それから十年の歳月が流れた。
寿王は平和に、そして退屈に過ごしていた。蒼天からは一度手紙が来て、子供が生まれて楽しく暮らしていると知らせてきた。寿王も生活に監視はつかなくなったが、蒼天に会いに行こうとは思わなかった。特に話したい事もない。口を開けば、国の荒れようを愚痴るだけになりそうだった。
楊貴妃一族の専横は、留まるところを知らなかった。楊国忠という男が宰相にまで上り、政治をいいように仕切っている。玄宗は楊貴妃と共に遊び耽り、浪費を続けている。一方で、民衆は重税に耐えきれず、家や畑を捨てる者が相次いだ。
「ひと刺しで簡単に破裂しそうな天下になったな。……おそらくは、東北から」
寿王はそう呟いて、馬を軽く走らせた。たまに遠駆けをしては、自分なりに国の行く末を考えるのが習慣になっていた。これからどうなるのか、寿王にはよく分かっていた。いや、寿王だけでなく多くの人々が、東北にある勢力に恐れを抱いていたのである。
程なくして、都の遠く東北、范陽の地で、安禄山という人物が突如挙兵した。十五万の兵で南下し、諸州を瞬く間に陥落させた。安禄山軍は唐軍の防御など物ともせず、鎧袖一触の勢いで唐の風雅な国土を踏み荒らした。
安禄山に勢力を持たせたのは、結局のところ玄宗と楊貴妃だった。人に取り入るのがうまい安禄山は二人を煽て続け、節度使(地方を守る軍政司令官)の職を三つも兼任した。安禄山の支配地域はそれだけ広大になり、多くの兵力を手中にした。
宰相の楊国忠は安禄山と対立し、彼を謀叛に追いやって誅殺する事を目論んでいた。しかし謀叛まではうまく行ったのだが、安禄山の軍は桁違いに強かったのだ。
結果はこの様である。天宝十四載(西暦七五五。載は年の意)十一月。世に言う安史の乱の始まりであった。
「馬鹿な。父は都を捨てるというのか」
報らせを聞いて、寿王は飛び上がった。安禄山軍の侵攻はすさまじく、ついに都・長安まで迫りつつあった。これを恐れた玄宗は、皇族や近臣だけを連れて長安を出、西の蜀へ逃げるという。それも、民衆には内緒で行くというのだ。東の洛陽は、すでに安禄山軍の手に陥ちていた。蒼天がどうなったのか気がかりで、寿王はそれを調べるためにも長安に留まるつもりだった。
「これでは夜逃げではないか」
そう言って怒る寿王を、従者たちが押しやるようにして部屋から出した。既に脱出の準備がされていて、寿王は無理矢理集合場所に連れて行かれた。彼が逃げたくなくとも、従者は逃げたかったのである。
夜明け前に、皇帝一行は長安宮城を脱出した。寿王は玄宗に文句を言おうと近づいたが、警護の兵に阻まれてできなかった。そのうち機会を見つけて玄宗を殴ろうと思いながら、寿王は旅に従っていた。
そんなある日、異変が起きた。
何の用意もなく脱出した一行は、食事も宿も現地で調達しているという状態であった。しかし、皇族や楊一族は逃げるのに必死だが、護衛の兵士たちから見れば、だんだん腹が立って仕方なくなってきた。余りにも無責任な連中ではないかと。
「楊宰相が、吐蕃人と密談をしている! 奴は陛下を売り渡す気だぞ!」
突然、兵士がそう叫んで走って行くのを寿王は目撃した。何か大変な事になりそうだ。寿王は急いで、兵士の走った方へ向かった。
宰相楊国忠は、兵士たちに滅多刺しにされて死んでいた。寿王は夥しい血を見て、さすがに目を逸らした。実際には、楊国忠は吐蕃(チベット)から来た使節団と話していただけだったのだが、その誤解を解く間もなく彼は殺された。楊国忠はそれほどまで周囲に憎まれていたのである。
誰かの声がした。
「仕方のうございます。安禄山の反乱は、楊宰相が奴を追い込んだ事と、陛下のご怠慢が産んだもの。楊宰相も、自業自得という他ありませぬ。今はとにかく、怒れる兵を宥めて蜀へ逃げるしかございません」
高力士の声だった。寿王が奥を見ると、玄宗が隠れるようにして立っていた。寿王の身体は、一瞬にして熱くたぎった。
