「桐壺更衣さま」
そう呼ばれた瞬間に、「私」の記憶を思い出した! バチっと電気が走ったというのだろうか。「前世の記憶」が頭の中に流れ込んできた。そうだ! わたくしは令和に生きる女子大生だったのだ。やっぱり平安時代の人間ではなかったのだ。
「桐壺更衣さま!? いかがなさいましたか? もしやお加減が優れないのでは?」
わたくしに呼びかけた女房(※侍女のこと)が慌てたような様子を見せる。彼女につられたように、他の女房たちにもざわめきが広がる。いけない。衝撃のあまり、つい返事をしそこねていた。
「ごめんなさい……。私……いえ、わたくし、少し考え事をしていて……。少しぼんやりとしていただけなの」
ああ! なんということだろう! 自分の声のはずなのに、前世を思い出したら違和感しかない。たおやかというのだろうか、しっとりと落ち着いた声が出た。ただ、私の声は、どこかかぼそくもあって、頼りなげな感じもする。今の私は、少し病気がちなところがあるのだった。
「そうですよね。せっかく入内なさったというのに……吉日が続かないばかりに帝にお会いできないのですもの……。張り合いがございませんわよね」
私の返答をどう解釈したのだろうか。女房は私をいたわるような、どこか同情するような視線を投げてよこした。周囲の女房たちも「規則とはいえあんまりですわ」「旧弊なこと」などと言って、ひそひそと会話をしている。こんなときの常として、私は曖昧にほほ笑んでおいた。
「それで? どうしたの?」
「二条の母君さまからのお便りです。姫さまのことを……いえ、更衣さまのことを気にされているようで、更衣さまが早く帝にお目にかかれることを、いつもお祈りされているとのことでした」
「そう。じゃあ、お母さまに元気で過ごしていることをきちんと手紙で伝えておくようにするわ。手紙を書きたいから、少しそっとしておいてくれる? あなたたちも休んでいていいわ」
私は女房から手紙を受け取った。それから、周囲の視線から隠れたくて、「一人にしてほしい」ということを女房にお願いする。女房は、私の気持ちを察して、そっと私から見えない場所へと移動していってくれた。私は、彼女たちを笑顔で見送ってから、頭を抱えた。
(生まれ変わるにしてもどうして平安時代なんだよ!!)
違和感自体は、ずっと昔からあった。「自分はここの世界の人間ではない」「自分には帰らないといけない場所がある」という思いが心の奥にずっとあったのだ。
あれはいつだったか……そうだ、7年前の9歳のときのことだ。「かぐや姫の物語」という絵巻を女房たちに読んでもらったときに、とても切ない思いになったのだ。
かぐや姫が月に帰ってしまったことが悲しかったのではない。「かぐや姫の物語」の作者に共感してしまったのだ。「月に都があって、その都のお姫さまが人間の世界で生きている話」なんて……この世界に「疎外感」を感じていないとそんな話は作れない。
この物語の作者は、自分が違和感なく溶け込める世界からの迎えをずっと待っているのではないか。そんなふうに思えて、悲しくなったのだ。
(でも、よかった。自分の違和感の正体に気が付けて)
私は月の世界の人間ではなかった。未来からやってきた人間だったのだ。いま、私が生きている時代から一千年先で、私は「女子大生」をやっていたのだ。女性なのに大学に通っていたなんて……16年間も平安時代でお姫さまをやっていた今となってはなんだか奇妙な気がする。
それにしても不思議だ。
いったい自分はどうなってしまったのだろうか。たった数分前の自分自身とまったく違う人間になってしまった気がする。平安時代のお姫様として生きてきていた「わたくし」。そして、令和の時代の女子大生として生きていた「私」。そのどちらでもない感じがする。その2つの自我が混在しているような状態にある。「わたくし」の記憶のおかげで、周囲の女房達の言葉もしっかりと理解できるし、この社会の常識というものもわかっている。一方で、一千年先を生きていた「私」の記憶もあって、今の「わたくし」を取り巻く状態がよくはない……差別的で理不尽だと叫んでいる。そんな「私」の感情を、「わたくし」は少し奇妙にも感じてしまっている。自分は「私」でも「わたくし」でもなくなってしまったよう。
(とりあえず、今の自分自身の状態を整理しておこう)
私は文机に向かって、筆を取った。
◎平安時代の「わたくし」
・16歳
