楪は、屋敷の外へ出ることを禁じられている。
村の掟で、生まれたその瞬間から山神様の花嫁になることを決められていたからだ。それは男でも女でも関係なく、極月に生まれ、ある"印"が身体に現れた子が選ばれる。
その印は痣のようなもので、形は特殊。小さな三日月に似たその印こそ、山神様の花嫁となる証となるのだ。
親以外はその顔を見てはならない。
触れてはならない。
声を聞いてはならない。
故に、厳重に屋敷の中に匿われる。もちろん、村の者たちもその掟に従い、好奇心で覗く者は誰ひとりとしていなかった。それは、山神様の怒りに触れることを恐れているからだ。山神様の怒りは村ひとつ潰すことなど容易く、それが迷信などではないことはすでに証明されていた。
十五歳の誕生日を迎えたその日。良く晴れた空の下、頭から顔を隠すための白い面紗を被され、白無垢を纏った楪は、村の若い衆が担ぐ籠に乗り、山神様の待つ山の頂へと連れられて行く。
半日かけて辿り着くと、担ぎ手たちは籠を置いて無言で去って行った。
雪を踏む独特な足音が遠のいていくのを聞きながら、俯き、自分がこれからどうなるかもわからないまま、楪は静かにその時を待つ。
少しして、リン、と涼やかで清い鈴の音が辺りに響いた。
籠の外に気配を感じたが、口を開いて良いのかもわからず、じっと前を見据える。面紗で薄っすらとしか見えない視界の先、籠の扉が開かれ光が射し込むのが見えた。
手を差し伸べるようにこちらに向けられた生白い指先に、楪は戸惑いながらも右手を伸ばす。被されていた白い面紗が、同時にそっと外される。
光。
眩しいほどの光が瞼を焼くようだった。白銀の世界に立つ、ひとりの青年の美しさに、思わず見惚れてしまう。
「俺の名は銀花。お前の名は?」
山神様は自ら名乗り、楪の手を優しく握ったまま訊ねてくる。
その瞳は赤く、後ろで結われた長い髪の毛は白髪だった。青い単衣の上に白い上衣を纏う神は、確かに神秘的であり、不思議な雰囲気があった。
「わ、私は······楪と申します」
頭を下げ、楪は遠慮がちに答える。その声は細く、中性的だった。屋敷の外に出たことがないので、細身で色白。両親とさえほとんど話す機会がなく、他の者となど一度も話したこともないので、緊張したのか声も小さい。
そんなまだ幼さの残る少年に対して、銀花は少しも咎めることはなく、その秀麗な顔に笑みを浮かべるのだった。
******
生まれてから今まで、この家から出たことがない。両親以外の村人に会ったこともない。
そして五歳になった頃から、ずっとこの部屋に幽閉されている。
食べる物も決められた物だけ。肉や魚は一切与えられなかったため、芋や大根などの野菜を調理したもの、漬物、木の実や果物が、朝と夜に一度ずつ出された。
閉じられた扉の向こう側。その下の方に付いている小窓から、母親によって与えられる。お盆に乗せられた三つほどの小皿と、お茶碗に半分ほどの御飯、少しだけ具の入った汁物、いつもの食事だ。
幼い頃からこのように少ない食事だったが、動くこともほどんどないため十分で、「いただきます」と「ごちろそうさま」を心の中で呟いて、食事は終わる。
空になった皿を乗せたお盆を小窓の前に置き、時間が来るとその小窓から手が伸びてくる。それはいつもの細く白い指で、冬の頃は皸が痛ましい。
「お母さん、いつもありがとう」
声をかける。
両親とだけは言葉を交わしても良い、触れても良い、とされていたが、いつの日からか、それさえも普通にできなくなっていた。
「······寒くなってきましたから、あとで火鉢を用意しますね、」
久々に聞いた母の声は、どこかよそよそしく、楪はなんだか寂しいと思ったが、仕方がないと諦める。もうすぐ、十五歳の誕生日を迎える。それは、この住み慣れた場所からの"お別れ"を意味していた。
極月。十二月は生まれた月。
十五歳になる数日後には、とうとう山神様に捧げられる。花嫁という名の贄として、生まれた時から決められていた運命。
四畳半の部屋に唯一ある、天井に近い小窓から見える空。この部屋が楪のセカイのすべてだった。
鳥の声。ひとの声。風の音。雨の音。音だけはいつも鮮明に耳に届く。
必要最低限の物以外なにもない部屋に、ひとり。誰かに助けを求めることもない。なぜなら、ずっと言い聞かされてきたからだ。自分は山神様のモノで、それ以外に触れられれば穢れ、役目を果たせなくなる。それは誰も幸せにはしない。むしろ皆が不幸になってしまうのだ、と。
だからこれが自分の運命で、当たり前のことで、それ以外はすべて、諦めるしかないのだと。
(山神様は、どんなお方だろう。怖い方だろうか····花嫁として捧げられるというけれど、所詮は贄。私は、食べられてしまうのかな?)