お前たちが全て悪い。
そう叫んだつもりだったが、声は出ていなかった。その代わりに拳を振り上げ、まず高力士を殴り飛ばした。痩せた宦官は、棒が倒れるような音を立てて転がった。
玄宗の側に、もう一人寄り添う影があった。良く知っていたが、もう知らない顔だった。その女が悲鳴を上げて言った。
「寿王どの、玉環をお忘れか。かつての夫婦の誼、どうか乱暴はおやめください」
寿王は一瞬ためらったが、すぐに鋭い目に戻った。
「玉環の名を騙るな。あれはもっと雄々しい女だった」
そう言って寿王は容赦なく、楊貴妃を平手打った。肥った女体が地面に崩れる。それを見た玄宗皇帝が、怒りに震えて声を上げた。
「何をするか、李瑁!」
「馬鹿を殴る。それだけだ」
寿王は力いっぱい玄宗の頬桁を殴りつけた。玄宗は回転しながらよろけ、木に頭をぶつけて失神した。その時、寿王の背後から声がした。
「陛下に何をする、狼藉者!」
忠誠を失っていない兵士の一人が、暴漢に気付いて飛んできたのだ。寿王が振り返った時には、兵士の剣が眼前に迫っていた。
寿王は転倒しながらよけた。しかし兵士は寿王に馬乗りになり、寿王の胸に剣を突き下ろしてくる。寿王は剣の柄をつかみ、必死に押し返した。何とか剣を振り払ったが、兵士は拳を振り上げて寿王を滅多打ちに殴った。一発がこめかみに当たり、寿王は気が遠くなりかけた。
次の瞬間、その兵士は何かに打たれて吹っ飛ばされた。寿王は頭を仰け反らせて後ろを見ると、馬に乗った別の兵士が棒を持っているのが見えた。
寿王が身体を起こす。先程まで乗っかっていた兵士は、横に倒れていた。
「寿王、怪我はない?」
棒の兵士が言った。その声を聞いて、寿王は驚いて聞いた。
「お前、蒼天か?」
兵士は深く被っていた兜を取った。十年の歳月は経ているが、確かに李蒼天の顔がそこにあった。
「寿王、とんでもない事したみたいね。そこに倒れてるのは、陛下じゃないの?」
「蒼天、無事だったのか。どうしてこんな所に? 家族は?」
寿王は質問にも答えず聞いた。蒼天は馬を降りなが言った。
「洛陽が攻められて、夫も子供も殺されたわ。私は一人で、長安まで逃げてきたのよ。そしたら、宮城が空っぽになってるじゃない。残っていた人から、皇帝一行が西へ逃げたという話を聞いて、兵士の振りをしてあなたを探しに来たのよ」
「そうか。逃げるつもりはなかったが、周りに追い立てられてな」
「陛下を殴ったのね。……それに、楊貴妃様まで。大丈夫なの、こんな事をして」
蒼天が、楊貴妃を哀れんだように見ながら聞いた。寿王は、虚しい笑いを浮かべて言った。
「もう玉環ではない。自分で言っていた事だ。――今日になって、兵士が反乱を始めたんだ。こんな状況に至っては、もう父に付き合うのも御免だ。僕は、ここを出るとするよ」
「ここって?」
蒼天は怪訝な顔をした。寿王は蒼天を待たせ、そこらを彷徨いていた馬を牽いて来ると、軽やかに飛び乗った。
「僕はもう、国には縛られたくない。どこに行くかは分からないが、この馬に任せて唐を出る」
そう言って、同じ高さから蒼天を見つめた。
自分は今、いい顔になっているようだ。蒼天の表情から、寿王はそう知った。
風が吹いた。砂と草の匂いが混じった、気持ちのいい風だった。
「分かったわ」
蒼天が言った。
「だったら私も、この国を出る。でもね」
蒼天は、自分の馬の向きをぐるりと変えた。寿王とは反対向きになった。
「一緒には行かない。私もあなたも、新しい道を行くべきでしょうね」
「そうしよう。お前がいると、どうも頼ってしまいそうだ」
「元気でね」
「いっぱい借りを作ったままになったな」
「いつか私が困った時、返しに来てよ」
「よし。お前の困った顔を見に行ってやる」
同時に頷いた。そして、笑った。
二人が、馬に鞭を入れる。
振り返る事はなかった。代わりに、二人はそれぞれ、上を見上げた。
雲ひとつない空が、どこまでも続いていた。
