正月も過ぎた頃、(ゆずりは)は社で留守番をすることが増えた。銀花(ぎんか)は一日に何度か見回りのために領域の外に出ていて、その間はひとりで過ごすしかなかったのだ。

 部屋に幽閉されていた約十年間。ずっとひとりだった。だからひとりでも平気だと思っていた。領域内なら好きな場所へ行けるのに、結局、社の中で一番狭い部屋で膝を抱えて座っていた。

(景色をひとりで見ても、楽しくない。銀花(ぎんか)様がいないと、)

 膝に顔を埋めて、(ゆずりは)はしゅんと落ち込む。同時に、リン、と清らかな鈴の音が左耳で鳴った。

(正月に銀花(ぎんか)様がくださった金色の鈴の耳飾り。銀花(ぎんか)様とお揃いの鈴。この音は、優しくて好き)

 小さな鈴がふたつ連なったその耳飾りは銀花(ぎんか)の手作りで、(ゆずりは)が迷子になってもすぐわかるようにと、贈ってくれたのだ。

 実は、その数日前に一緒に外に出かけたのだが、目の前のものに夢中になり、いつの間にか領域外で迷子になってしまったのがきっかけだった。

 一瞬でも(ゆずりは)から目を離してしまったことを反省していて、銀花(ぎんか)は全然悪くないのに、ものすごく落ち込んでいた。(ゆずりは)もこの時の事を後悔し、今後は領域外では銀花(ぎんか)から離れないようにしようと、心に誓ったのだった。

銀花(ぎんか)様、早く帰って来ないかな、)

 白い柔らかな毛で作られた襟巻。
 これも銀花(ぎんか)から貰った物だった。

 神狐である銀花(ぎんか)が自分の毛を使って作ったそうで、なんだか守られている気分になる。肌触りも良くふわふわであたたかい。領域外はまだ凍えるほど寒いので、外に出る時はいつも首に巻いていた。

 領域内は寒さも暑さもない。だからここで巻く必要はないのだが、ひとりで寂しい時にぎゅっと抱きしめていると、なんだか癒されるのだ。

 そんな中、遠くで鈴の音が聞こえた気がした。耳の良い(ゆずりは)は、すぐに銀花(ぎんか)が帰って来たことに気付き、すくっと立ち上がる。動物の尻尾のような襟巻を抱えたまま、籠っていた狭い部屋から出た。

 社の扉を開き、階段を下りる。その先に、銀花(ぎんか)が立っていた。(ゆずりは)はいつものように駆け寄ろうとしたが、その表情が曇る。

「······良い、判断だ。頼むから、今は、俺に近寄らない、で····ほし、い」

 真っ白な銀花(ぎんか)を覆う黒い靄が、(ゆずりは)の足を止めた。それに安堵するかのように、銀花(ぎんか)は辛そうに左手で胸を押さえ、そのまま力が抜けたかのように地面に膝を付く。

銀花(ぎんか)様、これは、なんです?」

 震える声で(ゆずりは)は訊ねる。得体の知れない黒い靄は、はじめて見たのに怖いものだとわかる。これこそが"穢れ"なのではないかと思ったが、訊ねずにはいられなかった。

 あと数歩で手が届きそうなのに、足が思うように動かない。出会った時に銀花(ぎんか)が言っていた。山神の役割。一日に何度も外へ行くのは、その"穢れ"を見つけ、その身に封じるためでもあった。

「少し"穢れ"を溜めすぎただけだ····怖いだろう?先に社に戻っていてくれ」

 先程よりは落ち着いたのか、黒い靄が薄まっていた。しかし苦しそうなのは変わらず、(ゆずりは)は襟巻を抱きしめたまま、首を振った。

「私は、平気です。少し驚いただけで····それよりも銀花(ぎんか)様が心配です。私がちゃんと花嫁の役割を果たせないから、こんなことに······」

「それは、違う。お前のせいではないよ」

 自分を責めている(ゆずりは)を安心させるように、笑みを浮かべる銀花(ぎんか)。しかし(ゆずりは)は真っ青な顔で立ち尽くしている。

(私は、こんなに善くしてくれる銀花(ぎんか)様に、なにもお返しができていない····本当なら、この苦しみから救って差し上げられるはずなのに)

