部屋に戻ると一華がちらり、と朱音を見た。やはり突然のことで不安だったのか、どこか縋るようなまなざしにも見えたが、右手の手巾に気付くと、眉の端を上げた。
「その手巾はどうしたの。お姉さまはそんなもの、持っていなかったわよね?」
ハッとする。慌てて手を背後に隠しても、無駄だった。一華がつかつかと歩み寄り、ぐっと朱音の右手を握り、検分した。
「……男性のものね? まさか、天羽さまのものだとか、言わないでしょうね?」
咄嗟に上手い言葉が出なかった。瞬間、パアン、という甲高い音共に、頬に火が吹いたかと思うような痛みが走った。
「あばずれもの! 妹の夫に媚びを売るだなんて、なんて節操がないんでしょう! お姉さまなんて、あの好色老人に貰われてしまえばよかったんだわ!」
烈火のごとく怒る一華に言い訳も出来ない。彼女の言葉が、正しかったからだ。項垂れる朱音の足を、怒りに任せた一華が蹴った。咄嗟のことで平衡を保っていられなくなり、その場で転ぶ。横に倒れた朱音の腹を、再度一華が蹴った。息がむせて、咳込む。
「お姉さまなんて、現世に帰ってしまえばいいんだわ。そもそも私を救うだとか言って、本当はそういう魂胆がおありなのではないかと思ったのよ」
「ち、ちがいま……」
上体を立て直しながらそう言おうとした時、またも頭の中で光が明滅した。はっとした朱音は機敏に立ち上がり、一華と庭に面した障子の間に立った。その瞬間、ゴウッと突風が吹き込み、がたんと障子戸が一枚外れて畳の床を滑った。幸い戸は朱音の足先に当たっただけで、被害というほどのものはなかった。ただ、庭の木々の葉が部屋に吹き込んで、畳が一面木の葉だらけになった。
「な……、な……」
立て続けに二度も異変が起き、一華は驚愕している。その一華を背に庇いながら、朱音はある確信を得ていた。
今の二度の出来事で、光の明滅と共に頭の中に浮かんだ景色は、明らかに直後の未来予知だった。夜会では一華に、幽世で自らに起こったことを鑑みて彼女を支えれば良いと思い、言ったが、花瓶の破裂やこの突風などは、朱音の記憶にないものだ。朱音の生きた幽世での時間と一華が生きる幽世での時間が違ってしまっている以上、一華に先を見て彼女を守ると宣言した手前、突如手に入れたこの力を有効に使うしかない。
とはいっても、頭に浮かぶ映像は朱音が見ようと思って見ているものではない為、どの程度まで一華を守れるかが疑問だ。そう考えていると、部屋に来訪を告げる声が届いた。
「花瓶が割れたと聞いたので、代わりを持ってきたが、良いか」
天羽だった。鞠に撫子の活けられた花瓶を持たせている。彼の顔を見るや否や、一華はたった今、驚きで呆然としていたのも忘れたかのように朱音を突き飛ばし、天羽の許へ駆け寄った。
「天羽さま、幽世では怪異が起こるのですか!? 花瓶は前触れもなく割れましたし、今は突風が部屋に吹き込んできましたのよ!?」
怖かった、と涙ぐむ姿を見せれば、天羽は一華を見るために目をやや伏せ、すまないな、とわびた。
「十日後の銀鉤(ぎんこう)の夜に、日輪月輪あまねく星々に花嫁を披露し、祝福を願う祝宴の儀が行われる。その席で俺と花嫁が杯を交わし、花嫁は天から正式に神嫁として認められる。だからそれまでの間、花嫁は人と神嫁の間の不安定な存在ということになり、幽世のさまざまが花嫁と均衡を取ろうと画策する。暫く辛抱してもらえるだろうか」
天羽の説明は朱音の時に言われた内容と同じだった。しかし朱音はこんな大きな怪異にあっていない。出来事と言えば、配膳された食事が虫であったり、当日着用する衣服が全て濡れていたりというくらいで、身の危険を感じることはなかった。
天羽の言葉に一華がわっと泣き出す。
「そんな……! 私、幽世がこんなに怖い所だなんて思っても見ませんでしたわ! 天羽さまは私を守って下さらないのですか!?」
「妻に対して嘘いつわりを言わないことは、夫としての誠意だ。分かって欲しい。神嫁たる資格を持つ我が妻なら、必ず試練を乗り越えてくれると信じている。だが、俺も妻が恐ろしい思いをしないで済むように、手を尽くそう」
天羽の胸に縋り訴える一華に、天羽はそう言い、部屋を後にした。床の間には天羽によって飾られた青木葉が揺れていた。