・父親は按察使大納言という上の下の貴族。母親は宮家の血を引いている。
・祖父は大臣だった。
・9歳のときに父が「我が家の血を引く天皇が誕生する」という不思議な夢を見た。
・父親の予知夢のせいで、帝のキサキになることが決定する。
・大臣だった祖父の養女になって、高い地位のキサキになる予定だった。
・12歳のときに祖父が死んでしまって養女になる計画は崩れる。
・さらに、15歳のときに父が死んでしまう。
・父が「絶対にこの子をキサキにしろ」と遺言して死んでしまったから、キサキになった。
・後見人がいなくなってしまったから、「更衣」という身分の低いキサキになってしまった。
・「桐壺」と呼ばれる建物に住んでいるから「桐壺更衣」と呼ばれている。
(まぁ、更衣といっても、肉体的には帝のキサキにはなれていないんだけどね)
平安時代の結婚式は、夫婦となる予定の男女が「3日間」一緒に夜を過ごすことで成立する。そして、平安時代は、「縁起」というものを大切にしている。夫婦となるために過ごす「3日間」は、縁起が良い日が3日間続いていないといけない。結婚をすることが決まっていても、縁起の良い日が3日間続く日が直近になければ、結婚式をすることができず、婚約者の状態で数か月間も待っていないといけない。
そして、今のわたくしは「待機」の状態にある。
帝との結婚は決まっている。だから、帝のキサキたちが住む「後宮」に入ってきている。しかし、「今月は結婚をするのには良い月ではない」という陰陽師の占い結果があって、夜を一緒に過ごすという結婚の儀式は、まだしていない。
(早く名実ともに「キサキ」になりたい。後宮に住んでいるだけの状態は嫌!)
そんなふうにわたくしは不満を感じていたのだけれど、私の記憶が流れ込んできた今となっては、「待機中」という状態を長引かせたい気持ちが心を侵食しつつある。
だって、気持ち悪いじゃないか!!
初対面の男性と夫婦になるなんて……。しかも、夫になる男性には、すでに何人もの妻がいるのだ。男の人を複数人の女性でシェアしないといけないなんて。女性をあまりにもバカにしている。
(こんなのは本当に無理だ! 許せない!!)
一夫多妻なんて、男尊女卑な制度だと私は思う。が、仕方がない。
もしも、前世の記憶を思い出すのがもう少し早かったのならば、キサキになるのを避けるための行動を取ることができていただろう。男装をして逃げだしたり、尼になったりすることだってできていたはずだ。しかし、わたくしは「後宮」に入ってしまっている。後宮の警備は厳しく逃げられない。今更、どうあがいたって「キサキ」になるのを止めるわけにはいかない。
(まぁ、「更衣」という身分だしな。3日間さえ終えてしまったら、帝に会うこともないだろう)
一つだけ救いがあるとすれば、わたくしが「更衣」という身分の低いキサキである点だ。平安時代、帝の「キサキ」には、3つの位があった。
・皇后と呼ばれる「后」・・・1名
・女御と呼ばれる「妃」・・・5名程度
・更衣と呼ばれる「嬪」・・・8名程度
全部「キサキ」と総称されるけれど、この3つの「キサキ」には、大きな差があるのだ。
まず、皇后と呼ばれる后は、帝の正妻だ。キサキたちの中で一番偉い身分ということになる。帝と同じ権利を有していて、家臣たちの出世に口出しすることもできた。
次に、女御と呼ばれる妃たちは、「后」候補なのだ。帝は、彼女たちと数年を過ごして、彼女たちの中から自分にとって一番重要だと思った人を「后」として選ぶことになる。女御は、大臣家や宮家のお姫さまたちが選ばれる。
で、わたくしはというと更衣という嬪だ。更衣は、親の身分が低い姫がなるキサキの位で、絶対に后にはなることはない。后になる争いで負けることが決定している下級妃だ。
では、そんな下級妃である「更衣」になる女性がなぜいるかというと、次代の后を生む母親になれるチャンスがあるからだ。
血筋の良さで人間の優劣が決まってしまうこの時代。
更衣が生んだ女の子は、半分は帝の血が入っているわけだから、とても身分の高いお姫さまということになる。このお姫さまの身分ならば、次の帝の女御になることができる。そして、うまくいけば「后」にだって上りつめることが可能だ。更衣の親たちは、「どうか娘が姫を出産して、その子が后になりますように!」と祈るのだ。
(孫が皇后になって、ひ孫が帝になるかもしれない!)
