風の音の遠い彼方、十三夜の空を婚星が北へと流れていく様子を、尚方は宴席から離れた釣殿で酔いを醒ましながら見上げた。夜目にも華やかにそよぐ花弁ではなく、水鏡に落ちる花の影、浮かぶ花筏へと目を向ける。
ここは今をときめく藤波左大臣の大邸宅で、八千種第の倍ほども広い。このところ観桜の宴は様々な邸で開かれていたが、桜が散り透く前にと今宵開催された歌宴は、ひときわ大々的なものであった。
そこに、尚方も招かれていた。左大臣と直接の繋がりはないが、伝手の伝手の伝手を辿って潜り込んだのだ。そしてその伝手は、尚方自身よりも娘の「鬼祓う姫」が結んだ縁が多い。
政争に敗れた親王の、嫡妻腹ではない末子。そんな出生の尚方が、宮中の表舞台に立てるはずもなかった。父から継いだ邸は大内裏より遠く離れた八条。ようやく賜った官は長官でこそあるが政治に関わりのない神祇官で、実権は重代の次官たちが掌握している。兄たちは僧籍に入り京を離れ、姉たちは後宮や公卿の女房として仕えている中、自分だけが二世王として朝廷に踏みとどまっている。
娘の通力を頼り、大臣の機嫌を窺う。そのすべてが不愉快極まりない。道がひとつ違えば、今頃内裏よりこの洲に君臨していたのは自分であったかもしれないというのに。
「これは伯王様、いかがされました、このような離れた場所で」
釣殿へと廊を渡ってきた小物など、世が世ならば、尚方に声をかけることすら許されなかったはずなのだ。しかし無視もできず、かと言って歓迎する気もなく、尚方はごく軽い目礼でその者を迎える。尚方の気難しさは承知の上か、相手は気にする素振りもなく隣に腰を下ろした。
「藤波前壱予守殿か」
「その節はお世話になり申した」
左大臣と同じ藤波一族の出身だが、傍流も傍流、同じく藤波姓を名乗る公卿の家司を勤めている。一方で世渡りは巧みらしく、上国の国守を歴任し、五位の身ながら四位の尚方以上の財を成していた。
「噂に聞きましたが、伯王様の大姫様には既に通う殿御がおいでとか」
「ええ、ありがたいことに」
「残念ですなあ。儂も帰京の暁には、礼を兼ねて文をお送りしたいと思うていたのですが」
「それは申し訳ない」
「その節」「礼」も、かつて梓子が彼を長年悩ませた頭痛を祓ったことであった。
尚方は素知らぬ顔で応じながら、内心で激しく毒づく。自分よりも年嵩で、既に妻子持ちの、たかが国司風情を、誰が婿として迎えるものか。
だが、ここで風向きが変わった。
「そう言えば、伯王様にはもう一人、姫君がいらっしゃるのでは。弟姫様にももう、夫がおいでなのですか」
「……いえ、幼い頃に罹った疫病で、些か顔に傷が残ってしまいまして。ひっそりと暮らしております」
三年前より梓子の妹を娘と見做していなかった尚方は、不自然でない程度に返答が遅れた。更に「弟姫」の響きに、疑念が埋み火の如く燻り出す。
「ありがたいことに」と返したものの、当岐大社の婿がねからは文などが届くばかりで夜這いは一度もない。折々に高価な贈り物を寄越すから口を挟まないだけで、梓子が、その隙を縫って別の文の送り主たちと火遊びをしていることも黙認している。
大社の使いたちは、いつも「若君からオトヒメ様に」と述べるらしい。だが八千種第に姫は梓子しかいないのだから、オオヒメの言い間違い、或いは聞き間違いだと、尚方も取り次ぐ下男下女も思っていた。思い込もうとしていた。
尚方の無言の煩悶も知らず、前壱予守は酔いも手伝ってか上機嫌に続ける。
「しかし伯王様の女君、大姫様の妹君でしょう。痘痕も笑窪、麗しき姫に相違ない。……未だ夫がおらぬならば、儂が名乗り出ても構わぬでしょうか?」
姉が駄目だから妹。身の程知らずで下衆な考えだが、激昂しかけた尚方は、それが顔と声に出る寸前で思い直す。
最早息女でも下女でもない、幽閉し持て余しているだけの少女だ。懐の温かい初老の国司が妾としてくれるのならば、むしろありがたい話かもしれない。痘痕も笑窪どころではないばけものだが、敢えて明かすこともあるまい。どうせすべては暗い閨の中である。
