「宇宙ステーションの中で人が浮くのはなぜか」
昔、高校の物理の授業で、そんな問題を先生が出したことがある。
先生が黒板に書いた答えの選択肢は四つあった。
1.宇宙には重力がないから
2.宇宙に出ると質量が減るから
3.フリーフォールと同じ現象が起こっているから
4.月と太陽の重力が影響するから
多くの生徒が適当に1番か4番を選んだ中、斜め前に座っていた柊人は「3番だと思う人」と先生が言った時に、「はい!!」と勢いよく手を挙げた。
天に向かってすくっと伸びたその腕は、柊人の真っすぐな性格そのもので、1番を選んでいた俺は、その後姿を頬杖をつきながら眺めていた。
そして「なんで3番だと思う?」と聞かれた柊人は「え、俺、遊園地のフリーフォール好きだから」と答え、先生に「ばかやろ」と言われクラスメートたちに笑われていた。
しかし正解は柊人が選んだその3番だった。
宇宙ステーションは常に地球の重力に引かれてフリーフォール、つまり自由落下しているから無重力状態になり、結果、人や物は浮いているのだと先生は言った。
その自由落下の速度と、宇宙ステーションにかかっている遠心力のバランスが取れているから、宇宙ステーションは地上に落下せず、常に地球の周りを回り続けているのだとも。
――恋と同じだ
そんなポエミーなことを、俺は柊人の広い背中を見続けながらぼんやりと考えた。
恋に落ち続けているから、俺の気持ちは常にこんなにふわふわと浮いたようになっているんだなと。
しかし、物理が苦手だった俺は、一つ大事な要素を失念していた。
遠心力がなければ、宇宙ステーションは地上へ落下してしまう。そうすればもう、中に乗っている人や物が浮くこともない。
遠心力とはつまり前へ進み続けるための推進力でもあり、あの頃は未来への夢だとか憧れだとか希望だとか、そう言ったものが、俺の恋心を浮かせていた。
では、今は?
コンコンコン。
ラジオから流れる音楽のリズムを乱すかのように、ソファーを置いている壁から、三回ノックする音が聞こえた。
これは、ただいまという合図であるとともに、タバコを吸いにベランダに出るよ、という合図でもある。
以前ならこの音を聞くと、柊人の顔を見るためにすぐに立ち上がってベランダに出たものだが、最近は出たり出なかったりだ。昨日と一昨日は確か出ていない。
目の前のパソコンに表示されている文字の羅列を、少しだけ眺める。
しっくり来る表現が見つからずに手が止まっていたことだし、気分転換するか、とコーヒーが半分ほど入った手元のマグカップを持ってベランダに出た。
「おっ、今日は出てきたな」
「そっちは遅かったね、今日」
「書かないといけない報告書がたまってたから、まとめて片付けてきた」
ベランダの仕切り板の向こうから笑顔をのぞかせた柊人と、会話を交わす。
柊人が住んでいるのは二階建てのアパートの角部屋で、その隣は俺の部屋だ。タバコを吸うことに対して誰かから文句を言われるようなこともない場所だが、今日も柊人はどこか遠慮気味に、180cm近くある身体をかがめるようにしてタバコに火をつける。
そんな柊人越しに、近所の中学校に植えられている八分咲の桜が、仄白く闇の中に浮かび上がっているのが見えた。
――学校も春休みの時期か。
そう思うと、暗闇の中静かに佇む校舎が、普段の賑やかさから束の間の解放を得て少しほっとしているようにも感じられる。昔は、夜の学校なんて不気味でしかなかったものだが。
「半袖じゃ寒いんじゃねーの?」
柊人が、煙をゆっくりと吐き出しながら聞いてくる。
「ちょっと寒いなって思ってたとこ」
俺はむき出しの貧弱な二の腕を、マグカップを持っていない手で軽くさする。
「だよな。ちゃんと家の中でも長袖着とけよ。今晩から明日にかけて、けっこう気温下がるらしいし」
「そうなんだ」
「ラジオで天気予報って流れてないっけ?」
「流れてるかもしれないけど気にしたことない」
一日中家から出ないことも多い生活をしていると、天気予報への興味もなくなる。季節もその移ろいに気づく前にいつの間にか通り過ぎているような日々だ。
