自分の家が街のどのあたりにあるのかは、フィオナはよく分かっていない。地図でいうとどのあたりなのかは教えられたことがあるけれど、街を歩いたことすらないのだ。地図と実際の風景が一致するはずもなく、ただ緑が多い場所の、レンガ造りの道から繋がった土地が自分の家だということしか分からなかった。
部屋からは、家の門が遠目に見える。門までは見えても、そこから先の風景は曖昧で、街を想像するには足りない。家の廊下に飾ってある絵画と、本の挿絵をつぎはぎにしたような絵が頭の中に広がっていくたびに、街がこんな姿であるはずがないと掻き消してしまう。
ただ、陽が落ちてからは、街灯の明りが遠くまで続いているのが見える。その灯りを辿っていけば他の風景も見えてくるような気がして、つぎはぎの絵が何となく現実にあるものらしくなっていくのだ。だからこうして夜に窓から外を眺めるのが好きだった。
どうせ、外に出ることはない。そう思うと胸に痛みが走るようだったが、いつまでも部屋でうずくまっている方がよっぽど退屈で、気が滅入ってしまう。
じっと暗闇に目を凝らすことしばらく。街灯の他にも明かりが灯る。その明かりは街の角を曲がり、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
この時間にこの道を歩くのはセシルだけだ。遅くなるなら馬車を使えばいいのにと思うけれど、あちこちと寄り道をしたがる彼には、夜が暗かろうが何だろうが、徒歩の方が楽なようだった。
人影がはっきりと分かるようになった頃、タイミングを図ったように彼が手を振る。手を振り返すのは彼に好意を返しているみたいだから、気が付かないふりをして窓際に立ち続ける。しかしどうしても手を振り返してほしいらしい彼はランタンを持つ手を振ってきて、諦めてフィオナも片手を振った。すると彼は途端に早歩きになって、門の中に吸い込まれるように入っていった。
しばらくしないうちに廊下に軽い足音が響いて、ドアノブが捻られた。ただいま。落ち着いているようで明るい声が、真っすぐに飛び込んでくる。
「随分遅かったじゃない」
窓際から離れることはしない。星が気になっているふりをして、彼には視線を一度向けるだけにしてしまう。彼が今日の実技試験上位の成績を収めてきたと、先ほど侍女に聞かされたのだ。それから彼の得意げな顔ばかりが思い浮かぶから、彼が本当に浮かべている表情を見たくなかった。
フィオナが彼の顔を見ないのは、珍しいことではない。彼も最近は「顔を見せて」なんて子どもみたいなお願いはしなくなってきた。代わりに、フィオナが彼の正面に向かいたくなるようなことを言ってくる。
「服、着てくれたんだね」
彼の視線を背中に感じる。項のあたりから足首のあたりまでじっと何かが這うような感覚があり、彼のふっと笑う声がした途端、それはなくなった。
「貰ったものを着ないのは悪いから。でも私に何か言ってくれてもいいでしょ」
「俺があげたらそういう顔するだろ」
そういう顔って何。出来るだけ声の調子を変えないように尋ねながら振り返る。すると彼の両手がこちらに伸びた。今日も、彼に勝てなかった。
「悲しそうな顔」
頬を包むように触れたかと思えば、ぐにぐにといじくってくる。慌ててセシルの手首を掴んで引きはがすと、彼は堪えきれなくなったように笑い始めた。
「悲しい顔を怖い顔も、幸せが逃げるんだよ」
幸せが逃げる。彼はよくこうやってフィオナに笑うように言う。だけどその度にこう思うのだ。自分に逃げるほどの幸せはないのだと。
人と関わることもなく、ただ自分の生まれを呪う。おまけに本来大切にするべき片割れを憎んでいる。そんな自分の人生のどこに「幸せ」があると言うのだろう。
「それよりあんた、今日の試験良かったらしいじゃない」
幸せの意味を考えたくなくて咄嗟に振った話は、今日一番知りたくないものだった。自分から聞きたくない話を振ってしまうなんて馬鹿みたいだれけど、これくらいしか他の話が思いつかなかったのだ。
「うん。クラスで二位だったけど、学年だと四位」
「セシルより上がいるのね」
「そりゃそうだ。それに、ほら、クラスには王子様がいるから」
王家の人間がそれはそれは手強いのだと、彼は唸っている。その人がいかに強いのか聞かされながら、フィオナは自分の発言をほんの少し悔いた。