そもそも、ばけものと成り果てた時点で、尚方は茜子を放逐するつもりだった。
それを止めたのは、ばけものを退ける通力を持つ梓子だった。
勿論、姉妹ゆえの憐憫などではない。
『どんな占を何度やっても、同じ卦が出ます。茜子に危害を加えては駄目。絶対に……!』
告げる本人ですら納得のいかない様子だったが、だからこそ真実味があった。そのため、尚方はばけものをただ閉じ込め飼い続けるほかなかった。
だが、親より歳上の相手でも、結婚は「危害」には当たらないだろう。家の、家長の都合による婚姻は当然のことだ。
「……艶めいた話とは一生無縁かと憐れんでおりましたが、弟姫にも人並みに通ってくださる殿御がおれば、これほど嬉しいことはない」
心にもないことを大袈裟に言って、尚方は「ただ……」と演技過剰に声を曇らせる。
「そのように諦めておりましたゆえ、未だ裳着も済ませておりませぬ。婿を迎える支度が整いましたらお声がけしますため、しばしお待ちを」
「ふむ。ではその間、不得手ながら歌詠みの練習などいたしましょう」
「歌だのとまだるっこしいことは言わず、邸に来ていただいて構いませぬ。家族のほかに人付き合いのない娘も、婿殿を待ち侘びることでしょう」
「なんと……」
娘を慈しむ父とは思えない台詞だが、酒のためか、それとも色欲に負けたか、細い目を丸くしたものの、前壱予守は頷いた。
やがて月が西に傾き、宴席に散会の空気が流れ始めた頃、尚方は三条の左大臣邸を辞し、八葉車で八条の自邸に戻った。家人たちの出迎えも適当にあしらい、大股で東北対へ渡る。
茜子に男が通ってくるのであれば、裳着より何より、やっておかなければならないことがある。
「起きよ、茜子」
妻戸の前で、実に三年ぶりにその名を呼ぶ。しかし応えはなく、腹立たしさを覚えながら扉に手をかけると、掛け金が下りていない。
「起きよ。話がある」
断りもなく御簾を捲り、尚方は母屋に足を踏み入れ、絶句する。
蔀を閉ざした屋内に、単衣を着たばけものの姿はなかった。
ここは今をときめく藤波左大臣の大邸宅で、八千種第の倍ほども広い。このところ観桜の宴は様々な邸で開かれていたが、桜が散り透く前にと今宵開催された歌宴は、ひときわ大々的なものであった。
そこに、尚方も招かれていた。左大臣と直接の繋がりはないが、伝手の伝手の伝手を辿って潜り込んだのだ。そしてその伝手は、尚方自身よりも娘の「鬼祓う姫」が結んだ縁が多い。
政争に敗れた親王の、嫡妻腹ではない末子。そんな出生の尚方が、宮中の表舞台に立てるはずもなかった。父から継いだ邸は大内裏より遠く離れた八条。ようやく賜った官は長官でこそあるが政治に関わりのない神祇官で、実権は重代の次官たちが掌握している。兄たちは僧籍に入り京を離れ、姉たちは後宮や公卿の女房として仕えている中、自分だけが二世王として朝廷に踏みとどまっている。
娘の通力を頼り、大臣の機嫌を窺う。そのすべてが不愉快極まりない。道がひとつ違えば、今頃内裏よりこの洲に君臨していたのは自分であったかもしれないというのに。
「これは伯王様、いかがされました、このような離れた場所で」
釣殿へと廊を渡ってきた小物など、世が世ならば、尚方に声をかけることすら許されなかったはずなのだ。しかし無視もできず、かと言って歓迎する気もなく、尚方はごく軽い目礼でその者を迎える。尚方の気難しさは承知の上か、相手は気にする素振りもなく隣に腰を下ろした。
「藤波前壱予守殿か」
「その節はお世話になり申した」
左大臣と同じ藤波一族の出身だが、傍流も傍流、同じく藤波姓を名乗る公卿の家司を勤めている。一方で世渡りは巧みらしく、上国の国守を歴任し、五位の身ながら四位の尚方以上の財を成していた。
「噂に聞きましたが、伯王様の大姫様には既に通う殿御がおいでとか」
「ええ、ありがたいことに」
「残念ですなあ。儂も帰京の暁には、礼を兼ねて文をお送りしたいと思うていたのですが」
