その瞬間に思い出したのは、天羽から聞いた最後の言葉だ。

『やっとお前という最愛に出会えたと思ったのに』

もしこのまま一華が天羽と夫婦になったとして。
前世の朱音と愛し合ったように、今世では一華と愛し合った末に、天羽にまたあの悲しい出来事が起こらないだろうか。

(……そんなこと、あってはならないわ……)

自分が天羽に見いだされなかったことはこの際、どうでもいい。それよりあんなに悲痛な天羽の叫びを、朱音は二度と繰り返してはいけないと思った。
思えば生まれ変わる前に天羽にこの夜会の会場で求婚されたとき、急なことに驚いて天羽の前で何も言えなかった朱音に、姉の一華が殿方から求婚されたらどうしたらいいかだとか、嫁ぐことが不安なら、暫くの間自分が一緒に行ってだとかの助言をくれた。心底安心した朱音は天羽に願い出て、不調法ものなので、しばらくの間、女学院で学んだ経験のある一華も一緒に居てはいけないだろうかとお願いした。天羽は寛大に受け入れてくれて、だから神の花嫁としての礼儀作法を、朱音は幽世に行ってから一華に教わった。
もしかして。
今世で天羽の悲嘆を防げるのが、未来を知っている朱音だけなのだとしたら、朱音は生まれ変わる前に一華が朱音に寄り添ってくれたように、一華の幽世行きに同行し、せめてあの悲惨な出来事を二人から遠ざけるべきなのではないかと考えた。

「どうした! 高槻の! さては会場で俺と踊りたいのか!」

まだ朱音の手首を握っていた男がそう叫び、ならばと朱音を引っ張って建物の方へと歩を進めた。
それを。
渾身の力で払いのけ、履きなれない洋靴で庭を駆けた。ドレスを摘まむが、裾は庭木に引っ掛かる。それでも、一華が幽世行きに頷く前にと、それだけを頭に建物に入る。
闇夜に慣れた目はシャンデリアの明かりにくらみ、しかしそこに踏ん張り立つと、天羽を渾身の力で呼んだ。

「天羽さま!」

女の大声に、歓談していた人々が振り向く。多くの視線を注がれて、朱音は一瞬たじろいだ。人々の一驚は、すぐに蔑視の視線に変わる。それもそのはず。庭を駆けた際に裾が引っ掛かったドレスはところどころで破れたり葉が付いたりしており、髪もすこし乱れている。

「まあ、どなたですの? あんなみすぼらしい格好で」
「それも、女が大声で。慎みが足りませんわ」

冷ややかな目を一身に浴び、朱音はひるんだ。朱音への悪評はそのまま高槻への悪評となる。しかし人の集まりのその向こう。長身に水色の長い髪を束ねた天羽がいたから、朱音は彼に、一華に歩み寄ることが出来た。

「天羽さま」
「お姉さま、そんなみっともない姿で天羽さまにお近づきにならないで」

天羽に寄り添い朱音の言葉を遮ったのは、一華である。しかしこのまま一華が天羽と結ばれると、朱音に起こったことが、一華に起こってしまう。一華はこのあと、父と母の期待を一身に背負って幽世に赴くはずであるし、あの出来事が本当に再現されてしまったら、悲しむ人しか居ない。朱音はこくり、と喉を鳴らすと、深呼吸を一度してから、再び言葉を発した。

「不調法もので申し訳ございません、天羽さま。私は一華の姉でございます。お願いがあって拝顔いたします。一華の幽世行きに、私も付き添うことは出来ませんでしょうか」

ホールがどよめき、一華が目を吊り上げる。懇願に、天羽が朱音を見た。

「なにを仰っているの、お姉さま。まさか幽世までついてきて、私にとって代わろうというんですの?」
「違います、一華さん。あなたを、救いたいの」
「救うって、なにから? 私から見たら、お姉さまが幽世まで付いてきて、天羽さまに媚びを売る方が、お姉さまに救われるよりよっぽど嫌だわ」

どうしよう。一華にとっては朱音が幽世へついていくことは、目の上のたん瘤より鬱陶しいことらしい。一華の未来が危険かもしれないと言っても、戯言だと思われるだろうし、なにか一華にとって有益なことでないと、彼女は頷かない。
朱音は意を決すると、一華の手を引いてホールの端へ連れてきた。手で口を覆い、一華の耳にそっと語り掛ける。

「一華さん。私、ちょっとだけ先のことが、時々分かるんです……。今朝お味噌汁を一華さんに掛けないようにお椀を引けたのも、一華さんが腕を引くのが分かったからなんです……」

そう。父に腹を蹴られて起きた時から、朱音は生まれ変わる前の記憶を持っている。だから今朝は一華が腕を引くのが分かったし、さっきは老人のことを知っていた。……だからと言って、全てに上手く対応できるわけではない。さっきは結局、老人に手を握られたわけで、そう言う風に、上手くいかない時もあるだろう。
しかし、今後朱音は、なにがなんでも天羽と一華の悲劇を回避すると誓えた。それが、生まれ変わって立場が入れ替わり天羽の妻となる一華への、……ひいては天羽への愛の印だった。
朱音が秘密を告白すると、一華の目が大きくまんまるに見開かれた。驚きと疑念と。だから朱音は、大事なことをもう一度言った。

「幽世で、一華さんの身に何か起きるかもしれない。それが、分かるんです。私に、止めさせてください」

一華の喉は、ごくり、と鳴った。朱音は続ける。

「それに、まったく世界の違う場所に行ってしまうと、不安や混乱もあると思います。こちらでの婚姻でしたら、時々実家を訪れる、なんてことも容易いかもしれませんが、幽世へ行くと、こちらとは自由に行き来は出来ないでしょうし、そういう時に、不安をぶつける相手は、居た方がよくありませんか……」

前世で一華が朱音に言ってくれたように、彼女の性格も考慮していってみると、一華は目をすがめ、朱音を観察した。そして、くっと右の口の端を上げると、射抜くように朱音を見てからそのまま笑った。

「哀れなお姉さま。よっぽど件の方に嫁ぎたくなくて、そんなことを仰るのね」

蔑視のまなざしだった。朱音は焦る。二人を悲しみに暮れさせたくない。

「ち、ちがうんです、私は……!」

一華は朱音から離れ、腕を組み顔を背けた。どうしよう、と焦る朱音の前で、言葉が続く。

「ふん。でも、良いですわよ。お姉さまの言うことが本当なら、國の守護神である天羽さまの妻に災いが起こらないようにするのは、高槻の使用人であるお姉さまにとって十分すぎるほどのことですし、私も誰も本音を打ち明けることが出来ない嫁ぎ先で孤軍奮闘しなければならないのは、少し気にしていたところですわ」
「一華さん……!」

目の前が開けた。二人が悲しむ未来を避けられるかもしれない。いや、一華に頷いてもらったのなら、なんとしてでも避けなければならない。血を分けた一華の為に。なにより愛する天羽の為に。

「私から天羽さまに特別として口添えをして差し上げるわ。その代わり、ちゃんと仕事をして下さらなければだめよ」
「勿論です!」

朱音は一華に感謝した。そして誓いを新たにしたのである。


必ず、悲劇を止めて見せると。