いくら夢に逃げても、現実が虚しいだけ。
 けれど現実は淋しすぎて、夢に縋りたくもなる。
 茜子はいつしか、三日と置かずに訪れる千颯の夢を心待ちにするようになっていた。
 母屋へ招くことは拒みつつ、そう間を置かず対面は蔀越しではなく妻戸の御簾を挟んでのものとなり、更に茜子は時折、端近まで膝をいざったり出衣を覗かせたりもしてみせた。こんな強気な行動に出られるのも夢なればこそ。時に躱し時に誘い、諦めていた恋のときめきに、茜子は有頂天になっていた。孤独な幽閉の身でも、この目眩く夢があるから生きていられる。
 そして、山粧う露霜の秋の夜長。
「そろそろ外は寒いでしょう。……入って来てもいいわよ」
 (くだ)る弓張の月を眺めながらの会話の切れ間に、茜子は昼の軒先に迷い込んだ紅葉を扇に載せて御簾の下から差し出す。意表を衝けたのか、千颯の反応は数拍遅れた。
「……いいのか?」
「風邪などひかれては申し訳ないもの。……天狗様もお風邪って召されるのかしら?」
 几帳の陰に下がった茜子は首を傾げたが、千颯は構わず、紅葉を挿頭し御簾を揺らして母屋に入ってきた。几帳の裏に回り込もうとするのを、茜子はぴしゃりと押し留める。
「それはまだ駄目」
 茜子の制止に、ぴたりと千颯の動きが止まった。面白そうに問うてくる。
「まだ駄目、とは?」
「御簾の内に入ることは認めたけれど、まだ顔を許す気はありません、ということ。しばらくは几帳越しにお会いしましょう」
「なるほど……」
 短く唸り、千颯は几帳の向こうに座り込む。してやったりと茜子は忍び笑ったが、千颯もまた、不敵な笑みを浮かべた。
「……でも、そろそろかと思ってた」
「え?」
「さすがに京の冬、特に夜の寒さは厳しいから」
 立地の関係か、京の夏は暑く冬は寒い。茜子が招かなくとも、山眠る頃、千颯はそれを理由に入室を希う算段だったのだ。
「だけど姫は甘いな」
「え? ……っ」
 芸がなく同じ声を発した茜子は、袖の中の異変に声を詰まらせた。几帳の隙間から千颯が腕を差し入れ、無防備だった茜子の指に己のそれを絡めてきたのだ。
「俺がその気になれば、こんな几帳(もの)、すぐに払いのけてしまえるのに」
「やっ……」
 袖の中で蠢く指に、茜子の首筋がぞくりと粟立つ。だが茜子が本気で怯える様子に、指先はパッと離れた。
「冗談だよ、冗談。姫が俺をからかうから、お返しだ」
「あ……、っもう、ちはや様!」
 今更腹を立てても遅い。茜子の怒りを笑い流し、千颯は更に嘯く。
「まあいずれ、冗談ではなくなるけど」
「……っっ」
 感情の起伏が追いつかない。今夜は茜子の完全敗北を認めざるを得なかった。
 しかし続く千颯の言葉に、その考えすら甘かったと痛感する。
「姫はもう初花を迎えたんだろう? 俺の子を身籠る準備はできてるんじゃないか」
「!」
 一気に顔に血が上った。
 初花とは、その年に初めて咲く花、或いは若く美しい女性の意だが、初潮の隠語でもある。
 実は、茜子のほうが梓子よりも一足先に初花が来た。だがそれと同時に左目がばけものになったため、裳着も行われず、茜子は未だに裾が短めの袙衣と濃袴を着ているのだ。
(名前も知らないのに、なんでそんなことは知ってる設定なのよ!)
 茜子は大きく息を吸い、吐き、几帳の向こうに語りかける。
「……ちはや様、ちょっとそこに座り直してください。いやもう本当、真剣に」
「?」
 千颯は茜子の意図が掴めない様子ながらも、素直に指示に従った。茜子も改めて端座し、重々しく口を開く。
「ちはや様。本当にわたしがほしいと仰るなら、女心の機微と言うか人間(じんかん)の常識と言うか、もっとこう、婉曲というものを学んでください。いいですか」
「は?」
「いいですね」
「……はい」
 畳み掛ける茜子の静かな迫力に、千颯は妙に畏まった面持ちで頷いた。
「ひとまずこの話は棚上げだ。……しかし姫はどうして、こんな殺風景な部屋に住んでるんだ?」
 ぐるりと首を巡らせた千颯は、また早速遠慮のない感想を述べる。急な矯正は無理かと、茜子は溜め息と共に答えた。
「仕方ないの。寝殿は邸の主人、北対は妻君、東対は後継……この邸だと大姫様のご在所なの。西対はないから、必然的にわたしの部屋はここになるのよ」
 勿論、最大の理由はばけものの左目なのだが、その事情は省略して説明する。千颯は「まあ姫は遠からず山に嫁入りするしな」などと勝手なことを呟いたあと、朗らかに言った。
「だったら、今度は調度品を贈るか」
「ありがとう。楽しみだわ」
 虚しさを隠して茜子は笑う。夢で素晴らしい品を贈られても、現実の部屋には飾れない。
 一夜明けて蔀を上げた室内は、当然変わらないみすぼらしさで、解ってはいるが茜子は落胆した。白い有明の片割れ月さえどこか淋しげに見える。紅葉も、朝餉の膳と共に片付けられてしまったようだ。
 しかし一月後。
「喜びなさい。この屏風、差し上げるわ」
 そう言って梓子が東対より家人たちに運ばせてきたのは、一隻六扇の屏風。地色はごく淡い朱色と藤色で、桔梗や撫子など秋の七草が描かれている。
「大社から贈られたのですけど、わたくしの趣味ではありませんの。大体、もう冬になるというのに秋の七草なんて」
 よく見ると、七草に紛れ、茜の花が描かれている。成程これは、たとえ仲秋の頃であっても梓子のお気に召すものではないだろう。許婚からの贈り物を即座に処分するのも気が引けるが、女房たちに季節外れの調度を下賜するのは女主人の沽券に関わるということで、ばけものの妹への施しに落ち着いたらしい。
 このところ、梓子はあまり機嫌がよろしくない。当岐の若君と文を交わし始めて半年以上経つのに、未だ当人の訪いがないからだ。
(わたしのところには足繁く通ってくださる方がいるわよ。……夢でだけど)
 茜子は心の中で張り合ってみたが、虚しさが増しただけだった。
「それでも、ばけものには過分な品よ。ありがたく受け取りなさい」
 そう言い捨て、礼も待たず梓子たちは去っていった。有無を言わさず押し付けられた逸品を、茜子はしげしげと眺める。
 茜子は秋の生まれと聞いている。その季節に詠われる草花に、こっそり紛れた茜の花。若君の意図は不明だが、確かにこれは、梓子よりも茜子に誂えたような品である。
 そうして思い出されるのは、一月前の夢の言葉。
『だったら、今度は調度品を贈るか』
(……わたしにも、未来を夢に見る通力が?)
 だとしても、突然の覚醒の理由が判らない。
 だが二日後、三日月の沈んだ夜に夢を渡ってきた千颯が、屏風を見て嬉しそうに右目を細めていたから、取り敢えずよしとしようと茜子は思った。