江戸総攻めの中止が決まったことは、龍三の瓦版で江戸市中の人々にも広まっていた。早速龍三は、街の一角で瓦版を持ちながら、声高らかに読み上げていき、町人たちが群がっていた。
「江戸市中を騒がせた薩長軍による江戸城総攻めは中止と決まった。何と薩長軍の心を動かしたのは、軍艦奉行の勝様と、大奥のおなごたち。事の顛末を知りたきゃ、さあ買った買った。今なら三文だよッ」
町人たちは、次々と瓦版を買っていった。
呉服問屋『富橋屋』の店でおあつや喜八、五助、その他手代や女中たちがいつものように働いていると、権太夫が息を切らしながら駆け込んできた。手には、龍三から買った瓦版を強く握りしめていた。
「建右衛門さん、いるかねッ……」
おあつは驚いたように権太夫のもとに駆け寄ると、
「和泉屋の大旦那、どうなさったんですか?」
と、奥に向かって、
「あなたッ、あなたッ……」
おあつの声を聞き、奥から建右衛門が入ってきた。
「どうしたんだよ」
建右衛門は権太夫に気づき、
「おや、和泉屋の大旦那、いらしてたんですか」
「これを見ておくれ」
建右衛門は権太夫から瓦版を受け取ると、読み始める。
「五助、和泉屋さんにお水を」
「へい」
おあつに言われ、五助はそのまま走って奥へ行った。
「江戸城総攻めが、中止ッ……?」
建右衛門は思わず瓦版を見ながら声を荒げた。
「え……?」
喜八は唖然と振り向いた。
「中止ってことは、おうめは助かるということですね」
おあつは安堵の笑みを浮かべた。
「薩長軍の出した条件に、城を明け渡すと書いてある」
淡々と建右衛門が瓦版を見ながら言うと、喜八は嬉しそうに、
「では、お嬢さんは戻ってくるということですか」
「そういうことになるね。でも、城を明け渡すとなると、大奥勤めしてる他の人たちは、一体どうなるんだろうね……」
「おうめも、帰ってくるとは限らんぞ」
一言建右衛門がそう呟くと、先ほどの笑顔から打って変わって、おあつは難しい顔になった。
同じ頃、江戸城大奥の大広間では、染嶋、仲野、梅原、幾島、ませ、藤野、藤子、常盤、鶴岡を始め、大奥女中一同が揃っていた。一人瀧山が起立し、一同に向かって話をしていた。
「皆に申し渡す。江戸城総攻めは、中止となった。されど、薩長軍による総攻め中止の条件として、この城を明け渡すこととあいなった。これまで、この大奥に仕えてくれたこと、瀧山、心より礼を申し上げる」
城明け渡しという報告を聞き、事情を知らなかった女中たちがざわつき始めた。
「静まれよ。瀧山様のお話は、まだ終わっておらぬ」
幾島の響き渡る一言で、女中たちの会話はピタッと止まった。
瀧山は更に話を続け、
「大奥はまもなく無くなる。この中には、帰る郷や身寄りのない者もおるであろう。大奥を出ていった先のことは、最後の一人に至るまで、この瀧山が責任をもって取り計らう。これよりは、御目見え以上も、御目見え以下もない、遠慮なく申すが良い」
女中一同は、黙って平伏した。
「城を明け渡す?」
自身の部屋で、本寿院は法好院から城明け渡しの旨を聞かされた。
「はい……」
本寿院は、苛立ちながら煙管の用意を始めた。
「江戸城総攻撃中止の条件として、城を明け渡すようにと……」
「薩長の田舎侍が、そんな条件を出したというのか。我らを城から追い出すという、惨い条件を」
本寿院は煙草を吸いながら不服そうな顔でそう言った。
「はい……」
「勝は、そんな条件を飲んだのか」
「総攻めで数多の命を奪われることを思えば……」
「じゃが、城を追い出されては、我らに犬死にしろと言うてるも同然ではないか」
「我らのことは、今瀧山様が……」
「この大奥も、おしまいか……」
本寿院は、溜息をつきながら煙管をふかし続けた。いつもより濃い煙に、法好院はむせていた。
長局の一室で常盤が写経をしていると、鶴岡がやってきた。
「よろしいか?」
「鶴岡様」
「写経にございますか」
「ええ。心を落ち着かせようと思い。私に、何ぞご用で?」
すると鶴岡は突然、三つ指を立てて、
「常盤殿に、どうしても頼みがあるのです。密偵の弥平次に、至急調べて頂きたいことがあり、取り次いでほしいのです」
常盤はただ唖然としていた。
夜になり、瀧山は自身の部屋で、いくつもの書状や資料を見ながら書き物をしていた。
