信号が赤になるのが見えて自転車にブレーキをかけたのと同時に、首筋を汗が流れ落ちていくのを感じる。
リハビリの予定が入っていた患者さんのご家族から、少し風邪気味なのでキャンセルしたいという連絡が入ったのは、ついさっき、その家の前にたどりついたときだった。
次はそのまま田仲さんの家に行く予定で、一度職場に帰るほどの時間はないと判断した俺は、とりあえず田仲家のほうへ自転車を走らせて休めるところを探すことにした。
真夏の訪問リハは体力勝負である。遠方の患者さんのところへは車で行くが、それ以外は自転車で回るのが基本だ。そんな訪問リハをこなす中では、必要に応じてショッピングセンターやファストフード店などで休むのも仕事のうちである。自分が倒れてしまっては元も子もない。
――そういえばあそこのスーパー、コーヒーショップがついてたっけ。
途中でどこかファストフード店に入ろうと思っていた俺は、田仲さんの家から大通りに出てすぐのところにあるスーパーを思い出す。
あそこなら、子どもが多いファストフード店より落ち着いていていいかもしれない。
目の前の信号が青になり、ぐっとペダルを踏みこむ。
太陽光に自分の腕の皮膚が焼かれていくのを感じながら、日陰のない横断歩道を渡り、車があまり通らない住宅街の中の道を選んで走っていくと、やがて横に畑が広がった。
この辺は、住宅と同じくらいの割合で畑や田んぼもあり、どことなく地元と雰囲気が似ている。
自転車をこぎながらそんな風景を眺めた俺は、昨日から地元に帰った剛士は今頃何してるんだろうと考える。
剛士には歳の離れた弟がいる。今年大学に入ったばかりで、その弟も剛士が帰るのに合わせて帰省してくるらしい。
自分が剛士の弟に初めて会ったときはまだ小学一年生だったのに、それがもう大学生まで育ったのか思うと、月日の流れを感じずにはいられない。自分と剛士の間にもそれだけの時間が流れたと言うことだ。
俺たちの関係は、育つどころか停滞しているし剛士の気持ちすら分からなくなっているわけだけど。
でも、この前、剛士と会った阿藤からは『ダーリン、普通に安田さんのこと好きでしょ』と言われた。
『かっこいいって思うのか聞かれて、迷わず肯定してたしね』
宇崎さんもそう言って頷いていたが『でもやっぱりお母さんみたいって思われてるあたり、ちょっと安田くんの接し方に問題ありなんだなとは思ったよね。過保護って本人からも言われてたし』と肩をすくめた。
確かに問題ありだ。
思い出して小さくため息をつく。
好きという気持ちを持ってくれていたとしても、それが恋人に対してではなく母親に対するようなものだとすれば、剛士が俺に対して性的なものを求めなくなるのも当然な気がする。
まあ、それが分かっただけでもこの前食事会を開いた意味はあっただろう。剛士もそれほど口数は多くなかったけど、楽しそうにしていたし。
畑を過ぎたところにあるT字路を右に曲がり、やがてスーパーの入り口が見えてきたところで速度を落とす。
人通りが多いので、危なくないように自転車から降りて押して歩きながら時間を確認すると、田仲さんのリハ予定までまだ一時間近くあった。
ここから田仲さんの家までは自転車で五分もかからないから、けっこうゆっくりできそうだと思いながら駐輪所に自転車を停め、汗をぬぐってコーヒーショップに向かう。
店内は冷房が効いていて、生き返ったような気持ちになりながらアイスコーヒーを頼んだ。暑いときには温かい飲み物のほうがかえっていいとも聞くが、やはり冷たいものが飲みたくなる。
すぐに出てきたコーヒーを手に、席を探して店内をぐるっと見回すと、窓際に設けられたカウンター席がいくつか空いているのが見えて、そちらに足を進める。
買い物袋を足元に置いた女性の横に座り、口にくわえたストローで早速冷たいコーヒーを体内に取り込みながら、ゲームでもしようかとスマホの画面をタップしたところで「あら? 先生?」と隣から声をかけられ、俺はびくっとしてそちらを見た。
「あ、田仲さん」
そこに座っていたのは、田仲さんの奥さんだった。
