このときがきてしまった。
 でも、いつまでもあれこれ考え続けるより、良かったのかもしれない。
 もうずっと、不安と焦りと後悔とで混乱していたから。頭の中も、心の中も。
 剛士への接し方の歪さを阿藤や宇崎さんに指摘されて、いつの間にか俺が剛士から笑顔を奪っていたことに気づいて、そうしたら剛士に対して何かしようとするたびにそれが正しいのかどうか分からなくなってきて。
 その不安を打ち消すように剛士の反応一つ一つに自分への好意を探したりして、でも考えれば考えるほどやっぱり俺じゃダメなんじゃないかと思えてきて。
 剛士が好きで束縛したいという欲と、剛士の気持ちを優先しなければという理性の間をいったりきたりし続けて。
 それでもいつか、田仲さんたちのように揺るぎない愛情で剛士とつながりたいと、そう思って頑張ってきたけど。
 間に合わなかった。
「柊人」
 声とともにパタパタという足音が聞こえて顔を向けると、母さんがこちらに小走りで寄ってくるところだった。
「はい、まずその顔をどうにかしなさい」
 そう言って渡されたポケットティッシュを大人しく受け取り、数枚引き出して涙を拭き、鼻をかむ。
「それからこれ。アイス。食べながら帰りましょ」
 差し出された明るいブルーのパッケージを黙って受け取り、俺はアイスを取り出す。
 母さんが俺の手から丸まったティッシュと空になったアイスの袋を取り上げてコンビニ袋の中に入れ、自分も小豆のアイスをパッケージから出した。
 無言で軽く背中を押され、アイスを食べながら家に向かってまた母さんと並んで歩き出す。
「お母さんには、本当のところは分からないけど」
 少し歩いたところで、そう母親が話し出した。
「うちの息子以上にいい子なんていないと思うけどね」
 思わぬ一言に、不覚にもちょっと笑ってしまう。
「でも、もし、もしよ。矢島くんが他の子と付き合うことにしたらあんたはどうすんの?」
「……そうだな」
 俺はまたぼやけてくる視界をそのままに、暗い道の先を見る。
 考えたくはないけど、考えないといけないのだろう。
 普通に考えれば、あの家を引き払って剛士から離れるのがベストだと思う。
 でも、今のままでいれば、俺はきっと剛士の親友というポジションでまだ一緒にいられる。今まで通り、囲碁を預けたり、一緒にご飯を食べたり、他愛もない話をしたりできる。
 それにそうやって側にいれば、剛士が彼女とうまくいかなくなったときに、また俺のところに戻ってきてくれるかもしれない。
 情けない考えだけど、そんな可能性にすがりたいほどには、俺は剛士が好きで。
「……まだ分かんないけど、でも友達として一緒にいれたらとは思う」
 しばらく黙った後に俺がそう言うと、母さんは「まあそれも一つの道よね」と頷いた。
「でも、辛くなったら無理はしないようにね」
「うん」
「あ、そういえばほら、あの飼い始めた猫ちゃんは今日どうしてんの?二泊くらいならお留守番できるの?」
 沈んだ雰囲気を変えようと思ったのか、明るい口調で囲碁の話題を出した母親に俺は少し笑って答える。
「いや、剛士のところにいる。平日の昼間はいつも剛士の部屋で預かってもらってるから剛士にも懐いてるし」
「……そっかぁ」
 剛士。
 剛士。剛士。
 名前を口にするたびに、胸がたまらなく痛い。
 俺はその痛みをごまかすようにガリリとアイスをかじり、新たに出したティッシュで乱暴に目をぬぐった。



 剛士の家の前で、ゆっくりと深呼吸をする。
 母親と話したあのときから、現実を受け止めようと頑張ってきた。
 ただ、どこかで、なにかの間違いなんじゃないかという思いがどうしても拭い去れない。
 剛士は友達に彼女のことを聞かれたから、ただ話を適当に合わせただけじゃないかと、願うように思っている自分がいる。
 でもとにかく今は普通に、何事もなかったかのように振舞おうと自分に言い聞かせながらゆっくりチャイムを押すと、すぐにガチャッと鍵が開く音がして、ドアから顔をのぞかせた剛士が笑顔で俺を玄関に迎え入れた。
「おかえり」
「ただいま」
 強張りそうな顔で必死に笑顔を作る俺を、剛士がじっと見上げてくる。
「どうした?なんか疲れてる?」
「……思ったより電車が混んでて。全然座れなかったから」
 そう答えると「そっか」と剛士は軽く頷いて「もし疲れてるんなら囲碁のこと今日も預かろうか?」と言ってくる。
「いや、大丈夫。連れてくよ。ありがとな」
「ならいいけど」
「剛士は、何してたのこの三日間」
「ん? 何っていつも通り。仕事仕事仕事!って感じ」
