永源寺は鈴鹿山脈の麓で、どちらかというと琵琶湖寄りにある愛知郡愛荘町の我が家からでも車で一時間はかかる。
 琵琶湖の東側を南北に通る国道307号に出て南下すると、湖東三山と呼ばれる西明寺、金剛輪寺、百済寺を通り過ぎて東近江市の中心地に入る。名神高速の八日市インターチェンジ手前で左折し、国道四二一号を鈴鹿山脈側(琵琶湖の反対側)の永源寺地区へと向かった。

 父は運転中、何度も「君ヶ畑、君ヶ畑」と呟く。
「永源寺の君ヶ畑って集落に何か問題があるんか?」
「聞いたことあれへんか、君ヶ畑って?」
「ない」
「そやけど、さすがに『君が代』は知ってるやろ?」
「そら、国歌は知ってる」
「あの『君が代』の君は、君ヶ畑の君や」
「え、君は天皇のことやろ?」
「それは、後付け」
「ウソやん?」
「ホンマや。正確には君とは当事、君ヶ畑にいた惟喬親王のこと。この人がいたから地名が君ヶ畑になり、国家の君が代の「君」へと繋がったんや。惟喬親王の家臣が良い材木を求めて岐阜県揖斐郡揖斐川町の春日地区に通う中で、さざれ石を見つけて、主君を想ってつくったのが起源や。そやから国歌のルーツは君ヶ畑っちゅう訳やな」
「じゃあ、日本国民の精神的ルーツという場所で、ヤタガラスが見つかったってこと?」
「そやから、出来すぎた話やで、怖いんや」

 永源寺地区の奥の奥、山脈の麓近くに、道の駅が見える。その手前を左に曲がってしばらくすると、昭和時代にタイムスリップしたかのような集落、君ヶ畑に辿り着いた。
 トタン屋根の昔ながらの家々が並ぶが、過疎化が進んでいるのは明白だ。このありふれた集落が君が代のルーツと言われても、すぐに受け入れがたい。
 急に体が汗ばんでくる。まだ五月だというのに、今年は暑い。もう夏本番を連想させる熱気があった。

「ここは、木地師の里だ」
「木地師?」
「惟喬親王が広めた、まあ、簡単に言うと木工集団や。木材を求めて日本各地を転々とする暮らしだったらしい」
「だから、転々として揖斐川でさざれ石を見つけることができたってことなんか?」
「そや」
 通りがかりの高齢の女性がいたので、車のウインドウを開けて話しかける。ヤタガラスのニュースについては、テレビを見ていないので、知らないと言う。
「そういえば、朝は新聞記者さんやカメラマンがたくさん来て、にぎやかやったね。みんな、あっちの林の中へ入って行きやったで」
 その女性は、見ず知らずのよそ者の親子に対して、朗らかな笑顔で受け入れてくれた。
「私は、愛荘町立歴史文化資料館の館長をしております、秦安次郎と申します。そして、こちらは愚息の俊介です。大学生ですが、時々私の調査の助手をやっています。私たちは今から学術的にヤタガラスを調査したいのですが、この辺に駐車してもいいですか?」
「あぁ、ここの空き地は私の家のもんやから、好きなだけ停めておくれやす」
「ありがとう! それよりおばあちゃん。ここにはヤタガラスが昔からいたの?」
 興味津々で尋ねるボクに、父は険しい顔で「コラッ、『おばあちゃん』って何だ、馴れ馴れしい」と注意する。
「ええのよ、『おばあちゃん』で。ふふ。この君ヶ畑に嫁入りしてから六十年近く住んでるけど、ヤタガラスがいるなんて初耳や。きっとウソ。そんな訳ないやないの。男の人はロマンが好きやね」
 そりゃ、そうか。女性は首に巻いた手ぬぐいてで汗を拭き取りながら言う。
「ここからこの通りを真っ直ぐ行くと、木地師の記念碑があって、そこが林の入口やの。入ったらすぐに二手に道が分かれるから、左に行ってや」
「どうして左なん?」
「右の道は、すぐ先が落石だらけで危険やし、奥にいく橋も岩が落ちてきて崩落したんや。たぶん、登山道が壊れていて危険やで」
「そうですか」
 この女性の好意に甘えて空き地に駐車をすると、父は一眼レフのカメラを抱え、教えてもらった林を目指す。ボクも置いていかれないように足早になった。

 父は、確かにロマンが好きだ。だから、現実的な母とは意見が一致しない。例え、秦氏の正統な血筋だと言われても、母は「だから何? お金になるの?」と答えるだろう。
 駐車した空き地から、女性の指示に従って大通りを進むと、わずか五分程で木地師の里の記念碑とともに林の入口が見つかった。その中へ百メートルほど進むと、確かに道が左右に分かれていた。
「あ、カラスや!」
 その左の道の奥に、一羽だけカラスが見えた。おばちゃんの言っていた安全な左の道にそのままカラスがいて、ラッキーだ。
「まさか」
「ほら、ホンマや。あの木にいるのが見えるやろ?」
 ただ、カラスは元気がないのか、木の枝に静止しているようだ。意外に簡単に見つかりはしたが、ニュースで撮影されたものと同様に、本当に足が三本あるのかは、近くまでいかないとよく分からない。
「待て、俊介!」
 左の道を奥へ進みかけたところで、父は訝しげな表情になった。
「どうしたん? 早よ、行こ」
「おかしい」
「何が?」
「上手く出来過ぎてる」
「たまたまラッキーなだけやって」
「それに、あの目印になる記念碑も、とても綺麗ではあるが安っぽい。まるで今日のために急いで準備したような」
「考え過ぎや。行くで」
 ボクらの他にマスコミとか、撮影する人が全くいないのは、確かに不思議だ。しかし、それも午前中に全報道各局が撮影を終えていたら、合点はいく。
 ぬかるんだ林道は、木漏れ日が揺れて見た目には涼やかだが、湿気が充満して父とボクの体力を奪う。カラスのいる木が少しずつ近づいてきた。果たして足は三本あるか? どうして飛び回らず静止しているのか?
「あれ見て! 父さん。カラスが!」
 神木のような太い杉を前に父とボクは、立ち尽くした。おぞましい光景だ。