そんな実家の期待を背負って、更衣たちは帝の嬪になるわけだが、残念ながら、帝は、后候補である女御たちと時間を過ごすことが多く、更衣には構う暇がない。結婚式の3日間を相手にしてもらったあとは、一切会うことがないということすらままあるのだ。
(わたくしは、自分が身分の低い嬪であることを悩んだりしていたんだっけ……)
しかし、前世の記憶を取り戻した今となっては好都合だ。
3日間だけ我慢したら、あとは後宮で悠々自適に過ごせるのだから。しかも、3日ある内の1日目の夜は、一緒のベッドで眠るだけ。2日目と3日目にようやく肉体的な接触を持つことになるのだが、1日目に失望をされたら、2日目も3日目もベッドで眠るだけで終わることもできてしまうのだ!
「とにかく琴をうまく弾けるようになっておきなさい! 帝がもう一度、聞きたいと思うくらいに演奏できるようになっておくのです! 1日目は琴をうまく弾きこなして、優美な姫であることをアピールするのですよ」
わたくしのお母さまは、3日間の好機をうまく利用して愛されるように指示してきていた。そのために、立ち居振る舞いといったマナーや楽器を演奏する力をつけさせられた。わたくしは、キサキ教育のせいで、遊ぶ暇もなく、過酷な少女時代を過ごすはめになった。
(だれが琴なんて弾いてやるもんですか! 無難に3日間を過ごして、あとはのんびりと過ごさせてもらうわ!)
過酷だった少女時代の分を取り戻すためにも、後宮でのんびりと過ごさせてもらっても罰は当たらないと思う。ただ、私の記憶を取り戻したせいで、平安時代という時代が自由が少なすぎて、物足りない感じもしてしまう。のんびりと過ごすにしても、娯楽があまりにも少なすぎる。何もない。
(ああ! 令和という時代は、本当に素晴らしい世界だった!!)
ゆっくりと私の記憶が蘇ってくる。令和には、今の時代では信じられないくらいの娯楽があった! アニメとかいう動く絵巻! ケーキやクッキーとか呼ばれる甘い食べ物! そして、スマホ! 海を隔てた外国の人の声を聴いたり、メッセージを送ったりすることができるのだ。
そして、何よりも素晴らしかったのは「図書館」という建物だ!
私はとにかく「本」が好きな女子大生だったのだ。図書館という建物には、昔の物語から現代の小説まで……数十万冊もの本が並んでいたのだ。しかも、海外の作品もたくさん並んでいた。
(そうだ! 本が大好きだった私は、大学で「日本文学」の研究をしていたんだった!)