 山神様の"真の(つがい)"となるには、身も心も銀花(ぎんか)に捧げる必要がある。

 心はもう、きっと、捧げられる。今だって、こんなにも銀花(ぎんか)でいっぱいなのだ。

 傍にいて欲しいと思うし、いたいと思う。これは、間違いなく。

銀花(ぎんか)様、私、」

 一歩、また一歩、前に進む。震える指先を誤魔化すように、襟巻を強く抱きしめる。怖い、けど。でも。そんなことより。

(ゆずりは)、無理をするな。俺は、大丈夫だから」

 黒い靄はその言葉を否定するように、銀花(ぎんか)の周りに纏わりついている。動くこともままならないため、自ら離れることもできない。怯えながらも近付いて来る(ゆずりは)を、止めることすら叶わない。

 とうとう手を伸ばせば届く場所まで来てしまった(ゆずりは)が、その場に座り込んで銀花(ぎんか)を見つめてきた。

 するりと、握りしめていた襟巻がふたりの間にゆっくりと滑り落ちた。

 そ、とその頬に両手を伸ばし、触れる。途端、穢れが(ゆずりは)の方へと流れていくのを目にした銀花(ぎんか)は、その赤い瞳を大きく見開いた。

「私、"真の(つがい)"になります。あなたの苦しみ、私にください」

 言って、(ゆずりは)銀花(ぎんか)の頬を両手で包むように触れた後、そのまま自分の唇を重ねた。

 それは本当に触れるだけの口付けだったが、銀花(ぎんか)は驚きのあまり身動きが取れず、もどかしい気持ちでいっぱいになった。

 (ゆずりは)の精一杯の気持ちが嬉しかったのと、慣れていないその行為に対して、今すぐに抱きしめてやりたい衝動に駆られる。こんな状態でなければ、と後悔だけが残った。

 やがて(ゆずりは)がその先をどうしていいのかわからず、恥じらいながら離れていくまで、その姿を呆然と見つめていることしかできなかった。

(これは、新手の拷問かなにかか?)

 その身に溜め込んでいた穢れが完全に消えている驚きよりも、目の前の花嫁が恥ずかしそうに俯いて、先程まで重ねていた唇に遠慮がちに触れている姿を、今すぐ隠してしまいたいという気持ちが先行する。

 だがここは、まさに抑えるべきところであって、獣のように襲いかかる時ではないと悟る。

「あ····あの、私! すみません····っ」

 自分のしてしまったことに対して、銀花(ぎんか)がなにも言わないのを誤解したのか、(ゆずりは)はみるみる顔色が青くなり、何度も「すみません!」と目の前で頭を下げ、終いには勢いよく立ち上がり、社の方へと逃げて行ってしまう。