実際、明日が寒くなるのもあまり自分には関係なかった。今書いているものも含め、今週末が締め切りの原稿がまだ三本あり、残り二本は肝心の本すら読んでいない状態だから、一日家にこもるのは決定である。
それでもまあ、柊人の言うとおり長袖のシャツを着ておこう、と思う。油断して風邪なんかひいたら、あとで痛い目を見るのは自分だし。
冷めきったコーヒーを一口飲み、ベランダの柵に両肘を乗せた俺は、ところどころにグレーの薄い雲がかかった星空を見上げる。ちょうど三日月の前を雲が横切っていて、放たれる光は淡くぼんやりとした、どこか幻想的なものとなっていた。
――天の海に 雲の波たち 月の舟 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ
そう歌ったのは柿本人麻呂だ。今日の夜空はまさにそんなふうで、柿本人麻呂も千数百年前にこんな空を見ていたのかもしれないと思うと少し不思議な気持ちになる。
「しばらく余裕なさそうか?」
柊人が吸い終えたタバコを、陶器の灰皿に押し付けながら訊ねてくる。
はるか昔の空に思いを馳せていた俺は、その声に瞬きをして柊人の方を見た。
「あぁ、土曜までの締め切りが三本あるけど、日曜は少し休めるかな。ここんとこ納期が重なって睡眠不足だからたぶん一日寝てる」
「……そっか」
柊人の表情はいつもと変わらず穏やかだが、返事をする前の一瞬の沈黙に、ちょっと最近ほったらかしにしすぎてるかもな、と思った俺は、取り繕うために慌てて言葉を続ける。
「でも夕方には起きるから。そしたら、そっちに行ってもいい?夕飯食べに外に出るのでもいいけど」
「うちでいいよ。適当になんか作るから。今日はなんか食べたか?」
「出前取った。ラーメンとチャーハンと餃子」
「またお前は炭水化物ばっかり」
「トマトジュースも飲んでるし」
そう言うと、柊人はほんの少しだけ眉をあげ呆れたような顔をしたが、それについては何も触れることなく「ま、無理しすぎんなよ」と言った。
「分かった。じゃあもう寒いし部屋に戻るわ」
「ん。おやすみ」
一応、下の道を人が通っていないのを確認し、仕切り板越しにお互い身を乗り出して軽くキスをする。
習慣化したキスにかかる時間はせいぜい数秒といったところで、柊人の唇はタバコの香りを微かに俺の唇にうつしてすぐに離れていき、俺たちはそのままそれぞれの部屋へと戻った。
柊人がタバコを吸うのは、家に帰ってきてすぐの一度だけだ。
理学療法士、いわゆるPTとして訪問看護リハビリステーションに勤めている柊人は、昼間はあちらこちらを車や自転車で走り回っているらしい。
タバコを吸うのはその仕事から気持ちを切り替えるための、一つの儀式のようなものだと前に言っていた。
「さて、と」
そう声に出して、ベランダに出る窓を閉めた俺は、出前の残りで腹ごしらえをしようと、キッチンへ向かう。
柊人のほうは、今日も何か自炊して食べるに違いない。きっといつも通り、野菜多めで健康的な食事だろう。
前は毎日のように、柊人の家に行って食べさせてもらっていたが、せっかく気分が乗って書いているところを中断したくなかったり、夕飯を食べる時間すらもったいなかったりして徐々に断ることが増え、数年前くらいから次第に食事はバラバラにとるようになった。
食事を食べるだけ食べて、恋人らしい触れ合いもせず「じゃ」と帰るのにちょっと罪悪感を持っていたというのも正直ある。
そのため、今では一緒に食べられそうな日に連絡する、ということになっている。確かこの前一緒に食事を取ったのは、先週の平日のどこかだ。
では、ベッドに一緒に入ったのはいつだったか。
冷蔵庫のドアの取っ手に手をかけたままちょっと考え、まぁいいか、と、すぐに思い出すのを諦める。つまりそのくらい前の話だということだ。
まだ俺ら一応二十代なのに、こんなんでいいのかなとたまに思うこともあるが、いちいちそんな疑問に立ち止まることもなく、日々は過ぎ去っていく。
