夏の頃。

 閉鎖的な村の悪しき風習として、日照りがひと月以上続いた時に行われていることがあった。それは、龍神が棲むと言われる深い谷の底へ、贄を捧げること。贄に選ばれるのは十五歳以下の少女で、それは幾度となく繰り返されて来た村の中の暗黙の了解でもあった。

 その始まりは、遠い昔の誰かのひと言だったのだろう。

「龍神様のお怒りを鎮めれば、雨が齎され、村は救われるだろう」

 谷に贄を捧げたその後に雨が降ったのをきっかけに、夏に日照りが起こった時は、龍神様に贄を捧げればどうにかなるという信仰が生まれたのだ。しかしそれを続けていればどうなるか······。

 村の女が減り、結果子供が減り、次に日照りが起これば村を捨てるしかなくなるというところまで、村長は追い詰められていた。

「お前なら、問題ないだろう」

 目の前の少年の肩に手を置き、村長はうんうんと頷く。何がどう問題ないというのか、疑問符だけが浮かぶ少年を無視し、村長は村の者たちの前で告げる。村の者たちはそれには逆らえず、同情の眼差しだけが向けられた。

「贄は少女と昔から言われているが、残っている文献には男が駄目とは書いていない。駄目でなければ良いということだ。そうは思わんか?」

 村人たちはお互いの顔を見合わせながら、村長に聞こえないように囁き合う。

「なんであの子が?」

「可哀想に。村長が代わってから、ずっと酷い扱いを受けてるというのに、」

「しかし、贄を捧げなければ、俺たちもどうなるかわからない、」

 そんな村人たちのことなど露知らず、村長はふんと鼻を鳴らす。

「まあ、見た目はこの村で一番いいから、龍神様もお喜びになるだろう」

 少年はそこでやっと、自分の立場を理解することになる。

「病弱で畑仕事もまともにできない役立たずだ。どうせ長くは生きられない身。最後に村の役に立つなら、こやつも本望だろう」

 本人の意思はそこには必要なく、すべては村長を中心に勝手に決められていく。


 ――――ひと月後。

 白と赤の巫女装束で綺麗に着飾られた少年は、谷の端に立たされていた。
 後ろに控えるのは、村長と村人が数人。
 底が見えないその谷を見下ろし、少年は覚悟を決める。

(私などの命で村が救われるのなら、)

 しかし、自分で飛び降りる勇気はなく、予め村の者に背中を押してもらうように頼んでいた。その細身の身体がぐらりと前に傾ぐ。

 押された背中の感覚がまだ残る中、その身は深い深い谷の底へと落ちていった。


******


 樹雨(きさめ)は、生まれた時から身体が弱く、同じ歳の頃の村の若い衆たちと比べても細身で背も低かった。村の年老いた女たち以上に畑仕事も力仕事もできないので、裁縫や料理を任されることの方が多かった。

 季節の変わり目には体調を崩すこともあり、それこそただ飯ぐらいと言われても仕方ない。それでもここまで育ててもらえたのは、その気立ての良さや美しい容姿のお陰だろう。いつも優しく穏やかで、小さい子供や年寄りたち、一部の村の若い衆たちは、みんな樹雨を好いていた。

 彼の両親は早くに亡くなっており、十二歳くらいまではその面倒を村の皆で看ていた。それはその当時の村長が、とても慈悲深いひとだったからでもある。

 しかしその村長が病に倒れ帰らぬ人となり、代わりに新しい村長が選ばれた。その男は昔から樹雨のことを邪険にしており、その日から扱いががらりと変わる。

 元々住んでいた家を追われ、「何ひとつ役に立たないお前には、ここが相応しい」と、随分と使われていないボロボロの物置小屋に押し込まれた。

 雨が降れば屋根の隙間から水が滴って来るような酷い小屋で、冬の頃には凍えるほど冷たい風が入って来る。場所によっては雪が積もってしまい、それを外に出すのもひと苦労だった。