将来は、高校と呼ばれる教育機関で「国語の先生」になるのが夢だった。私はかなり本が好きだったし、子どもも大好きだった。塾のアルバイトもしていた。どうも私は、高校生にとっては親しみやすいタイプの大人だったらしい。教え子の高校生たちは、私に心を開いてくれていて、彼らの保護者からも「素敵な先生!」として評価されていた。
友人や大学の先生。教育実習先の先生にも「あなたは絶対に良い先生になれる」と、太鼓判を押されていた。
そして、その夢は実現の間際まで来ていた。私は、大阪にある私立高校の先生になることが決定していた。あとは、大学を卒業するだけ! 大学を卒業したら、夢にまで見た「高校の国語の先生」になれるはずだったのだ。
しかし、ある日、悲劇が起きた。
大学を卒業するには「卒業論文」というものを提出しないといけなかった。「卒業論文」を書き上げるために、私は、大学の図書館で夜遅くまで研究をしていたのだ。
それで、確か……棚の高い位置にある本を取ろうとしていた。その本は、とても分厚い本で、背伸びをして取ろうとしていたら、急に地面が揺れたのだ。スマホからけたたましいサイレン音が響いていて……分厚い本が落下してくるのが見えて、「あ! よけないと!」と思ったのが、私の最後の記憶だ。
前世の記憶を思い出した今ならわかる。
あの日、私が住んでいた地方を大きな地震が襲ったのだろう。そして、私は、本につぶされて死んでしまったのだ。スマホから鳴っていたのは、緊急地震速報のチャイムだったのだろう。速報とほぼ同時に揺れがあったことを考えると、私は震源地に近い場所にいたことになる。両親はどうなったのだろうか? 友人たちは無事だっただろうか? 塾で教えていた高校生たちは? 「共通テスト」まで一か月を切っていたのにどうなったんだろうか? お化けになってもいいから、こちらの声が届かなくてもいいから、みんなのその後を知りたい。
(泣いてはいけない。女房たちに心配をかけてしまうし、いまさら、どうしようもないことなのだから)
次々と生々しい私の感情が蘇ってきて、胸が苦しくなった。苦しい感情とともに、さまざまな記憶が鮮明になっていく。
そう呼ばれた瞬間に、「私」の記憶を思い出した! バチっと電気が走ったというのだろうか。「前世の記憶」が頭の中に流れ込んできた。そうだ! わたくしは令和に生きる女子大生だったのだ。やっぱり平安時代の人間ではなかったのだ。
「桐壺更衣さま!? いかがなさいましたか? もしやお加減が優れないのでは?」
わたくしに呼びかけた女房(※侍女のこと)が慌てたような様子を見せる。彼女につられたように、他の女房たちにもざわめきが広がる。いけない。衝撃のあまり、つい返事をしそこねていた。
「ごめんなさい……。私……いえ、わたくし、少し考え事をしていて……。少しぼんやりとしていただけなの」
ああ! なんということだろう! 自分の声のはずなのに、前世を思い出したら違和感しかない。たおやかというのだろうか、しっとりと落ち着いた声が出た。ただ、私の声は、どこかかぼそくもあって、頼りなげな感じもする。今の私は、少し病気がちなところがあるのだった。
「そうですよね。せっかく入内なさったというのに……吉日が続かないばかりに帝にお会いできないのですもの……。張り合いがございませんわよね」
私の返答をどう解釈したのだろうか。女房は私をいたわるような、どこか同情するような視線を投げてよこした。周囲の女房たちも「規則とはいえあんまりですわ」「旧弊なこと」などと言って、ひそひそと会話をしている。こんなときの常として、私は曖昧にほほ笑んでおいた。
「それで? どうしたの?」
「二条の母君さまからのお便りです。姫さまのことを……いえ、更衣さまのことを気にされているようで、更衣さまが早く帝にお目にかかれることを、いつもお祈りされているとのことでした」
「そう。じゃあ、お母さまに元気で過ごしていることをきちんと手紙で伝えておくようにするわ。手紙を書きたいから、少しそっとしておいてくれる? あなたたちも休んでいていいわ」
私は女房から手紙を受け取った。それから、周囲の視線から隠れたくて、「一人にしてほしい」ということを女房にお願いする。女房は、私の気持ちを察して、そっと私から見えない場所へと移動していってくれた。私は、彼女たちを笑顔で見送ってから、頭を抱えた。
(生まれ変わるにしてもどうして平安時代なんだよ!!)
