最近は、セシルと過ごすのが楽しい。今までは心から彼との時間を過ごせることはほとんどなくて、彼が内側に隠しているであろう妬みや憎しみを恐れていた。母のように気分で叩いてくることはしないし、父のようにフィオナに接するのを面倒くさがることもしないから、嫌ではないのは確かだったとは思う。ただ、常に気を張っていけないような気がして、息苦しかった。だけどこれはフィオナの思い違いだったことが分かったのだ。今は彼といると、ほっとする。孤独ではないのだと、確かに思わせてくれるから。
「一段落したし、お茶にしようよ」
ガラス張りの小屋の中、二人で椅子に腰掛ける。丸く小さなテーブルを挟んで向かい合って、小さく笑う。これからどちらが紅茶を淹れてくるのかを決めて、今日のお菓子をどうするのかも話し合うのがいつもの流れだ。お菓子はセシルが持ち帰ってきたものになることがほとんどだけれど、どれも美味しいから、その日その時の気分で決められないことに不満はなかった。
セシルはフィオナにまた甘くなった。こちらが彼に対して心を開いたのが伝わったのか、世話を焼かれる頻度が増えたり、贈り物の数が増えたりしている。与えられたものに見合うだけの何かを返せないから戸惑うばかりなのだが、こういう時セシルは言うことを聞かない。しばらくの間好きにさせたらじきに落ち着くだろうと思って、彼の「愛情」に埋もれないようにしつつもそっとしている。
「今日のお菓子はね、レイがくれたものなんだ」
「レイさんが?」
「うん。フィオナと二人で食べてって」
フィオナのことを知っているのがこの家の外にもいると教えられたのは、しばらく前のことだった。レイという人がこの国の王子で、かつセシルの親友なのは知ってはいた。フィオナのことを話してしまったのには驚いたのだが、セシルにそれほど信用できる友人がいるのであれば、フィオナにとっても嬉しい。
以前であれば、友達がいて羨ましいなんて思っていたはずなのに、あの出来事をきっかけにそんな気持ちは薄れてしまった。全く無いと言えば嘘になるけれど、いつかセシルが外に連れ出してくれるのだ。彼の言葉が夢を持たせてくれるから、今を不幸だとは思わなくなった。
箱を開けると、小さな丸い形の焼き菓子が入っている。ほんのり黄色に色づいた色といい、同じく淡い黄色でコーティングされた見た目は、お菓子の本で見た「レモンケーキ」に似ていた。まだ遠くの国から伝わったばかりで、作れる職人が多くないはずのお菓子だ。簡単に手に入らないか、手に入れられても安くはなかっただろうに、もらってしまって良かったのだろうか。
「自分が食べる用と一緒に買ってくれたんだってさ」
「それじゃ、今度お礼しなくちゃね」
お礼って何をしたらいいのかしら。フィオナの問いに彼は曖昧に笑った。
「んー、実はこれがもうお礼の品」
「あら、セシルはもう何かしてあげていたのね」
「そういうこと」
何をしてあげたの、と聞こうとするも、セシルが「早速食べようか」と言う方が早かった。言い損ねた言葉は喉元でぱちんと弾けて、消えてしまう。
「紅茶何が良い? 淹れてきてあげる」
「私が淹れるわよ?」
「美味しい紅茶の淹れ方教わったから、淹れてみたくて」
だからフィオナは座ってて。肩に手をかけられて、椅子から浮きかけていた身体がすとんと戻される。
「柑橘系の香りのフレーバーティーが合うと思うんだけど」
「そうね。きっとレモンケーキに合うわ」
食器も取ってくるから待ってて。そう言って小屋から出ていくセシルの背中を視線で追い、彼が屋敷に入ったのを見届けたところで、ケーキに視線を戻した。きっと名のある職人が作ったのだろう、レモンケーキの形はその丸みをずっと眺めていられるほど整っている。鼻を近づけると、甘いミルクの香りと爽やかなレモンの香りがして、食べてしまうのがもったいなくなった。
「そんなに見つめても増えないよ」
フィオナがじっとケーキを眺めている間に時間が経っていたらしい。気がつけば紅茶と食器を盆に載せたセシルが、フィオナの前に立っていた。こちらをからかう彼に向かって、唇を尖らせる。
「そんなつもりで眺めていないわ」
「冗談だって」
セシルはくすくすと笑い、フィオナの前に皿を広げた。赤色の薔薇が描かれているデザインの皿とカップが、最近の彼のお気に入りだ。二週間ほど前、セシルが買ってきたこの皿を綺麗だと呟いたところ、フィオナとのお茶会のときはほとんど毎回これを持ってくるようになった。実際、繊細に描かれた大輪の薔薇は、何度見てもその美しさに息が零れる。お菓子を食べるときも食べ終わった後も楽しみがあるのは、心が豊かになると思う。