 だが今の頃によく降るはずの雨も、もうずっと降っていない。
 畑も人も、このままでは干からびてしまうだろう。井戸の水を汲むのも二日に一度だけと制限されているが、いつかは枯れてしまうかもしれない。

 樹雨は、もう三日ほど水を口にしていなかった。

 そんなひどい扱いを受けながらも、なんとかここまで生きて来れたのは、村長とその取り巻き以外の他の村人たちが、こっそりと助けてくれたお陰だろう。

 贄となる前日、樹雨は自分に善くしてくれた者たちに礼を言いに回った。皆がその手を握り、すまないと頭を下げる。その度に、

「いいえ、良いのです。こんな私に今まで善くしてくださり、感謝しかありません」

 と、樹雨は微笑んだ。
 そして、ひと通り挨拶を済ませると、住み慣れてしまった物置小屋へと戻る。

(明日、私は龍神様の贄になる。そうしたら、雨が降って皆が助かるんです、よね? なら、私は、)

 死んでも良い、と思う。
 怖くないと言えば嘘になる。
 龍神様の贄になるということは、その命を捧げるという事。

(こんな私でも、誰かの役に立つのなら、)

 樹雨は指を絡め、祈るように胸元で握りしめる。
 昼間の熱が残ったまま、夜になっても空気が暑かった。どちらにしても眠るのは惜しく、夜明けまでの残り少ない時間、祈り続けた。


 どうか、この地に恵みの雨を――――。
 この命でそれが叶うなら、どうか――――。

 皆に、龍神様の加護を――――。



 ああ、またか――――。

 何の嫌がらせなのか。ひとの子とは、どうしてこうもわけのわからないことをするのだろうか。
 
 数年に一度、上からこの谷底に落ちてくるモノ(・・)に、この谷に棲む龍は嘆息する。

 時に悲痛な悲鳴を上げ、時に「死にたくない!」と叫びながら。落ちてくる、モノ。
 この谷はそうやって落ちてきた、少女たちの血で染まっていく。

 その度にその不浄なるモノを洗い流すため、雨を降らす。数日降らせても消えないこともあった。
 本当にいい迷惑だ。
 時間が経って肉が腐り、骨になって朽ちる少女(ひと)だった、モノ。そんな白い骨がこの谷底には何十体も転がっている。

 そしてまた、それは降ってきた。

 たまたま谷底を龍の姿で飛んでいた時だった。

 それは、いつもの少女たちとは違い、悲鳴など上げず、ただ目を閉じて祈るように落ちてきた。そのひとの子の姿を目にした時、龍は思わず化身の姿となり、谷底に叩きつけられる前に、細い身体を抱き止めていた。

 落ちてきたひとの子は、すでに気を失っており、龍の化身は金眼を細める。腕の中のひとの子には見覚えがあった。この先の村の近くに在る、今はもう忘れ去られた小さな古い祠。その祠に時々花や供物を供えてくれている、信心深い子だった。

 巫女装束を纏っているのは今までの少女たちと同じだったが、このひとの子は、どうやら少女ではないようだ。上で何が起こっているのか、このひとの子はなぜ自ら谷底に身を投げたのか。

 そもそもどういう理由で、少女たちはその身をここに投げているのか。

(この者に訊けば、なにかわかるかもしれない)

 龍は、化身としてひとの姿に顕現している。それは衆生(しゅじょう)の前で本来の龍の姿を見せることは、良くないとされているからだ。
 神と名の付く存在は皆そういう考えの者が多く、大概の者はこうやってひとの姿を取る。
 化身とは、ひとの前で神が取るひとの姿のこと。


 龍の化身は、腕の中のひとの子を大事そうに抱き上げたまま、まだ太陽が昇ったばかりだというのに、どこまでも深く薄暗いその谷底から、音もなく姿を消した。


******


 枕元で焚かれた香炉の良い匂い。至る所に飾られた花や足元に自然に生えている草木が、寝台とその横の小さな棚以外なにも置かれていない空間に、彩を添えている。
 壁のない、四本の柱と屋根だけの四阿(あずまや)のような造りの建物のようだ。