「奇遇ねぇ。先生も休憩?」
「そうなんです。実は前の時間の方がキャンセルになったので、田仲さんのところに伺う前にここでコーヒーでも飲もうかと思って。ばれちゃいましたね」
「あら、そうだったんですね。私もうちの人のことをほったらかしでこんなところにいるのばれちゃったわ」
あの人には秘密にしておいてくれます?と笑う奥さんに「もちろんです」と笑って返す。
「やっぱりね、うちの人は今、こういうところに来られないでしょ。だからちょっと罪悪感はあるんですけど、でもたまには息抜きしたくなっちゃって」
「いいと思いますよ。それで奥さんが笑顔になれるなら、それはご主人にとってもいいことだと思いますし」
「確かに罪悪感でいつもより優しくできるかも?」
おどけたように言う奥さんの手には、ホットコーヒーが収まっていた。
「あの人コーヒー好きだし、前はよくここに飲みに来てたから連れてきてあげたいとは思うんだけど、ここのお店狭いし、段差もあるから無理なのよね」
コーヒーを一口飲んだ後に店を見回した奥さんにつられるように、俺も店の中をぐるっと見る。
確かに、車いすで来るのは無理そうな作りではあった。ただ、段差はそれほど高くはないし2段だけなので、クラッチを使って店内に入るのは不可能ではない気がする。
「……絶対とは言えないですけど、飲みに来れないこともないと思いますよ。リハビリの一環として、僕が付き添って歩行練習がてら来てもいいですし」
「あら、ほんと?」
「涼しい時期になったら考えてみましょうか。畑仕事をするっていうのが今の大きな目標ですけど、冬になったら収穫できるものも少なくなるでしょうし、今度はコーヒーをここで飲むって言うのを目標にしてもいいかもしれませんね。最近歩くときのふらつきがだいぶ改善されてきたので、段差の練習も取り入れたいなと思っていたところなんです」
「それはきっと喜ぶわぁ。コーヒーなんて別に家でも飲めるんだけど、でもやっぱり外で飲むのとは違うのよね」
「そうですよね」
同意しながらアイスコーヒーを飲む。
リハビリというのは、その人の身体の機能がただ改善していけばいいというものではない。機能が改善することによって、それこそコーヒーを外に飲みに行くといったような、その人の人生の質が少しでもあがる行動を取れるようになるということが大切なのだ。
そんなことを改めて確認するように思った俺は、少しだけため息をつく。
患者さんに対してはこんなふうに思えるのにな。
なんで剛士の人生の質ってものを、俺は考えてこれなかったんだろ。
油断するとすぐに剛士のことを考えてぼんやりしてしまう俺が、アイスコーヒーを意味もなくストローでくるくるかきまぜていると、田仲さんの奥さんが明るく声をかけてきた。
「じゃあ、先生、私飲み終わったので一足先に帰りますね」
「歩きですか?」
「そうそう、近いから」
「あ、それなら、もしよければ僕自転車なので荷物載せていきましょうか。あ、でも早く行ってしまうとご迷惑かもしれないですね」
「そんなことないですけど、いいのかしら」
「もちろんです。もう僕も飲み終わるので」
そう答えて残っていたアイスコーヒーを一気に飲んだ俺は、カウンター席から立ち上がってゴミ箱に容器を捨てると、遠慮する田仲さんの奥さんから二つの買い物袋を受け取った。
そのまま並んで駐輪所のほうへ歩いていくと「安田先生は、お付き合いしてる方いるの?」と奥さんに聞かれる。
「はい、まあ一応。いますね」
「いいわねぇ。こんな気の利く優しい彼氏さんとお付き合いできるなんて、その方は幸せ者ね」
「どうでしょう。そうだといいんですけど」
「そりゃそうよー。結婚のご予定とかは?」
「うーん、そうですね。今のところは特に」
「あらそうなの?」
「はい。でも、田仲さんたちみたいに長く一緒にいても仲のいいご夫婦には憧れますね」
そう言いながら自転車のかごに買い物袋を乗せ、スタンドを後ろにあげて、熱せられたハンドルを持ってまた奥さんと並んで歩き出す。
少しだけ何かを考えるかのように黙っていた奥さんは「まあでもね」と口を開いた。