その日から瀧山は、身寄りのない女中たちのために、奉公先や縁談の取り計らいを行い始めた。また、軍艦奉行の勝と話し合いながら、天璋院、静寛院、本寿院、実成院の預け先を決めることとなった。
二十日程が経ち、宿下がりや奉公先の決まった女中たちが、次々と名残惜しくも大奥を去っていった。僅かな女中たちしか残らなくなった大奥の活気は、少しずつ無くなっていったのである。
平川門には、荷物を背負った女中たちぞろぞろと去っていく光景があった。
本寿院はなおも城明け渡しに対して不服であり、天璋院が説得のために訪れていた。法好院も幾島も傍らに控えていた。
「母上様。何故そのようなことを仰せられまする。城の明け渡しは、決まったことなのでございますよ」
「我らを城から追い出すなど、そなたの郷の者は、相変わらず職人技のように卑怯なことを企てる」
「……」
「何とも思わぬのか。薩摩は、そなたを捨てたのじゃぞ」
「本寿院様……」
幾島は慌ててたしなめた。しかし本寿院は続けて、
「そうであろう。この江戸城に、天璋院殿が住んでいることを分かっておきながら、総攻撃を仕掛け、いざ中止を決めたと思えば、今度は城から出て行けと。見殺しにしても何とも思わぬ、血も涙もない鬼の集まりではないか」
「母上様。私は、もはや薩摩の人間ではございませぬ。家定公の元に嫁いだ時より、私は徳川の人間として生きる道を選びました」
法好院も続けて説得するように、
「本寿院様。幾島殿よりお聞きしたのですが、天璋院様が薩長軍の陣頭指揮を執る薩摩藩士宛てにしたためた書状、相手は涙したそうでございますよ。天璋院様の書状が、心を動かしたのでございます」
「薩摩の者がしたことじゃ。同じ郷の天璋院殿が尽力するのは当然のことじゃ。何も崇めたり、褒め称える必要などあるまい」
「……」
「私のことは、何と言われようが構いませぬ。城を明け渡すことになろうとも、私は何も暮らす居所が大奥ではなくても良いと思うております。城を出るということは、もはや徳川将軍家が無くなることと同じこと。されど、この命ある限りは、徳川の人間として生きることに変わりはございませぬ。大奥や城にこだわらずとも良いではございませぬか。形あるものは、いずれ無くなるのです」
「……」
「私と共に、新たな所で、また徳川の人間として生きるのも良いではございませぬか」
本寿院は諦めたように溜息をつき、天璋院はやり切れないように姑の悲観的な顔を見つめていた。
長局の一室では、鶴岡と常盤が菓子を食べながら束の間の静かな一時を過ごしてた。
「常盤殿、一つ伺うてもよろしいですか?」
「はい?」
「弥平次とは、どのような仲なのです」
「私と弥平次は、幼き頃より姉弟のように、伊賀国で育ちました」
「伊賀……もしや」
常盤は頷きながら、
「ええ。私も弥平次も、元は忍びの家柄なのでございます。時の流れで、伊賀の忍びは消えましたが、それでも忍びの血を引く者故、私が大奥に上がり、表使の役職をお預かりするようになってから、弥平次を密偵として使うておりました」
「左様でございましたか」
そこへ、天井から、
「弥平次にございます」
と、声がした。
「何とした?」
常盤が天井を見上げて尋ねると、天井の隅の一角が開き、弥平次が顔を出した。
「鶴岡様に頼まれていた旨、委細はこれに」
弥平次が懐から取り出した紙を、鶴岡は手を伸ばして受け取り、読み始めた。
「そうであったか……」
鶴岡は安堵の笑みを浮かべて、紙を見つめていた。
数日が経ち、正吉の家に建右衛門が来訪した。
「ごめんください」
その声を聞きつけ、玄関にやってきたのはおはるだった。
「正吉さん、いるかね?」
おゆうでは対応できなかったため、奥に向かって、
「おばさんッ」
と、声をかけると、
「はーい」
と、声が聞こえておさとが出てきた。
おさとは建右衛門を見ると、驚いたように、
「あら。富橋屋の旦那。どうなさったんです?」
「正吉さんに用があって来たんだけど」
「もう帰ってくると思いますよ。よろしければ、中でお待ちになって」
「ああ、それはありがたい」
「さあ、どうぞ」
案内されて、一室で建右衛門が待っていると、おさとがお茶を運んできた。
「少しお待ちいただいて」
「かたじけない。そういえば、さっきの女の子は?」