少し前なら、頑張っていて偉いね、くらいは言えた。おめでとう、も言えた。それなのに今は、嫌味のようなことばかり言ってしまう。いつも後から胸がちくちくと痛むのに、唇はフィオナの言うことを聞いてくれない。あなたが言えないことを代わりに言ってあげるわよ、なんて得意げな顔で、唇は彼とフィオナを傷つける。
「そのうち学園で一番とるよ」
「そう」
フィオナがそっけなく返したのにも関わらず、彼はその返事に目を細めた。
「俺がこうして強くいられるのは、フィオナのおかげだから。その時の一番はフィオナにあげる」
要らない。私には重すぎる。そう言おうとしたけれど、彼はフィオナの答えを分かっていたらしかった。
セシルの手が背中に回され、ぎゅうと抱きしめられる。フィオナの顔が彼の胸に埋もれて、刺だらけの言葉はあっさり封じられた。
「苦しい」
どうにか顔を逸らして一言呟くと、ごめんごめんと耳元で彼が笑って、抱擁が優しくなった。今度は頬と頬が触れあうように抱えられて、フィオナはため息をついた。
「そんなに魔力使ったの」
「今日の試験長くて」
「夜まで待てない?」
「シャワー浴びる気力がない」
魔力の譲渡の条件は、触れあうこと。魔力の性質が似ていることを前提に、身体の接触を通して魔力は与えられる。衣服越しでもできるが、体温が感じられる程度に距離が近くないといけないし、ただ手を繋ぐよりはもっと広い面積で触れあう方法――要するに抱擁の方が効率が良い。
「夜まで待ってたら、俺、廊下あたりで倒れてるかも」
「分かったよ、もう」
十八にもなって、抱きしめ合いながら眠る双子なんてどこにいるのだろう。いくら昼間共に居られないからといって、寝ている間ならば彼の時間を拘束しないからといって、同じベッドで眠るなんて。
自分たちは、おかしい。でもそんなおかしい生活が、当たり前なのだ。こうやってお互いに触れていないと生きていけないのだから。
「あとごめん、フィオナ。今朝欲しがってた本、買えなかった。本屋さんが閉まってた」
「いいわよ、そんなの」
よくないのだと言うように、彼の腕に力が籠る。
「明日は早く帰れそうだから、きっと買ってこれるよ」
わかった、待ってる。フィオナがやっとそう言うと、彼はほっとしたように抱擁を解いた。
部屋からは、家の門が遠目に見える。門までは見えても、そこから先の風景は曖昧で、街を想像するには足りない。家の廊下に飾ってある絵画と、本の挿絵をつぎはぎにしたような絵が頭の中に広がっていくたびに、街がこんな姿であるはずがないと掻き消してしまう。
ただ、陽が落ちてからは、街灯の明りが遠くまで続いているのが見える。その灯りを辿っていけば他の風景も見えてくるような気がして、つぎはぎの絵が何となく現実にあるものらしくなっていくのだ。だからこうして夜に窓から外を眺めるのが好きだった。
どうせ、外に出ることはない。そう思うと胸に痛みが走るようだったが、いつまでも部屋でうずくまっている方がよっぽど退屈で、気が滅入ってしまう。
じっと暗闇に目を凝らすことしばらく。街灯の他にも明かりが灯る。その明かりは街の角を曲がり、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
この時間にこの道を歩くのはセシルだけだ。遅くなるなら馬車を使えばいいのにと思うけれど、あちこちと寄り道をしたがる彼には、夜が暗かろうが何だろうが、徒歩の方が楽なようだった。
人影がはっきりと分かるようになった頃、タイミングを図ったように彼が手を振る。手を振り返すのは彼に好意を返しているみたいだから、気が付かないふりをして窓際に立ち続ける。しかしどうしても手を振り返してほしいらしい彼はランタンを持つ手を振ってきて、諦めてフィオナも片手を振った。すると彼は途端に早歩きになって、門の中に吸い込まれるように入っていった。
しばらくしないうちに廊下に軽い足音が響いて、ドアノブが捻られた。ただいま。落ち着いているようで明るい声が、真っすぐに飛び込んでくる。
「随分遅かったじゃない」
窓際から離れることはしない。星が気になっているふりをして、彼には視線を一度向けるだけにしてしまう。彼が今日の実技試験上位の成績を収めてきたと、先ほど侍女に聞かされたのだ。それから彼の得意げな顔ばかりが思い浮かぶから、彼が本当に浮かべている表情を見たくなかった。