「今も仲良くしているのは、私のエゴでもあるんですけどね」
「……と言うと?」
「実はね、うちの人、病気になって少ししたときに私のことを無視していた時期があって」
「え」
「そのうち、しっしっ、って手で追い払うようなこともするようになったのよね」
「あの田仲さんがですか?」
「うん。なんで急にそんなことをするのか分からなくて、私もあの時期はよく泣いたわー。ただでさえ、あの人の身体のこともこれからのことも不安だったのに、そんなところに冷たくされて。もしかしたら、私のことをずっと疎ましく思っていて、ここにきて本音が出たのかもしれないとも思ったし」
「そうでしたか……」
「でもね」
隣を歩く奥さんはそう微笑んで続けた。
「うち、遠方に住んでる娘がいるでしょ。あの子がまとまった休みを取ってきてくれたときに、私の代わりにうちの人についていてくれたのよね。そのときに、お母さんが泣いてるよって、なんであんなことするのって聞いてくれたの。そうしたら、もちろんあのときは今以上に話せなかったし、黙ってたらしいんだけど、そのうち悔しそうな顔をしてボロボロ泣き出したんですって」
「田仲さんが」
「そう。結婚してから泣くとこなんて見たことなかったのに。あぁ、まあ、私の前では泣いてないから、結局私はいまだに見たことがないんですけどね。それでね、そのことを娘から聞いて思い出したことがあって」
奥さんはそこで少しだけ息を吐いた。
「うちの人のお祖父さんにあたる人がね、倒れた後に呆けてしまったことでお祖母さんが介護ですごく苦労をなさって、亡くなったときに『良かった』って言って泣いたんですって」
「あぁ……」
「それが子ども心にすごくショックだったらしいのね。それで、結婚したばかりの頃だったかしら、自分が病気になったり呆けたりするようなことがあったら、どっかの施設に入れてくれって、お前の手を煩わせて、最後にそんなことを言うような目に合わせたくないからって、そんなことを言ってたのを思い出したの」
「そうでしたか」
「だから、きっと今みたいに私が自宅で介護するんじゃなくてね、どっか施設とかに入ったほうがあの人はよっぽど気持ちは楽なのかもしれないとも思うのよ。だけど、私は自分が面倒を見たいと思うから、そんなことは忘れたふりをしてね、あの人が上手に喋れないのをいいことに、うちの人の思いなんて気づかないふりをして、一緒に暮らしてるの。さすがに、どんなに冷たくしても私がへこたれないから、あの人ももう諦めたみたいだけどね」
そう言った奥さんは笑顔で、横を歩く俺を見上げた。
「それに、そのお祖母さんが言った言葉もね、介護から解放されて『良かった』って言ったっていうのがきっと正解だとは思うけど、もしかしたら『最後まで自分で見ることができて良かった』ということだったかもしれないじゃない?」
「そうですね」
話しているうちに、いつの間にか田仲家は目の前まで迫っていた。
「だからねぇ、先生。あの人が、施設じゃなくてこの家で私と過ごすことになって良かったって、そう思えるようにリハビリのほう、引き続きよろしくお願いします。それで、あのコーヒーショップにも連れて行ってあげてください。私のためにも」
「わかりました。でも、田仲さんは今も家で奥さんと過ごせて良かったって思ってる気がしますよ」
「どうかしらね。愛してるのマークはまだ使ってくれたことないけど」
あははっと笑った奥さんは自転車のかごから買い物袋を取り出し「ありがとうございました。助かっちゃった」と頭を下げてくれた。
「ただいまー!安田先生と途中で会ったからデートしてきたわよー!」
元気な声でそう言いながら家に入っていく奥さんの後ろ姿を見つめる。
愛しているからこそ、相手の気持ちを無視して離れようとする人と。
愛しているからこそ、相手の気持ちを無視して一緒にいようとする人と。
それらの行動が正解はどうかは分からないけど、少なくともその根底に深い愛情が流れているのは間違いなくて、それと自分の剛士に対する身勝手な愛情との違いを思って、俺は少しの間そこから動くことができなかった。