 寝台の上で眠る、巫女装束を纏った少年の顔色は悪く、龍の化身はその横に腰掛け、生白い頬に触れた。体温も低いが、一応生きてはいるようだ。

 珍しい色素の薄い茶色がかった長い髪の毛が、少年をより薄命に思わせる。

 頬から手を放すとほぼ同時に、長い睫毛がふるえ、ゆっくりとその瞳が開かれる。その瞳も髪の毛と同じ茶色で、目覚めたばかりのぼんやりとした表情で、こちらを見上げてくる。

「······気が付いたか、ひとの子」

 低いが安堵したかのような声でそのひとは言った。樹雨は大きな瞳を何度か開けたり閉じたりした後、視界に映る知らない青年に対して、思考を巡らせる。

「ここは俺の領域だから、安心していい。動けるようになったら、好きに歩き回ってくれてもかまわない。俺は宮に戻る。嫌でなければ、後で訪ねてくると良い」

 着物に似た、上等な異国の白と青の服を纏う青年の瞳は、月のような静寂を湛えた金眼で、真ん中で分けられた前髪と腰の辺りまである長い黒髪の一部分が、珍しい薄青色をしていた。

 表情は薄く、しかしそれに対して冷たいとは思わなかった。なぜなら、その声はどこまでも穏やかで、心地好かったから。

 横に腰掛けていた青年は寝台から立ち上がると、樹雨の返事を待たずに、衣を翻してどこかへ行ってしまった。

「····私、は······生きて、る?」

 やっと口から出た声はか細く、思った以上に小さくなってしまった。
 樹雨は身体を起こし、辺りを見回す。よく見れば、花や草木で彩られた四阿(あずまや)の周りは池になっており、その先には赤い橋が架けられていた。

 さらに奥に広がるのは、見たこともない美しく立派な白い宮のような建物。そして建物と今いる場所の周りを囲うように、ごつごつとした岩壁が広がっている。
 その間から、大きな水飛沫を上げて流れ落ちる滝があった。下に溜まった滝の水が、この池に流れ込むような構造になっているようだ。

 流れる滝の所々に架かった五色の虹に、まるで別世界にでも来てしまったかのような錯覚を覚えた。

「ここは、もしかして······あの世? ではあの方は、神様?」

 首を傾げ、樹雨はひとり言を呟く。
 もしそうなのだとしたら、自分はちゃんと贄としての役目を果たせたのだろうか?

 背中を押され、谷底へと落ちていくあの間隔を思い出し、背中がひやりと冷たくなった。途中から意識は途絶え、なにも憶えていない。

「私······ちゃんと贄になれたんでしょうか?」

 寝台の敷物の滑らかさや飾られている花々の匂い、澄んだ空気や頬を撫でる風の心地好さも、死んでしまったにしては鮮明すぎる。しかし死んだ経験などないので、これが"死"だと言われたら、納得してしまうだろう。

 寝台から降り、裸足のまま歩き出す。
 自由に見ても良いとあのひとは言ってくれた。

 樹雨は四阿(あずまや)を後にし、赤い橋を渡る。その先に在る、宮の方へと自然に足が向いていた。あのひとなら、なにか知っていそうだった。ここの主のようだし、ここがどこなのかも教えてくれるだろう。