(完)
寿王は平和に、そして退屈に過ごしていた。蒼天からは一度手紙が来て、子供が生まれて楽しく暮らしていると知らせてきた。寿王も生活に監視はつかなくなったが、蒼天に会いに行こうとは思わなかった。特に話したい事もない。口を開けば、国の荒れようを愚痴るだけになりそうだった。
楊貴妃一族の専横は、留まるところを知らなかった。楊国忠という男が宰相にまで上り、政治をいいように仕切っている。玄宗は楊貴妃と共に遊び耽り、浪費を続けている。一方で、民衆は重税に耐えきれず、家や畑を捨てる者が相次いだ。
「ひと刺しで簡単に破裂しそうな天下になったな。……おそらくは、東北から」
寿王はそう呟いて、馬を軽く走らせた。たまに遠駆けをしては、自分なりに国の行く末を考えるのが習慣になっていた。これからどうなるのか、寿王にはよく分かっていた。いや、寿王だけでなく多くの人々が、東北にある勢力に恐れを抱いていたのである。
程なくして、都の遠く東北、范陽の地で、安禄山という人物が突如挙兵した。十五万の兵で南下し、諸州を瞬く間に陥落させた。安禄山軍は唐軍の防御など物ともせず、鎧袖一触の勢いで唐の風雅な国土を踏み荒らした。
安禄山に勢力を持たせたのは、結局のところ玄宗と楊貴妃だった。人に取り入るのがうまい安禄山は二人を煽て続け、節度使(地方を守る軍政司令官)の職を三つも兼任した。安禄山の支配地域はそれだけ広大になり、多くの兵力を手中にした。
宰相の楊国忠は安禄山と対立し、彼を謀叛に追いやって誅殺する事を目論んでいた。しかし謀叛まではうまく行ったのだが、安禄山の軍は桁違いに強かったのだ。
結果はこの様である。天宝十四載(西暦七五五。載は年の意)十一月。世に言う安史の乱の始まりであった。
「馬鹿な。父は都を捨てるというのか」
報らせを聞いて、寿王は飛び上がった。安禄山軍の侵攻はすさまじく、ついに都・長安まで迫りつつあった。これを恐れた玄宗は、皇族や近臣だけを連れて長安を出、西の蜀へ逃げるという。それも、民衆には内緒で行くというのだ。東の洛陽は、すでに安禄山軍の手に陥ちていた。蒼天がどうなったのか気がかりで、寿王はそれを調べるためにも長安に留まるつもりだった。
「これでは夜逃げではないか」
そう言って怒る寿王を、従者たちが押しやるようにして部屋から出した。既に脱出の準備がされていて、寿王は無理矢理集合場所に連れて行かれた。彼が逃げたくなくとも、従者は逃げたかったのである。
夜明け前に、皇帝一行は長安宮城を脱出した。寿王は玄宗に文句を言おうと近づいたが、警護の兵に阻まれてできなかった。そのうち機会を見つけて玄宗を殴ろうと思いながら、寿王は旅に従っていた。
そんなある日、異変が起きた。
何の用意もなく脱出した一行は、食事も宿も現地で調達しているという状態であった。しかし、皇族や楊一族は逃げるのに必死だが、護衛の兵士たちから見れば、だんだん腹が立って仕方なくなってきた。余りにも無責任な連中ではないかと。
「楊宰相が、吐蕃人と密談をしている! 奴は陛下を売り渡す気だぞ!」
突然、兵士がそう叫んで走って行くのを寿王は目撃した。何か大変な事になりそうだ。寿王は急いで、兵士の走った方へ向かった。
宰相楊国忠は、兵士たちに滅多刺しにされて死んでいた。寿王は夥しい血を見て、さすがに目を逸らした。実際には、楊国忠は吐蕃(チベット)から来た使節団と話していただけだったのだが、その誤解を解く間もなく彼は殺された。楊国忠はそれほどまで周囲に憎まれていたのである。
誰かの声がした。
「仕方のうございます。安禄山の反乱は、楊宰相が奴を追い込んだ事と、陛下のご怠慢が産んだもの。楊宰相も、自業自得という他ありませぬ。今はとにかく、怒れる兵を宥めて蜀へ逃げるしかございません」
高力士の声だった。寿王が奥を見ると、玄宗が隠れるようにして立っていた。寿王の身体は、一瞬にして熱くたぎった。