リハビリの予定が入っていた患者さんのご家族から、少し風邪気味なのでキャンセルしたいという連絡が入ったのは、ついさっき、その家の前にたどりついたときだった。
次はそのまま田仲さんの家に行く予定で、一度職場に帰るほどの時間はないと判断した俺は、とりあえず田仲家のほうへ自転車を走らせて休めるところを探すことにした。
真夏の訪問リハは体力勝負である。遠方の患者さんのところへは車で行くが、それ以外は自転車で回るのが基本だ。そんな訪問リハをこなす中では、必要に応じてショッピングセンターやファストフード店などで休むのも仕事のうちである。自分が倒れてしまっては元も子もない。
――そういえばあそこのスーパー、コーヒーショップがついてたっけ。
途中でどこかファストフード店に入ろうと思っていた俺は、田仲さんの家から大通りに出てすぐのところにあるスーパーを思い出す。
あそこなら、子どもが多いファストフード店より落ち着いていていいかもしれない。
目の前の信号が青になり、ぐっとペダルを踏みこむ。
太陽光に自分の腕の皮膚が焼かれていくのを感じながら、日陰のない横断歩道を渡り、車があまり通らない住宅街の中の道を選んで走っていくと、やがて横に畑が広がった。
この辺は、住宅と同じくらいの割合で畑や田んぼもあり、どことなく地元と雰囲気が似ている。
自転車をこぎながらそんな風景を眺めた俺は、昨日から地元に帰った剛士は今頃何してるんだろうと考える。
剛士には歳の離れた弟がいる。今年大学に入ったばかりで、その弟も剛士が帰るのに合わせて帰省してくるらしい。
自分が剛士の弟に初めて会ったときはまだ小学一年生だったのに、それがもう大学生まで育ったのか思うと、月日の流れを感じずにはいられない。自分と剛士の間にもそれだけの時間が流れたと言うことだ。
俺たちの関係は、育つどころか停滞しているし剛士の気持ちすら分からなくなっているわけだけど。
でも、この前、剛士と会った阿藤からは『ダーリン、普通に安田さんのこと好きでしょ』と言われた。
『かっこいいって思うのか聞かれて、迷わず肯定してたしね』
宇崎さんもそう言って頷いていたが『でもやっぱりお母さんみたいって思われてるあたり、ちょっと安田くんの接し方に問題ありなんだなとは思ったよね。過保護って本人からも言われてたし』と肩をすくめた。
確かに問題ありだ。
思い出して小さくため息をつく。
好きという気持ちを持ってくれていたとしても、それが恋人に対してではなく母親に対するようなものだとすれば、剛士が俺に対して性的なものを求めなくなるのも当然な気がする。
まあ、それが分かっただけでもこの前食事会を開いた意味はあっただろう。剛士もそれほど口数は多くなかったけど、楽しそうにしていたし。
畑を過ぎたところにあるT字路を右に曲がり、やがてスーパーの入り口が見えてきたところで速度を落とす。
人通りが多いので、危なくないように自転車から降りて押して歩きながら時間を確認すると、田仲さんのリハ予定までまだ一時間近くあった。
ここから田仲さんの家までは自転車で五分もかからないから、けっこうゆっくりできそうだと思いながら駐輪所に自転車を停め、汗をぬぐってコーヒーショップに向かう。
店内は冷房が効いていて、生き返ったような気持ちになりながらアイスコーヒーを頼んだ。暑いときには温かい飲み物のほうがかえっていいとも聞くが、やはり冷たいものが飲みたくなる。
すぐに出てきたコーヒーを手に、席を探して店内をぐるっと見回すと、窓際に設けられたカウンター席がいくつか空いているのが見えて、そちらに足を進める。
買い物袋を足元に置いた女性の横に座り、口にくわえたストローで早速冷たいコーヒーを体内に取り込みながら、ゲームでもしようかとスマホの画面をタップしたところで「あら? 先生?」と隣から声をかけられ、俺はびくっとしてそちらを見た。
「あ、田仲さん」
そこに座っていたのは、田仲さんの奥さんだった。
「奇遇ねぇ。先生も休憩?」