心の豊かさを自分が説くなんて、以前では考えられなかった。ぜんぶ、セシルのおかげだ。
「紅茶も良い香りね」
「でしょ。さ、食べようか」
レモンケーキはどう食べるものなのか二人で悩んで、セシルは手で持って、フィオナはナイフとフォークを使って食べることにした。フィオナがナイフを差し込むとチョコレートのコーティングがぱきりと割れて、ケーキの上にヒビを入れる。それを落とさないようにそっと口に運ぶと、じんわりとした甘さと共に、きゅんと酸っぱい味が舌の上に広がった。
「美味しい」
「うん、美味しい」
美味しいものを食べている間は会話が少なくなるのはいつものことで、最後の一口が勿体なくてなかなか食べられないのも、いつものことだ。食べきってしまう時を先延ばしにするために、最後の一口二口から会話が増え始める。
「今日は学校はどうだったの?」
「ん、どこから話そうかな」
セシルはしばらく悩んでから、魔法学の講義の話をしてくれた。魔法の理論のことは、フィオナにはよく分からない。学も無ければ経験もないから、セシルができるだけ分かりやすく説明してくれているはずの魔法の話も、十分の一だって理解できない。それでも彼が薬草に関わる話をしようとしているのは分かったから、必死になって聞いていた。
「えっと、成長を助ける魔法ってことで合っているのかしら?」
「うん、だいたいそんな感じ。水魔法と土魔法の掛け合わせの技術だから、俺がどこまで使えるかは分からないけれど」
「魔法の、道具?」
フィオナが首を傾げると、セシルは頷いた。それから彼はレモンケーキの最後の一口を頬張った。フィオナも彼に倣って、最後の一口を口に運んだ。
「そう。道具に魔力を通して使う」
「私は使えない、のよね」
「残念ながらね。でも心配しないで、俺がやってあげるよ」
セシルに微笑まれて、こくりと頷く。セシルに手伝われる部分がまた増えてしまったけれど、嫌な気分にはならなかった。
「ありがとう」
フィオナが微笑み返すと、セシルは顔を赤らめた。そんなに照れるようなことは言っていないはずなのに、と思わなくもないが、これもいつものことだ。
お菓子も食べ終わったし、紅茶もいつの間にかなくなっていた。片付けくらいはこちらでやろうと思って立ち上がると、彼に腕を掴まれた。同じく立ち上がった彼がテーブル越しに近づく。
どうしたの。そう聞こうとする前に唇が重ねられた。最初は触れるような動作だったそれがだんだん啄むようなものに変わってきて、フィオナは慌てて身をよじった。しかし顎に手を添えられて、動けなくなった。本気で振り払えば逃げ出せる力加減にされていることは分かるけれど、本当に振り払えば彼を傷つけてしまう。
またあの時のように、彼の傷付いた顔を見るのは嫌だった。
彼がキスしたがるタイミングは、まだよく分からない。「ただいまのキス」は習慣になりつつあるけれど、ただ話しているだけの時のキスに何か意味があるのだろうか。笑っても不貞腐れても、彼は唇を食むためにフィオナの腕を引く。
だんだんと息が苦しくなってきて彼の胸を叩くと、彼はやっとフィオナの腕を離した。
「鼻で息して、って言ってるでしょ」
「無理よ、そんなの」
離れた唇の代わりに、顎に添えられていた指がフィオナの唇をなぞる。その動作の艶めかしさに、下を向いてしまう。
「出来るって」
「無理だって。それより、こんなところでやめてよ。誰かに見られたらどうするの」
「この時間はここ誰も通らないから。大丈夫だよ」
「どこが大丈夫なのよ」
お母様に見つかったらどうするのよ。小声で言うと、彼は「ごめんごめん」とフィオナの唇から手を離した。
「キスするなら部屋にして」
「部屋でなら良いんだ」
「他に場所ないでしょ」
彼は少しの間驚いて、それからクスクスと笑い始めた。何がおかしいのか分からなかったけれど、揶揄われているような気がしたから、頬を膨らませたくなった。
「可愛いかったから、つい。拗ねないで」
「可愛い? 私が?」
「うん。フィオナは可愛いよ」
分からない。そう思って首を傾げるも、セシルは否定もしなければ捕捉もしなかった。ただ蜜を溶かしたように甘い瞳をこちらに向けて、ほんの少し顔を赤らめて微笑んでいるのだ。本気で言っているのだと分かるから、照れ臭いような恥ずかしいような気持ちになって、じわじわとフィオナの頬も熱くなってくる。
「食器片づけてくるから。セシルは座ってて」