不安な想いもあったが、一生をここで終えるくらいなら、ひと思いに食べられてしまうのも悪くないのかもしれない。
(外のセカイはどんな感じなんだろう?)
食べられてしまう前に、この目に焼き付けられたら、いい。
昔は聞こえてくる音や小窓から見えるものを、両親に問う事が多かった。
楪が知っているもの。
空と鳥の声と雲と風の音と雨と雪。
春、夏、秋、冬、四つの季節。
いつものように小窓を見上げ、想像する。
(もし、山神様が優しいお方で、贄として私を食べないで、本当にお嫁さんとして迎えてくれたら····一緒に、色んな景色を見てみたいな、)
そんなことは、夢のまた夢だろうけれど。
未来のない自分。ささやかな夢を見るくらい、許されるだろう。
そして数日後、初めて扉が開かれる。まだ夜も明けない頃、その先に立っていた女性は、どこか悲し気に微笑んでいた。
この女性が"お母さん"だろう。幼い頃の記憶を辿ってもまったく思い出せなかったその顔は、懐かしいという感情さえ置き去りにして、楪を困惑させた。
無言で淡々と着飾られ、時折そっと触れられた肩や頬に優しさを覚えながら、白無垢姿の花嫁が完成する。
火鉢の橙色の火の粉に照らされ、色白な頬が少しだけ染まっていた。長く伸びた髪の毛を綺麗に括って結び、唇に小指で紅を塗られる。
「楪、大きくなりましたね。せっかくこうして会えたのに、お別れだなんて······今まで寂しい思いをした分、番の花嫁として、山神様にたくさん愛されますように、」
ぎゅっと遠慮がちに抱きしめられ、楪はなんだかあたたかいと思った。そのあたたかさに、しばらく身を委ねた。
それから少しして、そのぬくもりがゆっくりと離れていき、最後に顔を隠すための白い面紗を頭から被せられる。
薄い布に隔たれて、こちらを見つめているだろうお母さんの顔が、良く見えない。
小窓から見える空は、明るくなっていた。
「花嫁の顔は父親でも見せられない決まりなの」
行きましょう、と手を引かれ、楪は自分の意思とは関係なく扉の外へと連れ出させる。
あの四畳半の部屋は屋敷の一番奥にあったようだ。長い廊下を進むと、背の高い男が立っていた。
おそらく、"お父さん"だろう。お母さんと同じで、どこか悲しそうな笑みを浮かべ、こちらを見つめていた。
「楪、準備は整ったね。村の掟とはいえ、これまでたくさん我慢をさせてしまったこと、すまないと思っている。これから先、お前は山神様のものとなる身。どうか、末永く幸せになって欲しい」
その言葉は、本当なのか偽りなのかわからなかった。幸せに、なんて。そんなこと、あり得るのだろうか?
楪はただ小さく頷いた。そうだったなら、いい。けれども、幸せとはなんだろう?わからない。誰も教えてはくれなかったから。
ふたりに連れられ、外へと一歩踏み出す。昨日から降り続いた雪が、地面を真っ白に染めていた。屋敷の前には村人たちが顔を揃えており、その真ん中に人ひとり乗れそうな四角い籠が置かれ、担ぎ手の男たちがそれぞれ四隅に立っていた。
雪。
冷たい。
草履に染み込むそれは、初めての経験だった。
光。
眩しくて目を細める。朝陽。あれが太陽?