俺と柊人が付き合いだしたのは十一年前、高二の春だった。
高校に入学して同じクラスになった俺たちは、矢島剛士と安田柊人という名前によって席が前後になり、話すようになり、親友となり、さらに柊人からの告白がきっかけで恋人となった。
その後、房総半島にある小さな町から都内の大学に進学した俺たちは、東京の下町で四年間ルームシェアをし、卒業してから今日までは、北関東の小さな町で隣同士の部屋を借りて暮らしている。
二つの文芸誌で、さまざまな本の紹介をする記事とコラムの執筆をメインに、フリーランスのライターとして収入を得ている俺と、PTとして働く柊人の生活は、ごく平凡なものだ。
起きて、仕事をして、寝て、起きて、仕事をして、寝て。そして休んで。
俺はもちろんのこと、柊人も職場の同僚と仕事以外ではほとんど付き合っていないため、もともとこの地に知り合いのいない俺たちが他人と関わることはほぼなく、二人の毎日に波風が立つようなこともない。
この、平凡な生活は俺たちの望みでもあった。
平凡に、誰にも邪魔されることなく二人で生きていきたいと思い、だからこそ俺たちは自分たちとなんの所縁もないここで暮らすことを決めた。そうすれば明るく平和な未来が待っていると、何の根拠もなく考えていた。
ところが、そうして住み始めた新しい土地で、毎日淡々と、ただ淡々と目の前の仕事をこなし、柊人とともに穏やかに生き始めた俺は、叶えたい夢や憧れる未来などはもう何もないのだということに、あるときふと気づいてしまい、その瞬間から、推進力を無くした俺の恋心は、ゆっくりと地に落下していった。
もちろん、落下したとは言ってもそこに恋心は確かに存在するわけで、別に柊人を好きではなくなったというわけではない。でも、以前のように仕事から帰ってきた柊人の顔を見るだけで嬉しくなるような、そんな気持ちはとうに失せてしまった。
柊人はきっと、そんな俺の態度の変化に気づいているだろうけど、何も言ってはこない。
それは、柊人の方も同じような気持ちだからだろうと思う。
分かりやすく言えば、俺たちの間は、ずっと前からマンネリ化しているのだ。
昔、高校の物理の授業で、そんな問題を先生が出したことがある。
先生が黒板に書いた答えの選択肢は四つあった。
1.宇宙には重力がないから
2.宇宙に出ると質量が減るから
3.フリーフォールと同じ現象が起こっているから
4.月と太陽の重力が影響するから
多くの生徒が適当に1番か4番を選んだ中、斜め前に座っていた柊人は「3番だと思う人」と先生が言った時に、「はい!!」と勢いよく手を挙げた。
天に向かってすくっと伸びたその腕は、柊人の真っすぐな性格そのもので、1番を選んでいた俺は、その後姿を頬杖をつきながら眺めていた。
そして「なんで3番だと思う?」と聞かれた柊人は「え、俺、遊園地のフリーフォール好きだから」と答え、先生に「ばかやろ」と言われクラスメートたちに笑われていた。
しかし正解は柊人が選んだその3番だった。
宇宙ステーションは常に地球の重力に引かれてフリーフォール、つまり自由落下しているから無重力状態になり、結果、人や物は浮いているのだと先生は言った。
その自由落下の速度と、宇宙ステーションにかかっている遠心力のバランスが取れているから、宇宙ステーションは地上に落下せず、常に地球の周りを回り続けているのだとも。
――恋と同じだ
そんなポエミーなことを、俺は柊人の広い背中を見続けながらぼんやりと考えた。
恋に落ち続けているから、俺の気持ちは常にこんなにふわふわと浮いたようになっているんだなと。
しかし、物理が苦手だった俺は、一つ大事な要素を失念していた。
遠心力がなければ、宇宙ステーションは地上へ落下してしまう。そうすればもう、中に乗っている人や物が浮くこともない。
遠心力とはつまり前へ進み続けるための推進力でもあり、あの頃は未来への夢だとか憧れだとか希望だとか、そう言ったものが、俺の恋心を浮かせていた。
では、今は?