違和感自体は、ずっと昔からあった。「自分はここの世界の人間ではない」「自分には帰らないといけない場所がある」という思いが心の奥にずっとあったのだ。
あれはいつだったか……そうだ、7年前の9歳のときのことだ。「かぐや姫の物語」という絵巻を女房たちに読んでもらったときに、とても切ない思いになったのだ。
かぐや姫が月に帰ってしまったことが悲しかったのではない。「かぐや姫の物語」の作者に共感してしまったのだ。「月に都があって、その都のお姫さまが人間の世界で生きている話」なんて……この世界に「疎外感」を感じていないとそんな話は作れない。
この物語の作者は、自分が違和感なく溶け込める世界からの迎えをずっと待っているのではないか。そんなふうに思えて、悲しくなったのだ。
(でも、よかった。自分の違和感の正体に気が付けて)
私は月の世界の人間ではなかった。未来からやってきた人間だったのだ。いま、私が生きている時代から一千年先で、私は「女子大生」をやっていたのだ。女性なのに大学に通っていたなんて……16年間も平安時代でお姫さまをやっていた今となってはなんだか奇妙な気がする。
それにしても不思議だ。
いったい自分はどうなってしまったのだろうか。たった数分前の自分自身とまったく違う人間になってしまった気がする。平安時代のお姫様として生きてきていた「わたくし」。そして、令和の時代の女子大生として生きていた「私」。そのどちらでもない感じがする。その2つの自我が混在しているような状態にある。「わたくし」の記憶のおかげで、周囲の女房達の言葉もしっかりと理解できるし、この社会の常識というものもわかっている。一方で、一千年先を生きていた「私」の記憶もあって、今の「わたくし」を取り巻く状態がよくはない……差別的で理不尽だと叫んでいる。そんな「私」の感情を、「わたくし」は少し奇妙にも感じてしまっている。自分は「私」でも「わたくし」でもなくなってしまったよう。
(とりあえず、今の自分自身の状態を整理しておこう)
私は文机に向かって、筆を取った。
◎平安時代の「わたくし」
・16歳
・父親は按察使大納言という上の下の貴族。母親は宮家の血を引いている。
・祖父は大臣だった。
・9歳のときに父が「我が家の血を引く天皇が誕生する」という不思議な夢を見た。
・父親の予知夢のせいで、帝のキサキになることが決定する。
・大臣だった祖父の養女になって、高い地位のキサキになる予定だった。
・12歳のときに祖父が死んでしまって養女になる計画は崩れる。
・さらに、15歳のときに父が死んでしまう。
・父が「絶対にこの子をキサキにしろ」と遺言して死んでしまったから、キサキになった。
・後見人がいなくなってしまったから、「更衣」という身分の低いキサキになってしまった。
・「桐壺」と呼ばれる建物に住んでいるから「桐壺更衣」と呼ばれている。
(まぁ、更衣といっても、肉体的には帝のキサキにはなれていないんだけどね)
平安時代の結婚式は、夫婦となる予定の男女が「3日間」一緒に夜を過ごすことで成立する。そして、平安時代は、「縁起」というものを大切にしている。夫婦となるために過ごす「3日間」は、縁起が良い日が3日間続いていないといけない。結婚をすることが決まっていても、縁起の良い日が3日間続く日が直近になければ、結婚式をすることができず、婚約者の状態で数か月間も待っていないといけない。
そして、今のわたくしは「待機」の状態にある。
帝との結婚は決まっている。だから、帝のキサキたちが住む「後宮」に入ってきている。しかし、「今月は結婚をするのには良い月ではない」という陰陽師の占い結果があって、夜を一緒に過ごすという結婚の儀式は、まだしていない。
(早く名実ともに「キサキ」になりたい。後宮に住んでいるだけの状態は嫌!)
