昨晩は、十二時前くらいに家に帰ってくる音がしていた。
 結局、先輩と飲みに行ってたんだろうか。それなら安心だけど。
「あれ、弁当じゃないの久しぶりっすね」
 お湯を入れたカップ麺を手に席に戻ると、菓子パンを手に阿藤が話しかけてくる。
「あー……ちょっと寝るのが遅くなったから」
「お、愛しのダーリンとラブラブしてたんすか」
「ちげーし」
「私も愛しのダーリンと会ってみたいわぁ」
 前の席から弁当を食べつつ話しかけてきたのは宇崎さんだ。ベテランのOTである。
「門外不出なんでダメです」
「でも阿藤くんはついに会ったわけでしょ。私も気になるなぁ、安田くんが溺愛してる相手がどんな子なのか」
「それが、実際に会ってみると、ますますどんな人か気になるタイプなんすよ」
「おい阿藤」
「まあまあ。正直なところ、ぱっと見淡々としてて何考えてるのか分からない感じで、でもその分、笑顔になったときに、おって思わされるっていうか。最初に笑顔見たとき、可愛いっすねって思わず安田さんに言っちゃいましたもん」
「だから可愛いとか言うな」
「独占欲乙っす」
「ほんと安田くんって、爽やかな見た目なのに愛が重いわよね。その子、そんなに束縛されてて嫌がらないの? だって仕事も在宅なんでしょ。安田くん以外に会う機会なんてほとんどないってことじゃない」
 そう言う宇崎さんに向かって、俺は顔の前で手を振ってみせる。
「いやいや、そんなことないですよ。昨日も東京まで仕事の関係で出て、編集者の人たちと飲んで帰ってきましたし」
「でもそんなふうに出かけるなんて、たまにしかしてないんでしょ、きっと。月一くらい?」
「まあ、数か月に一回くらいですかね。基本、その編集者の人たち以外と会うなんてことないですし」
「えぇ? それ以外に安田くんじゃない人と会うことないの? 友達とかは?」
 宇崎さんに驚いたように突っ込まれ、ちょっとだけ戸惑う。
「いや、友達って言っても、知り合いのいない土地ですしね。仕事が忙しくてそうそう都内まで出られないから、大学時代の友達とも疎遠になってますし。それに、もともと向こうが俺たちの関係を家族や友達に勘付かれたくないって言って、だから知り合いのいないこの街に来たっていう経緯もあるんで。あいつも人見知りだから、これでいいみたいですよ」
「そうっすかー? 前に猫ちゃんグッズを買って持っていったときにちょっと話しましたけど、そんな人見知りって感じしなかったですけどね。俺、ダーリンが会いたがってないんだろうってずっと思ってましたけど、最初のときも自分からベランダに出てきて挨拶してくれましたし、安田さんが束縛してるだけなんじゃないすか」
「いや、そんな短い時間じゃ分かんないと思うけど、ほんとにあいつ人見知りで……」
「別に言い訳しなくてもいいっすよ。好きな子を人には紹介したくないっていう独占欲も理解はできるんで。ただちょっとやりすぎっていうか」
「違うって。本当に人見知りだし人づきあいが苦手なんだって」
「またまたー。この街に来たのだって、安田さんが一人占めしたいから連れてきただけなんじゃないすか」
 阿藤にしつこく詰められて、少しだけイラッとする。
「あのな、もともとは向こうが、卒業しても一緒にいたら大学の友達とか周りに変に思われるだろうなって言いだしたわけ。だから、知り合いに会わない場所を探して、PTを募集してる病院の中から前働いてた総合病院を見つけて、それで、あいつにこういうところに住むのはどうだって聞いたら、賛成してくれたから……」
「じゃあ、やっぱり言い出しっぺは安田さんじゃないっすか。だって、ダーリンの望みを叶えるだけなら都内で少しだけ離れたところに住んで半同棲って言う形をとる選択肢もあったんすよね」
「……」
 いや、あいつだって平和に過ごせそうだねって笑ってくれたんだ。誰かにばれるかもって不安を感じなくていいのは楽そうだって。
 でも、なんか何を言っても言い訳にしかならなさそうで口を開けない。