「うちの人の見習いをやってる長兵衛さんって人がいるんですけど、その娘なんです。長兵衛さん、女房と別れちまったんですよ。父一人子一人だったところを、うちの人が見かねて。それで働きに出てる間は、私が親代わりとして面倒見てるんですよ」
「そうでしたか」
すると、玄関から正吉の声が聞こえてきた。
「けえったよッ」
「うちの人戻ってきました。すぐ呼んできますね」
おさとは、夫を呼びに行くために出ていった。
建右衛門が少し待っていると、正吉が入ってきた。
「建右衛門さん」
「正吉さん、しばらくだったね」
「何かご用で?」
「先立って、両替処の和泉屋さんが打ち壊しにあったでしょ」
「ああ。ありゃ、酷え話だった」
「それでも和泉屋さんは、また店を立て直すおつもりらしくて、その修繕を、ぜひ正吉さんに頼めないかと思って」
正吉は恐縮するように、
「俺なんかで、よろしいんですかい。和泉屋さんといえば、江戸で一番の両替処でやんすよ」
「正吉さんの腕を見込んで頼んでるんですよ。お願いできませんか」
正吉は少し考えると、微笑んでポンと胸を叩き、
「分かりやした。江戸っ子大工の正吉、この腕で、和泉屋さんの立て直し、させていただきます」
「ありがとう。よろしく頼みますよ」
「へいッ」
翌日、江戸城大奥の長局の一室では鶴岡が荷物をまとめていた。女中たちの大半が去っていき、物静かになった辺りを、寂しい顔で見回した。
そのまま鶴岡は、瀧山のもとを訪れた。
「失礼致します」
瀧山、染嶋、仲野、梅原が迎え入れた。
「そうか。今日であったか」
普段のきらびやかな打掛ではなく、質素な木綿の小袖を着ている鶴岡の姿を見て、瀧山はしんみりと呟いた。
「大奥御客応答という役を仰せつかったこと、光栄に存じます」
鶴岡は三つ指を立てて、頭を下げた。
「どうか、息災でな」
「はい。大奥での日々、鶴岡、終生忘れることはございませぬ。瀧山様のもとでお仕えできたこと、生涯の宝と致します」
「そなたが御客応答で良かった……。これまで、よく仕えてくれた」
「有難きお言葉に存じます」
すると瀧山は思い出したように、
「おお、そうであった。昨日大奥を去っていった常盤から、そなたに伝えてほしいと言われておったことがあってな」
「何でございましょうか」
「最後に、鶴岡様のお役に立てて良かった、そう伝えてほしいと」
「私も、常盤殿には感謝しております」
「何ぞあったのか?」
「ええ、まあ」
鶴岡は笑ったごまかした。
「行く当てはあるのか?」
「はい」
「そなたのことは忘れぬ」
「私もでございます」
しばらく、瀧山と鶴岡はお互いを見つめった。
「これにて、永のお暇を頂戴いたします」
鶴岡は三つ指を立てて深々と頭を下げると、名残惜しそうに去っていった。その後ろ姿を瀧山は見つめていた。
「鶴岡も去り、常盤も密偵と共に故郷の伊賀へ帰り、残すは……。梅原、そなたか……」
瀧山は梅原を見て、しんみりと言った。
「私は、最後まで瀧山様のお側に……」
「何を言う。そなたには、継がねばならぬ店があるではないか。父上も母上も、そなたを待っておる」
「そうじゃぞ、梅原。後のことは、私と仲野に任せるのじゃ」
「……」
「梅原殿」
染嶋と仲野にそう言われたものの、梅原は寂しい顔をしていた。
権太夫の元を訪れるため、正吉はこの日、一枚しかない上等な紋付に身を包んで出かけようとしていた。玄関には、おさと、長兵衛、おはるが見送りに来ていた。
「やっぱり紋付より、いつものほうが良いんじゃねえのか」
不安そうに正吉が言ったが、おさとは呆れるように、
「何言ってるんだよ。相手は、江戸一番の両替処だよ。上等な着物で挨拶に行かなくてどうするんだよ。私まで笑われることになるんだから」
「けどよ……」
「親方、慣れないかもしれませんが、今日はこれで辛抱していただいて」
苦笑して長兵衛が言うと、正吉は不機嫌そうに、
「他人事だと思いやがって、おめえは」
そんなやり取りをしていた一同の元を、鶴岡が通りかかった。長兵衛は、鶴岡に気づき、長くじっと見つめ合った。
「おみね……」
長兵衛は呆然となったが、その名前を呟いた。
「旦那様……」
鶴岡は、思わず駆け寄った。おはる、正吉、おさとは、不思議そうに見ていた。
「江戸城を明け渡すことになって、大奥を出ることになったのです。それで、密偵に調べてもらったら、旦那様がこちらで大工の見習いをしているって……ここに来たら、会えると思って」