そんなふうにわたくしは不満を感じていたのだけれど、私の記憶が流れ込んできた今となっては、「待機中」という状態を長引かせたい気持ちが心を侵食しつつある。
だって、気持ち悪いじゃないか!!
初対面の男性と夫婦になるなんて……。しかも、夫になる男性には、すでに何人もの妻がいるのだ。男の人を複数人の女性でシェアしないといけないなんて。女性をあまりにもバカにしている。
(こんなのは本当に無理だ! 許せない!!)
一夫多妻なんて、男尊女卑な制度だと私は思う。が、仕方がない。
もしも、前世の記憶を思い出すのがもう少し早かったのならば、キサキになるのを避けるための行動を取ることができていただろう。男装をして逃げだしたり、尼になったりすることだってできていたはずだ。しかし、わたくしは「後宮」に入ってしまっている。後宮の警備は厳しく逃げられない。今更、どうあがいたって「キサキ」になるのを止めるわけにはいかない。
(まぁ、「更衣」という身分だしな。3日間さえ終えてしまったら、帝に会うこともないだろう)
一つだけ救いがあるとすれば、わたくしが「更衣」という身分の低いキサキである点だ。平安時代、帝の「キサキ」には、3つの位があった。
・皇后と呼ばれる「后」・・・1名
・女御と呼ばれる「妃」・・・5名程度
・更衣と呼ばれる「嬪」・・・8名程度
全部「キサキ」と総称されるけれど、この3つの「キサキ」には、大きな差があるのだ。
まず、皇后と呼ばれる后は、帝の正妻だ。キサキたちの中で一番偉い身分ということになる。帝と同じ権利を有していて、家臣たちの出世に口出しすることもできた。
次に、女御と呼ばれる妃たちは、「后」候補なのだ。帝は、彼女たちと数年を過ごして、彼女たちの中から自分にとって一番重要だと思った人を「后」として選ぶことになる。女御は、大臣家や宮家のお姫さまたちが選ばれる。
で、わたくしはというと更衣という嬪だ。更衣は、親の身分が低い姫がなるキサキの位で、絶対に后にはなることはない。后になる争いで負けることが決定している下級妃だ。
では、そんな下級妃である「更衣」になる女性がなぜいるかというと、次代の后を生む母親になれるチャンスがあるからだ。
血筋の良さで人間の優劣が決まってしまうこの時代。
更衣が生んだ女の子は、半分は帝の血が入っているわけだから、とても身分の高いお姫さまということになる。このお姫さまの身分ならば、次の帝の女御になることができる。そして、うまくいけば「后」にだって上りつめることが可能だ。更衣の親たちは、「どうか娘が姫を出産して、その子が后になりますように!」と祈るのだ。
(孫が皇后になって、ひ孫が帝になるかもしれない!)
そんな実家の期待を背負って、更衣たちは帝の嬪になるわけだが、残念ながら、帝は、后候補である女御たちと時間を過ごすことが多く、更衣には構う暇がない。結婚式の3日間を相手にしてもらったあとは、一切会うことがないということすらままあるのだ。
(わたくしは、自分が身分の低い嬪であることを悩んだりしていたんだっけ……)
しかし、前世の記憶を取り戻した今となっては好都合だ。
3日間だけ我慢したら、あとは後宮で悠々自適に過ごせるのだから。しかも、3日ある内の1日目の夜は、一緒のベッドで眠るだけ。2日目と3日目にようやく肉体的な接触を持つことになるのだが、1日目に失望をされたら、2日目も3日目もベッドで眠るだけで終わることもできてしまうのだ!
