「まあ、素敵なお屋敷」

天羽に連れられて一華と共に幽世へ舞い戻った朱音は、機嫌の良さそうな一華の声を聴きながら、懐かしい気持ちになっていた。
しっとりと整えられた庭の樹木も、やわらかく地面を包んでいる苔も、陽を弾いて輝く大きな池の面も、全てが懐かしい。勿論、目の前にある大きくて立派な数寄屋造りの日本家屋も、材の太さやその照り、装飾の細かさなどから心を落ち着かせる雰囲気を感じる。

「君の部屋はこちらだ」

そう言って一華とそれにつきそう朱音を先導した天羽は、かつて朱音が使っていた部屋を一華に紹介した。襖絵はぼかした水色に水紋模様。その上の欄間には鳳凰と椿が彫ってあり、床の間には楚々とした女郎花が活けられている。

「必要だと思うものは、俺の一存ではあるが、すべて揃えてある。好きなものを使ってくれて構わない。付き人は次の間を使うと良いだろう」
「お心遣い、感謝しますわ。天羽さま」

さりげなく天羽の腕に着物の上から触れ、愛情を確かめるように一華は天羽を見つめた。天羽もそれに応えるように一華を見た。その姿を守らなければ、と思う朱音の決意に揺らぎはない。しかし。

(やはり胸が痛んでしまう……。でもお父さまとお母さまからしたら、無能の私が天羽さまに嫁ぐより、一華さんが花嫁になる方が、きっと何倍も嬉しいだろうし、誇りに思えるわ。天羽さまだって、ご自身が選ばれたんですもの、やはり今世で私は要らない娘なのよ……)

ぐっと奥歯を噛んで私情を排する努力をする。天羽は二言三言、一華になにかを話したあと、部屋を去った。障子の向こうから聞こえる天羽の足音が消こえなくなると、一華は途端に乱暴な様子でその場に座った。

「ああ、古臭い家ね。洋間のひとつもあればいいのに」
「い、一華さん?」

一華の豹変ぶりに朱音が驚くと、一華はふん、と鼻を鳴らして朱音を見た。

「高槻の家の方が、何倍も素敵だわ。ステンドグラスは美しいし、ベッドだってとても優雅よ。硝子窓はすき間風を防ぐから、障子なんかよりよっぽど有能だし」

部屋のあちこちを睨みつけながら、一華が悪態をつく。確かに高槻の家は西洋風建築で、家族がそれを自慢に思っていたことは、朱音も知っている。

「で、でも、畳も落ち着きますよね」
「狭苦しいじめじめした使用人部屋に居たお姉さまには、似合いの場所ですわね」

蔑視の視線を向けられて、朱音は言葉を継げなくなった。確かに朱音は一華のようにあか抜けないし、彼女のように知識も趣味も、最先端の人間ではない。しかし。

「ですが……、天羽さまは一華さんの為にこのお部屋を用意してくださったのですから、まず感謝を……」
「あら、妻の為に最適な部屋を用意できないなんて、殿方としてどうかと思うわ。私は何もかもを捨てて、天羽さまのもとに嫁いだのですもの」

一華に言われると、そう言うものだろうか、と思えてくる。しかし、なんとも朱音には飲み込みにくい意見だとも思う。

(私は幽世に連れて来ていただいて、今までより素晴らしいお部屋をいただいたから、天羽さまに感謝したのかしら……? ……ううん、違う。天羽さまのお心づかいが、嬉しかったのだわ)

そう思うと、一華には天羽と結ばれてもらう必要があるからには、天羽のことを嫌いになって欲しくないし、天羽にさりげなく一華の好みそうなものを揃えてもらうように口添えしたほうが良いかもしれない。朱音の時も、自分が選んだものだが、と前置きしていたし、一華と朱音は好みが違うのだから、ここは朱音の出番だろう。
一華の羽織を衣桁に掛け、くつろいでもらう為に茶を淹れに台所へ向かう。台所では鞠という天羽の眷属の一人が居り、彼女に挨拶をした。

