それにしても、立錐の余地がないというか、まったく身動きが取れない。
 それに、ほとんど触れそうな状態で色々な靴がわたしを取り囲んでいる。
 その中には乱暴な奴がいるかも知れないし、そうでなくても、ちょっとした揺れで踏まれることだってある。
 そんな危険を感じたわたしは、傷つけたら承知しないぞ! と目に力を入れて周りの靴に睨みを効かせた。
 
 その時だった。
「おい」とわたしを呼ぶような声が至近距離で聞こえた。
 
 誰? 
 
 目の位置を動かして声の主を探していると、「気をつけろ!」と突き刺さるような声が届いた。
 真後ろにいる男性の靴が眉間に皺を寄せて見つめていた。
 
「こいつは痴漢の常習者だ」

 えっ? 
 痴漢? 
 ウソだろ? 
 
 狼狽えていると、紳士靴が上を見るように促したので、わたしは必死になって見上げた。
 
 見えた。
 そいつの手が見えた。
 鞄を持った手の甲をご主人のお尻にピッタリくっつけていた。
 そして、揺れに合わせるように微妙に動かしていた。
 
 止めてくれ! 
 ご主人になんということをするんだ!
 
 心臓が止まりそうになったわたしは、「すぐに止めさせろ!」と紳士靴に命令した。
 しかし、「申し訳ないが、俺には何もできない」と彼は済まなさそうに目を伏せた。
 
「なんとかならないのか?」

「どうにもできない。だから、次の駅で降りてくれ。俺を履いている痴漢野郎から逃げてくれ。さもないと」

 さもないと?
 
「本格的に触り始める。掌で触り始める」

 なんだって? 
 掌で? 
 冗談じゃない! 
 そんなこと許さん!
 
 怒りが込み上げてきた。
 しかし、どうすることもできなかった。
 次の駅に着いたら、ダッシュでこのクソ野郎から離れることしかできないのだ。
 
 早く停まれ! 
 早く停まって、早くドアを開けろ! 
 
 強く念じて運転手と車掌にテレパシーを送ったが、なんの効果もなかった。
 スピードを落とさず次の駅を通り過ぎていった。
 
 えっ、
 通過? 
 なんで? 
 
 わたしは茫然と立ち尽くした。
 
 この電車は……各駅停車ではなく快速電車だった。
 
 オー・マイ・ガー! 
 
 天を仰ぐしかなかったが、その時、痴漢野郎の手が目に入った。
 まだ甲を押し当てていた。