 春と夏の間くらいの心地の良い爽やかな風と、遠くの岩壁の間に見える大きな滝の音に、思わず足を止めて見入ってしまう。なんて美しい場所なのだろう、と樹雨は眼を細めた。

 ここには水もあり、日照りで困ることもないのだろう。

「村の皆にも、龍神様の恵みの雨が届いていればいいのですが、」

 樹雨はひとり、胸に手を当てて祈るように瞼を閉じる。


 どうか、恵みの雨が村に降り注ぎますように。
 そう、願うばかりであった。


******


 幼い頃から、ひとりでよく行っていた場所があった。村の外れ、谷の近くで見つけた小さな祠。見た目も古く、最初に見つけた時は酷い有様だった。

 小さな幼い手で草を毟ったり、転がっている石を移動させたり、毎日通って少しずつ綺麗にしていき、どうにか元の姿を取り戻す。

 来る途中、道端で見つけた白い花を摘み、お供え用として持っていこうと胸元で握りしめる。
 供物は自分が食べるはずだった餅をひとつ、袖に忍ばせて。

 谷に向かう道から右に逸れ、木々に囲まれた獣道を歩く。着物から覗く膝から下の素足は枝や草で切れてしまい、薄っすらと付いたいくつもの傷に血が滲んでいた。

 この数日、ここに来ることができなかった。

 母親が病で帰らぬ人となった。父親も二年前に亡くなったばかりで、元々身体の弱かった母親の負担が多くなり、とうとう倒れてしまったのだ。それからはあっという間で、樹雨が七つになったばかりの数日前に、亡くなってしまったのだ。

 孤児となった樹雨を不憫に思った村長が、村の人たちに樹雨を助けるように言ってくれたおかげで、母親の簡易的な葬儀も埋葬も終わり、悲しい気持ちを秘めたまま、気付けばこの祠の前に来ていた。

 祠の小さな扉を開け、そこに納められている透明な玉の前に、道端で摘んだ白い花を添え、袖から小さな餅を取り出し、手を合わせる。

「龍神様、お母さんが天の国に行けるように、どうかお導きください」

 この祠に祀られているのがなんの神様なのか知らなかったが、この近くにある深い谷に棲むという、龍神様の祠だと信じて今まで祈ってきた。

 この祠にあるその透明で美しい玉は、どれだけ眺めていても飽きない。いつからここに在ったのか、そしてどれだけの間忘れ去られていたのか、樹雨には知る由もなかった。

 それからまた数年経って、十二歳になった。時間を見つけてはここに来て、少ない供物と花を供える。良くしてくれていた村長が亡くなった。

 すぐに新しい村長が決まり、住んでいた家を追われた。新しい家は物置小屋だったが、樹雨は特に気にならなかった。
 元の家はひとりでは広すぎて、寂しい気持ちが常に付きまとっていた。

 しかし、今の物置小屋はひとりであれば十分な広さで、屋根さえちゃんと修理すれば、雨風も防げるだろう。

「龍神様、ごめんなさい。これからは、あまりここに来れなくなるかもしれません。今日は供物もこれだけで······あ、お花はたくさん咲いている場所を見つけたので、いつもよりも多く持ってきました」

 自分が食べるものすら今は少なく、善意で助けてくれる村の人たちのおかげで、なんとか生きていられた。
 今年はあまり作物も獲れず、皆自分の家のことでいっぱいいっぱいだった。樹雨は元々細身だったが、前以上に腕も足も細くなってしまっていた。

 数日に一度がひと月に一度、ひと月に一度が数ヶ月に一度。


 そして、それから二年の年月が流れた――――。



 贄として捧げられることが決まった日、これで本当に最後と、あの祠へ足を向けた。祠の扉を開けた時、樹雨は大きな瞳をさらに大きくして、思わずその周りを、ぐるぐると何かを探すように回り出す。

「そんな······どうして?」

 焦る気持ちと、泣き出しそうな感情に、胸が酷く軋む思いだった。

 自分以外、誰もこの場所は知らないはずなのに。誰かが見つけて、あの美しい玉だけ持っていってしまった?

 ないないないない······どこにも、見当たらない。

 その場にへたりと座り込み、樹雨は俯いて地面を見つめていた。

「龍神様、ごめんなさい。全部、私のせいです······私が、自分の事で精一杯で、ここにずっと来れなかったから」

 ぽたぽたと堪えていたはずの涙が、手の甲を、地面を、濡らしていく。草に落ちた雫が弾けて、土を潤すように。
 贄として、自分がこの村に雨を齎そう。そうしたら、この罪も赦してもらえるだろうか?

