しかし夢見が良ければ良いほど、夜明けの現実は虚しいもの。
 今日は一宮両社の北祭が行われる日で、尚方と小百合、梓子は揃って見物に出かけていった。主だった女房や家人たちも付き従い、一町四方の八千種第に茜子はぽつんと取り残される。
 別に毎年のことなのだが、幸せな夢の分孤独が身に沁み、夕餉を済ませた茜子は、寝待ちの月も待たず敷妙の床に就いた。こんなときは、あれこれ思い悩むより寝てしまうに限る。……叶うなら、昨日の夢の続きが見られると嬉しい。
 そして深夜の夢の中、コツコツと蔀を叩く音がした。
 茜子はむくりと身を起こす。灯台に幽けき火が入ったものの室内に人の気配はなく、半蔀の上を僅かに押し上げると、簀子縁に烏帽子のない人影が俯いて座っているのが見えた。
「……御当岐天狗の若宮様?」
「……昨夜は、すまなかった」
 左目の疼きを覚えながら問いかける語尾でそう呼ぶと、昨日と同じ清冽な余韻を残す声は、やや萎れた様子で開口一番に謝罪を述べた。
「気が急いて、いきなり室内に押し入って顔を見て、あわよくば契りを交わそうとまでして……本当に、申し訳ない」
「な……」
 明け透けな告白に、茜子は上蔀から手を離し昨夜の比ではないくらい赤面した。昨年までは淑女としての嗜みを女房に懇々と教え込まれていたのだ、男女の営みについての知識は多少なりとある。
 だが、項垂れた千颯を詰るのはお門違いだろう。すべては茜子の夢、我ながらどれだけ(かつ)えているのか。
 茜子の自己嫌悪を余所に、再び閉じた蔀の向こう、千颯は憔悴気味の口調で続ける。
「山に帰って、命婦にしこたま叱られた。御左様は未だ人間(じんかん)にあるのだから人の世の慣わしに則って求婚すべきと自制されたのは若様でしょう、四苦八苦して詠んだ歌も贈り物をお届けしているあたしたちの苦労も水の泡じゃないですか、と」
 郷に入れば郷に従えと言うことか。蔀越しの詫び言を聞きながら、夢なのに結構設定が細かいな、と茜子は妙に感心していた。先人たちのように物語を記してみるのもいいかもしれないが、そのための紙など誰も用意してくれまい。
 ここは三世女王らしく器の広さを見せようと、茜子は鷹揚に返す。
「主君の()がねをそれほど慮れるなんて、若宮様は好い女房をお持ちね」
 茜子の淑やかな声を受け、千颯は蔀の外で居住まいを正したようだった。
「昨夜のことは、謝る。だけど会ってしまった以上、今までのように文を待つだけでは耐えられない。これからはこうして、蔀越しに訪ねることにする」
 詫びている裏で、訪いを許せと、なかなか強引に距離を詰めてきている。案外、悪い気はしなかった。
「だからせめて、通称(あざな)だけでも教えてくれないか。吾が妻や吾妹子(わぎもこ)では味気ない」
 遠慮しているようで押してくる。昨夜の印象どおり、彼のほうが茜子より手練れかもしれない。
「そうね……、では、若宮様がちはや様ですから、枕詞繋がりで『あかね』と呼んでくださいな」
 本名に等しい通称を提案したのは遊び心だ。この七年、蔑む声で名を呼ばれ続けた記憶を少しでも塗り替えたかった。
「あかねさす君か。佳い通称だ」
 ちはやぶる神はそう笑い、衣擦れの音と共に立ち上がる。
「今夜はここまでにしておこう。通称を聞けただけで大収穫だ」
 押して押して、最後にあっさりと引く。名残惜しさを感じたのは茜子のほうだった。
「ではまた、次の芳き夜に」
 その声が合図のように、灯台の火が尽き、蔀の外の気配が去る。
 しばし二度目の逢瀬の余韻に浸り、茜子は髪を箱に整えて褥に戻る。後宮とまでは言わずとも、名のある家の女房にでもなれれば、この妄想力こと物語の才を生かせたのかもしれないなと思いながら、未練がましく瞼を閉じた。