「そうなんです。実は前の時間の方がキャンセルになったので、田仲さんのところに伺う前にここでコーヒーでも飲もうかと思って。ばれちゃいましたね」
「あら、そうだったんですね。私もうちの人のことをほったらかしでこんなところにいるのばれちゃったわ」
あの人には秘密にしておいてくれます?と笑う奥さんに「もちろんです」と笑って返す。
「やっぱりね、うちの人は今、こういうところに来られないでしょ。だからちょっと罪悪感はあるんですけど、でもたまには息抜きしたくなっちゃって」
「いいと思いますよ。それで奥さんが笑顔になれるなら、それはご主人にとってもいいことだと思いますし」
「確かに罪悪感でいつもより優しくできるかも?」
おどけたように言う奥さんの手には、ホットコーヒーが収まっていた。
「あの人コーヒー好きだし、前はよくここに飲みに来てたから連れてきてあげたいとは思うんだけど、ここのお店狭いし、段差もあるから無理なのよね」
コーヒーを一口飲んだ後に店を見回した奥さんにつられるように、俺も店の中をぐるっと見る。
確かに、車いすで来るのは無理そうな作りではあった。ただ、段差はそれほど高くはないし2段だけなので、クラッチを使って店内に入るのは不可能ではない気がする。
「……絶対とは言えないですけど、飲みに来れないこともないと思いますよ。リハビリの一環として、僕が付き添って歩行練習がてら来てもいいですし」
「あら、ほんと?」
「涼しい時期になったら考えてみましょうか。畑仕事をするっていうのが今の大きな目標ですけど、冬になったら収穫できるものも少なくなるでしょうし、今度はコーヒーをここで飲むって言うのを目標にしてもいいかもしれませんね。最近歩くときのふらつきがだいぶ改善されてきたので、段差の練習も取り入れたいなと思っていたところなんです」
「それはきっと喜ぶわぁ。コーヒーなんて別に家でも飲めるんだけど、でもやっぱり外で飲むのとは違うのよね」
「そうですよね」
同意しながらアイスコーヒーを飲む。
リハビリというのは、その人の身体の機能がただ改善していけばいいというものではない。機能が改善することによって、それこそコーヒーを外に飲みに行くといったような、その人の人生の質が少しでもあがる行動を取れるようになるということが大切なのだ。
そんなことを改めて確認するように思った俺は、少しだけため息をつく。
患者さんに対してはこんなふうに思えるのにな。
なんで剛士の人生の質ってものを、俺は考えてこれなかったんだろ。
油断するとすぐに剛士のことを考えてぼんやりしてしまう俺が、アイスコーヒーを意味もなくストローでくるくるかきまぜていると、田仲さんの奥さんが明るく声をかけてきた。
「じゃあ、先生、私飲み終わったので一足先に帰りますね」
「歩きですか?」
「そうそう、近いから」
「あ、それなら、もしよければ僕自転車なので荷物載せていきましょうか。あ、でも早く行ってしまうとご迷惑かもしれないですね」
「そんなことないですけど、いいのかしら」
「もちろんです。もう僕も飲み終わるので」
そう答えて残っていたアイスコーヒーを一気に飲んだ俺は、カウンター席から立ち上がってゴミ箱に容器を捨てると、遠慮する田仲さんの奥さんから二つの買い物袋を受け取った。
そのまま並んで駐輪所のほうへ歩いていくと「安田先生は、お付き合いしてる方いるの?」と奥さんに聞かれる。
「はい、まあ一応。いますね」
「いいわねぇ。こんな気の利く優しい彼氏さんとお付き合いできるなんて、その方は幸せ者ね」
「どうでしょう。そうだといいんですけど」
「そりゃそうよー。結婚のご予定とかは?」
「うーん、そうですね。今のところは特に」
「あらそうなの?」
「はい。でも、田仲さんたちみたいに長く一緒にいても仲のいいご夫婦には憧れますね」
そう言いながら自転車のかごに買い物袋を乗せ、スタンドを後ろにあげて、熱せられたハンドルを持ってまた奥さんと並んで歩き出す。
少しだけ何かを考えるかのように黙っていた奥さんは「まあでもね」と口を開いた。