空。
透き通るような青。
どこまでも続くそれに、思わず見惚れる。
「花嫁は山の頂に着き、男たちがそこから離れるまで、けして言葉を発してはならぬ。お前たちも、なにがあっても触れてはならぬ。けして、だ」
はい、と担ぎ手たちは大きく頷く。頂までは半日はかかるだろう。
なにがあっても、という年老いた男の言葉は重く、楪はなんだか緊張してしまった。
籠に導かれ、ゆっくりと慣れない乗り物に腰を下ろす。お世辞にも居心地が良い場所ではなく、あの四畳半の部屋の方がずっとマシだった。
両親や村の者たちが見守る中、持ち上げられた籠が動き出す。そこにいる者たちは、儀礼的な祈りを捧げ始めた。
山神様の花嫁として生まれた、存在。
村の贄として選ばれた少年に、皆、心からの感謝をしながら――――。
銀花に手を引かれながら、楪は慣れない足取りでついて行く。
こんなにたくさん歩いたのは初めてで、視界に飛び込んでくるものすべてに興味があった。
歩く度に、リン、と透き通るような鈴の音が響く。そんな中、楪の目に飛び込んで来たもの。長い耳をした真白い生き物が大小二匹、少し離れた場所で戯れているのが見えた。
「銀花様、あれはなんですか?」
「あれ? ああ、野うさぎの親子だな」
足を止め、銀花は答える。楪が目を輝かせて野うさぎの動きを見つめていた。本来は褐色の毛に覆われ、腹の部分だけ白いものがほとんどだが、不思議なことに冬の頃は体毛が抜けて白くなるのだ。
目の前にいる親子も白く、ぴょんぴょんと跳ねて移動している。じっとしていたら雪に紛れて見失いそうだ。
「野うさぎ、可愛いですね」
そう言って微笑む楪は、どこまでも純粋で可愛らしかった。銀花は少しだけ表情を崩して、そんな花嫁に見惚れてしまう。
「物心ついた頃から部屋から出ることを許されていませんでしたし、一度も屋敷の外に出た事もありませんでした。だから、今、この目に映るもの、そのすべてが初めてて、私、すごく嬉しいんです」
雪ばかりの山には、枯れた木と青々しい竹林があるだけで、生き物も少なく寂しい印象さえある。しかし、外のセカイを知らなかった楪には、視界に映るすべてが美しく見えた。
「俺のせいだな。すまない。代替わりをした山神の番に選ばれたせいで、辛い思いをさせた」
「そんなこと、ないです。たとえこの身を食べられてしまっても、私はこの景色が見られただけで幸せです。銀花様と最期にお話ができて、幸せです」
「食べられる? さいご?」
怪訝そうに眉を顰めて、その秀麗な顔に浮かんだ表情。楪はそれに対して首を傾げる。なにか間違っていただろうか?
「違うんですか? 花嫁というのは名目で、贄として食べられるんじゃ····」
「花嫁の役割は、俺と一生共にいることだ。なぜ俺がお前を食べるんだ?」
盛大に勘違いをしている花嫁に、銀花は思わず笑ってしまう。そして本来の花嫁の役割を、楪に簡単に説明する。
山神はある一定の周期で代替わりをする。前の山神はすでにこの山を去っており、代わりに選ばれた銀花がその役割を担っていた。山神の役割は、どこからか生まれる"穢れ"をその身に宿すこと。
花嫁の役割はそんな山神に喰われることではなく、その身に宿した"穢れ"を浄化すること。穢れのない清らかな身はそのためのもので、山神と"真の番"となることでその能力が発揮される。
「ええっと、真の番ってなんですか?」
銀花は本当になにもわかっていない純粋な少年に対して、握っていた手を離し、そっと抱き寄せた。そして耳元で囁くようにその答えを告げる。
「身も心も俺のものになること」
「で、でも、私は、男ですよ?身も心もって······どうしたら、」
抱きしめられたまま、動揺しつつも疑問ばかりが頭を巡る。そう、楪は見た目こそ少女のように可憐だが、身も心も男なのだ。
銀花がどんなに秀麗で素敵な旦那様でも、そもそも他人と話したことも触れたこともない楪は、その手のことに関してもまったく経験がなかった。
それなのに、心臓はばくばくと大きく音を立てている。ここに来る前、母親から同じように抱きしめられたが、こんな風にはならなかった。
「何事もやってみなければわからない。まあ、今の頃はそこまで"穢れ"も多くないから、気長にいこう。俺も無理強いはしたくない。けれども、お前は俺の花嫁であり唯一無二の番だ。お前もそのつもりでいて欲しい」
離れた身体に安堵しつつも、薄れていくぬくもりに心臓の音も少しずつ元に戻って行き、今度は物足りなさを感じた。
あの心地好いぬくもりに、ずっと包まれていたいと思ってしまったことに恥ずかしくなり、色白な頬も耳も真っ赤になっていた。
「頬が赤い。ひとの子は弱いから、病にでもなったら心配だ。もっと色々と見たいだろうが、まずは俺の社に急ぐことにしよう」
