邸の主人との対面に割り込んできた場違いな女に、千颯は訝しみの声を投げつける。
「誰だ、あなたは」
だが、女が纏う小袿の色目や文様には見覚えがあった。邸主人の直衣や、母屋の衣架にかかる単衣、棚上の小筥などにも。どれもこれも、自分が妹背の弟姫へと、眷属たちに届けさせた品々だ。彼女の部屋にあまり贈り物の影がなく、或いは忘れた頃にようやく見ることが叶っても、趣味や季節違いかと敢えて問い質しはしなかったことが裏目に出た。
「なるほど……」
心尽くしの贈り物を掠め取った者たちに怒りが湧くと同時に、己の詰めの甘さを呪う。彼らの言葉と態度で、邸における弟姫の扱いをようやく悟った。いつまで経っても代筆の文、控えの女房もいない質素な対屋。不自然な点はいくつもあったのに、逢瀬に浮かれて見過ごしていた。
千颯の視線に気づいたか、色々襲の女は、突きつけられた言葉を拒むように捲し立てる。
「この織物も薫物も、螺鈿の櫛も瑠璃の坏も、すべてあなた様が、中秋の名月の祝いにわたくしに贈ってくださった品。そうでしょう?」
「は? ……ああ、数え年を用いる人の世には、生まれ日を言祝ぐ習慣はないのだったな」
胡乱に眉をひそめた千颯は、風習の齟齬に改めて思い至る。
「葉月の宵待ちの月は俺たちが産まれた日だ。中秋の名月は関係ない」
「……!」
色々襲の女は言葉も顔色も失った。この女は、弟姫の代筆ではなく、己が求愛されていると勘違いして文を送り返していたのか。
確かに十年前、千颯は彼女とも浅からぬ縁を繋いだ。夢枕でその理由を告げたのちも、残り香のように夢に姿が映ることも偶さかあったかもしれないが、思い上がりも甚だしい。
それでも番いの産みの親、血を分けた姉だ。激情を必死に抑え、千颯は最後通牒を言い渡す。
「もう一度だけ言う。我が番い、弟姫をここへ呼べ」
「ですから」
「ならばもう用はない」
意に沿わない言葉を返そうとした邸の主人に最後まで言わせず、千颯は右腕で空を薙いだ。金の瞳が炯々と輝き、背に漆黒の隻翼が広がる。腕の軌跡は疾風を起こし、寝殿や東対、中門へと襲い掛かった。
「なんっ……うわあぁっ」
「きゃあああっ!」
「ひいぃぃっっ」
目の前の二人のみならず、邸内のあちこちから悲鳴が上がる。千颯が生んだ突風は、猛る感情そのままに八千種第で暴れ回った。御簾が引き千切られ、文机や几帳が宙を舞い、池の水が氾濫する。刃に乗せれば天狗の首すら一太刀で斬り伏せる神風だ、人の造営した建物などひとたまりもない。
千颯が再度腕を動かし、荒れ狂う暴風が止むと、寝殿の南は惨憺たる有り様だった。屋根が崩れて廂や簀子縁を押し潰し、折れた柱が横倒しに転がっている。釣灯籠や灯台の火が掻き消えたのは不幸中の幸いだろう。春宵の庭でも橋が落ち、いつか弟姫と愛でた藤や盛りの桜も根こそぎ裂けていた。
その姿に千颯は僅かばかり心を痛める。十年前、彼女を見初めたときも、この桜が咲いていた。
それまで、千颯は番いにあまり興味がなかった。一人でも飛べるよう鍛錬を積むことのほうに意欲的で、白縫の足も借りつつ、鳥形に変じ山を離れ、京にも度々羽を運んだ。
だが陽炎の春、この邸で番いを見つけた。
むしろ番いがいたからこそ、繰り返し京まで飛んでいたのかもしれない。一目で解った、抗いようもなく引き寄せられる宿命の女。
すぐさま隠形の結界を施し、彼女の存在を悟られないよう、千颯も京には近づかなくなった。……弟姫の置かれた環境を思えばそれも失策だったが、会えない分想いは募った。
そうして十年。ついに待ち焦がれた夜が来た。
烏帽子を失くし半端に髻の解けた髪を適当に括り直すと、千颯は邸の奥へと向かうべく沓を踏み出した。行き先はいつもひとつしかない。
「っ若君、どちらへ」
「お待ちくだされ」
もう用はないと告げたにも関わらず、色々襲の女と邸の主人は、崩れた床板を踏み越えて追って来ようとする。背に羽を広げた千颯はもう一度吹き飛ばそうかと振り向きかけたが、袖を揺らす前に思い直した。今は、何より番いとの約束が優先だ。
神風の影響を受けなかった東北対には、御簾と静寂が下りていた。千颯は頬を緩め、妹背の姫の名を呼ばう。
「あかね姫」
応える声こそなかったが、御簾がざらりと揺れ、薄紅の袿と濃紅の単を重ねた弟姫が張袴を引いて姿を現した。
邂逅から十年、求婚から三年。妻問いを重ねるごとに心惹かれた、唯一無二の番い。千颯の片羽。
彼女もまた微笑みを湛えており、見蕩れるように千颯は笑みを深める。
「約束どおり、君を攫いに来た」
「お待ち申しておりました、千颯様」
潤んだ瞳、澄んだ声で応じた弟姫は、顔の左を覆っていた白布をするりと解く。