「大奥に奉公すると言って姿消してから、なしのつぶてだったからな。薩長軍が江戸を攻めるって聞いた時、そなたがどうしてるかと思って、気が気ではなかった……」 「大奥に上がった時から、旦那様はおはるのことは忘れようと思って……生まれ変わったつもりで、大奥で勤めておりました」
鶴岡は、かつての夫の隣で立つおはるに目をやった。
長兵衛はその視線に気づくと、元妻に対して、
「大きくなっただろ、おはるだ」
娘の名前を聞き、鶴岡は感極まって泣き始めった。
長兵衛は、おはるに視線を合わせるようにしゃがみこむと、
「お前のおっかさんだよ」
「私の……おっかさん」
おはるは不思議そうに鶴岡を見つめた。
「おはる……。こんなに大きくなって」
鶴岡は成長した娘を強く抱きしめた。
「長兵衛。良かったじゃねえか、女房が戻ってきてくれて」
「大奥に奉公してるなんて、私、ちっとも知らなかったよ」
「仕官の当てがなく、毎日酒に溺れておりました。そんな私に愛想を尽かして、おみねは大奥に上がったんです」
「そうだったのかい……」
おさとは、それ以上は何も聞かなかった。
「あの時は、自分一人生きることに精一杯で……。まだ乳飲み子だったおはるを捨てることも、どれだけ辛かったか……」
「けどこれで、また家族三人一緒になれるってわけだ」
「そうだね、お前さん」
長兵衛は改まったように、妻に向かって、
「もう、侍には戻らない。これからは、大工長兵衛として生きていく。それでも良いか?」
「旦那様とおはると一緒なら、どんなところでもついていきます」
「おみね……」
鶴岡は笑顔で頷いた。
「あ、いけねえッ。和泉屋さん」
「そうだった」
「じゃ、行ってくるぞッ」
正吉は慣れない紋付姿のまま、駆け出して行った。見送るおさと、長兵衛、おはる、鶴岡だったが、おはるを真ん中に、長兵衛、鶴岡の三人は手を繋いでいた。
藤野の介添えを受けながら、実成院は自室に用意された駕籠の中へ入っていた。
「とうとう、大奥ともお別れか」
「左様でございますな……」
「まいるかの」
「はい」
そこへ、瀧山が入ってきた。
「瀧山……」
「実成院様、どうかお元気で……」
瀧山は三つ指を立てて、そう言った。
「そなたも、これまで大儀であったな」
「実成院様のこと、何卒よしなに」
「はい」
瀧山に言われ、藤野は大きく頷くと、駕籠の扉を閉めた。
女中たちが実成院の乗った駕籠を抱え、藤野が一行の先頭に立つと、足を進めていった。残った数少ないお付き女中たちや、実成院を乗せた駕籠が続くように去っていく。瀧山は、深々と平伏して見送った。
「次は、静寛院様じゃな……」
瀧山は、その足で静寛院のもとへ向かった。
こちらでも駕籠の支度がされ、藤子に介添えされながら、静寛院が中に入ろうとしていた。丁度そんなときに、瀧山がやってきた。静寛院は、瀧山の側に駆け寄り、
「瀧山、ありがとう」
と、頭を下げた。
「静寛院様……」
「そなたのおかげで、戦を止めることができた」
「何を仰せられまする。朝廷と交渉ができたのは、静寛院様が帝の妹君であられたからこそでございます」
瀧山は恐縮するように言うと、藤子に対しても、
「土御門殿にも京まで上洛いただいて……。静寛院様お輿入れの際、公家の者たちを蔑ろにしたことが情けなく思います」
「いえ……。私はただ、宮さんのためにしたまでのことでごじゃります」
「私は、家茂さんが好きやった。せやから、徳川の嫁として生きることができたんや。藤子も、ずっと私の側にいてくれて」
「将軍家も無くなります。これからは、どうかご自身のために、お幸せに暮らしてくださいませ」
「せやな……」
「……」
静寛院は、瀧山の手を取ると、
「達者でな……」
「静寛院様も……」
静寛院は笑顔で頷くと駕籠の中へ入っていき、藤子は駕籠を閉めると瀧山に一礼した。藤子を先頭に、静寛院を乗せた駕籠の一行が去っていった。瀧山は深々と平伏して見送った。
四月九日。静寛院と実成院は、御三卿の一つである清水家の屋敷に移り住んだ。実成院はいくつかの屋敷を転々とした後、千駄ヶ谷邸へ転居。明治三十七年、八十四歳で亡くなるまでの二十七年間をここで過ごしたと言われている。静寛院は、明治二年に一旦は京へ戻ったものの、五年後には東京と改めた江戸へ再び戻った。そして明治十年、夫・家茂と同じ脚気衝心の発作で三十二歳の生涯を閉じたのである。
