赤ら引く朝朗け、茜子は夢の旅装そのままの姿で目を覚ました。
「……?」
 寝ぼけて着替えたのだろうか。しかし夢うつつの状態でできる芸当ではない。
 考え込む間はなかった。蔀を上げた簀子縁から、御簾を引き千切る勢いで父の尚方が入ってきたからだ。そして入ってくるなり怒鳴り散らす。
「このうつけが! 邸を抜け出しどこに行っていた!?」
 彼はやや癇性持ちのきらいがあり、虫の居所の悪いときに些細なことで恫喝する声には、昔から梓子さえ萎縮してしまう苛烈さがあった。突然の言いがかりに茜子は目を剥く。
「わたしはどこへも」
「偽りを申すな! 昨夜、この母屋は蛻の殻だったではないか!」
「そんな……!」
 必死の弁明を尚方は一蹴する。取り付く島もない。
 十三夜の歌枕。あれは夢だ。夢のはずだ。……夢のはず、だったのに。
「その顔を人前に出すなと言っただろう、ばけものが! ……まあよい」
 ひとしきり声を荒げ、いくらか気が落ち着いたようだった。尚方は手にしていた長い棒状のものを茜子の前に放り投げる。炭を挟む火箸だ。
「喜べ、おまえの結婚が決まった。――――だからその前に左目を潰せ」
「……!」
 左目を潰せという命令よりも、結婚が決まったという宣告のほうが、無慈悲に茜子を貫いた。
「二度と外へ出ようなどと考えるな。子は親のもの、黙って従え」
 凍りついた茜子を忌まわしげに睨み、尚方は東北対を去った。
 そこから終日(ひねもす)をどう過ごしたのか覚えていない。朝夕の膳も運ばれず、やがて蔀も閉ざされ、茜子はいつしか眠ってしまったらしい。
「あかね姫」
 妻戸を隔てて聞こえる愛しい声に、茜子は目を覚ました。だが精根尽き果てた身を脇息から起こすのがやっとのことで、足に力が入らない。
 僅かに扉一枚、けれど現実の茜子と夢幻の千颯の距離は、それより遥かに遠い。――――はずだった。
 重ねた可惜夜(あたらよ)、いつの間に、夢幻と現実の境はこれほど曖昧になっていたのだろう。
「あかね姫?」
 最初の夜這い以降、茜子の許しを得ずに彼が母屋に入ってくることはなかった。けれど姿を見ず声も聞かずとも異変を感じたのか、掛け金が外れ、千颯が御簾をくぐって来る。
 灯台に鬼火が灯り、幽鬼のような佇まいの茜子の姿を朧ろに浮かび上がらせる。
「どうした、昨日の格好のままではないか」
「……っ、ちはやさ、ま」
 泣き出す寸前の顔でふらふらと立ち上がった茜子は、倒れ込むように千颯の胸に身を預けた。千颯は突然の抱擁に一瞬硬直しながらも、茜子の背を抱き落ち着かせようとする。
「姫」
「……お別れにございます」
 人妻になってしまえば、夢幻であろうと現実であろうと、この逢瀬は許されなくなるだろう。血を吐くような心地で茜子は絞り出した。途端に回された腕が強張る。
「どういうことだ」
 千颯は茜子の両肩を掴んで引き剥がし、険しさを宿した瞳で見据えた。剣呑な金色を悲しく見つめ返し、涙と共に茜子は白状する。
「大殿様が……父が仰ったの。わたしに婿を取る、その前に左目を潰せと」
「なんだと!?」
 ばけもののままでは人の婿など迎えられない。だから、その目を隠すのではなく潰せと。家長の命令は絶対だ。茜子に抗う術はない。
 千颯は怒りを爆発させ、今度は両腕できつく茜子を抱き締めた。決して逃がさない、離さないと言うように。
「……最初から、人真似の妻問いなどせず、天狗らしく神隠しと称して攫ってしまえばよかった」
 千颯の悔いる声に、茜子は首を振る。
「ううん、あなたが誠意と敬意を持って通い続けてくれたから、わたしは顔も名も心も許したのよ」
 あとは肌だけ、とは、さすがに茜子からは言えないけれど。
 茜子のすべてを捧げられるのは千颯だけだ。ほかの夫などいらない。
「あかね姫は俺のものだ。誰にも渡さない」
「……わたしは、やっぱり『所有物(もの)』なの?」
 千颯の言葉に、今朝の尚方の言葉が甦り、茜子の心が揺らいだ。その揺らぎを見透かしたか、今度は千颯が緩く首を振り、真摯に茜子の右目を覗き込む。
「だが俺も姫のものだ。俺たちは二人でひとつなのだから」
 一点の曇りもない眼差しに、茜子は、ずっと忘れられなかった恋歌の上の句を詠う。
「……『ちはやぶる かみのもたせる わがいのち』」
「『こころもすべて きみがためこそ』……俺が姫に初めて贈った歌だ」
 千颯が照れくさそうに笑う。
 もしも初めから、「当岐大社の若君」が、大社の「宮司の」若君ではなく、大社の「祭神の」若君だったとしたら。
 恋歌や屏風や、思い当たる節は様々あれども、何が夢幻で何が現実なのか判らない。
 それでも、京で生まれ育った茜子には京での暮らしこそが現実。ならば。
「わたしを攫ってよ。この現実から」
「――――吾が妻の望むままに」
 こつんと額と額が重なり、鼻先と鼻先が触れる。
「今夜一晩だけ待ってくれ。明日の夜、正面から姫を奪いに来る」
「待ってる。待っているから、必ず来て」
 互いの頬に指で触れ、切なく見つめ合う。それで名残惜しくも玉響の逢瀬は終わり、茜子はようやく旅装を解いて床に就いた。
 そして陽が昇り、朝餉よりも先に、今度は梓子が足取り軽く東北対にやって来た。ばけものの左目を覆う布に目を留め、白々しさ満載で言う。
「おめでとう、縁談が決まったんですってね。でも三日は血の穢れを持ち込まないでちょうだい。せっかくの慶事が台無しだもの」
「と仰いますと」
 梓子は晴れやかな顔で高らかに告げた。
「大社からお父様に文が届いたわ。――――今宵、妻を娶りに邸を訪うと」