「そこを、縁もゆかりもないところに連れてきて、人と交流しないように束縛するって、なかなかやばいっすね。それを受け入れちゃう矢島さんもなかなかやばいし。洗脳でもしてるんすか?」
「……いやいや。仮に洗脳してたとしたら、同居の話を断られて落ち込むことにならないだろ」
 冗談交じりの阿藤の言葉に俺は軽くため息をついてみせる。しかし阿藤は肩をすくめて続けた。
「でも結局、同居する方向で行くつもりなのは変わらないんすよね」
「まあ、それはな。だから今、猫との生活に慣れてもらったり、毎日夕飯を一緒に食べたりして生活の中に俺がいても大丈夫っていうか、便利ってことをアピールしてるんだけど。実際この前、毎日夕飯持っていって迷惑じゃないか聞いたら、かえってメリハリがつくかもって言ってたし、このままうまくいけば同居する気になってくれるかも」
「やべえ。徐々に囲い込んでいってる感じがちょっと怖いんすけど」
「え?」
「なんで普通に話し合わないで、ダーリンの気持ちを自分に都合のいいように変えようとしてるんすか。それこそ洗脳ですって」
 そんなことない、と反論するために口を開いたところで、阿藤の言うことに心当たりがある俺はそのまま言葉に詰まってしまう。
 この前も、コンビニの子から連絡が来たと笑いながら言っていた剛士に、本当は自分が嫉妬するから会ってほしくないだけなのに、剛士の警戒心の無さを叱るような言い方をしたばかりだ。剛士が反省するように仕向けて。
 しかも、その子に心配をかけないように、手料理を食べさせてもらってることも言うようにと親切ぶったアドバイスもした。
 たぶん、素直な剛士はそのままあの子に伝えるだろう。そして、あのコンビニの子は手料理を作ってくれる相手がいると聞いて、剛士にちょっかいを出さなくなるだろう。
 手に取るように分かるその流れそのものが、剛士が俺のアドバイス通りに動くという自信があるからこそ成り立つものだということに、今さら気づいて少しだけ自分自身にぞっとする。
「ね、安田くん」
 そこまで口を挟まずに黙って聞いていた宇崎さんが、少し探るような顔をして聞いてくる。
「洗脳は言い過ぎかもしれないけど、正直なところ、私も阿藤くんと同意見でちょっと怖いと思うわ。それで、ダーリンが安田くんが毎日夕飯を作ってくれる環境に慣れて、楽だなと思うようになったら、『お前のために』って言って引っ越しの話を出すの?ここに連れて来たときみたいに?」
 言う、だろうと思う。
 きっと優しく。お前のためにもそのほうがいいだろって。そしてきっと剛士は頷き、二人の合意の上という形をとって俺たちは引っ越すだろう。
 本当は俺が一緒に住みたいだけだとしても。
「まあ、でもそのダーリンにとってもそれが本当に幸せなのかもしれないしね。そこは本人たちにしか分からないところもあるから」
 宇崎さんが、無言で考え込んでしまった俺を見かねたのか、とってつけたように明るく言う。
「ただ、やっぱり安田くんとダーリンは2人だけの世界で完結しすぎてる気がするな。特にダーリンのほうは、付き合ってること誰にも話していないわけだから、より客観的な見方ってできないと思うわけ。そこに付け込まないようにしないとダメだよ」
「そうですね」
「ごめんね。耳が痛いかもしれないけど、安田くんは訪問リハでも、患者さんの気持ちはもちろんだけど、介護しているご家族の気持ちとかそういうのもよく見てフォローしていける人じゃない。だから、自分のことにも気づくことができれば変えていけると思うのよ」
「はい」
 次第に仕事の指導を受けているような気分になってくる。
 いや、でも、仕事のときのように冷静で客観的な視点を持つのは、今の俺には確かに必要なのかもしれない。剛士のためにも。
 俺はあいつを、不幸にしたいわけじゃないんだから。
 そこに、また阿藤が口を挟んできた。
「じゃあ、安田さん。とりあえず、矢島さんとの食事会開きましょ。俺と宇崎さんと四人で、安田さん家で。どうっすか」
「は?」