「江戸市中を騒がせた薩長軍による江戸城総攻めは中止と決まった。何と薩長軍の心を動かしたのは、軍艦奉行の勝様と、大奥のおなごたち。事の顛末を知りたきゃ、さあ買った買った。今なら三文だよッ」
町人たちは、次々と瓦版を買っていった。
呉服問屋『富橋屋』の店でおあつや喜八、五助、その他手代や女中たちがいつものように働いていると、権太夫が息を切らしながら駆け込んできた。手には、龍三から買った瓦版を強く握りしめていた。
「建右衛門さん、いるかねッ……」
おあつは驚いたように権太夫のもとに駆け寄ると、
「和泉屋の大旦那、どうなさったんですか?」
と、奥に向かって、
「あなたッ、あなたッ……」
おあつの声を聞き、奥から建右衛門が入ってきた。
「どうしたんだよ」
建右衛門は権太夫に気づき、
「おや、和泉屋の大旦那、いらしてたんですか」
「これを見ておくれ」
建右衛門は権太夫から瓦版を受け取ると、読み始める。
「五助、和泉屋さんにお水を」
「へい」
おあつに言われ、五助はそのまま走って奥へ行った。
「江戸城総攻めが、中止ッ……?」
建右衛門は思わず瓦版を見ながら声を荒げた。
「え……?」
喜八は唖然と振り向いた。
「中止ってことは、おうめは助かるということですね」
おあつは安堵の笑みを浮かべた。
「薩長軍の出した条件に、城を明け渡すと書いてある」
淡々と建右衛門が瓦版を見ながら言うと、喜八は嬉しそうに、
「では、お嬢さんは戻ってくるということですか」
「そういうことになるね。でも、城を明け渡すとなると、大奥勤めしてる他の人たちは、一体どうなるんだろうね……」
「おうめも、帰ってくるとは限らんぞ」
一言建右衛門がそう呟くと、先ほどの笑顔から打って変わって、おあつは難しい顔になった。
同じ頃、江戸城大奥の大広間では、染嶋、仲野、梅原、幾島、ませ、藤野、藤子、常盤、鶴岡を始め、大奥女中一同が揃っていた。一人瀧山が起立し、一同に向かって話をしていた。
「皆に申し渡す。江戸城総攻めは、中止となった。されど、薩長軍による総攻め中止の条件として、この城を明け渡すこととあいなった。これまで、この大奥に仕えてくれたこと、瀧山、心より礼を申し上げる」
城明け渡しという報告を聞き、事情を知らなかった女中たちがざわつき始めた。
「静まれよ。瀧山様のお話は、まだ終わっておらぬ」
幾島の響き渡る一言で、女中たちの会話はピタッと止まった。
瀧山は更に話を続け、
「大奥はまもなく無くなる。この中には、帰る郷や身寄りのない者もおるであろう。大奥を出ていった先のことは、最後の一人に至るまで、この瀧山が責任をもって取り計らう。これよりは、御目見え以上も、御目見え以下もない、遠慮なく申すが良い」
女中一同は、黙って平伏した。
「城を明け渡す?」
自身の部屋で、本寿院は法好院から城明け渡しの旨を聞かされた。
「はい……」
本寿院は、苛立ちながら煙管の用意を始めた。
「江戸城総攻撃中止の条件として、城を明け渡すようにと……」
「薩長の田舎侍が、そんな条件を出したというのか。我らを城から追い出すという、惨い条件を」
本寿院は煙草を吸いながら不服そうな顔でそう言った。
「はい……」
「勝は、そんな条件を飲んだのか」
「総攻めで数多の命を奪われることを思えば……」
「じゃが、城を追い出されては、我らに犬死にしろと言うてるも同然ではないか」
「我らのことは、今瀧山様が……」
「この大奥も、おしまいか……」
本寿院は、溜息をつきながら煙管をふかし続けた。いつもより濃い煙に、法好院はむせていた。
長局の一室で常盤が写経をしていると、鶴岡がやってきた。
「よろしいか?」
「鶴岡様」
「写経にございますか」
「ええ。心を落ち着かせようと思い。私に、何ぞご用で?」
すると鶴岡は突然、三つ指を立てて、
「常盤殿に、どうしても頼みがあるのです。密偵の弥平次に、至急調べて頂きたいことがあり、取り次いでほしいのです」
常盤はただ唖然としていた。
夜になり、瀧山は自身の部屋で、いくつもの書状や資料を見ながら書き物をしていた。
その日から瀧山は、身寄りのない女中たちのために、奉公先や縁談の取り計らいを行い始めた。また、軍艦奉行の勝と話し合いながら、天璋院、静寛院、本寿院、実成院の預け先を決めることとなった。