「今も仲良くしているのは、私のエゴでもあるんですけどね」
「……と言うと?」
「実はね、うちの人、病気になって少ししたときに私のことを無視していた時期があって」
「え」
「そのうち、しっしっ、って手で追い払うようなこともするようになったのよね」
「あの田仲さんがですか?」
「うん。なんで急にそんなことをするのか分からなくて、私もあの時期はよく泣いたわー。ただでさえ、あの人の身体のこともこれからのことも不安だったのに、そんなところに冷たくされて。もしかしたら、私のことをずっと疎ましく思っていて、ここにきて本音が出たのかもしれないとも思ったし」
「そうでしたか……」
「でもね」
隣を歩く奥さんはそう微笑んで続けた。
「うち、遠方に住んでる娘がいるでしょ。あの子がまとまった休みを取ってきてくれたときに、私の代わりにうちの人についていてくれたのよね。そのときに、お母さんが泣いてるよって、なんであんなことするのって聞いてくれたの。そうしたら、もちろんあのときは今以上に話せなかったし、黙ってたらしいんだけど、そのうち悔しそうな顔をしてボロボロ泣き出したんですって」
「田仲さんが」
「そう。結婚してから泣くとこなんて見たことなかったのに。あぁ、まあ、私の前では泣いてないから、結局私はいまだに見たことがないんですけどね。それでね、そのことを娘から聞いて思い出したことがあって」
奥さんはそこで少しだけ息を吐いた。
「うちの人のお祖父さんにあたる人がね、倒れた後に呆けてしまったことでお祖母さんが介護ですごく苦労をなさって、亡くなったときに『良かった』って言って泣いたんですって」
「あぁ……」
「それが子ども心にすごくショックだったらしいのね。それで、結婚したばかりの頃だったかしら、自分が病気になったり呆けたりするようなことがあったら、どっかの施設に入れてくれって、お前の手を煩わせて、最後にそんなことを言うような目に合わせたくないからって、そんなことを言ってたのを思い出したの」
「そうでしたか」
「だから、きっと今みたいに私が自宅で介護するんじゃなくてね、どっか施設とかに入ったほうがあの人はよっぽど気持ちは楽なのかもしれないとも思うのよ。だけど、私は自分が面倒を見たいと思うから、そんなことは忘れたふりをしてね、あの人が上手に喋れないのをいいことに、うちの人の思いなんて気づかないふりをして、一緒に暮らしてるの。さすがに、どんなに冷たくしても私がへこたれないから、あの人ももう諦めたみたいだけどね」
そう言った奥さんは笑顔で、横を歩く俺を見上げた。
「それに、そのお祖母さんが言った言葉もね、介護から解放されて『良かった』って言ったっていうのがきっと正解だとは思うけど、もしかしたら『最後まで自分で見ることができて良かった』ということだったかもしれないじゃない?」
「そうですね」
話しているうちに、いつの間にか田仲家は目の前まで迫っていた。
「だからねぇ、先生。あの人が、施設じゃなくてこの家で私と過ごすことになって良かったって、そう思えるようにリハビリのほう、引き続きよろしくお願いします。それで、あのコーヒーショップにも連れて行ってあげてください。私のためにも」
「わかりました。でも、田仲さんは今も家で奥さんと過ごせて良かったって思ってる気がしますよ」
「どうかしらね。愛してるのマークはまだ使ってくれたことないけど」
あははっと笑った奥さんは自転車のかごから買い物袋を取り出し「ありがとうございました。助かっちゃった」と頭を下げてくれた。
「ただいまー!安田先生と途中で会ったからデートしてきたわよー!」
元気な声でそう言いながら家に入っていく奥さんの後ろ姿を見つめる。
愛しているからこそ、相手の気持ちを無視して離れようとする人と。
愛しているからこそ、相手の気持ちを無視して一緒にいようとする人と。
それらの行動が正解はどうかは分からないけど、少なくともその根底に深い愛情が流れているのは間違いなくて、それと自分の剛士に対する身勝手な愛情との違いを思って、俺は少しの間そこから動くことができなかった。