部屋の花瓶の破片を片付け、水浸しになった畳を拭ききった後、朱音はジクジク痛む手の甲を洗いに、庭の奥の井戸まで来た。くみ上げた水は清く冷たく、傷口を洗うのに持って来いだった。何度か洗い流し、傷口に破片がないことを確認していると、ふと、飛び石を踏む音がした。

「大事ないか」

そこに居たのは、天羽だった。美しい水色の髪の毛をなびかせ、藍の着流し姿で凛とそこに居る。その姿に胸が高鳴り、締め付けられるが、努めて冷静を装って、平気です、と応じた。

「手違いで、大切な花瓶を割ってしまいました。申し訳ございません」

あの部屋の調度は、活けられていた女郎花一本に至るまで、一華を迎える為に整えられたものだ。何が原因かは分からないが、天羽の心づくしが壊れてしまったことへの罪悪感もある。頭を下げると、天羽が歩を進め、朱音の所まで来た。
そして、洗っていた右手をそっと握られ、どきりとする。見上げると天羽は眉間にしわを寄せ、難しい顔をしていた。美しいかんばせが、若干怒りを含んでいるようで、やはり自分の不行き届きで一華の為の花瓶が割れたことが、天羽を怒らせているのだと思った。

「天羽さまの、一華さまへのお心づくしでしたのに、申し訳ございませんでした」

謝罪に対して天羽は、懐に持っていた手巾を朱音の手に巻いた。その表情は、唇を固く結び、相当怒っているように見える。愛する妻の為に整えたものを付き人が壊したら、それは不満だし、怒るだろう。愛している天羽にどう罵倒されるのかと恐れていたが、しかし天羽の口から発された言葉は、朱音をいたわる言葉だった。

「形あるものはいつか壊れる。それよりも自分の体を大事にしてくれ。神あやかしと違って、人は傷付くことで命を落とす。俺は必要のない落命を避けるべく守護の力で國を守っているが、人の間で傷つけ合いが起こると、助けられるものも助けられない」

どこか、悔しさをにじませた声で、そう言う。
神とはいえ、人の気持ちには介入できないということか。確かに神であっても別の存在の思考・人格を操れば、その存在は純然たるその存在そのものとは言えないだろう。神としての苦悩は、そのようなところにもあるのだ、と朱音は天羽の苦しみを胸に痛く思う。

「ですが、天羽さまは、対となる花嫁、一華さまをお迎えになられました。一華さまが神嫁として認められれば、天羽さまと一華さまのご加護で現世に永久の平和が訪れると、信じております。私は一華さまが神嫁として認められるまで、精いっぱい務めさせて頂きます。一華さまの為になることでしたら、なんなりとお申し付けください」

言いながら、こうべを垂れる。右手に手巾を巻き付けた天羽の手が、ぎゅっと朱音の手を握った。……そのあたたかみにどきりとし、顔を上げると、天羽は朱音を真摯なまなざしで見つめていた。

「君が来てくれて、本当に良かった。大丈夫。万事うまくいくよう、取り計らおう。困ったことがあれば、俺に言えばいい。やっと巡り合えたのだ。妻の為なら、何でもしよう」

熱のこもった、真っすぐな瞳。一華の為に尽力しようとする天羽に胸が痛みながらも、ありがとうございます、と礼を言えた。