先週の木曜日、残業で遅くなって終電に駆け込んだわたしは、隙間が空いている座席を見つけて、無理矢理体をねじ入れた。
 右隣には小太りの中年男性が座っていて、大事そうにビジネスバッグを膝上に抱えて居眠りをしていた。
 そのバッグがパンパンに膨らんでいたので、資料がいっぱい入っているのかな、と思った瞬間、ため息が聞こえた。と同時に、ビジネスバッグの愚痴が始まった。
 
「こんなうだつ(・・・)の上がらないオッサンの脂っぽい手で毎日触られてさ、たまんねえぜ。ほんと最低。それにこんなにパンパンに書類詰め込まれてさ、完全に豚バッグ状態だろ。みっともないったらありゃしないよ。店頭に飾られていた時はスリムな体だったのにさ。ほんとため息しか出ないよ。なあ、あんた、俺の気持ちがわかるか?」

 えっ、わたし? 

 いきなりのことに戸惑っていると、「ま、あんたも大変なんだろうな。終電帰りだもんな。こき使われて毎日ぼろぼろってとこだよな。まあ、体壊さないように気をつけなよ」と今度は同情された。そして、「俺は次の駅で降りるけど、あんたは乗り過ごさないようにな。終点まで行っちゃったら帰りの電車はないぜ」と忠告された。

 唖然としていると、電車のスピードが落ちて次の駅に滑り込んだ。
 すると、船を漕いでいた隣の中年男性がパッと目を覚まして席を立ち、すっすっとドアの前に歩いた。見事な変身ぶりだった。
 驚いて見ていると、ビジネスバッグがわたしに向かって手を振った。
 わたしも胸の前で小さく振り返した。
 
 お疲れ様。
 
 労いの言葉を心の中でかけた時、ドアが開いた。
 その途端、待ち切れないように中年男性が走り出した。
 乗換えがギリギリなのだろう。
 (つまづ)いたり転んだりしないように気をつけて。
 また心の中で呟くと、まるでそれを待っていたかのようにドアが閉まった。
 
 わたしは急に自分のバッグと話したくなって心の中で声をかけた。
 しかし、反応はなかった。
 ため息や愚痴さえも聞こえてこなかった。
 自分の持ち物とはコミュニケーションが取れないらしい。
 バッグの代わりにわたしがため息をついた。