フィオナが彼の顔を見ないのは、珍しいことではない。彼も最近は「顔を見せて」なんて子どもみたいなお願いはしなくなってきた。代わりに、フィオナが彼の正面に向かいたくなるようなことを言ってくる。
「服、着てくれたんだね」
彼の視線を背中に感じる。項のあたりから足首のあたりまでじっと何かが這うような感覚があり、彼のふっと笑う声がした途端、それはなくなった。
「貰ったものを着ないのは悪いから。でも私に何か言ってくれてもいいでしょ」
「俺があげたらそういう顔するだろ」
そういう顔って何。出来るだけ声の調子を変えないように尋ねながら振り返る。すると彼の両手がこちらに伸びた。今日も、彼に勝てなかった。
「悲しそうな顔」
頬を包むように触れたかと思えば、ぐにぐにといじくってくる。慌ててセシルの手首を掴んで引きはがすと、彼は堪えきれなくなったように笑い始めた。
「悲しい顔を怖い顔も、幸せが逃げるんだよ」
幸せが逃げる。彼はよくこうやってフィオナに笑うように言う。だけどその度にこう思うのだ。自分に逃げるほどの幸せはないのだと。
人と関わることもなく、ただ自分の生まれを呪う。おまけに本来大切にするべき片割れを憎んでいる。そんな自分の人生のどこに「幸せ」があると言うのだろう。
「それよりあんた、今日の試験良かったらしいじゃない」
幸せの意味を考えたくなくて咄嗟に振った話は、今日一番知りたくないものだった。自分から聞きたくない話を振ってしまうなんて馬鹿みたいだれけど、これくらいしか他の話が思いつかなかったのだ。
「うん。クラスで二位だったけど、学年だと四位」
「セシルより上がいるのね」
「そりゃそうだ。それに、ほら、クラスには王子様がいるから」
王家の人間がそれはそれは手強いのだと、彼は唸っている。その人がいかに強いのか聞かされながら、フィオナは自分の発言をほんの少し悔いた。
少し前なら、頑張っていて偉いね、くらいは言えた。おめでとう、も言えた。それなのに今は、嫌味のようなことばかり言ってしまう。いつも後から胸がちくちくと痛むのに、唇はフィオナの言うことを聞いてくれない。あなたが言えないことを代わりに言ってあげるわよ、なんて得意げな顔で、唇は彼とフィオナを傷つける。
「そのうち学園で一番とるよ」
「そう」
フィオナがそっけなく返したのにも関わらず、彼はその返事に目を細めた。
「俺がこうして強くいられるのは、フィオナのおかげだから。その時の一番はフィオナにあげる」
要らない。私には重すぎる。そう言おうとしたけれど、彼はフィオナの答えを分かっていたらしかった。
セシルの手が背中に回され、ぎゅうと抱きしめられる。フィオナの顔が彼の胸に埋もれて、刺だらけの言葉はあっさり封じられた。
「苦しい」
どうにか顔を逸らして一言呟くと、ごめんごめんと耳元で彼が笑って、抱擁が優しくなった。今度は頬と頬が触れあうように抱えられて、フィオナはため息をついた。
「そんなに魔力使ったの」
「今日の試験長くて」
「夜まで待てない?」
「シャワー浴びる気力がない」
魔力の譲渡の条件は、触れあうこと。魔力の性質が似ていることを前提に、身体の接触を通して魔力は与えられる。衣服越しでもできるが、体温が感じられる程度に距離が近くないといけないし、ただ手を繋ぐよりはもっと広い面積で触れあう方法――要するに抱擁の方が効率が良い。
「夜まで待ってたら、俺、廊下あたりで倒れてるかも」
「分かったよ、もう」
十八にもなって、抱きしめ合いながら眠る双子なんてどこにいるのだろう。いくら昼間共に居られないからといって、寝ている間ならば彼の時間を拘束しないからといって、同じベッドで眠るなんて。
自分たちは、おかしい。でもそんなおかしい生活が、当たり前なのだ。こうやってお互いに触れていないと生きていけないのだから。
「あとごめん、フィオナ。今朝欲しがってた本、買えなかった。本屋さんが閉まってた」
「いいわよ、そんなの」
よくないのだと言うように、彼の腕に力が籠る。
「明日は早く帰れそうだから、きっと買ってこれるよ」
わかった、待ってる。フィオナがやっとそう言うと、彼はほっとしたように抱擁を解いた。