耐えられなくなって、食器を盆に慌てて載せて小屋を出ていく。セシルがいってらっしゃいなんて手を振るのが何となく憎らしい。でもそんなところも可愛く思い始めているから、そのうち彼のすべてを受け入れてしまうのだろうと思った。
「一段落したし、お茶にしようよ」
ガラス張りの小屋の中、二人で椅子に腰掛ける。丸く小さなテーブルを挟んで向かい合って、小さく笑う。これからどちらが紅茶を淹れてくるのかを決めて、今日のお菓子をどうするのかも話し合うのがいつもの流れだ。お菓子はセシルが持ち帰ってきたものになることがほとんどだけれど、どれも美味しいから、その日その時の気分で決められないことに不満はなかった。
セシルはフィオナにまた甘くなった。こちらが彼に対して心を開いたのが伝わったのか、世話を焼かれる頻度が増えたり、贈り物の数が増えたりしている。与えられたものに見合うだけの何かを返せないから戸惑うばかりなのだが、こういう時セシルは言うことを聞かない。しばらくの間好きにさせたらじきに落ち着くだろうと思って、彼の「愛情」に埋もれないようにしつつもそっとしている。
「今日のお菓子はね、レイがくれたものなんだ」
「レイさんが?」
「うん。フィオナと二人で食べてって」
フィオナのことを知っているのがこの家の外にもいると教えられたのは、しばらく前のことだった。レイという人がこの国の王子で、かつセシルの親友なのは知ってはいた。フィオナのことを話してしまったのには驚いたのだが、セシルにそれほど信用できる友人がいるのであれば、フィオナにとっても嬉しい。
以前であれば、友達がいて羨ましいなんて思っていたはずなのに、あの出来事をきっかけにそんな気持ちは薄れてしまった。全く無いと言えば嘘になるけれど、いつかセシルが外に連れ出してくれるのだ。彼の言葉が夢を持たせてくれるから、今を不幸だとは思わなくなった。
箱を開けると、小さな丸い形の焼き菓子が入っている。ほんのり黄色に色づいた色といい、同じく淡い黄色でコーティングされた見た目は、お菓子の本で見た「レモンケーキ」に似ていた。まだ遠くの国から伝わったばかりで、作れる職人が多くないはずのお菓子だ。簡単に手に入らないか、手に入れられても安くはなかっただろうに、もらってしまって良かったのだろうか。
「自分が食べる用と一緒に買ってくれたんだってさ」
「それじゃ、今度お礼しなくちゃね」
お礼って何をしたらいいのかしら。フィオナの問いに彼は曖昧に笑った。
「んー、実はこれがもうお礼の品」
「あら、セシルはもう何かしてあげていたのね」
「そういうこと」
何をしてあげたの、と聞こうとするも、セシルが「早速食べようか」と言う方が早かった。言い損ねた言葉は喉元でぱちんと弾けて、消えてしまう。
「紅茶何が良い? 淹れてきてあげる」
「私が淹れるわよ?」
「美味しい紅茶の淹れ方教わったから、淹れてみたくて」
だからフィオナは座ってて。肩に手をかけられて、椅子から浮きかけていた身体がすとんと戻される。
「柑橘系の香りのフレーバーティーが合うと思うんだけど」
「そうね。きっとレモンケーキに合うわ」
食器も取ってくるから待ってて。そう言って小屋から出ていくセシルの背中を視線で追い、彼が屋敷に入ったのを見届けたところで、ケーキに視線を戻した。きっと名のある職人が作ったのだろう、レモンケーキの形はその丸みをずっと眺めていられるほど整っている。鼻を近づけると、甘いミルクの香りと爽やかなレモンの香りがして、食べてしまうのがもったいなくなった。
「そんなに見つめても増えないよ」
フィオナがじっとケーキを眺めている間に時間が経っていたらしい。気がつけば紅茶と食器を盆に載せたセシルが、フィオナの前に立っていた。こちらをからかう彼に向かって、唇を尖らせる。
「そんなつもりで眺めていないわ」
「冗談だって」
セシルはくすくすと笑い、フィオナの前に皿を広げた。赤色の薔薇が描かれているデザインの皿とカップが、最近の彼のお気に入りだ。二週間ほど前、セシルが買ってきたこの皿を綺麗だと呟いたところ、フィオナとのお茶会のときはほとんど毎回これを持ってくるようになった。実際、繊細に描かれた大輪の薔薇は、何度見てもその美しさに息が零れる。お菓子を食べるときも食べ終わった後も楽しみがあるのは、心が豊かになると思う。
心の豊かさを自分が説くなんて、以前では考えられなかった。ぜんぶ、セシルのおかげだ。
「紅茶も良い香りね」
「でしょ。さ、食べようか」