「あぁ、いいかも。既婚者の私と女好きで可愛い彼女持ちの阿藤くんなら、安田くんもダーリンを取られる心配をしなくてもいいだろうし。ダーリンが自分以外の人と交流するのを受け入れる練習として最適な相手じゃない?」
「それ、二人があいつに会いたいだけなんじゃ……」
「まあまあ、とりあえず、矢島さんに聞いてみてくださいよ。それで矢島さんが嫌だって言うなら俺らも無理にとは言いませんし」
「ちなみに安田くんは『嫌なら無理しなくていいよ』とか『どうしても会いたいんだって』とか、ダーリンの答えを左右するようなこと言うの禁止ね」
「いや……じゃあどう言えばいいんですか」
「どう言えばって、職場の人と自分の部屋で夕飯食べるから、一緒にどう?って事実だけを言えばいいんじゃないすか」
「なるほど」
 なるほど、ともう一度心の中で呟く。
 そして改めて、剛士の気持ちを気遣っているふりをして、無意識的に都合のいい返事を引き出そうとしてきた自分にも気づかされてしまう。
「じゃあ、とりあえず聞いてみます。もしOKならまた日程を決めるってことでいいですか?」
「うんうん。うわ、ついにダーリンと会えるのかぁ」
「まだ分かんないですけどね。っていうか宇崎さん、交流させる練習とか言ってやっぱり会いたいだけなんじゃ……」
 宇崎さんがそんな俺を見ながら「そんなことないって」と笑って「あ、そういえば話変わるんだけど、田仲さんの自助具」と少し真面目なトーンになる。
「あぁ、ばねを少し弱くしたんでしたっけ」
「そうそう。それでまた試してみてもらいたいんだけどいい?」
「もちろんです。基本的な使い方は同じってことで大丈夫ですか?」
「うん、同じ」
「了解です。明日予定入ってるんで、朝にでももらえますか」
「分かった。よろしくね」
「はい」
 俺は笑顔で返事をすると、もうとっくの昔に食べ頃を終えたカップ麺の蓋をあけ、ふにゃふにゃとした麺を箸でつかむ。一方、お弁当を食べ終えたらしい宇崎さんは立ち上がって事務室の端に設置されているシンクのほうへ歩いて行った。弁当箱を洗うのだろう。
 その後姿をなんとなく目で追いつつ麺を口に入れても、なんだか味が感じられなかった。伸びきっているからだけではなく、まださっき指摘されたことが頭の中をぐるぐるしていたからだ。
『なんで俺に相談もしないで捨てるの』
 以前、ソファーを捨てることにしたと言ったときに、剛士に言われた言葉を思い出す。
 二人で買ったものなのに何も言わなかったのは、剛士に「相談する」なんていう選択肢が俺の中になかったからだ。
 そこには「話し合う」ということを考えつきもしなかったのと同じで、俺が剛士の気持ちや意見をずっとないがしろにしてきた傲慢さが見え隠れする。
 剛士の気持ちや意見は俺と同じになるべきで、俺と同じじゃなかったら俺と同じようになるように優しく修正しようと、そうやってずっとやってきたから。剛士は天然なところがあって頼りないから、俺が正しい判断をして、あいつを引っ張っていかないとって。
「安田さん」
 ぼんやりしていた俺に隣から阿藤がまた声をかけてくる。
 そちらを向くと少し神妙な顔で「ちょっと俺、言いすぎました」と阿藤が謝ってきた。
「あぁ……いや、本当のことだし。はっきり言ってくれて良かったかも」
「でも、安田さんは恋愛経験がダーリンとしかないんだし、恋愛がへたくそでも仕方ないっすよ。頑張ってください」
「お前な」
 阿藤の椅子を脚でがしっと蹴る。
「フォローがフォローになってねーんだよ」
「えーフォローっつーか、励ましなんすけど。それにまあ、俺は一人の子と一年以上続いたこと二回しかないんで、そういう点ではずっと付き合ってる安田さんたちのことすげーな、って思うし、うまくいってほしいって思ってんすよ」
「はいはい、ありがとな」
「あともう昼休み終わるんで早く食べたほうがいいんじゃないすか」
 そう言われて時計を見ると、昼休みが終るまであと二分しかなかった。
 はーっともう一度ため息をつき、俺は味のしない麺を急いでかきこんだ。