 ふわりと夏の乾いた風が頬に触れた。思わず、樹雨は顔を上げる。今、なにか、不思議な感覚を覚えた。気付けば涙が止まっていた。吹いた風で乾いたのだろうか。それともあまり水を飲んでいないから、涙まで枯れてしまったのか。

 しばらく座り込んでいたが、そっと扉を閉め、樹雨はゆっくりと胸元で両の指を絡めて祈る。

「龍神様、私はもうここには来ることができません。玉が消えてしまった今、あなたももう、ここにはいないのですか? もしまだ近くにいるのならば、どうか、村をお救いください。私のことはいいですから、どうか、村の皆を、お助け下さい。恵みの雨を、降らせてください」

 目を閉じて一生懸命祈る少年の後ろに立つ、端正な顔立ちの青年がいた。少年とは異なる、異国の白と青の服を纏う青年の瞳は金眼で、真ん中で分けられた前髪と腰の辺りまである長い黒髪の一部分が、珍しい薄青色をしていた。

 玉が消えたのは、少年のせいではない。どこの誰とも知らない者がこの祠を見つけ、祀られていた玉を持ち去ったのだ。それが、この少年が救って欲しいと懇願する、村の者の内の誰かであることを、知らないのだろう。

「どうして、もうここに来ることができない?」

 玉が無くなったから?
 確かに、何も祀られていないただの祠に祈るような物好きはいないだろう。

「なぜ泣いている?」

 そんなに玉が大切だったのだろうか?

 あれはただの水晶だ。遠い昔に、龍神を信仰していた村の者たちが勝手に建てた祠の御神体で、祀ったものが雨を齎すと信じていた。

 ひとり、またひとりと、いつの間にかこの祠の存在を知る者さえいなくなり、随分と長い間放置されていた。

 そんな中、何年も通う者が現れる。小さな子供だった。祠の周りを掃除したり、勝手に話しかけてくるその子供は、いつも道端に咲いていた雑草のような花と、粗末な供物を持ってやって来るのだ。

 こんな場所に子供ひとりで来るなど、親の顔が見てみたいと思った。が、どうやらその親はどちらも亡くなったらしい。

 身寄りを失った子供は少年になり、そして今、ここに来るのはこれが最後だと言う。姿を見えないようにしている龍の化身は、その金眼を細める。

 そもそも、どうして自分がひとのために、雨を降らせないといけない?
 関りもない村の人間を、救わなければならない?
 なぜ、この者は自分自身のことを願わない?

 その消え入りそうなほど白い頬に触れる。涙を拭う。言葉をかける。目の前の少年には届かないだろうと、知っていながら。

「俺は、どうして、」

 こんなにも心を乱されるのか。
 ただのひとの子に。
 その涙に、胸の辺りがきしきしと鈍い音を立てている。

 そしてあの日、空から降ってきたその少年に、手を伸ばす。

 もしここを通っていなければ、少年は谷底に叩きつけられ、四肢の骨が粉々になり、血肉が飛び散り、人知れず薄暗闇の中で死んでいただろう。


******


「······贄?」

 目覚めたその足で、樹雨は宮へと向かった。そして、ここの主であろう青年の前に跪くと、自分が誰であり、なぜ谷底から落とされたのかを説明する。それを聞いた目の前の美しい青年は、途端、嶮しい顔つきになった。

「はい。私は、龍神様の贄に捧げられた供物で······あ、あの、もしかしてあなた様が、龍神様なんですか?」

 おどおどとしながらも興味があるのか、跪いたまま上目遣いで見上げてくる樹雨に、青年、もとい龍の化身は嶮しかった顔を元の無表情に戻した。

「俺の名は白南風(しらはえ)。この谷に棲む龍神だ。ここは特別な領域で、俺とお前しかいない。樹雨と言ったな? なぜ贄になどなったのだ?」

 樹雨は素直に自分が贄になった経緯を話す。
 とても淡々と。
 そして言い終えた後に、なにかを諦めるかのように、小さく笑った。

「贄として、あなた様にこの身を捧げます。だからどうか、村をお救いください」

 それはどこまでも、曇りのない声。

 何の迷いもなくそんなことを口にする樹雨に、白南風(しらはえ)はあの時と同じ感情が甦る。どうしてこの者は、自分を犠牲にしてまで村を救えと言うのか。

 顔には出なかったが、怒りと苛立ちと悲しみで、感情がどうにかなりそうだった。

「身を捧げる? そんなに俺に、その身を粗末に扱われたいと?」

 白南風(しらはえ)は樹雨の腕を掴み無理矢理立たせると、そのままその身を抱き上げた。驚いた顔で樹雨は見上げてきたが、抵抗するという選択肢を持っておらず、これから自分が何をされるかも解っていないようだった。