コンコンコン。
ラジオから流れる音楽のリズムを乱すかのように、ソファーを置いている壁から、三回ノックする音が聞こえた。
これは、ただいまという合図であるとともに、タバコを吸いにベランダに出るよ、という合図でもある。
以前ならこの音を聞くと、柊人の顔を見るためにすぐに立ち上がってベランダに出たものだが、最近は出たり出なかったりだ。昨日と一昨日は確か出ていない。
目の前のパソコンに表示されている文字の羅列を、少しだけ眺める。
しっくり来る表現が見つからずに手が止まっていたことだし、気分転換するか、とコーヒーが半分ほど入った手元のマグカップを持ってベランダに出た。
「おっ、今日は出てきたな」
「そっちは遅かったね、今日」
「書かないといけない報告書がたまってたから、まとめて片付けてきた」
ベランダの仕切り板の向こうから笑顔をのぞかせた柊人と、会話を交わす。
柊人が住んでいるのは二階建てのアパートの角部屋で、その隣は俺の部屋だ。タバコを吸うことに対して誰かから文句を言われるようなこともない場所だが、今日も柊人はどこか遠慮気味に、180cm近くある身体をかがめるようにしてタバコに火をつける。
そんな柊人越しに、近所の中学校に植えられている八分咲の桜が、仄白く闇の中に浮かび上がっているのが見えた。
――学校も春休みの時期か。
そう思うと、暗闇の中静かに佇む校舎が、普段の賑やかさから束の間の解放を得て少しほっとしているようにも感じられる。昔は、夜の学校なんて不気味でしかなかったものだが。
「半袖じゃ寒いんじゃねーの?」
柊人が、煙をゆっくりと吐き出しながら聞いてくる。
「ちょっと寒いなって思ってたとこ」
俺はむき出しの貧弱な二の腕を、マグカップを持っていない手で軽くさする。
「だよな。ちゃんと家の中でも長袖着とけよ。今晩から明日にかけて、けっこう気温下がるらしいし」
「そうなんだ」
「ラジオで天気予報って流れてないっけ?」
「流れてるかもしれないけど気にしたことない」
一日中家から出ないことも多い生活をしていると、天気予報への興味もなくなる。季節もその移ろいに気づく前にいつの間にか通り過ぎているような日々だ。
実際、明日が寒くなるのもあまり自分には関係なかった。今書いているものも含め、今週末が締め切りの原稿がまだ三本あり、残り二本は肝心の本すら読んでいない状態だから、一日家にこもるのは決定である。
それでもまあ、柊人の言うとおり長袖のシャツを着ておこう、と思う。油断して風邪なんかひいたら、あとで痛い目を見るのは自分だし。
冷めきったコーヒーを一口飲み、ベランダの柵に両肘を乗せた俺は、ところどころにグレーの薄い雲がかかった星空を見上げる。ちょうど三日月の前を雲が横切っていて、放たれる光は淡くぼんやりとした、どこか幻想的なものとなっていた。
――天の海に 雲の波たち 月の舟 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ
そう歌ったのは柿本人麻呂だ。今日の夜空はまさにそんなふうで、柿本人麻呂も千数百年前にこんな空を見ていたのかもしれないと思うと少し不思議な気持ちになる。
「しばらく余裕なさそうか?」
柊人が吸い終えたタバコを、陶器の灰皿に押し付けながら訊ねてくる。
はるか昔の空に思いを馳せていた俺は、その声に瞬きをして柊人の方を見た。
「あぁ、土曜までの締め切りが三本あるけど、日曜は少し休めるかな。ここんとこ納期が重なって睡眠不足だからたぶん一日寝てる」
「……そっか」
柊人の表情はいつもと変わらず穏やかだが、返事をする前の一瞬の沈黙に、ちょっと最近ほったらかしにしすぎてるかもな、と思った俺は、取り繕うために慌てて言葉を続ける。
「でも夕方には起きるから。そしたら、そっちに行ってもいい?夕飯食べに外に出るのでもいいけど」
「うちでいいよ。適当になんか作るから。今日はなんか食べたか?」
「出前取った。ラーメンとチャーハンと餃子」
「またお前は炭水化物ばっかり」
「トマトジュースも飲んでるし」
そう言うと、柊人はほんの少しだけ眉をあげ呆れたような顔をしたが、それについては何も触れることなく「ま、無理しすぎんなよ」と言った。