「それは申し訳ない」
「その節」「礼」も、かつて梓子が彼を長年悩ませた頭痛を祓ったことであった。
尚方は素知らぬ顔で応じながら、内心で激しく毒づく。自分よりも年嵩で、既に妻子持ちの、たかが国司風情を、誰が婿として迎えるものか。
だが、ここで風向きが変わった。
「そう言えば、伯王様にはもう一人、姫君がいらっしゃるのでは。弟姫様にももう、夫がおいでなのですか」
「……いえ、幼い頃に罹った疫病で、些か顔に傷が残ってしまいまして。ひっそりと暮らしております」
三年前より梓子の妹を娘と見做していなかった尚方は、不自然でない程度に返答が遅れた。更に「弟姫」の響きに、疑念が埋み火の如く燻り出す。
「ありがたいことに」と返したものの、当岐大社の婿がねからは文などが届くばかりで夜這いは一度もない。折々に高価な贈り物を寄越すから口を挟まないだけで、梓子が、その隙を縫って別の文の送り主たちと火遊びをしていることも黙認している。
大社の使いたちは、いつも「若君からオトヒメ様に」と述べるらしい。だが八千種第に姫は梓子しかいないのだから、オオヒメの言い間違い、或いは聞き間違いだと、尚方も取り次ぐ下男下女も思っていた。思い込もうとしていた。
尚方の無言の煩悶も知らず、前壱予守は酔いも手伝ってか上機嫌に続ける。
「しかし伯王様の女君、大姫様の妹君でしょう。痘痕も笑窪、麗しき姫に相違ない。……未だ夫がおらぬならば、儂が名乗り出ても構わぬでしょうか?」
姉が駄目だから妹。身の程知らずで下衆な考えだが、激昂しかけた尚方は、それが顔と声に出る寸前で思い直す。
最早息女でも下女でもない、幽閉し持て余しているだけの少女だ。懐の温かい初老の国司が妾としてくれるのならば、むしろありがたい話かもしれない。痘痕も笑窪どころではないばけものだが、敢えて明かすこともあるまい。どうせすべては暗い閨の中である。
そもそも、ばけものと成り果てた時点で、尚方は茜子を放逐するつもりだった。
それを止めたのは、ばけものを退ける通力を持つ梓子だった。
勿論、姉妹ゆえの憐憫などではない。
『どんな占を何度やっても、同じ卦が出ます。茜子に危害を加えては駄目。絶対に……!』
告げる本人ですら納得のいかない様子だったが、だからこそ真実味があった。そのため、尚方はばけものをただ閉じ込め飼い続けるほかなかった。
だが、親より歳上の相手でも、結婚は「危害」には当たらないだろう。家の、家長の都合による婚姻は当然のことだ。
「……艶めいた話とは一生無縁かと憐れんでおりましたが、弟姫にも人並みに通ってくださる殿御がおれば、これほど嬉しいことはない」
心にもないことを大袈裟に言って、尚方は「ただ……」と演技過剰に声を曇らせる。
「そのように諦めておりましたゆえ、未だ裳着も済ませておりませぬ。婿を迎える支度が整いましたらお声がけしますため、しばしお待ちを」
「ふむ。ではその間、不得手ながら歌詠みの練習などいたしましょう」
「歌だのとまだるっこしいことは言わず、邸に来ていただいて構いませぬ。家族のほかに人付き合いのない娘も、婿殿を待ち侘びることでしょう」
「なんと……」
娘を慈しむ父とは思えない台詞だが、酒のためか、それとも色欲に負けたか、細い目を丸くしたものの、前壱予守は頷いた。
やがて月が西に傾き、宴席に散会の空気が流れ始めた頃、尚方は三条の左大臣邸を辞し、八葉車で八条の自邸に戻った。家人たちの出迎えも適当にあしらい、大股で東北対へ渡る。
茜子に男が通ってくるのであれば、裳着より何より、やっておかなければならないことがある。
「起きよ、茜子」
妻戸の前で、実に三年ぶりにその名を呼ぶ。しかし応えはなく、腹立たしさを覚えながら扉に手をかけると、掛け金が下りていない。
「起きよ。話がある」
断りもなく御簾を捲り、尚方は母屋に足を踏み入れ、絶句する。
蔀を閉ざした屋内に、単衣を着たばけものの姿はなかった。