赤く染まっている理由を勘違いした銀花は、再び楪を引き寄せてその軽い身体を抱き上げると、地面から空へと舞い上がった。
地面から遠く離れ、空に浮いている事を驚いている間もなく、目下に広がる白を纏った木々、冷たい空気、近くなった青い空に感動してしまう。
「銀花様、すごいです! 私たち、空を飛んでますよ! 地面があんなに遠くに見えます!」
実際は銀花が飛んでいて、楪はただ抱き上げられている状態なのだが、本人が楽しそうなのであえてなにも言わなかった。
「寒くないか? 少し我慢してくれ。社に着けば俺の領域だから、寒さも暑さも感じなくなる」
「大丈夫です。寒いのも暑いのも生きている証拠ですから」
そうか、と銀花は楪を見つめて優しく頷く。本当は、少しだけ不安もあった。自分の番が、自分を拒絶したらと。
皆が皆、楪のように真白い心の持ち主ではない。そもそも、幽閉されて生きて来た者が、こんな風に純真無垢であることなど稀だろう。
そうなれば、その心を無視して役割だけを受け入れてもらうしかなくなる。そうしなければ、山神が穢れ、荒神となってしまうからだ。荒神となれば、山どころか村まで吞み込み、穢れを広めてしまうだろう。
穢れはひとを死に追いやる。
そこからまた穢れが生まれる。
そうなっていないのは、今までの花嫁が良くも悪くも役割を果たしたからだろう。できることならば、楪には望んだ上でその役割を受け入れて欲しいと思っている。
籠から出て来た楪の姿を初めて目にした時、銀花は不覚にも心を奪われた。
番として生まれて来た目の前の者と、一生添い遂げようと思った。その想いは、言葉を交わし、触れ、楪を知る度に強くなる。
「銀花様は代替わりで山神様になったと聞きましたが、その前はどんな神様だったんですか?」
「ああ。俺は元々この山で生まれた神狐の類で、前任の山神は神格化した狼だったそうだ。この山はそういう者たちに昔から守られていて、代替わりは前任者からの指名で選ばれるんだ」
楪は自分で訊いておいて、色々と出て来た言葉をすべては理解はできなかった。でもなんとなく銀花の事が知れたので満足する。
「私、春も夏も秋も、ちゃんとこの目で見たことがありません。銀花様は見たことがありますか?」
「この山の春は野桜が綺麗だな。夏は蝉が煩い。秋は木々が黄色や赤に色付いて、圧倒される。お前もきっと気に入るだろう」
「蝉は知ってます!」
得意げに楪はそう言ったが、実際には鳴き声を聞いたことがあるだけで、どんな姿かは見たことはなかった。
「あんまりあれは、見て楽しいものではないよ」
夏は蝉が煩い、と言った銀花。蝉はあんまり好きではないようだ。
そんな他愛のない会話をしている内に、着いたよと銀花が言う。だがそこに社などなく、楪は首を傾げたが、不思議なことにある一定の距離に地面が近付いた時、景色が一変する。
目の前に現われたのは、立派な社。先程まで広がっていた雪景色は消え、代わりに青々とした竹林が広がっていた。社の周りをぐるりと囲むように伸びるその竹林は、まるで空に届きそうなほど背が高かった。
「ここが今日からお前の住まいでもある。俺と一緒じゃないと出られないから、外に行きたい時は遠慮なく言ってくれ」
楪を抱き上げたまま、地面に降り立った銀花がゆっくりと歩き出す。
「自分の足で歩いてもいいですか?」
「俺はこのままでもいいけど、お前がそうしたいのなら」
残念そうに楪を下ろすと、代わりにその手を取って一緒に歩き出す。楪はひとりでも大丈夫なのに、と思ったが、すぐに違うものに興味を惹かれた。社の左右にある小さな池。そこに浮かぶ花があまりにも美しくて、「あれはなんですか?」と銀花に訊ねた。
「あれは蓮の花だよ。綺麗だろう?」
「はい! 近くで見てもいいですか?」
もちろん、と銀花は蓮の花が咲く池の前まで導く。初めて見る蓮の花を色んな角度から観察し始める楪を、飽きることなく見つめていた。
こんな風にどんなものにでも驚いてくれるので、それを教える銀花も気分が良かった。
「これからはたくさんの"はじめて"を、お前にあげるよ」
「はじめて、ばかりですけど、どうぞよろしくお願いします」
満面の笑みを浮かべて見上げてくる楪の頬にそっと触れ、銀花は「こちらこそ」と同じように笑みを浮かべるのだった。
正月も過ぎた頃、楪は社で留守番をすることが増えた。銀花は一日に何度か見回りのために領域の外に出ていて、その間はひとりで過ごすしかなかったのだ。
部屋に幽閉されていた約十年間。ずっとひとりだった。だからひとりでも平気だと思っていた。領域内なら好きな場所へ行けるのに、結局、社の中で一番狭い部屋で膝を抱えて座っていた。