「……真田さんと会ったりしなかったの」
 剛士のテンションがいつもより高いように見えて、どうしても我慢できずに小さい声で訊ねる。
「え? あぁ、この前電話来てたから? まあ、会ったっていうか、うちにちょっとだけ来たよ」
 無言になった俺の前で、剛士は笑顔で続ける。
「あそこのコンビニ、キャットフードも売ってるらしくって、落下して歪んじゃった猫缶、廃棄するけどいらないかって言うから。ついでにおすすめのご飯も買ってきてくれた。俺がコンビニまで行くって言ったけど、廃棄のものを店では堂々と渡せないって言うからさ」
 少し上気したような顔をしながら話す様子を見ているうちに、心がぽきりという音を立てた気がした。
――あぁ、これは無理だな。
 呆然と剛士のことを見ながらそう思う。
 この先、剛士と真田さんが仲を深めていくのを間近で見続けるなんて、絶対にできない。
 この家にあの子が遊びに来たり泊まりに来たりするのを見ているうちに、俺は壊れてしまうだろう。確実に。
 恋人でなくてもそばにいられればなんて、そんなの綺麗事でしかないということが分かった俺は、何かに急かされるように口を開いた。
「あのさ、剛士」
「なに? あ、でも猫缶はあげてないから。ちゃんと柊人に聞いてからと思ってそのままに……」
「いや、それはいいんだけど。俺、このアパート出ることに決めたから」
「え?」
「もう、囲碁も預けるのやめるな。これからは新しい家で留守番しないといけないわけだし、今から誰もいない環境に慣れさせておいたほうがいいだろうから」
「そんな、なんで、急に」
「急じゃないよ。前から言ってただろ。今回、実家で親とも話してきたし」
 みるみる心細そうな顔になっていく剛士の顔から視線を逸らす。
ーーお前にとって、結局俺はなんだったんだろうな。
 胸の中でそう呟く。
 恋人だったのか親友だったのか、それとも便利な隣人だったのか。
 でももう彼女ができるなら俺なんていなくてもいいだろう。
 こんな、口うるさい、束縛ばっかりする男なんて。
 今この瞬間も、さっきの自分の言葉を撤回して、俺の側にいてくれとすがりつきたくなっているような、女々しい男なんて。
 剛士にぶつけることのできない言葉ばかりが身体の中をぐるぐるとして、どうしようもなく苦しい気持ちになる。
 これが最後になるんなら、いっそのことここで無理やり押し倒して、その顔が歪むくらい乱暴に抱いて、俺の痕を忘れられないくらい刻み込んで、そうして、剛士に怯えられて嫌われたら、諦めもつくんだろうか。
「……ごめん、とりあえず囲碁を連れてきてもらっていい?」
 俺の言葉にはっとしたような顔をして、慌てて部屋に戻っていく頼りなげな細い後姿を眺める。
 大切にしたいという気持ちと、滅茶苦茶にしたい気持ちとで、胸が真っ二つに引き裂かれてしまいそうだ。
 だから、早く。俺にまだ理性が残っているうちにすべてを終わらさなければ。
 肩にかつぐように抱きかかえて戻ってきた剛士に「囲碁を置いてきたら、お前の家にある猫グッズ、引き上げに来るから」と告げて、ゴロゴロと喉の音を鳴らす囲碁をその腕から受け取る。
「別に今日じゃなくても」
「いや、さっさとやっちゃいたいし。あと、もう囲碁を預けないから明日から夕飯もいらないよな」
「……」
「まあ、ちょっと前までは俺が夕飯を作ることもしてなかったわけだし、大丈夫か」
 目も見ないままそれだけ言い捨てて、俺は玄関を開けると自分の家に戻る。
 鍵を開け、囲碁を廊下に下ろして部屋にのんびりと入っていくのを見た後、また玄関を出て隣の家に行くと、剛士は玄関で呆然と立ち尽くしていた。
 その横を黙って通り抜けて、キッチンのところに置いてあった猫の餌入れや水入れを持ち上げ、猫トイレのところへ行って、砂の上にそれを置く。それからリビングのソファーの上に投げてあった、一緒に買いにいった猫のおもちゃもトイレの中に放り込んだ。
 すべてを載せた猫トイレを持ち上げ、何か言いたげな剛士に「じゃあ。悪いけど余ってる猫餌とトイレの砂は捨てといて」とだけ伝えて玄関を出ようとしたところで、立ち止まる。
 結局俺は、最後まで自分の気持ちしか考えられないようなどうしようもないやつだけど。でも。
 これだけは言わなくては。
「剛士」
 振り向くことはできないまま、俺は声が震えないようにその名を呼ぶ。
「幸せになってくれよ」
 どうか。俺が幸せにできなかった分も。
 願うようにそう告げた俺は、涙がこぼれ落ちないうちに廊下へと出た。
 剛士からの返事は、何も聞こえなかった。