二十日程が経ち、宿下がりや奉公先の決まった女中たちが、次々と名残惜しくも大奥を去っていった。僅かな女中たちしか残らなくなった大奥の活気は、少しずつ無くなっていったのである。
平川門には、荷物を背負った女中たちぞろぞろと去っていく光景があった。
本寿院はなおも城明け渡しに対して不服であり、天璋院が説得のために訪れていた。法好院も幾島も傍らに控えていた。
「母上様。何故そのようなことを仰せられまする。城の明け渡しは、決まったことなのでございますよ」
「我らを城から追い出すなど、そなたの郷の者は、相変わらず職人技のように卑怯なことを企てる」
「……」
「何とも思わぬのか。薩摩は、そなたを捨てたのじゃぞ」
「本寿院様……」
幾島は慌ててたしなめた。しかし本寿院は続けて、
「そうであろう。この江戸城に、天璋院殿が住んでいることを分かっておきながら、総攻撃を仕掛け、いざ中止を決めたと思えば、今度は城から出て行けと。見殺しにしても何とも思わぬ、血も涙もない鬼の集まりではないか」
「母上様。私は、もはや薩摩の人間ではございませぬ。家定公の元に嫁いだ時より、私は徳川の人間として生きる道を選びました」
法好院も続けて説得するように、
「本寿院様。幾島殿よりお聞きしたのですが、天璋院様が薩長軍の陣頭指揮を執る薩摩藩士宛てにしたためた書状、相手は涙したそうでございますよ。天璋院様の書状が、心を動かしたのでございます」
「薩摩の者がしたことじゃ。同じ郷の天璋院殿が尽力するのは当然のことじゃ。何も崇めたり、褒め称える必要などあるまい」
「……」
「私のことは、何と言われようが構いませぬ。城を明け渡すことになろうとも、私は何も暮らす居所が大奥ではなくても良いと思うております。城を出るということは、もはや徳川将軍家が無くなることと同じこと。されど、この命ある限りは、徳川の人間として生きることに変わりはございませぬ。大奥や城にこだわらずとも良いではございませぬか。形あるものは、いずれ無くなるのです」
「……」
「私と共に、新たな所で、また徳川の人間として生きるのも良いではございませぬか」
本寿院は諦めたように溜息をつき、天璋院はやり切れないように姑の悲観的な顔を見つめていた。
長局の一室では、鶴岡と常盤が菓子を食べながら束の間の静かな一時を過ごしてた。
「常盤殿、一つ伺うてもよろしいですか?」
「はい?」
「弥平次とは、どのような仲なのです」
「私と弥平次は、幼き頃より姉弟のように、伊賀国で育ちました」
「伊賀……もしや」
常盤は頷きながら、
「ええ。私も弥平次も、元は忍びの家柄なのでございます。時の流れで、伊賀の忍びは消えましたが、それでも忍びの血を引く者故、私が大奥に上がり、表使の役職をお預かりするようになってから、弥平次を密偵として使うておりました」
「左様でございましたか」
そこへ、天井から、
「弥平次にございます」
と、声がした。
「何とした?」
常盤が天井を見上げて尋ねると、天井の隅の一角が開き、弥平次が顔を出した。
「鶴岡様に頼まれていた旨、委細はこれに」
弥平次が懐から取り出した紙を、鶴岡は手を伸ばして受け取り、読み始めた。
「そうであったか……」
鶴岡は安堵の笑みを浮かべて、紙を見つめていた。
数日が経ち、正吉の家に建右衛門が来訪した。
「ごめんください」
その声を聞きつけ、玄関にやってきたのはおはるだった。
「正吉さん、いるかね?」
おゆうでは対応できなかったため、奥に向かって、
「おばさんッ」
と、声をかけると、
「はーい」
と、声が聞こえておさとが出てきた。
おさとは建右衛門を見ると、驚いたように、
「あら。富橋屋の旦那。どうなさったんです?」
「正吉さんに用があって来たんだけど」
「もう帰ってくると思いますよ。よろしければ、中でお待ちになって」
「ああ、それはありがたい」
「さあ、どうぞ」
案内されて、一室で建右衛門が待っていると、おさとがお茶を運んできた。
「少しお待ちいただいて」
「かたじけない。そういえば、さっきの女の子は?」
「うちの人の見習いをやってる長兵衛さんって人がいるんですけど、その娘なんです。長兵衛さん、女房と別れちまったんですよ。父一人子一人だったところを、うちの人が見かねて。それで働きに出てる間は、私が親代わりとして面倒見てるんですよ」