その下から現れた、自分の右目と同じ左目に、千颯は眩しく金の瞳を細めた。
「誰だ、あなたは」
だが、女が纏う小袿の色目や文様には見覚えがあった。邸主人の直衣や、母屋の衣架にかかる単衣、棚上の小筥などにも。どれもこれも、自分が妹背の弟姫へと、眷属たちに届けさせた品々だ。彼女の部屋にあまり贈り物の影がなく、或いは忘れた頃にようやく見ることが叶っても、趣味や季節違いかと敢えて問い質しはしなかったことが裏目に出た。
「なるほど……」
心尽くしの贈り物を掠め取った者たちに怒りが湧くと同時に、己の詰めの甘さを呪う。彼らの言葉と態度で、邸における弟姫の扱いをようやく悟った。いつまで経っても代筆の文、控えの女房もいない質素な対屋。不自然な点はいくつもあったのに、逢瀬に浮かれて見過ごしていた。
千颯の視線に気づいたか、色々襲の女は、突きつけられた言葉を拒むように捲し立てる。
「この織物も薫物も、螺鈿の櫛も瑠璃の坏も、すべてあなた様が、中秋の名月の祝いにわたくしに贈ってくださった品。そうでしょう?」
「は? ……ああ、数え年を用いる人の世には、生まれ日を言祝ぐ習慣はないのだったな」
胡乱に眉をひそめた千颯は、風習の齟齬に改めて思い至る。
「葉月の宵待ちの月は俺たちが産まれた日だ。中秋の名月は関係ない」
「……!」
色々襲の女は言葉も顔色も失った。この女は、弟姫の代筆ではなく、己が求愛されていると勘違いして文を送り返していたのか。
確かに十年前、千颯は彼女とも浅からぬ縁を繋いだ。夢枕でその理由を告げたのちも、残り香のように夢に姿が映ることも偶さかあったかもしれないが、思い上がりも甚だしい。
それでも番いの産みの親、血を分けた姉だ。激情を必死に抑え、千颯は最後通牒を言い渡す。
「もう一度だけ言う。我が番い、弟姫をここへ呼べ」
「ですから」
「ならばもう用はない」
意に沿わない言葉を返そうとした邸の主人に最後まで言わせず、千颯は右腕で空を薙いだ。金の瞳が炯々と輝き、背に漆黒の隻翼が広がる。腕の軌跡は疾風を起こし、寝殿や東対、中門へと襲い掛かった。
「なんっ……うわあぁっ」
「きゃあああっ!」
「ひいぃぃっっ」
目の前の二人のみならず、邸内のあちこちから悲鳴が上がる。千颯が生んだ突風は、猛る感情そのままに八千種第で暴れ回った。御簾が引き千切られ、文机や几帳が宙を舞い、池の水が氾濫する。刃に乗せれば天狗の首すら一太刀で斬り伏せる神風だ、人の造営した建物などひとたまりもない。
千颯が再度腕を動かし、荒れ狂う暴風が止むと、寝殿の南は惨憺たる有り様だった。屋根が崩れて廂や簀子縁を押し潰し、折れた柱が横倒しに転がっている。釣灯籠や灯台の火が掻き消えたのは不幸中の幸いだろう。春宵の庭でも橋が落ち、いつか弟姫と愛でた藤や盛りの桜も根こそぎ裂けていた。
その姿に千颯は僅かばかり心を痛める。十年前、彼女を見初めたときも、この桜が咲いていた。
それまで、千颯は番いにあまり興味がなかった。一人でも飛べるよう鍛錬を積むことのほうに意欲的で、白縫の足も借りつつ、鳥形に変じ山を離れ、京にも度々羽を運んだ。
だが陽炎の春、この邸で番いを見つけた。
むしろ番いがいたからこそ、繰り返し京まで飛んでいたのかもしれない。一目で解った、抗いようもなく引き寄せられる宿命の女。
すぐさま隠形の結界を施し、彼女の存在を悟られないよう、千颯も京には近づかなくなった。……弟姫の置かれた環境を思えばそれも失策だったが、会えない分想いは募った。
そうして十年。ついに待ち焦がれた夜が来た。
烏帽子を失くし半端に髻の解けた髪を適当に括り直すと、千颯は邸の奥へと向かうべく沓を踏み出した。行き先はいつもひとつしかない。
「っ若君、どちらへ」
「お待ちくだされ」
もう用はないと告げたにも関わらず、色々襲の女と邸の主人は、崩れた床板を踏み越えて追って来ようとする。背に羽を広げた千颯はもう一度吹き飛ばそうかと振り向きかけたが、袖を揺らす前に思い直した。今は、何より番いとの約束が優先だ。
神風の影響を受けなかった東北対には、御簾と静寂が下りていた。千颯は頬を緩め、妹背の姫の名を呼ばう。
「あかね姫」
応える声こそなかったが、御簾がざらりと揺れ、薄紅の袿と濃紅の単を重ねた弟姫が張袴を引いて姿を現した。
邂逅から十年、求婚から三年。妻問いを重ねるごとに心惹かれた、唯一無二の番い。千颯の片羽。
彼女もまた微笑みを湛えており、見蕩れるように千颯は笑みを深める。
「約束どおり、君を攫いに来た」
「お待ち申しておりました、千颯様」
潤んだ瞳、澄んだ声で応じた弟姫は、顔の左を覆っていた白布をするりと解く。
その下から現れた、自分の右目と同じ左目に、千颯は眩しく金の瞳を細めた。