夏の頃。

 閉鎖的な村の悪しき風習として、日照りがひと月以上続いた時に行われていることがあった。それは、龍神が棲むと言われる深い谷の底へ、贄を捧げること。贄に選ばれるのは十五歳以下の少女で、それは幾度となく繰り返されて来た村の中の暗黙の了解でもあった。

 その始まりは、遠い昔の誰かのひと言だったのだろう。

「龍神様のお怒りを鎮めれば、雨が齎され、村は救われるだろう」

 谷に贄を捧げたその後に雨が降ったのをきっかけに、夏に日照りが起こった時は、龍神様に贄を捧げればどうにかなるという信仰が生まれたのだ。しかしそれを続けていればどうなるか······。

 村の女が減り、結果子供が減り、次に日照りが起これば村を捨てるしかなくなるというところまで、村長は追い詰められていた。

「お前なら、問題ないだろう」

 目の前の少年の肩に手を置き、村長はうんうんと頷く。何がどう問題ないというのか、疑問符だけが浮かぶ少年を無視し、村長は村の者たちの前で告げる。村の者たちはそれには逆らえず、同情の眼差しだけが向けられた。

「贄は少女と昔から言われているが、残っている文献には男が駄目とは書いていない。駄目でなければ良いということだ。そうは思わんか?」

 村人たちはお互いの顔を見合わせながら、村長に聞こえないように囁き合う。

「なんであの子が?」

「可哀想に。村長が代わってから、ずっと酷い扱いを受けてるというのに、」

「しかし、贄を捧げなければ、俺たちもどうなるかわからない、」

 そんな村人たちのことなど露知らず、村長はふんと鼻を鳴らす。

「まあ、見た目はこの村で一番いいから、龍神様もお喜びになるだろう」

 少年はそこでやっと、自分の立場を理解することになる。

「病弱で畑仕事もまともにできない役立たずだ。どうせ長くは生きられない身。最後に村の役に立つなら、こやつも本望だろう」

 本人の意思はそこには必要なく、すべては村長を中心に勝手に決められていく。


 ――――ひと月後。

 白と赤の巫女装束で綺麗に着飾られた少年は、谷の端に立たされていた。
 後ろに控えるのは、村長と村人が数人。
 底が見えないその谷を見下ろし、少年は覚悟を決める。

(私などの命で村が救われるのなら、)

 しかし、自分で飛び降りる勇気はなく、予め村の者に背中を押してもらうように頼んでいた。その細身の身体がぐらりと前に傾ぐ。

 押された背中の感覚がまだ残る中、その身は深い深い谷の底へと落ちていった。


******


 樹雨(きさめ)は、生まれた時から身体が弱く、同じ歳の頃の村の若い衆たちと比べても細身で背も低かった。村の年老いた女たち以上に畑仕事も力仕事もできないので、裁縫や料理を任されることの方が多かった。

 季節の変わり目には体調を崩すこともあり、それこそただ飯ぐらいと言われても仕方ない。それでもここまで育ててもらえたのは、その気立ての良さや美しい容姿のお陰だろう。いつも優しく穏やかで、小さい子供や年寄りたち、一部の村の若い衆たちは、みんな樹雨を好いていた。

 彼の両親は早くに亡くなっており、十二歳くらいまではその面倒を村の皆で看ていた。それはその当時の村長が、とても慈悲深いひとだったからでもある。

 しかしその村長が病に倒れ帰らぬ人となり、代わりに新しい村長が選ばれた。その男は昔から樹雨のことを邪険にしており、その日から扱いががらりと変わる。

 元々住んでいた家を追われ、「何ひとつ役に立たないお前には、ここが相応しい」と、随分と使われていないボロボロの物置小屋に押し込まれた。

 雨が降れば屋根の隙間から水が滴って来るような酷い小屋で、冬の頃には凍えるほど冷たい風が入って来る。場所によっては雪が積もってしまい、それを外に出すのもひと苦労だった。

 だが今の頃によく降るはずの雨も、もうずっと降っていない。
 畑も人も、このままでは干からびてしまうだろう。井戸の水を汲むのも二日に一度だけと制限されているが、いつかは枯れてしまうかもしれない。

 樹雨は、もう三日ほど水を口にしていなかった。

 そんなひどい扱いを受けながらも、なんとかここまで生きて来れたのは、村長とその取り巻き以外の他の村人たちが、こっそりと助けてくれたお陰だろう。

 贄となる前日、樹雨は自分に善くしてくれた者たちに礼を言いに回った。皆がその手を握り、すまないと頭を下げる。その度に、

「いいえ、良いのです。こんな私に今まで善くしてくださり、感謝しかありません」

 と、樹雨は微笑んだ。
 そして、ひと通り挨拶を済ませると、住み慣れてしまった物置小屋へと戻る。

(明日、私は龍神様の贄になる。そうしたら、雨が降って皆が助かるんです、よね? なら、私は、)

 死んでも良い、と思う。
 怖くないと言えば嘘になる。
 龍神様の贄になるということは、その命を捧げるという事。

(こんな私でも、誰かの役に立つのなら、)

 樹雨は指を絡め、祈るように胸元で握りしめる。
 昼間の熱が残ったまま、夜になっても空気が暑かった。どちらにしても眠るのは惜しく、夜明けまでの残り少ない時間、祈り続けた。


 どうか、この地に恵みの雨を――――。
 この命でそれが叶うなら、どうか――――。

 皆に、龍神様の加護を――――。