「そうでしたか」
すると、玄関から正吉の声が聞こえてきた。
「けえったよッ」
「うちの人戻ってきました。すぐ呼んできますね」
おさとは、夫を呼びに行くために出ていった。
建右衛門が少し待っていると、正吉が入ってきた。
「建右衛門さん」
「正吉さん、しばらくだったね」
「何かご用で?」
「先立って、両替処の和泉屋さんが打ち壊しにあったでしょ」
「ああ。ありゃ、酷え話だった」
「それでも和泉屋さんは、また店を立て直すおつもりらしくて、その修繕を、ぜひ正吉さんに頼めないかと思って」
正吉は恐縮するように、
「俺なんかで、よろしいんですかい。和泉屋さんといえば、江戸で一番の両替処でやんすよ」
「正吉さんの腕を見込んで頼んでるんですよ。お願いできませんか」
正吉は少し考えると、微笑んでポンと胸を叩き、
「分かりやした。江戸っ子大工の正吉、この腕で、和泉屋さんの立て直し、させていただきます」
「ありがとう。よろしく頼みますよ」
「へいッ」
翌日、江戸城大奥の長局の一室では鶴岡が荷物をまとめていた。女中たちの大半が去っていき、物静かになった辺りを、寂しい顔で見回した。
そのまま鶴岡は、瀧山のもとを訪れた。
「失礼致します」
瀧山、染嶋、仲野、梅原が迎え入れた。
「そうか。今日であったか」
普段のきらびやかな打掛ではなく、質素な木綿の小袖を着ている鶴岡の姿を見て、瀧山はしんみりと呟いた。
「大奥御客応答という役を仰せつかったこと、光栄に存じます」
鶴岡は三つ指を立てて、頭を下げた。
「どうか、息災でな」
「はい。大奥での日々、鶴岡、終生忘れることはございませぬ。瀧山様のもとでお仕えできたこと、生涯の宝と致します」
「そなたが御客応答で良かった……。これまで、よく仕えてくれた」
「有難きお言葉に存じます」
すると瀧山は思い出したように、
「おお、そうであった。昨日大奥を去っていった常盤から、そなたに伝えてほしいと言われておったことがあってな」
「何でございましょうか」
「最後に、鶴岡様のお役に立てて良かった、そう伝えてほしいと」
「私も、常盤殿には感謝しております」
「何ぞあったのか?」
「ええ、まあ」
鶴岡は笑ったごまかした。
「行く当てはあるのか?」
「はい」
「そなたのことは忘れぬ」
「私もでございます」
しばらく、瀧山と鶴岡はお互いを見つめった。
「これにて、永のお暇を頂戴いたします」
鶴岡は三つ指を立てて深々と頭を下げると、名残惜しそうに去っていった。その後ろ姿を瀧山は見つめていた。
「鶴岡も去り、常盤も密偵と共に故郷の伊賀へ帰り、残すは……。梅原、そなたか……」
瀧山は梅原を見て、しんみりと言った。
「私は、最後まで瀧山様のお側に……」
「何を言う。そなたには、継がねばならぬ店があるではないか。父上も母上も、そなたを待っておる」
「そうじゃぞ、梅原。後のことは、私と仲野に任せるのじゃ」
「……」
「梅原殿」
染嶋と仲野にそう言われたものの、梅原は寂しい顔をしていた。
権太夫の元を訪れるため、正吉はこの日、一枚しかない上等な紋付に身を包んで出かけようとしていた。玄関には、おさと、長兵衛、おはるが見送りに来ていた。
「やっぱり紋付より、いつものほうが良いんじゃねえのか」
不安そうに正吉が言ったが、おさとは呆れるように、
「何言ってるんだよ。相手は、江戸一番の両替処だよ。上等な着物で挨拶に行かなくてどうするんだよ。私まで笑われることになるんだから」
「けどよ……」
「親方、慣れないかもしれませんが、今日はこれで辛抱していただいて」
苦笑して長兵衛が言うと、正吉は不機嫌そうに、
「他人事だと思いやがって、おめえは」
そんなやり取りをしていた一同の元を、鶴岡が通りかかった。長兵衛は、鶴岡に気づき、長くじっと見つめ合った。
「おみね……」
長兵衛は呆然となったが、その名前を呟いた。
「旦那様……」
鶴岡は、思わず駆け寄った。おはる、正吉、おさとは、不思議そうに見ていた。
「江戸城を明け渡すことになって、大奥を出ることになったのです。それで、密偵に調べてもらったら、旦那様がこちらで大工の見習いをしているって……ここに来たら、会えると思って」