「ひとがどうなろうと、俺の知った事ではない」

 気付けば寝台に組み敷かれ、自分を見下ろしてくる白南風(しらはえ)を見上げていた。その表情はどこか悲し気で、樹雨はただそれを見つめることしかできなかった。月のような金の瞳に吸い込まれそうになる。

 樹雨は、自分でも気付かない内に泣いていた。ぽろぽろと零れてくる大きな雫が、顔の横を伝って敷物を濡らしていく。どうして泣いているのか。本当にわからない。わからないけれど、なぜか、あたたかい気持ちになった。

 怖い、ではなく、悲しい、でもなく。
 その感情がなんなのか、想像もつかない。

 そ、と涙を拭われる。
 同じくして、組み敷かれていたはずの指先から、温度が消えた。

「怖い思いをさせた····すまない、」

 自分の感情のままその細い身体を組み敷き、今にも襲いかかろうとしていた白南風(しらはえ)は、樹雨を怖がらせてしまったことに後悔する。

 先程までの、怒りと苛立ちを含んだ強い感情が一瞬にして消え、樹雨の瞳から次々に零れ落ちる涙に、困惑した表情を浮かべた。

「ち、違うんです! そうじゃなくて······なんだか、嬉しくて」

 仰向けのまま、樹雨は解放された指先を胸元で絡めながら、自分を見下ろしたままの白南風(しらはえ)を見つめる。頬に触れられた指先はあたたかく、怖いはずがなかった。

 その慈しむような笑みに、白南風(しらはえ)は安堵する。

「本当にあなた様が龍神様なのだとしたら、私は、幸せ者なのです」

「自分の意思など関係なく、無理矢理贄に捧げられてもか?」

 そもそも贄など望んでいない。
 樹雨を贄にした村の者たちを、殺してしまいたいくらいだ。

 たったひとり、自分のために祈ってくれたこの少年を虐げた者たちを、喰いちぎってやりたいほど、怒りが込み上げてくる。

 しかし、それを目の前の者は望まないだろう。いつだって、他の誰かのために祈るような者なのだ。

「あの時、死ぬはずだった私の命は、白南風(しらはえ)様の物です。あなた様の役に立てるのなら、私は····」

 白南風(しらはえ)の話が本当なら、今まで贄として谷底へ落とされていた少女たちを、丁重に弔ってやりたいと思った。
 
 けれども自分たちは、都合のよい願いを乞う弱い人間。

 雨が降れば、龍神様がくれた恩恵だと信じる。でも雨が降らなければ、役立たずの神だと罵るのだ。

「でもどうか、村の人たちを怒らないでください。善い人もいるのです。自分たちも苦しいというのに、助けてくれた人もいます。住んでいた家を追い出した人だって、本気で虐げるつもりなら、屋根のある建物すら与えてもらえなかったはず」

 どうか、ひとを見限らないで欲しい。
 自分が信じていた、優しい神様でいて欲しい。

「なら、樹雨。俺の、龍神の(つがい)になるか?」

 (つがい)、つまり夫婦になるということ。

「俺の(つがい)になってくれ」

 その突然の求婚に、樹雨は目を丸くする。本来贄は少女が担うが、自分は女ではないと説明もした。しかし冗談を言っているようには思えず、返答に困っていると、白南風(しらはえ)が小さく笑みを浮かべた。

「答えは急がなくともいい。だが、雨を降らせろという、その願いはすぐに叶えよう」

 寝台から降り、白南風(しらはえ)はそう言うと、ぼんやりとしている樹雨を残して、部屋から出て行った。先程の四阿(あずまや)とはまた違い、その部屋は広く、必要最低限の物しか置かれていない。