「すみません。本日、天羽さまの花嫁として幽世に参った一華さまの付き人です。お茶をいただきたいので、急須とお湯呑みを貸して頂けますか」

朱音の言葉に鞠はにこりと笑って、どうぞ、と台所を空けてくれた。
鞠は、前世で朱音の身の回りを世話してくれた、天羽の眷属だ。とても気さくで、気が回る人で、明朗な彼女に朱音はすぐ打ち解けたのを覚えている。

「お美しい花嫁さまを天羽さまが迎えられたので、屋敷のものとして、喜んでおります」
「ありがとうございます。ですが、一華さまは現世の何もかもを捨てて幽世にいらっしゃいましたので、不安に思われることも多いかと思います。鞠さまも、もし気がつかれましたら、一華さまにお声を掛けて頂けますか?」

朱音の願いに、鞠はにこりと頷いてくれた。

「あと、もしよろしければ、天羽さまに、一華さんのお部屋に洋風のものを、ご用意できないか、おたずねいただけますか? 私からもお願いをしてみますが、一華さんは現世で西洋のものに慣れ親しんでおられたので、現世と全く違ってしまった環境が、お寂しいようです」
「わたくしでお力になれれば」

頷いてくれた鞠に感謝して、台所を去る。香り高い茶を淹れ、一華の元に戻ると、障子を開けると同時に、なにかが朱音の額に当たって床に落ちた。カランとそこに落ちたのは、一華の帯留め。茶を載せた盆を案(つくえ)に置き、帯留めを拾って振り向くと、今度は淹れたばかりの茶を投げかけられた。

「遅いですわ。ひとり現世を離れて心細い私を置き去りにして、なにをしてらしたの?」
「も、申し訳ありません……。台所で屋敷の方にお会いしたので、一華さんが心細いご様子でしたら、気に掛けて頂くようお願いしておりました」

朱音の言葉を聞くと、一華は目を吊り上がらせた。

「まあ、お姉さまはなんて気が回らないの。嫁に入った家で、夫の身内に心配を掛けることが、妻の美徳に当たると思ってらっしゃるの?」

ぴしゃりと強い口調で言われて、言葉に詰まる。一華の為にと思った行動が、彼女の矜持を傷付けることになるとは、思わなかったからである。前世で自分が鞠に親身にされて嬉しかったからと言って、それが一華の考えと同じであるはずがなかった。完全に朱音の落ち度だ。

「も、申し訳ございません……」
「人の心も、慮れないのね、お姉さまは」

ぐさり、と、心の臓に、釘が刺さったような痛みが走った。俯き、手をぐっと握る。
もしかして。前世で命を絶たれたのは、人を思い遣れないことが原因で、國を守護し、安寧に導く天羽の妻として相応しくないと烙印を押されたからなのだろうか。
今までの生を思い出す。高槻でなにひとつ満足に出来なかった時間。あれらは家族の気持ちを思い遣れなかったからなのかもしれない。だから家族は、朱音を重んじなかったのだ。父母の期待に応え続けてきた一華こそが、彼らの気持ちを大事に出来ていたのだ。
目の奥が熱くなる。涙が染み出そうだ、と思った時に、脳裏にぱちぱちと光が明滅した。瞬間、朱音は一華に覆いかぶさる。

「きゃっ!」
「……っ!」

パン! と大きな音をさせて、女郎花の活けられていた花瓶が割れた。破片は四方八方に飛び散り、一華に覆いかぶさった朱音の手のひらを傷付けた。つ、と血が滲む。突然のことで、庇われた一華が驚き目を丸くしていた。

「な……、なに……」

何が起こったのか、理解が出来ない。前世ではこんなことは起きなかったからだ。だけど。
朱音は一華から身を引いて、立ち上がった。

「一華さんにお怪我がなくて、良かったです」

そう言って微笑み、箒と塵取りを借りに、部屋を出た。