(景色をひとりで見ても、楽しくない。銀花様がいないと、)
膝に顔を埋めて、楪はしゅんと落ち込む。同時に、リン、と清らかな鈴の音が左耳で鳴った。
(正月に銀花様がくださった金色の鈴の耳飾り。銀花様とお揃いの鈴。この音は、優しくて好き)
小さな鈴がふたつ連なったその耳飾りは銀花の手作りで、楪が迷子になってもすぐわかるようにと、贈ってくれたのだ。
実は、その数日前に一緒に外に出かけたのだが、目の前のものに夢中になり、いつの間にか領域外で迷子になってしまったのがきっかけだった。
一瞬でも楪から目を離してしまったことを反省していて、銀花は全然悪くないのに、ものすごく落ち込んでいた。楪もこの時の事を後悔し、今後は領域外では銀花から離れないようにしようと、心に誓ったのだった。
(銀花様、早く帰って来ないかな、)
白い柔らかな毛で作られた襟巻。
これも銀花から貰った物だった。
神狐である銀花が自分の毛を使って作ったそうで、なんだか守られている気分になる。肌触りも良くふわふわであたたかい。領域外はまだ凍えるほど寒いので、外に出る時はいつも首に巻いていた。
領域内は寒さも暑さもない。だからここで巻く必要はないのだが、ひとりで寂しい時にぎゅっと抱きしめていると、なんだか癒されるのだ。
そんな中、遠くで鈴の音が聞こえた気がした。耳の良い楪は、すぐに銀花が帰って来たことに気付き、すくっと立ち上がる。動物の尻尾のような襟巻を抱えたまま、籠っていた狭い部屋から出た。
社の扉を開き、階段を下りる。その先に、銀花が立っていた。楪はいつものように駆け寄ろうとしたが、その表情が曇る。
「······良い、判断だ。頼むから、今は、俺に近寄らない、で····ほし、い」
真っ白な銀花を覆う黒い靄が、楪の足を止めた。それに安堵するかのように、銀花は辛そうに左手で胸を押さえ、そのまま力が抜けたかのように地面に膝を付く。
「銀花様、これは、なんです?」
震える声で楪は訊ねる。得体の知れない黒い靄は、はじめて見たのに怖いものだとわかる。これこそが"穢れ"なのではないかと思ったが、訊ねずにはいられなかった。
あと数歩で手が届きそうなのに、足が思うように動かない。出会った時に銀花が言っていた。山神の役割。一日に何度も外へ行くのは、その"穢れ"を見つけ、その身に封じるためでもあった。
「少し"穢れ"を溜めすぎただけだ····怖いだろう? 先に社に戻っていてくれ」
先程よりは落ち着いたのか、黒い靄が薄まっていた。しかし苦しそうなのは変わらず、楪は襟巻を抱きしめたまま、首を振った。
「私は、平気です。少し驚いただけで····それよりも銀花様が心配です。私がちゃんと花嫁の役割を果たせないから、こんなことに······」
「それは、違う。お前のせいではないよ」
自分を責めている楪を安心させるように、笑みを浮かべる銀花。しかし楪は真っ青な顔で立ち尽くしている。
(私は、こんなに善くしてくれる銀花様に、なにもお返しができていない····本当なら、この苦しみから救って差し上げられるはずなのに)
山神様の"真の番"となるには、身も心も銀花に捧げる必要がある。
心はもう、きっと、捧げられる。今だって、こんなにも銀花でいっぱいなのだ。
傍にいて欲しいと思うし、いたいと思う。これは、間違いなく。
「銀花様、私、」
一歩、また一歩、前に進む。震える指先を誤魔化すように、襟巻を強く抱きしめる。怖い、けど。でも。そんなことより。
「楪、無理をするな。俺は、大丈夫だから」
黒い靄はその言葉を否定するように、銀花の周りに纏わりついている。動くこともままならないため、自ら離れることもできない。怯えながらも近付いて来る楪を、止めることすら叶わない。
とうとう手を伸ばせば届く場所まで来てしまった楪が、その場に座り込んで銀花を見つめてきた。
するりと、握りしめていた襟巻がふたりの間にゆっくりと滑り落ちた。
そ、とその頬に両手を伸ばし、触れる。途端、穢れが楪の方へと流れていくのを目にした銀花は、その赤い瞳を大きく見開いた。
「私、"真の番"になります。あなたの苦しみ、私にください」
言って、楪は銀花の頬を両手で包むように触れた後、そのまま自分の唇を重ねた。
それは本当に触れるだけの口付けだったが、銀花は驚きのあまり身動きが取れず、もどかしい気持ちでいっぱいになった。
楪の精一杯の気持ちが嬉しかったのと、慣れていないその行為に対して、今すぐに抱きしめてやりたい衝動に駆られる。こんな状態でなければ、と後悔だけが残った。
やがて楪がその先をどうしていいのかわからず、恥じらいながら離れていくまで、その姿を呆然と見つめていることしかできなかった。
(これは、新手の拷問かなにかか?)