「分かった。じゃあもう寒いし部屋に戻るわ」
「ん。おやすみ」
一応、下の道を人が通っていないのを確認し、仕切り板越しにお互い身を乗り出して軽くキスをする。
習慣化したキスにかかる時間はせいぜい数秒といったところで、柊人の唇はタバコの香りを微かに俺の唇にうつしてすぐに離れていき、俺たちはそのままそれぞれの部屋へと戻った。
柊人がタバコを吸うのは、家に帰ってきてすぐの一度だけだ。
理学療法士、いわゆるPTとして訪問看護リハビリステーションに勤めている柊人は、昼間はあちらこちらを車や自転車で走り回っているらしい。
タバコを吸うのはその仕事から気持ちを切り替えるための、一つの儀式のようなものだと前に言っていた。
「さて、と」
そう声に出して、ベランダに出る窓を閉めた俺は、出前の残りで腹ごしらえをしようと、キッチンへ向かう。
柊人のほうは、今日も何か自炊して食べるに違いない。きっといつも通り、野菜多めで健康的な食事だろう。
前は毎日のように、柊人の家に行って食べさせてもらっていたが、せっかく気分が乗って書いているところを中断したくなかったり、夕飯を食べる時間すらもったいなかったりして徐々に断ることが増え、数年前くらいから次第に食事はバラバラにとるようになった。
食事を食べるだけ食べて、恋人らしい触れ合いもせず「じゃ」と帰るのにちょっと罪悪感を持っていたというのも正直ある。
そのため、今では一緒に食べられそうな日に連絡する、ということになっている。確かこの前一緒に食事を取ったのは、先週の平日のどこかだ。
では、ベッドに一緒に入ったのはいつだったか。
冷蔵庫のドアの取っ手に手をかけたままちょっと考え、まぁいいか、と、すぐに思い出すのを諦める。つまりそのくらい前の話だということだ。
まだ俺ら一応二十代なのに、こんなんでいいのかなとたまに思うこともあるが、いちいちそんな疑問に立ち止まることもなく、日々は過ぎ去っていく。
俺と柊人が付き合いだしたのは十一年前、高二の春だった。
高校に入学して同じクラスになった俺たちは、矢島剛士と安田柊人という名前によって席が前後になり、話すようになり、親友となり、さらに柊人からの告白がきっかけで恋人となった。
その後、房総半島にある小さな町から都内の大学に進学した俺たちは、東京の下町で四年間ルームシェアをし、卒業してから今日までは、北関東の小さな町で隣同士の部屋を借りて暮らしている。
二つの文芸誌で、さまざまな本の紹介をする記事とコラムの執筆をメインに、フリーランスのライターとして収入を得ている俺と、PTとして働く柊人の生活は、ごく平凡なものだ。
起きて、仕事をして、寝て、起きて、仕事をして、寝て。そして休んで。
俺はもちろんのこと、柊人も職場の同僚と仕事以外ではほとんど付き合っていないため、もともとこの地に知り合いのいない俺たちが他人と関わることはほぼなく、二人の毎日に波風が立つようなこともない。
この、平凡な生活は俺たちの望みでもあった。
平凡に、誰にも邪魔されることなく二人で生きていきたいと思い、だからこそ俺たちは自分たちとなんの所縁もないここで暮らすことを決めた。そうすれば明るく平和な未来が待っていると、何の根拠もなく考えていた。
ところが、そうして住み始めた新しい土地で、毎日淡々と、ただ淡々と目の前の仕事をこなし、柊人とともに穏やかに生き始めた俺は、叶えたい夢や憧れる未来などはもう何もないのだということに、あるときふと気づいてしまい、その瞬間から、推進力を無くした俺の恋心は、ゆっくりと地に落下していった。
もちろん、落下したとは言ってもそこに恋心は確かに存在するわけで、別に柊人を好きではなくなったというわけではない。でも、以前のように仕事から帰ってきた柊人の顔を見るだけで嬉しくなるような、そんな気持ちはとうに失せてしまった。
柊人はきっと、そんな俺の態度の変化に気づいているだろうけど、何も言ってはこない。
それは、柊人の方も同じような気持ちだからだろうと思う。
分かりやすく言えば、俺たちの間は、ずっと前からマンネリ化しているのだ。