それから一年、二年と夢の通い路は続き、千颯も烏帽子姿となったが、二人は未だ清い関係のままだった。
 二年もの間肌を許さない女など、普通の男は見限るだろう。しかしそこは夢、どこまでも茜子に都合よくできているため、夜離(よが)れとなることも無体を働かれることもなかった。
 千颯は辛抱強く、児戯(ままごと)に等しい逢瀬に付き合ってくれた。詩歌を詠み交わしたり、差し入れてくれた菓子や果物を楽しんだり。そんな他愛ないことで、茜子の心は充分満たされた。
 年が改まり、月日を重ね、そろそろ初夏も見えようかという風薫る夜。いつものように母屋に招こうとする茜子に、千颯は御簾の外から言った。
「たまには庭に出てみないか。満月の下、松にかかる藤が満開だ」
「でも……」
 屈託ない誘いに茜子は逡巡する。築山の庭には、藤だけでなく花細(はなぐわ)し桜やさ丹つらう椛など四季を彩る花木が植えられているが、東北対で暮らし始めてから、茜子は邸の外は勿論、南庭にさえ出たことがない。
「大丈夫だ、邸の中なら問題ない。これから長雨の季節になると、俺はあまり通って来られなくなるから」
「……そうね」
 言われてみると、雨や雪の夜に彼の夢を見たことはない。食い下がる千颯に、茜子も吹っ切れたように頷いた。どうせ夢なのだ、見咎められることもないだろう。
 立ち上がってなお裳裾と共に床に広がるほど長い髪を、腰の辺りで輪に括る。右手で袿と単の裾を絡げ(初花前に仕立てた袙はこの頃さすがに寸足らずになり、梓子のお下がりの袿を着ていたが、袴は切袴ほどの丈が却って動き易くそのまま穿いている)、左手に扇の盾を翳し、茜子はそっと妻戸を出た。その抜かりない姿に千颯は苦笑いする。
「……相変わらず、守りが堅い」
「あら、淑女たるもの、そう簡単に顔は晒せないわ」
 花見の誘いが半分は口実であることを見越して、茜子は扇の陰よりくすりと笑い返した。
 八千種第の南庭は、枝葉や小石に至るまで計算し尽くされたような風雅な庭ではないが、あまり人の手が入らないことで、却って野趣に富んだ景観を生み出していた。梅溢れて桜散り、今は藤、間もなく紫陽花が続くことだろう。
 天満(あまみ)つ月の下、()ら咲きの花弁が仄白く浮かび上がり、あるかなしかの夜風にさやぐ様子は、まさに優美の一言に尽きた。
「……ねえ。番いって、何」
 中島にかかる橋で、茜子は今更のように千颯に訊ねた。座していると然程感じないが、こうして並び立つと、威圧感を覚えない程度には背が高い。
 不思議なもので、最初は茜子と同じ歳くらいだと思っていた千颯は、茜子が十六を数えた今、二十歳ほどに見える。それも以前訊ねたが、「鳥は雛の時期は短いが、成鳥すると人の目には齢など判らないだろう? それと似たようなものだ」と、解るような解らないような回答が返って来た。
 加えて、普段は狩衣烏帽子という貴族の略装を完璧に着こなしているものの、たまに今夜のように髪を括っただけの姿で訪れることがある。茜子は彼を加冠前から知っているため目くじらを立てることもないが、本来とんでもなく非常識な格好だ。
 なのに不思議と気品は少しも損なわれず、花の香を運ぶ風に濡羽色の髪を遊ばせながら千颯が答える。
「要は妹背のことだが……、俺たちはまた少し違う。俺たちは、比翼だから」
「比翼?」
 聞き覚えはあるが耳馴染みのない単語に、茜子は眉をひそめた。大陸の伝説に語られる鳥。互いに片目、片羽しか持たないため、常に二羽並んで飛ぶのだと言う。……確かに、茜子も千颯も隻眼だ。しかし両腕は健在である。
「番いとなった比翼は比類なき力を手に入れる……そんな伝説が、天狗たちに語り継がれてきた。単なる言い伝えと思われていたけれど、俺たちが産まれた」
 冠のない――――人ではない姿だからこそ、花誘う風に揺れる大振りの藤を背に立つ千颯は、さながら夜の精のようであった。
「俺と姫は、山と京で共に産まれた。これからは共に生き、共に死ぬ。俺は君なしでは翔べない、生きられない」
 今までで最も熱の籠もった告白に、茜子は陶酔を通り越して若干たじろぐ。
(ちょっとこれは……設定が重すぎじゃない?)
 だが、垣間見の顔かたちや手蹟の人となりも知らないうちから虜となる理由として、番いというのはなかなか巧い説明だと思った。……やや空虚な設定でもあるが。
 ひたむきな金の瞳に気後れし、茜子はつい目を逸らしてしまう。しかしその困惑ごと包み込むように、千颯は肩越しに腕を回して来た。
「だから姫も――――俺なしでは生きられないんだよ?」
「!」
 夜に映える声の密語(ささめごと)に、茜子は思わず抱擁を拒む形で振り返ってしまった。無理強いはせず身を離した千颯は、耳まで赤くした茜子の反応に満足したように長い髪を梳く。月の下で見るせいか、その指遣いはどこか艶めかしい。
「いずれは、姫の口からそう聞きたいものだ」
「……それは、ちはや様の頑張り次第ですわね」
 茜子もどうにか一矢報いようと、扇を口許に構え直してさらりと受け流した。それでも千颯の口許に浮かぶ余裕の笑みは崩れない。
 しかし、右目からほろりと頬を伝った茜子の涙には、さすがに動揺を見せた。
「どうした、急に」
「……大丈夫、なんでもないの」
 緩くかぶりを振り、茜子は扇を広げたまま蝉羽重の狩衣の袖に額を預ける。瑞々しい薫物の香は、山滴るこれからの季節にも彼自身にもよく似合っていた。
 千颯に求められるほど、茜子の胸に姉の言葉が甦る。
『茜子には恋歌を贈ってくれる殿方なんて現れないもの』
 梓子の言うとおりだ。家族にも見放されたばけものの茜子を一途に溺愛してくれる相手は、羨望と孤独が生んだ夢の中にしかいない。
 現実であればよかったのに、などと贅沢は言わない。夢でもいい。夢で構わないから――――覚めない夢であってほしい。この夜が明けなければいい。
 叶わない祈りと知りつつ、茜子は願わずにいられなかった。