玉環をめぐる話は、かなり脚色されて世間に流された。

 寿王妃であった彼女は、遙か以前に亡くなった皇太后の供養をしたいと願い出て夫の元を去り、出家して女道士として祈りを続けた。そんな噂が宮中に届き、殊勝であると思った玄宗皇帝が彼女を召し、そばに置くようになった。――皇帝ともあろう者が、自分の息子の嫁を奪ったという悪評を、できるだけ漂白するための茶番である。



 上の説により、寿王は命を失わずに済んだ。弟の李琦が話を信じて励ましに来たりしたので、寿王は苦笑したものである。

 蒼天は玉環の引っ越し要員に駆り出され、しばらく寿王は一人きりだった。年月を越え、ようやく戻ってきた蒼天は、あれからの事情を説明してくれた。

「玉環様は、陛下のお妃になる事を条件に、今後あなたには手出ししないよう約束させたわ。陛下も後ろめたいところがおありだから、承知なさったみたい」

 寿王は何も言わず、ただ頷いた。謀反の疑いが消え、白々しい美談が広められたのは、父なりの謝罪のつもりなのかもしれない。玉環の尽力は嬉しかったが、かと言って命が助かって良かったと脳天気に喜べるわけもなかった。

「あの時、玉環様を介抱しながら言ったの。『切り札は、あなたが持っています。私も寿王様も、あなたに命を預けます』」

「ああ。確かにそうだった」

 寿王は、もう遠い昔を思い出すように言った。

「ちゃんと聞いて、寿王。玉環様は、最後にあなたと心が通じて、本当に嬉しかったと言っていた。それだけはどうしても伝えて欲しいと」

「そうか」

 寿王は玉環の姿を思い描いた。もっと早くに心が通じていれば、どうなっただろうか。そんな事をふと思った。

「……もう、手紙も渡せないのかな」

「許されないでしょうね」

「分かった。あきらめよう。……そうだ、お前にも礼を言っておきたい。よく僕を止め、玉環を動かしてくれた」

「あなたが勅使を殴れば、相手の思う壷だもの。咄嗟に身体が動いたわ。でも、私が殴ったらあいつが動転したでしょ。そこを玉環様が締めた」

「そんじょそこらの団結では、できない事だったな」

 寿王はそう言って笑った。玉環がいなくなってから、やっと出せた笑顔だった。蒼天もそれを見て、笑顔を見せた。



 玉環は出家して女道士となった後、楊太真と名を変え、玄宗に嫁いだ。彼女を迎えた玄宗はその美貌の虜になり、それこそ朝から晩まで側に置いた。やがて玄宗は彼女に貴妃の位を賜り、こうしてかの有名な楊貴妃が誕生したのである。

 当人からの連絡は全くなくなったが、楊貴妃の評判は窓を開ければ風が入るように流れて来た。

 玄宗は政務を放っぽり出して毎日のように宴を繰り返し、楊貴妃自身もどんどん贅沢になって行った。彼女の親類たちは貴族となって都を我が者顔で歩き、奢侈と享楽に耽っている。

 国そのものが狂乱している。寿王にはそんなふうに見えた。父が堕落して来たのは見えていたが、楊貴妃となった玉環がそれを助長している事が、寿王の心には痛かった。



 またある日、蒼天はある事を伝えるために寿王の部屋を訪れた。しかし自分が話し出す前に、寿王が話を始めた。

「玉環なら、父を叩き直せるかもしれない。彼女が行った後で、僕はそう期待した。しかし現実はひどいもんだ。彼女がもたらしたのは、この唐王朝始まって以来の莫大な浪費だよ」

 寿王は吐き捨てるように言った。それは事実である。悲しさがこみ上げて来た蒼天は、懐から一通の手紙を出して寿王に渡した。

「玉環様が、あなた宛にくれた手紙よ。楊玉環という方の、最後の言葉がそこにあるわ。……見せるのが辛くて、今日まで渡せなかったけれど」

 寿王は受け取って目を通した。その中には、皇帝という最高権力者を取り巻く、分厚くて不気味な力の場に飲まれる彼女の意識が綴られていた。――過去の記憶が日毎に薄められ、始めから宮中で生活していたような感覚が植え付けられてくる。その新しい自分が、古い自分を徐々に意識の隅に追いやって行く。ごめんなさいあなた、玉環は死にました。楊貴妃は、私の姿をして、しかし私ではないのです――

 寿王は、手紙を破り捨てた。蒼天は心配な目で見たが、しかし彼の表情は落ち着いていた。

「僕もかつては、皇帝になり得る人間だった。あの場に行けば、僕だって自分を見失ってしまうかもしれない。玉環を責める事は、誰にもできないな」

 毅然とした寿王を見て、蒼天は安心して微笑んだ。これでやっと、今日の本題を口にする事ができる。

「寿王、私も今日でお別れするわ。……私、結婚する事になったの」

 寿王は、その場で停止した。目だけが蒼天を見ていた。そのままずいぶん長い時間が過ぎたように、蒼天は感じた。

「……そうか。幸せにな」

 寿王は優しく微笑んでいた。女ではなく、人を見ている目だ、と蒼天は分かった。

「親が決めた縁談よ。どんな相手か、顔も知らない」

「遠くへ、行くのか?」

「洛陽へ。ちょっと東ね」

「そうか。自由な身なら、遊びにも行けるが」

 実際のところ、寿王はまだ要注意人物として見られていた。勝手に都を出る事は許されていない。寿王の笑顔が寂しくなったのを見て、蒼天は逆に笑って見せた。

「……じゃあ、さよなら」

 笑っては見せたが、言葉は出なかった。蒼天は黙って包みを一つ卓に置くと、静かに部屋を出た。寿王も無言で、彼女を見送っていた。



 寿王が扉を閉め、置かれた包みを開けてみると、それは作りたての蜜団子菓子だった。