どんよりと空気が澱んでいた。
 群青色の空には大きな満月。その反対側の空には、数多の星空。雲一つない夜空で、冴え冴えとした明かりが深い森の中を青白く照らしている。
 それなのに、森の中の空気は重苦しかった。靄や霧が出ているわけでもなく、視界自体は良好なのだが、空気そのものが鬱屈した感情を持っているかのようだ。夜を活動時間とする動物も、まるで息を潜めているかのように動きがない。
 ――パチパチ、パチパチ。
 うっそうと茂った森の中、少し開けた場所で、淀みに抗うように小さな篝火が焚かれていた。
 そこでは、真っ白な着物姿の少女が、火の光に横顔を照らされていた。膝を揃えて座っている場所には、場違いに豪華な唐物の敷物。歳の頃は十六、七歳くらいだろうか。いわゆる適齢期の娘で、白粉で丁寧な化粧が施され、唇には鮮やかな朱が引かれていた。
 両目を閉じてじっと座る姿は、まるでこれから生贄にされるかのように儚い。
 いや、一刻ほど前からこの場所を見ている者がいれば、間違いなく少女は山の生贄だと思っただろう。この山の麓の村人が、着飾った少女をここへ運んできたのだから。
 もう一度、篝火の木が弾け、少女はゆっくりと目を開いた。
「――くる」
 緊張でピンと張り詰めた声。
 ずずず……。
 何かを引きずるような音が近づいてくる。それを恐れた鳥がバサバサと音を立てて飛び立った。ぎゃぁ、ぎゃぁ、と騒々しく声を上げて逃げたのは猿だろうか。
 鋭い視線で座り続ける少女の方へ、不気味な音は徐々に近づいてきた。最後に、がさり、と目の前の繁みが揺れ、地鳴りの主が姿を現す。
 それは、丸太のような太さの胴をもった大蛇だった。鱗は満月の光を受けて、黒曜石のように光る。頭の部分は少女の身体ほどの大きさがあり、頭には先端が鋭く尖った角のようなものが伸びている。
 篝火の側に座る少女の姿を認めて、ちろりちろり、と何度も大蛇の舌が伸びた。
「命数は四つ。小鬼……いえ、妖鬼にだいぶ近いね」
 そんな蛇の怪物を前にしても、少女は全く表情を変えない。素早く立ち上がると、帯の間から複雑な紋様が描かれた呪符を取り出す。大蛇が僅かにたじろいだのは、少女がただ喰らわれるだけの供物ではないと認識したからだろうか。
「……おいで」
 少女が小さく呟いたのと、地鳴りとともに大蛇が突進したのは同時だった。
「破っ!」
 気合の声が上がると篝火が激しく燃えた。間近に迫っていた怪物へ、炎が伸びてその全身を包み込む。
 ――と見えたのは、一瞬だけのこと。
 次の瞬間には、炎の中から大蛇が飛び出していた。全く効いていない様子に、少女の口から場違いに呑気な声が漏れた。
「あちゃ~。やっぱり、無理かぁ~」
 このままでは大蛇の突進に轢かれてしまう。少女が回避行動を取ろうとするも足が動かない。慌てて地面を見ると、いつの間にか足元から無数の小さな蛇が生えており、少女の足を絡めとっていた。
「え、あ……きゃぁっ!?」
 無理やり引き抜こうとすると、地面の小蛇がにょきっと伸びて、少女の身体を軽々と空中へ放り投げた。綺麗な放物線を描いた身体の落ちる先にあるのは――大蛇の鋭い角。
「うぐっ……」
 少女のくぐもった呻き声が微かに聞こえた。百舌のはやにえのように、空中で串刺しにされた少女の身体。びくびくと何度か痙攣し、やがて事切れたのかだらりと全身が弛緩する。ぼたぼたと流れる血が、大蛇の頭を伝って地面へ染みを作った。大蛇が頭を一振りすると、力を失った少女の身体が地面に転がった。
 大蛇は長く伸ばした舌を、少女へと近づけた。角で大きく穴の開いた腹へ入れると、そこから引きちぎるようにして取り出したのは心ノ臓。それを見て、大蛇の両目が満足そうに細められた。大蛇はそれを口元に――
「――っ!?」
 その瞬間、心ノ臓を掴んでいた大蛇の舌の先が空中を舞った。それと同時に、ぶしゅっ、と大蛇の口の奥から真っ赤な鮮血がまき散らされる。
「人里を襲う悪い妖鬼には死んでもらうぞ」
 底冷えするような声が、大蛇の背中から響いた。いつの間にか小袖に袴姿の青年が、大蛇の後ろ頭から口に向けて、刀のような武器を突き刺していた。
 大蛇の絶叫が轟いた。怒りのままに身体をくねらせ、背中の青年を振り落とそうとする。
 だが、青年は冷静に大蛇の角を掴んで身体を支えていた。頭の背後から刺していた武器を抜くと、今度は脳天へと柄まで深々と突き刺した。
 今度は死者すら起きてしまいそうな断末魔の悲鳴が、夜の闇を切り裂いた。それは遠くの山へ不気味に何度も木霊する。
 やがて、大きく身をのけ反らせた大蛇は、そのまま地面へと倒れ伏す。さらさらと砂に変わっていくのは、大蛇の命数が尽きたという証拠だった。
「思ったより雑魚だったが……」
 刀を振って血を振り落としながら、大蛇の頭から青年が飛び降りる。刀を鞘に納めると、青年の視線が倒れている少女へと向いた。小走りに近づいて側に跪く。
「……間に合わなかったか。くそっ!」
 少女の胸の真ん中には、地面が見えるほどの大きな穴。念のため首筋に手を触れてみるも脈はない。大蛇のおぞましい悲鳴を聞いたときすら、一つも表情を変えなかった青年の頬が歪んだ。
「すまない。許してくれ」
 目を見開いたままの少女の瞼を、青年の大きな手がそっと閉じる。
 少女の死を悼むように、青年は両手を胸の前で合わせた。