レモンケーキはどう食べるものなのか二人で悩んで、セシルは手で持って、フィオナはナイフとフォークを使って食べることにした。フィオナがナイフを差し込むとチョコレートのコーティングがぱきりと割れて、ケーキの上にヒビを入れる。それを落とさないようにそっと口に運ぶと、じんわりとした甘さと共に、きゅんと酸っぱい味が舌の上に広がった。
「美味しい」
「うん、美味しい」
美味しいものを食べている間は会話が少なくなるのはいつものことで、最後の一口が勿体なくてなかなか食べられないのも、いつものことだ。食べきってしまう時を先延ばしにするために、最後の一口二口から会話が増え始める。
「今日は学校はどうだったの?」
「ん、どこから話そうかな」
セシルはしばらく悩んでから、魔法学の講義の話をしてくれた。魔法の理論のことは、フィオナにはよく分からない。学も無ければ経験もないから、セシルができるだけ分かりやすく説明してくれているはずの魔法の話も、十分の一だって理解できない。それでも彼が薬草に関わる話をしようとしているのは分かったから、必死になって聞いていた。
「えっと、成長を助ける魔法ってことで合っているのかしら?」
「うん、だいたいそんな感じ。水魔法と土魔法の掛け合わせの技術だから、俺がどこまで使えるかは分からないけれど」
「魔法の、道具?」
フィオナが首を傾げると、セシルは頷いた。それから彼はレモンケーキの最後の一口を頬張った。フィオナも彼に倣って、最後の一口を口に運んだ。
「そう。道具に魔力を通して使う」
「私は使えない、のよね」
「残念ながらね。でも心配しないで、俺がやってあげるよ」
セシルに微笑まれて、こくりと頷く。セシルに手伝われる部分がまた増えてしまったけれど、嫌な気分にはならなかった。
「ありがとう」
フィオナが微笑み返すと、セシルは顔を赤らめた。そんなに照れるようなことは言っていないはずなのに、と思わなくもないが、これもいつものことだ。
お菓子も食べ終わったし、紅茶もいつの間にかなくなっていた。片付けくらいはこちらでやろうと思って立ち上がると、彼に腕を掴まれた。同じく立ち上がった彼がテーブル越しに近づく。
どうしたの。そう聞こうとする前に唇が重ねられた。最初は触れるような動作だったそれがだんだん啄むようなものに変わってきて、フィオナは慌てて身をよじった。しかし顎に手を添えられて、動けなくなった。本気で振り払えば逃げ出せる力加減にされていることは分かるけれど、本当に振り払えば彼を傷つけてしまう。
またあの時のように、彼の傷付いた顔を見るのは嫌だった。
彼がキスしたがるタイミングは、まだよく分からない。「ただいまのキス」は習慣になりつつあるけれど、ただ話しているだけの時のキスに何か意味があるのだろうか。笑っても不貞腐れても、彼は唇を食むためにフィオナの腕を引く。
だんだんと息が苦しくなってきて彼の胸を叩くと、彼はやっとフィオナの腕を離した。
「鼻で息して、って言ってるでしょ」
「無理よ、そんなの」
離れた唇の代わりに、顎に添えられていた指がフィオナの唇をなぞる。その動作の艶めかしさに、下を向いてしまう。
「出来るって」
「無理だって。それより、こんなところでやめてよ。誰かに見られたらどうするの」
「この時間はここ誰も通らないから。大丈夫だよ」
「どこが大丈夫なのよ」
お母様に見つかったらどうするのよ。小声で言うと、彼は「ごめんごめん」とフィオナの唇から手を離した。
「キスするなら部屋にして」
「部屋でなら良いんだ」
「他に場所ないでしょ」
彼は少しの間驚いて、それからクスクスと笑い始めた。何がおかしいのか分からなかったけれど、揶揄われているような気がしたから、頬を膨らませたくなった。
「可愛いかったから、つい。拗ねないで」
「可愛い? 私が?」
「うん。フィオナは可愛いよ」
分からない。そう思って首を傾げるも、セシルは否定もしなければ捕捉もしなかった。ただ蜜を溶かしたように甘い瞳をこちらに向けて、ほんの少し顔を赤らめて微笑んでいるのだ。本気で言っているのだと分かるから、照れ臭いような恥ずかしいような気持ちになって、じわじわとフィオナの頬も熱くなってくる。
「食器片づけてくるから。セシルは座ってて」
耐えられなくなって、食器を盆に慌てて載せて小屋を出ていく。セシルがいってらっしゃいなんて手を振るのが何となく憎らしい。でもそんなところも可愛く思い始めているから、そのうち彼のすべてを受け入れてしまうのだろうと思った。