夜のとばりが降りた頃、闇夜に輝く明かりを灯した会場には多くの紳士淑女が集まってきていた。みな美しく着飾って、馬車や車から降りてくる。朱音も馬車に揺られながら、会場である建物の前まで来た。……ひとりで。
一華たちは別の馬車で先に会場に到着している。件の老人と引き合わせるときは家族として共に居てくれるようだが、そのほかの時間を朱音と一緒に過ごすのは嫌だというのが、一華と母の意見だった。それは前世でも同じ理由だったので、朱音には全く反対の意などなかった。それに。
(気にしないわ……、もともとそうやって扱われてきたんだもの……。それに、今となってはここまで馬車に載せてもらえただけでも感謝したいくらい……)
前世ではこれから件の老人に会いに行くのだと思っていたから、馬車の中でも希望はなかったが、今は天羽に会いたいという願望がある。だからと言って、家から歩いて行け、と言われたら、すこし途方に暮れてしまっただろう。
という訳で、前回も今回も、求婚者の老人に会わせたいという理由があったからこそ、朱音は馬車という便利な乗り物を借りられたことを、感謝している。
朱音は会場である建物の中には入らなかった。父から入るなと言われていたし、建物に入ったとしても、身分の高い人たちの中で学のない自分がどのように振舞えばいいか分からなかった。それを助かったと思った記憶も、朱音の中に鮮明にあったので、まるで最初の人生をもう一度なぞって生きているような感覚で、父からの言葉を聞いていた。
建物の前で馬車を下ろしてもらうと、正面玄関から逸れて、庭の方へと向かった。庭には西洋風の彫刻と、池には噴水、そして開け放たれた窓から聞こえる音楽と人々のざわめきがあった。
闇に浮かび上がる煌々とした明かりのように、朱音の心もまた、明るく照らされていた。
(もうすぐ、天羽さまが現れるんだわ……。そして私は言うの。『どうされたんですか?』って……)
そうして天羽の探しているアクセサリーを探し当て、会場で天羽に求婚される。あとは天羽のもとで、あの毒杯を手に取らなければ良い。
朱音の心の光は、しかしなかなか天羽を庭に連れて来てくれない。池の周りをぐるりと一周しても、天羽は現れなかった。
(……おかしいわ……。生まれ変わる前にお会いした時は、確か池の周りを散策していて、お会いしたはず……)
そわり、と朱音の心が揺れた。ゆらゆらと、朱音の心にうごめく闇がしのびよる。その時。
「おい、お前!」
大きな声が、夜の漆黒を切り裂く。はっとして振り向けば、そこにはひとりの老人がいた。
……老人は大きなぎょろりとした目でやけにじっとりと朱音を見てきている。視線は朱音の顔をなめ、首筋をなめた。ぞわり、と全身が総毛立つ。
……知っている。この視線を、私は知っている……。
己の感覚に、記憶が呼び起こされる。この老人こそが、朱音が父によって売られる相手なのである。そして思い出す。天羽は、この老人とのやり取りから朱音を助けてくれたのだ。しかし、天羽との再会への期待で浮足立っていた心は、今、完全に恐怖に支配されていた。
「あ……、あの……」
手を握られ、そこからぞわりと恐怖が這い上がった。
恐ろしさに、声が震える。体もふるふると小刻みに揺れた。足はその場に立っているのがやっとだ。そんな状態の朱音に対し、老人はしわだらけな手をにゅっと伸ばすと、細い朱音の手首と掴んだ。ひっ、と声にならない悲鳴が漏れる。
「高槻殿の所の娘だな! お前を愛妾とする旨、父上殿に承諾いただいたぞ! さあ、来い! 今日からお前は、俺のものだ!」
喜色満面の気持ちの悪い笑みを浮かべて男が叫ぶ一方、朱音は混乱の中に居た。
(どうして!? どうして天羽さまとお会いできないの!? 確かに最初の人生では、突然現れたこの人から私を救ってくださったのに……!)
男は老年とは思えない馬鹿力で朱音を引きずって歩き始めた。泣きそうになりながら必死で抵抗するが、老人の怪力になすすべもない。その時、建物からわあっ、と大きな歓声が聞こえた。
「高槻伯爵のご令嬢が守護の神に認められたぞ!」
「百年ぶりの花嫁か!」
朱音はその歓声を、目を大きく見開いて聞いた。
守護の神が、高槻の令嬢……、つまり一華を認めた、と。
「……、…………っ」
歓声はまだ続く。高槻はこれで宮家とつながりを持つらしいとか、花嫁は直ぐにでも幽世へ行きたいらしいとか。
うわんうわんと騒ぎの言葉が頭の中を駆け巡る。何故、どうして、という問いばかりがその言葉たちを追いかける。
(どうして……。どうして天羽さまは私じゃなく、一華を……)
高まっていた期待が一気に打ち砕かれる。この、天からもらったやり直しの人生は、天羽と添い遂げるためのものではないのか?