番いの何たるかを知っても、茜子と千颯の関係に進展はなかった。そもそも彼はうつせみの人ではなくちはやぶる神(という設定)だから、人の世の三年も一年に満たない感覚なのかもしれない。
 日々並(かがな)べてまた季節は移ろい、八千種第の姉妹は十八と十七を数えた。
「姫。……今宵の吾が妻は、なんだかおかんむりだな」
 几帳の陰に坐す茜子を一目見るなり、千颯は小さく苦笑した。図星をつかれた茜子は扇を広げてふいと顔を背ける。茜子とて貴族の端くれ、澄まし顔は得意なはずなのだが、番いにはお見通しらしい。
 律儀に几帳を挟んで腰を下ろし、千颯が訊ねる。
「どうかしたのか?」
「どうということもないわ。花見に行き損ねただけ」
 つい昨日、父母と姉は、京の辰巳、深草山(みくさやま)に花見を兼ねた物詣に行っていたらしい。単なる物見遊山ではなく梓子の良縁成就の祈願も込めてのようだが、当然茜子は留守居であった。
「庭に降りるか? 名所ほどではないが、桜がたけなわだ」
 笑い含みの声が不機嫌な番いをあやすが、茜子はそもそも桜が苦手だった。
 十年前の春の(ゆうべ)、桜がよく見える寝殿の南廂で、姉や乳姉妹たちと貝覆いに興じていたときのこと。羽音に誘われて茜子が首を庭に向けると、満開の花枝に烏が羽を休めていた。
 烏は戌亥の鎮護、当岐大社の神使だが、屍肉を喰む凶鳥でもある。そんな吉兆とも凶兆とも知れない鳥が花降る庭に迷い込み、御簾に隔てられることなく目と目が合った――――気がした。
 人の気配を察した烏は、花散らす東風(こち)に乗じ、(あま)(べに)の空へと飛び去った。だがやはりそれは疫神だったか、明くる(あした)から姉妹は立て続けに病魔に魘され命運を分けたのだ。
 だから、代わりに茜子は我儘を言ってみる。
「……池ではなく、海を見てみたいわ」
 海を模して造られた池ではない、本物の海。連想のように閃いた言葉だったが、口にしてみると、なかなかいい案である気がした。背けていた首を千颯に向き直す。
「ちはや様、わたし、海が見たい。山のずっと北に、椅子(はしご)のような浜の海があるのでしょう?」
 京は盆地に築かれているが、辛うじて国の北端が海に面している。梓子も見たことのない歌枕の浜。ここは夢なのだから、西へ東へ、どこへでも行けるはず。
 しかし、千颯は些か渋い顔をした。
「……邸を出るのは待ってくれないか。結界の外にはまだ懸念がある」
「あら、守ってはくださらないの」
「勿論、命を懸けて守る。だが……」
 茜子が大仰に嘆くと、大真面目に返される。それでも煮え切らない語尾に、茜子は膝をいざって几帳から身を乗り出し、早蕨重の狩衣の袖端をきゅっと握った。
「だめ……?」
 敢えて舌足らずに、甘えた上目遣いで見つめる。
 番いのおねだりに、千颯は瞠目し躊躇したが、結局折れた。
「――――わかった。今からなら十三夜の月に間に合うだろう」
 常ならば片道で三日はかかる道程を一晩のうちに往復できるとは、さすがはちはやぶる神、或いはうばたまの夢の為せる業だ。
 内心舌を出しながら「ありがとう」と楚々と笑い、茜子は千颯を退室させて仕度に取り掛かる。不恰好とは言え、女房の手も借りずに袿を壺折りに着込めるのも、ある意味幽閉生活の賜物である。
 妻戸を出て簀子縁から渡殿へ、茜子はそろそろと、反対に千颯は悠々とした足取りだが、誰にも気取られず中門廊を出た。門前で寝ずの番をする家人に茜子はぎくりと足を止めたものの、二人に気づいた様子がない。千颯が軽く笑う。
「大丈夫だ。俺たちのことは烏の羽ばたきとしか思わない」
 夢であれば、どんな不可思議も不思議ではない。