その身に溜め込んでいた穢れが完全に消えている驚きよりも、目の前の花嫁が恥ずかしそうに俯いて、先程まで重ねていた唇に遠慮がちに触れている姿を、今すぐ隠してしまいたいという気持ちが先行する。
だがここは、まさに抑えるべきところであって、獣のように襲いかかる時ではないと悟る。
「あ····あの、私! すみません····っ」
自分のしてしまったことに対して、銀花がなにも言わないのを誤解したのか、楪はみるみる顔色が青くなり、何度も「すみません!」と目の前で頭を下げ、終いには勢いよく立ち上がり、社の方へと逃げて行ってしまう。
楪がつい今しがたまでいた場所には、自分が贈った白い毛で作られた襟巻が、自分と同じようにぽつんと取り残されていた。
銀花は、しばらくその場から立ち上がれなかった。この時の不甲斐なさや失態は、なにがあっても一生忘れることはないだろう。
その後、いつもの狭い部屋に閉じ籠っていた楪を見つけ、膝を抱えて蹲っている花嫁の横に腰を下ろす。手に持っていた襟巻を、肩に掛けるようにそっと巻いてやる。
「····銀花様、私、本当に駄目な花嫁です。無知な自分が恥ずかしいです」
楪は、膝に押し付けるように顔を隠してはいるが、両の耳が真っ赤になっていた。
「お前が駄目な花嫁なわけがないだろう? 俺の可愛い花嫁、顔を見せて?」
耳元で囁く。もちろんわざとである。その気持ちは確かに受け取ったし、これはもうそういうことなのだ。あの口付けは、その証ともいえよう。
「お前のお陰で、穢れが浄化された。お前が"真の番"になってくれたこと、俺は何よりも嬉しい。だから、謝らないで? 楪、俺を見て?」
頭を撫で、長い黒髪を梳き、それからそっと肩を抱く。
「······怒っていないのですか? 私、銀花様の言うことを聞かず、あんなことまでしてしまって····私を、嫌いになったのでは?」
どこまでも優しく触れられ、戸惑う。
すぐ傍で感じるぬくもりは、なによりもあたたかい。それは、出会った時から変わらずそこにあって、楪は安心する。
それでも視線を合わせるにはまだ心の準備が整ってはおらず、顔はなんとか膝から離したが、銀花の瞳がどうしても見れなかった。
「俺がお前を嫌いになる? そんなことは天地がひっくり返ってもあり得ないよ、」
あんな触れるだけの口付けで、こんな風に恥じらってしまうような可愛い花嫁を、嫌いになどなるわけがない。
むしろ、ますます愛おしいと思う気持ちが大きくなり、自分がどれだけ楪を好いているか、教えてやりたいと思った。
だが、なによりも一番大切なのは楪の気持ちで、怖い思いはさせたくない。ここは神として理性を抑え、花嫁の意思を尊重するのが正解だろう。
「····あの、私、男の身ですけど、あんなことをして、その、銀花様のお子ができたり、しないです、よね?」
「·················」
薄っすらと赤い唇に指先で触れて、ちらちらとこちらに視線を送りながらそんなことを言う楪に、先程まで何重にも固く結ばれていたはずの"理性"という名の糸が、ぷつんと切れた音がした。
気付いた時には、楪を床に押し倒していた。見上げ見下ろされる形で、視線が合わさる。そこには、どうしたらいいかわからないという顔でこちらを見上げてくる、楪の姿があった。
「俺の可愛い花嫁は、俺の子が欲しいのか?」
「へ? え? あ、あの、」
銀花は悪戯っぽく笑って、真っすぐに楪を見下ろしてくる。自分が何気なく口にしてしまったことを改めて銀花から言われると、恥ずかしさで顔を覆いたくなった。
男の身で子ができるなど、あるはずないのに。
今すぐ顔を隠したいのに、両の手首を押さえられているので、それは叶わない。恥ずかしすぎて瞳が潤み、思わず身じろぐ。
「お前が望むならできなくはないが。しばらくは、お前とふたりきりがいい」
手首から手を離し、銀花は楪の身体を起こすと、そのまま優しく抱きしめる。
首に顔を埋めて、甘えるように囁く声に、楪は心臓がどうにかなりそうだった。
「時間は永遠ほどある。ゆっくりでいい、俺を愛して欲しい」
楪の気持ちが、心が、ちゃんと自分に向けられるまで。その身を捧げても良いと思えるまで。愛してくれるまで。
(······愛、して?)