「とにかく琴をうまく弾けるようになっておきなさい! 帝がもう一度、聞きたいと思うくらいに演奏できるようになっておくのです! 1日目は琴をうまく弾きこなして、優美な姫であることをアピールするのですよ」
わたくしのお母さまは、3日間の好機をうまく利用して愛されるように指示してきていた。そのために、立ち居振る舞いといったマナーや楽器を演奏する力をつけさせられた。わたくしは、キサキ教育のせいで、遊ぶ暇もなく、過酷な少女時代を過ごすはめになった。
(だれが琴なんて弾いてやるもんですか! 無難に3日間を過ごして、あとはのんびりと過ごさせてもらうわ!)
過酷だった少女時代の分を取り戻すためにも、後宮でのんびりと過ごさせてもらっても罰は当たらないと思う。ただ、私の記憶を取り戻したせいで、平安時代という時代が自由が少なすぎて、物足りない感じもしてしまう。のんびりと過ごすにしても、娯楽があまりにも少なすぎる。何もない。
(ああ! 令和という時代は、本当に素晴らしい世界だった!!)
ゆっくりと私の記憶が蘇ってくる。令和には、今の時代では信じられないくらいの娯楽があった! アニメとかいう動く絵巻! ケーキやクッキーとか呼ばれる甘い食べ物! そして、スマホ! 海を隔てた外国の人の声を聴いたり、メッセージを送ったりすることができるのだ。
そして、何よりも素晴らしかったのは「図書館」という建物だ!
私はとにかく「本」が好きな女子大生だったのだ。図書館という建物には、昔の物語から現代の小説まで……数十万冊もの本が並んでいたのだ。しかも、海外の作品もたくさん並んでいた。
(そうだ! 本が大好きだった私は、大学で「日本文学」の研究をしていたんだった!)
将来は、高校と呼ばれる教育機関で「国語の先生」になるのが夢だった。私はかなり本が好きだったし、子どもも大好きだった。塾のアルバイトもしていた。どうも私は、高校生にとっては親しみやすいタイプの大人だったらしい。教え子の高校生たちは、私に心を開いてくれていて、彼らの保護者からも「素敵な先生!」として評価されていた。
友人や大学の先生。教育実習先の先生にも「あなたは絶対に良い先生になれる」と、太鼓判を押されていた。
そして、その夢は実現の間際まで来ていた。私は、大阪にある私立高校の先生になることが決定していた。あとは、大学を卒業するだけ! 大学を卒業したら、夢にまで見た「高校の国語の先生」になれるはずだったのだ。
しかし、ある日、悲劇が起きた。
大学を卒業するには「卒業論文」というものを提出しないといけなかった。「卒業論文」を書き上げるために、私は、大学の図書館で夜遅くまで研究をしていたのだ。
それで、確か……棚の高い位置にある本を取ろうとしていた。その本は、とても分厚い本で、背伸びをして取ろうとしていたら、急に地面が揺れたのだ。スマホからけたたましいサイレン音が響いていて……分厚い本が落下してくるのが見えて、「あ! よけないと!」と思ったのが、私の最後の記憶だ。
前世の記憶を思い出した今ならわかる。
あの日、私が住んでいた地方を大きな地震が襲ったのだろう。そして、私は、本につぶされて死んでしまったのだ。スマホから鳴っていたのは、緊急地震速報のチャイムだったのだろう。速報とほぼ同時に揺れがあったことを考えると、私は震源地に近い場所にいたことになる。両親はどうなったのだろうか? 友人たちは無事だっただろうか? 塾で教えていた高校生たちは? 「共通テスト」まで一か月を切っていたのにどうなったんだろうか? お化けになってもいいから、こちらの声が届かなくてもいいから、みんなのその後を知りたい。
(泣いてはいけない。女房たちに心配をかけてしまうし、いまさら、どうしようもないことなのだから)
次々と生々しい私の感情が蘇ってきて、胸が苦しくなった。苦しい感情とともに、さまざまな記憶が鮮明になっていく。