「大奥に奉公すると言って姿消してから、なしのつぶてだったからな。薩長軍が江戸を攻めるって聞いた時、そなたがどうしてるかと思って、気が気ではなかった……」 「大奥に上がった時から、旦那様はおはるのことは忘れようと思って……生まれ変わったつもりで、大奥で勤めておりました」
鶴岡は、かつての夫の隣で立つおはるに目をやった。
長兵衛はその視線に気づくと、元妻に対して、
「大きくなっただろ、おはるだ」
娘の名前を聞き、鶴岡は感極まって泣き始めった。
長兵衛は、おはるに視線を合わせるようにしゃがみこむと、
「お前のおっかさんだよ」
「私の……おっかさん」
おはるは不思議そうに鶴岡を見つめた。
「おはる……。こんなに大きくなって」
鶴岡は成長した娘を強く抱きしめた。
「長兵衛。良かったじゃねえか、女房が戻ってきてくれて」
「大奥に奉公してるなんて、私、ちっとも知らなかったよ」
「仕官の当てがなく、毎日酒に溺れておりました。そんな私に愛想を尽かして、おみねは大奥に上がったんです」
「そうだったのかい……」
おさとは、それ以上は何も聞かなかった。
「あの時は、自分一人生きることに精一杯で……。まだ乳飲み子だったおはるを捨てることも、どれだけ辛かったか……」
「けどこれで、また家族三人一緒になれるってわけだ」
「そうだね、お前さん」
長兵衛は改まったように、妻に向かって、
「もう、侍には戻らない。これからは、大工長兵衛として生きていく。それでも良いか?」
「旦那様とおはると一緒なら、どんなところでもついていきます」
「おみね……」
鶴岡は笑顔で頷いた。
「あ、いけねえッ。和泉屋さん」
「そうだった」
「じゃ、行ってくるぞッ」
正吉は慣れない紋付姿のまま、駆け出して行った。見送るおさと、長兵衛、おはる、鶴岡だったが、おはるを真ん中に、長兵衛、鶴岡の三人は手を繋いでいた。
藤野の介添えを受けながら、実成院は自室に用意された駕籠の中へ入っていた。
「とうとう、大奥ともお別れか」
「左様でございますな……」
「まいるかの」
「はい」
そこへ、瀧山が入ってきた。
「瀧山……」
「実成院様、どうかお元気で……」
瀧山は三つ指を立てて、そう言った。
「そなたも、これまで大儀であったな」
「実成院様のこと、何卒よしなに」
「はい」
瀧山に言われ、藤野は大きく頷くと、駕籠の扉を閉めた。
女中たちが実成院の乗った駕籠を抱え、藤野が一行の先頭に立つと、足を進めていった。残った数少ないお付き女中たちや、実成院を乗せた駕籠が続くように去っていく。瀧山は、深々と平伏して見送った。
「次は、静寛院様じゃな……」
瀧山は、その足で静寛院のもとへ向かった。
こちらでも駕籠の支度がされ、藤子に介添えされながら、静寛院が中に入ろうとしていた。丁度そんなときに、瀧山がやってきた。静寛院は、瀧山の側に駆け寄り、
「瀧山、ありがとう」
と、頭を下げた。
「静寛院様……」
「そなたのおかげで、戦を止めることができた」
「何を仰せられまする。朝廷と交渉ができたのは、静寛院様が帝の妹君であられたからこそでございます」
瀧山は恐縮するように言うと、藤子に対しても、
「土御門殿にも京まで上洛いただいて……。静寛院様お輿入れの際、公家の者たちを蔑ろにしたことが情けなく思います」
「いえ……。私はただ、宮さんのためにしたまでのことでごじゃります」
「私は、家茂さんが好きやった。せやから、徳川の嫁として生きることができたんや。藤子も、ずっと私の側にいてくれて」
「将軍家も無くなります。これからは、どうかご自身のために、お幸せに暮らしてくださいませ」
「せやな……」
「……」
静寛院は、瀧山の手を取ると、
「達者でな……」
「静寛院様も……」
静寛院は笑顔で頷くと駕籠の中へ入っていき、藤子は駕籠を閉めると瀧山に一礼した。藤子を先頭に、静寛院を乗せた駕籠の一行が去っていった。瀧山は深々と平伏して見送った。
四月九日。静寛院と実成院は、御三卿の一つである清水家の屋敷に移り住んだ。実成院はいくつかの屋敷を転々とした後、千駄ヶ谷邸へ転居。明治三十七年、八十四歳で亡くなるまでの二十七年間をここで過ごしたと言われている。静寛院は、明治二年に一旦は京へ戻ったものの、五年後には東京と改めた江戸へ再び戻った。そして明治十年、夫・家茂と同じ脚気衝心の発作で三十二歳の生涯を閉じたのである。