お前たちが全て悪い。
そう叫んだつもりだったが、声は出ていなかった。その代わりに拳を振り上げ、まず高力士を殴り飛ばした。痩せた宦官は、棒が倒れるような音を立てて転がった。
玄宗の側に、もう一人寄り添う影があった。良く知っていたが、もう知らない顔だった。その女が悲鳴を上げて言った。
「寿王どの、玉環をお忘れか。かつての夫婦の誼、どうか乱暴はおやめください」
寿王は一瞬ためらったが、すぐに鋭い目に戻った。
「玉環の名を騙るな。あれはもっと雄々しい女だった」
そう言って寿王は容赦なく、楊貴妃を平手打った。肥った女体が地面に崩れる。それを見た玄宗皇帝が、怒りに震えて声を上げた。
「何をするか、李瑁!」
「馬鹿を殴る。それだけだ」
寿王は力いっぱい玄宗の頬桁を殴りつけた。玄宗は回転しながらよろけ、木に頭をぶつけて失神した。その時、寿王の背後から声がした。
「陛下に何をする、狼藉者!」
忠誠を失っていない兵士の一人が、暴漢に気付いて飛んできたのだ。寿王が振り返った時には、兵士の剣が眼前に迫っていた。
寿王は転倒しながらよけた。しかし兵士は寿王に馬乗りになり、寿王の胸に剣を突き下ろしてくる。寿王は剣の柄をつかみ、必死に押し返した。何とか剣を振り払ったが、兵士は拳を振り上げて寿王を滅多打ちに殴った。一発がこめかみに当たり、寿王は気が遠くなりかけた。
次の瞬間、その兵士は何かに打たれて吹っ飛ばされた。寿王は頭を仰け反らせて後ろを見ると、馬に乗った別の兵士が棒を持っているのが見えた。
寿王が身体を起こす。先程まで乗っかっていた兵士は、横に倒れていた。
「寿王、怪我はない?」
棒の兵士が言った。その声を聞いて、寿王は驚いて聞いた。
「お前、蒼天か?」
兵士は深く被っていた兜を取った。十年の歳月は経ているが、確かに李蒼天の顔がそこにあった。
「寿王、とんでもない事したみたいね。そこに倒れてるのは、陛下じゃないの?」
「蒼天、無事だったのか。どうしてこんな所に? 家族は?」
寿王は質問にも答えず聞いた。蒼天は馬を降りなが言った。
「洛陽が攻められて、夫も子供も殺されたわ。私は一人で、長安まで逃げてきたのよ。そしたら、宮城が空っぽになってるじゃない。残っていた人から、皇帝一行が西へ逃げたという話を聞いて、兵士の振りをしてあなたを探しに来たのよ」
「そうか。逃げるつもりはなかったが、周りに追い立てられてな」
「陛下を殴ったのね。……それに、楊貴妃様まで。大丈夫なの、こんな事をして」
蒼天が、楊貴妃を哀れんだように見ながら聞いた。寿王は、虚しい笑いを浮かべて言った。
「もう玉環ではない。自分で言っていた事だ。――今日になって、兵士が反乱を始めたんだ。こんな状況に至っては、もう父に付き合うのも御免だ。僕は、ここを出るとするよ」
「ここって?」
蒼天は怪訝な顔をした。寿王は蒼天を待たせ、そこらを彷徨いていた馬を牽いて来ると、軽やかに飛び乗った。
「僕はもう、国には縛られたくない。どこに行くかは分からないが、この馬に任せて唐を出る」
そう言って、同じ高さから蒼天を見つめた。
自分は今、いい顔になっているようだ。蒼天の表情から、寿王はそう知った。
風が吹いた。砂と草の匂いが混じった、気持ちのいい風だった。
「分かったわ」
蒼天が言った。
「だったら私も、この国を出る。でもね」
蒼天は、自分の馬の向きをぐるりと変えた。寿王とは反対向きになった。
「一緒には行かない。私もあなたも、新しい道を行くべきでしょうね」
「そうしよう。お前がいると、どうも頼ってしまいそうだ」
「元気でね」
「いっぱい借りを作ったままになったな」
「いつか私が困った時、返しに来てよ」
「よし。お前の困った顔を見に行ってやる」
同時に頷いた。そして、笑った。
二人が、馬に鞭を入れる。
振り返る事はなかった。代わりに、二人はそれぞれ、上を見上げた。
雲ひとつない空が、どこまでも続いていた。
(完)