 天井を見上げたまま、鳴り止まない心臓の音に、樹雨は眼を閉じることすらできなかった。その心地好くも息苦しい胸の高鳴りに、ぎゅっと衣を握り締める。

「龍神様の、(つがい)に? 私が?」

 雨を降らせてくれると、約束してくれた。(つがい)にならなくても。願いを、叶えると。ひとがどうなろうと関係ないと言っていたのに。

 その不器用な優しさに、胸の奥がぽかぽかとあたたかくなる。
 ずっと焦がれていた龍神様が、目の前にいる。

 これは、夢か幻だろうか。


 それくらい、信じられない今の状況に、樹雨はいつまでも起き上がれずにいた。



 日照り続きの村に慈雨の雨が降った――――。

 しかしどういうわけか、ある屋敷の上空だけが酷い雨雲に覆われた。その強さは屋敷を軋ませ、屋根を突き破り、まるで滝にでも打たれたかのような状態だったそうだ。そこに住む者はもはや居てもいられず、屋敷の外へと出た。

 その瞬間、屋敷の後ろから雪崩のように土砂が押し寄せ、その者を呑み込んでしまった。不思議なことに、屋敷一帯が土砂に呑み込まれたというのに、その者以外、そこに住んでいた他の者や周辺に住む村人たちには、まったく被害が及ばなかった。

 土砂から掘り起された時、すでにこと切れていたその者の手には、透明な水晶が握られていたとかなんとか。

 ――――数年後。

 村は日照りで苦しむことはなくなっていた。雨は定期的に必要なだけ降り注ぎ、作物も毎年豊作となる。数年前の災害で、土砂に呑まれて亡くなった前村長が握っていた水晶を見た村の年寄りたちが、その水晶が龍神様の御神体であることに気付き、祟りだと騒いだのも記憶に新しい。

 村人たちは年寄りたちの話から、谷の近くにあった古びた祠を見つけ、その水晶を元に戻した。そして村の皆で話し合い、古い祠を新しく建て替え、御神体である水晶を改めて祀った。それ以降、村人たちは収穫したものを供物として捧げ、定期的に龍神様へ祈りを捧げるようになる。

 村は、少しずつだが、かつての賑わいを取り戻していくのだった――――。


******


 樹雨は、白南風(しらはえ)(つがい)となることを決める。龍神の恩恵を受けたその領域は気の巡りが良く、すぐに体調を崩していた樹雨の身体も、不思議なくらい調子が良くなっていた。

 十八歳。あれから四年が経っていた。

白南風(しらはえ)さま、見てください、空に綺麗な虹が立っていますよ」

 滝の飛沫の影響で架かる虹とは別に、晴れ渡った澄んだ青が広がる夏空に、くっきりと架かった虹の橋を指差す。先程まで降っていた霧雨が止んで、元々晴れていた空に強い日差しが射し込んだ。

 途端、薄っすらと浮かび上がったその七色の虹が、いつの間にはっきりとした色合いで、青い空を彩っていたのだ。

 樹雨の横に立ち、そっとその薄い肩に手を置いて自分の方へ寄せた白南風(しらはえ)は、金眼を細めて同じ場所を見上げる。

「夏の雨は恵みの雨なんです。そこに虹が立つなんて、きっと神様からのおすそ分けですね、」

「お前は、いくつになっても変わらないな」

 その純真さに惹かれ、その涙に惹かれ、その微笑(えみ)に惹かれた。

「そうですか? ちょっとは大人になったつもりでいたのですが······あ、でも、白南風(しらはえ)さまは変わりましたね、」

「······なにか、不満でもあったか? あるならなんでも言ってくれ」

 その端正な顔を不安そうに歪めて、白南風(しらはえ)は樹雨を見下ろしてくる。そんな様子を見上げて、樹雨はくすくすと音を立てて笑った。

「不満などありません。あるはずがないです。白南風(しらはえ)さま、私が言ったのは、そういうことではなくて、」

 ずっと笑っている樹雨に、白南風(しらはえ)は首を傾げる。

「あなた様のそういう優しいお表情(かお)が、たくさん見られるようになったこと、私はなによりも嬉しく思うのです」

 四年前。
 寝台で組み敷かれたあの日、樹雨は零れる涙の意味を思い知った。あの時、確かに驚きはしたけれど、拭われたその指先に懐かしさを覚えたのだ。祠の前で泣いていた樹雨の頬を撫でたあの風。
 あれは、きっと――――。