その感情はわからないけれど、なんだか不思議と心地好い響きだった。
好き、とは違うのだろうか。
「はい、私、必ず銀花様を愛してみせます!」
「よろしく頼む」
やる気満々にそう言った楪だったが、たぶんよくわかっていないのだろうな、と銀花はくつくつと笑いを堪えながら答えた。
いつかその本当の意味を知った時、その時は。
神の"真の番"として、永遠を誓おう。
あれからどれくらいの時を共に過ごしただろう。
山に時折生まれる"穢れ"は、銀花によってその身に封じられ、溜まった穢れは、"真の番"となった楪によって完全に浄化される。
そうやってふたり、永遠に終わることのない時を優しく育んでいく。
季節は廻り、春夏秋冬。廻る季節を繰り返す。
「銀花様、おかえりなさい」
「ただいま。今日は何をして遊んでいたんだい?」
自分の姿を見るなり駆け寄って来た愛しい者たちを、銀花は腕を広げて抱き止める。ひとりは胸に、ひとりは右脚に飛び込んできた。
「おかえりなさい、銀花様! 今日は楪と隠れ鬼をしました!」
「ふふ。私は、すぐに見つかっちゃいました」
足にしがみ付いて見上げてくる幼子に微笑み、銀花は右手でそっと小さな頭を撫でた。
赤い瞳、白い髪の毛。自分の分身である幼子は、楪が望んだことで生まれた存在。
ひとの子とはまた違い、あくまでも神である銀花から作り出された分身体なのだ。
だが、それは自分を神として崇拝する者が望まない限り、生まれない。楪が強く望んでくれたことで、存在することを許されたのだ。
神狐の分身として生まれた幼子は、ひとの子よりも成長が遅く、十年以上経っているのにまだ五歳くらいにしか見えない。
楪は"真の番"として、その身は老いることなく出会った頃のままだった。その純真無垢な性格も変わらず、いつまでも可愛い花嫁なのだ。
❅❆❅❆❅❆❅
幾度となく身体を重ねているのに、いつも初めてのような恥じらいを見せてくれるので、銀花はその度に優しく宥め、言葉を尽くす。
「もう少し先の事になるが、氷雨に、次の山神を任せようと思う。いずれこの山を離れることになるが、それでも俺の傍にいてくれるか?」
ぼんやりとした瞳に銀花を映して、楪は少しだけ悲しそうな顔をした。
山神の代替わりは、次の山神を指名することで完了する。それはつまり、氷雨との別れを意味していたからだ。
情事の終わった褥の上で、乱れた単衣を直すこともせずに、楪はじっと見つめてくる。
その姿は淫らなのにどこか美しい。肩から半分ずれ落ちている単衣。赤く腫れた唇。潤んだ瞳に残る涙の痕。項にある、番の印である三日月の痣。首筋や太ももに残った赤い印も。
全部、銀花が楪を愛した証だった。
「私、は······銀花様の花嫁です」
「ああ、そうだな。俺の可愛い花嫁だ」
「氷雨様、は······可愛い銀花様の分身、です」
楪は眠たそうに瞼を半分閉じて、そんなことを言う。
(その言い方だと、俺が可愛いということになるが····まあ、いいか)
細かいことは気にしない銀花は、今日も俺の花嫁は可愛いな、と楪の乱れた衣を直し始める。その手をぎゅっと掴んで、ふふっと小さく笑う楪は、おそらく眠りに落ちる一歩手前だろう。
「······銀花様、愛しています」
愛して欲しい。そう、ずっと昔に願った。今は、こうやって毎日のようにお互いに伝え合う。その感情を楪が理解した時、ふたりはやっとひとつになった。そうなるまでかなり時間を要したが、銀花は辛抱強く待ったのだ。
「ずっと、一緒、······です」
「ああ、そうだな。ずっと一緒だ」
愛しい花嫁の唇にそっと口付けをし、何度も誓い合った永遠を約束する。
「愛している、楪」
何度も何度も。何度でも。繰り返す、言葉。