 車寄には網代車が停まっていたが、車副や牛飼童どころか牽く牛すらいない。しかし二人が屋形に乗ると、車輪の軋む音と共に車はのそりと動き出した。
 その軋みさえ僅かなもので、道を走るというよりも水面を滑るようななめらかさで進んでいく。幼い頃に乗車した際は揺れが酷く姉妹揃って酔った記憶があるが、今夜は醜態を晒す心配はなさそうである。
 何故か物見窓が開かないため、どの辺りをどの程度の速さで走っているかも判らない。
 天井には鬼火、もしくは狐火、天狗火などと呼ぶべき焔が灯り、熱のない光で屋形内を照らしている。
 そんな奇しき灯火の中、非の打ちどころのない貴公子そのものの千颯の姿に、今更のように茜子の胸は早鐘を鳴らした。
 たとえ夢でしかなくても、自分は彼に恋をしている。この夜はっきりと、茜子は自覚した。
 簾の帳や闇の帳に遮られず夜語りに花を咲かせながら、三刻(1.5時間)ほども過ぎた頃、ごとんと揺れて牛車が停まった。
 前簾を上げると、やはり牛の姿はなく、無人のまま榻が用意されている。茜子は千颯の手を借りて屋形を降りた。
 辿り着いた場所は山中に拓けた一角で、眼下には黒く波打つ大きな湖――――否、(しおうみ)がある。
「わあ……っ」
 笠も垂れ衣もなく、夜風に顔を晒した茜子は、右目に映る光景に素直に感嘆した。
 那由多の星が瞬く空。やや中天を過ぎた十三夜の月が、暗い海に緩い弧を描く砂浜へ光をこぼしている。浜の先にたたなづく山々と月影揺れる波間、その見果てぬ彼方に、比翼の伝説を生んだ大陸がある。
 京人憧れの歌枕に興奮した茜子は牛車と千颯の傍を離れ、はしたなくも小走りで崖の縁まで向かう。
「おい、危ないぞ」
「大丈夫よ。だってわたしも比翼なのでしょう?」
 危惧する声に、茜子は軽やかに振り返って笑う。翼があるのだから、何より夢なのだから、危ないことも怖いものもない。
 そう油断していた茜子を、崖の下から躍り出た影が羽交い絞めにした。
「姫!」
 血相を変え駆けつけようとする千颯を遮るように、また別のふたつの影が羽ばたきと共に茜子と千颯の間に降り立つ。
 茜子の目に、それは漆黒の翼を背に持つ、まさしく天狗のように見えた。
 それぞれ、薙刀や太刀など、得物を手にしていることも。
 武骨な手に背後から荒々しく口を塞がれ、悲鳴を上げることも叶わず、茜子は宙空へと攫われた。目を見開いたまま崖から遠ざかり、先程まで眼下に望んでいた松並木の白浜にどさりと投げ落とされる。
 手をついて顔を上げると、みっつの影が茜子を囲んでいた。鳥の(かしら)に人の体、黒い翼……やはり天狗の類いだ。
 帯刀した直垂烏帽子姿の烏天狗たちは、鳥の嘴で人の言葉を交わし合う。
「これが執心の番いなのか? 人の目ではないか」
「たわけ、それは右目だ」
「左目を抉れ。羽を捥いでもいい」
 捕らえた獲物にとどめを刺すような口調。軽率に千颯の隣を、結界に護られた邸を離れた茜子は、まさに狩られた鳥なのだ。
 無遠慮に伸ばされた手が、羽根を毟るようにして左目を覆う布を剥ぐ。「ばけものの左目」に、三人は一様に息を呑んだ。
「……これはまさに」
「ああ。早くやれ」
 声も出ない茜子の青ざめた顔に、烏天狗の一人が目を眇める。
「いや、それより……」
 茜子を組み伏せるように天狗は膝をつき、袿を端折り上げていた結紐を乱暴な手つきで解いた。そしてその下から現れた袴の帯にも手がかかる。
「いや……!」
 あまりの悍ましさに、茜子の全身を悪寒が駆け抜けた。
 容赦なく帯が解かれる、その刹那。
 組み敷き組み敷かれた二人の間に、白い毛並みが割り込むように飛び込んできた。