「ずっと、私の傍にいてくださり、ありがとうございます」

 後で聞いたのだが、幼い頃、初めてあの祠を訪れた時から、白南風(しらはえ)は自分の事を見守ってくれていたらしい。谷の近くの祠から村への道までだが、なにかあったらといつも傍にいてくれたのだとか。

 それを聞いた時、ずっと胸の中にあった感情が込み上げて来て、また泣いてしまう。白南風(しらはえ)はなにも言わず、樹雨の涙が止まるまで頭を撫でながら傍にいてくれたのだった。

 そして、番となることを承諾した。

 あれからもう四年の月日が流れたのだ。この領域にいると時間の感覚がなくなるため、そんなに時が経っている気がしない。けれども確かに、ふたり、ここでその時間を過ごして来たのだ。

「俺の傍にいてくれて、ありがとう、」

 ずっと、自分のために祈ってくれてありがとう。
 ひととしての時間を失ってしまったことを、樹雨は後悔しているだろうか。

 龍神の番となることは、その時間を共有することを意味する。自分が生きている限り、死ぬことは赦されず、自分が死ねば共に死ぬ。そんな運命を背負わせてしまったことを、樹雨が本当はどう思っているのか。

 いつだって、樹雨は笑みを絶やさず、穏やかな気持ちで傍にいてくれた。

「番になれば、村には戻れない。ひととしては生きられない。それでも、」

「それでも、私は、白南風(しらはえ)さまと一緒にいたいのです。贄としてではなく、あなた様の番として、」

 そう、迷うことなく言ってくれたこと。
 その気持ちも。

白南風(しらはえ)さま?」

 珍しくぼんやりとしていた白南風(しらはえ)の顔を覗き込み、樹雨は首を傾げる。あの時も今も、樹雨はどこまでも美しかった。あの日、ある者に対して自分が下した結末を告げたら、その澄んだ水面のような心は淀んでしまうだろう。

 だから、その事は永遠に告げない。
 知る必要もない。

「樹雨、お前が欲しい」

 見上げていた樹雨の顔が真っ赤に染まった。それに満足した白南風(しらはえ)は、油断している樹雨を抱き上げ、小さく笑みを浮かべる。
 番になってからも、樹雨が大人になるまではと、口付けさえも我慢してきた。

 樹雨はその言葉の意味を知り、耳まで真っ赤になっている。もう自分も子供ではないし、あの頃よりも少しだけ大人っぽくもなったと、思う。

 白南風(しらはえ)に対して、触れたいと思ったり、その先のことも意識はしていた。
 ただ、その知識は口付けくらいで、あの時組み敷かれた感触を思い出すと、胸の辺りがざわざわと落ち着かなくなることもあった。

 抱き上げられたまま、四阿(あずまや)の方へと連れられて行く。飾られた花々に囲まれて、(かぐわ)しい匂いと澄んだ空気に、少しだけ気持ちが安らぐ。寝台にそのまま降ろされ、白南風(しらはえ)が見下ろしてくる。

 あの日の続きを、希う自分がいた。
 それは恥ずかしくも、嬉しい気持ち。
 触れられた唇に、あたたかさを感じながら。
 深く結ばれるという感覚に、酔いしれた。

 あの日、谷の底へ贄として捧げられた少年は、やがて龍神の番となり、自分が信じるその神に、永遠に焦がれ続ける。


 夏の果て。
 また、廻る。

 終わることのない、この箱庭の中で――――。 




~ 夏の章 了 ~



❀✿❀✿

最後まで読んでくださり、ありがとうございましたm(_ _)m

柚月なぎ

✿❀✿❀

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