 (ゆずりは)がつい今しがたまでいた場所には、自分が贈った白い毛で作られた襟巻が、自分と同じようにぽつんと取り残されていた。

 銀花(ぎんか)は、しばらくその場から立ち上がれなかった。この時の不甲斐なさや失態は、なにがあっても一生忘れることはないだろう。

 その後、いつもの狭い部屋に閉じ籠っていた(ゆずりは)を見つけ、膝を抱えて蹲っている花嫁の横に腰を下ろす。手に持っていた襟巻を、肩に掛けるようにそっと巻いてやる。

「····銀花(ぎんか)様、私、本当に駄目な花嫁です。無知な自分が恥ずかしいです」

 (ゆずりは)は、膝に押し付けるように顔を隠してはいるが、両の耳が真っ赤になっていた。

「お前が駄目な花嫁なわけがないだろう?俺の可愛い花嫁、顔を見せて?」

 耳元で囁く。もちろんわざとである。その気持ちは確かに受け取ったし、これはもうそういうことなのだ。あの口付けは、その証ともいえよう。

「お前のお陰で、穢れが浄化された。お前が"真の(つがい)"になってくれたこと、俺は何よりも嬉しい。だから、謝らないで? (ゆずりは)、俺を見て?」

 頭を撫で、長い黒髪を梳き、それからそっと肩を抱く。

「······怒っていないのですか? 私、銀花(ぎんか)様の言うことを聞かず、あんなことまでしてしまって····私を、嫌いになったのでは?」

 どこまでも優しく触れられ、戸惑う。

 すぐ傍で感じるぬくもりは、なによりもあたたかい。それは、出会った時から変わらずそこにあって、(ゆずりは)は安心する。

 それでも視線を合わせるにはまだ心の準備が整ってはおらず、顔はなんとか膝から離したが、銀花(ぎんか)の瞳がどうしても見れなかった。

「俺がお前を嫌いになる? そんなことは天地がひっくり返ってもあり得ないよ、」

 あんな触れるだけの口付けで、こんな風に恥じらってしまうような可愛い花嫁を、嫌いになどなるわけがない。
 
 むしろ、ますます愛おしいと思う気持ちが大きくなり、自分がどれだけ楪《ゆずりは》を好いているか、教えてやりたいと思った。

 だが、なによりも一番大切なのは(ゆずりは)の気持ちで、怖い思いはさせたくない。ここは神として理性を抑え、花嫁の意思を尊重するのが正解だろう。

「····あの、私、男の身ですけど、あんなことをして、その、銀花(ぎんか)様のお子ができたり、しないです、よね?」

「·················」

 薄っすらと赤い唇に指先で触れて、ちらちらとこちらに視線を送りながらそんなことを言う(ゆずりは)に、先程まで何重にも固く結ばれていたはずの"理性"という名の糸が、ぷつんと切れた音がした。

 気付いた時には、(ゆずりは)を床に押し倒していた。見上げ見下ろされる形で、視線が合わさる。そこには、どうしたらいいかわからないという顔でこちらを見上げてくる、(ゆずりは)の姿があった。

「俺の可愛い花嫁は、俺の子が欲しいのか?」

「へ? え? あ、あの、」

 銀花(ぎんか)は悪戯っぽく笑って、真っすぐに(ゆずりは)を見下ろしてくる。自分が何気なく口にしてしまったことを改めて銀花(ぎんか)から言われると、恥ずかしさで顔を覆いたくなった。

 男の身で子ができるなど、あるはずないのに。

 今すぐ顔を隠したいのに、両の手首を押さえられているので、それは叶わない。恥ずかしすぎて瞳が潤み、思わず身じろぐ。

「お前が望むならできなくはないが。しばらくは、お前とふたりきりがいい」

 手首から手を離し、銀花(ぎんか)(ゆずりは)の身体を起こすと、そのまま優しく抱きしめる。
 首に顔を埋めて、甘えるように囁く声に、(ゆずりは)は心臓がどうにかなりそうだった。

「時間は永遠ほどある。ゆっくりでいい、俺を愛して欲しい」

 (ゆずりは)の気持ちが、心が、ちゃんと自分に向けられるまで。その身を捧げても良いと思えるまで。愛してくれるまで。

(······愛、して?)

 その感情はわからないけれど、なんだか不思議と心地好い響きだった。
 好き、とは違うのだろうか。

「はい、私、必ず銀花(ぎんか)様を愛してみせます!」

「よろしく頼む」

 やる気満々にそう言った(ゆずりは)だったが、たぶんよくわかっていないのだろうな、と銀花(ぎんか)はくつくつと笑いを堪えながら答えた。

 いつかその本当の意味を知った時、その時は。

 神の"真の(つがい)"として、永遠を誓おう。