当岐大社からの文や贈り物は、その後も引きも切らずに続いた。
 その都度梓子も、金銀砂子の絵巻物だの舶来の硯だの萌黄の匂襲の一揃いだのと、足繁く東北対へ見せびらかしに来るものだから、二月も経つ頃には、茜子は羨ましいのか妬ましいのか鬱陶しいのか判らなくなっていた。
 ただ、父母の言うとおり今は焦らしているのか、文は交わしても訪いを許してはいないらしい。そんな惚気と、ついでに厭味も聞かされ、茜子は今日も不貞腐れて眠りに就いた。
 それが、まずかったのかもしれない。
 夜更け、茜子は不意に目を覚ました。夜半の寝覚めに、己の勘の鋭さと正しさを知る。
 蔀を閉ざし、茜子しかいないはずの室内に、人の気配を感じた。
「だれ……っ」
 思わず誰何すると、茜子が気づいたことに気づいた闖入者は、茜子の小夜衣の袖を掴んで囁いた。
「騒がないで」
 歳若い男、いや少年の声だった。それが夜、断りもなく寝所に忍んで来て、騒ぐなと言うほうが無理というもの。ばけものの左目が奇妙に疼いた。
「いやだ、離してっ」
「嫌だ」
 身を起こした茜子の拒絶を、闖入者は一言で却下する。
「……やっと会えた」
 まるで、この暗闇でも茜子の姿が見えているかのように、彼は安堵の息を漏らした。更に、不躾な問いを投げかけてくる。
「名は?」
「……『たそかれと とふくれよりも うばたまの やみはあやなし かげさへしれず』」
 茜子も、変なところで三世女王の矜持が顔を覗かせ、質問に歌で返した。墨染めの黄昏(誰そ彼)よりなお暗い闇夜では、相手の姿形も判らない――――一言で言えば「おまえこそ誰だ」。名を問うならば、まず自ら名乗るのが礼儀だろう。
 とは言え、機嫌を損ねては危ういかもと、またも茜子は口を開いてから後悔したが、感心したような苦笑混じりの涼やかな声があやなき闇より届いた。
「……これは手ごわい」
 油の尽きたはずの高灯台に火が灯った。闇が淡く払拭され、扇で隠す暇もなく互いに見合う顔が露わになる。
 闖入者は、声の印象どおり、茜子と歳の変わらない少年だった。元服前なのか、水干の頭上に烏帽子はない。怯える茜子を間近で見つめ、少年は相好を崩す。その顔は、幼さを残しながらもほぼ完璧に整っていたが、ひとつだけ欠けたものがあった。
「お揃いだな」
 そう言って、少年は黒い布で眼帯を施した自身の左目を指差した。寝るときも左目に白布を巻いたままの茜子は改めて問いかける。
「……あなた、誰」
「突然すまない。だが、何度文を送っても直筆がもらえないから、堪らず会いに来てしまった」
「は……?」
 身に覚えのないことを言われ、茜子は呆然とした。少年は残る右目をやわらかく細め、上の句を口ずさむ。
「――――『ちはやぶる かみのもたせる わがいのち』」
「こ……『こころもすべて きみがためこそ』」
 硬い声で下の句を返しながら、茜子は、これは夢だと思った。恋歌を贈られる姉を羨む心が見せた泡沫の慰め。
 そうでなければ、少年の右目が月を映したような金色であることの説明がつかない。
 それにしても、自分は思っていたより面食いで、図々しいようだ。夢とは言え、これほどの美形に、姉宛ての恋歌で口説かれようとは。
「俺は千颯と言う。当岐山を統べる神、大天狗の嫡男だ」
 更に安直で、何より不敬だった。名前は歌そのまま、素性は姉の許婚が祀る存在と来た。
 単衣の袖を離さないまま、千颯は熱心に言い寄る。
「俺は名乗ったぞ。名を聞かせてくれ」
 こうなったらとことんお高く振る舞ってやろうと茜子は決めた。所詮は夢、現実では叶わない男女の駆け引きを楽しんでみたい。
「夫でもない殿方に、そう簡単に女の名は教えられませんわ」
 これは女に限らず男もだが、この貴族社会で本名(いみな)を呼び合えるのは、家族並びによほど親しい間柄の者だけである。
 茜子のつれない返しに、千颯も負けじと言い募る。
「君は俺の番いだ。俺以外、君の夫になる者はいない」
「ではあなたは、初対面で易々と名を明かすような軽薄な女が妻でも構わないの?」
「……そう来るか、面白い」
 高飛車な茜子の物言いに、千颯は挑むように笑みを刷いた。押して引いて互いを翻弄することこそ、恋の醍醐味だ。夢でくらい、桂男(おとこまえ)との恋を堪能して何が悪い。
「わたしがほしいのでしょう? だったら、口説き落としてみせてよ」
 昼日中には絶対に言えないことも、夜の夢の中なら言える。
「吾が妻はなかなかに強情だ。仕方がない、今夜は退こう」
 今宵の敗北を認め、千颯は惜しみつつ茜子の袖を放した。しかし茜子が勝利を確信した隙を衝き、衣越しではなく手に掌を重ねて耳許で囁く。
「俺は君を諦めないよ。絶対に、手に入れる」
「……っ」
 不意打ちの体温、睦言に、茜子の心の臓が大きく跳ねた。瞬時に顔が火照り、白布の下が熱くなる。
 宣言を残し、千颯は掛け金をかけていたはずの妻戸から退出した。茜子も、三世女王としてせいぜい気位高く応じたつもりだったが、彼のほうが一枚上手だ。
 しばらく腰が砕けたように動けなかったが、頬の熱冷ましに茜子も妻戸を出た。既に水干姿はなく、月下に姿を見せた茜子を咎める目も、吹く風の音さえない。
 ふと見上げた空を、婚星(ながれぼし)が戌亥の方角へと翔けていく。
 山へと帰る光りを見送り、今夜はいい夢が見れたと、茜子は上機嫌で屋内に戻った。