唯一無二の番である、愛しいひと。
どうか、ずっと傍にして欲しい。
いつか朽ちてしまう、その瞬間まで。
❅❆❅❆❅❆❅
それから数十年後、立派な青年の姿に成長した氷雨は、銀花から山神の代替わりの指名を受ける。十分に神気を溜め込んだ分身体は、神狐としても申し分ないだろう。
「俺たちはここを離れ、別の場所で静かに暮らす。この役目は、"穢れ"が無くならない限り続くだろう。間違っても荒神になどなるなよ、」
「肝に銘じます。でも俺にも楪みたいに可愛いお嫁さんが来てくれるかな?どうしよう、厳ついお嫁さんだったら····」
「その時はお前が愛してもらえばいい。そう思うだろう、楪」
秀麗な顔がふたつ並んで、楪を見つめてくる。少しだけ幼さが残るのが氷雨で、凛としている方が銀花だ。いつからか見分けがつかないくらいふたりはそっくりなのだが、性格はまったく違うようだ。
「はい、どんな方がお嫁さんでも、愛してあげてください!」
急に訊ねられ、楪は慌てて言葉を返す。変なことを言ってしまっていないか不安だったが、ふたりの反応を見るに問題なかったようだ。
「楪が言うなら、そうする」
にっと満足そうに満面の笑みを見せて、氷雨は頷いた。
「どうか、無事に、おつとめが果たせますように。そして、たくさん愛してもらえますように、」
楪は氷雨の手を取り、眼を閉じて祈るように言葉を紡ぐ。ずっと、三人でいられると思っていた。いつかは離れなければならないと知っていたけれど。それでも、本当に自分の子のように大切にしてきたのだ。
そんな大切な子に、幸せになって欲しいと願うのは、当たり前だろう。
「ふたりは一生、離れずにいてね。次に逢いに行く時にその方が楽だから!」
「はい、一生離れません!」
ぎゅっと銀花の腕にしがみ付き、自信満々の表情で楪が答える。銀花と氷雨はそんな様子を眺めつつ、お互い頷いた。
「では、しばしの別れだ」
楪を抱き上げ、銀花は空へと飛びあがった。一瞬で領域を離れ、その先に広がる景色に目を細める。あの時と同じ、真っ白な雪が山を染めていた。春も夏も秋も冬も、一緒に見てきた。何度も廻る季節を、永遠ほど。
知らなかった外のセカイは、今でも興味が尽きることはなく、いつだってはじめてを楪に与えてくれた。ぎゅっと首に抱きついて、銀花に甘える。寂しい。寂しくて泣きそうだ。
「泣いてもいい。故郷を離れるようなものだ。ひとは、こういう時に感慨深くなるものだと聞く。だが、そう嘆くこともない。氷雨も無事に役目を終えたら、また逢える。俺たちにはいくらでも時間があるからな」
慰めてくれているのだろう。銀花は頬を寄せてぬくもりを分けてくれた。どんなに時間を経ても、変わらない気持ち。そんなものがあるなんて、知らなかった。きっと、これから先も離れることなく、傍にいてくれると信じている。
生きるのも、一緒。
死ぬ時も、一緒。
それが、神の番となった者の宿命。楪にとって、それは僥倖だった。いつか本当の終わりが来た時、傍にいられるなら、いい。こうやって、抱き合って死ぬのも、いい。
永遠に廻る季節を、ふたり。
終わらない物語を、紡ぐ。
それは、四季折々に揺蕩う、"あなた"に恋焦がれる物語。
春夏秋冬、"あなた"を想う。
これは孤独な神と、それに触れたひとりの少年の、終わることのない永遠の物語である————。
~ 冬の章 了 ~
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最後まで読んでくださり、ありがとうございましたm(_ _)m
柚月なぎ
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