銀花に手を引かれながら、楪は慣れない足取りでついて行く。
こんなにたくさん歩いたのは初めてで、視界に飛び込んでくるものすべてに興味があった。
歩く度に、リン、と透き通るような鈴の音が響く。そんな中、楪の目に飛び込んで来たもの。長い耳をした真白い生き物が大小二匹、少し離れた場所で戯れているのが見えた。
「銀花様、あれはなんですか?」
「あれ? ああ、野うさぎの親子だな」
足を止め、銀花は答える。楪が目を輝かせて野うさぎの動きを見つめていた。本来は褐色の毛に覆われ、腹の部分だけ白いものがほとんどだが、不思議なことに冬の頃は体毛が抜けて白くなるのだ。
目の前にいる親子も白く、ぴょんぴょんと跳ねて移動している。じっとしていたら雪に紛れて見失いそうだ。
「野うさぎ、可愛いですね」
そう言って微笑む楪は、どこまでも純粋で可愛らしかった。銀花は少しだけ表情を崩して、そんな花嫁に見惚れてしまう。
「物心ついた頃から部屋から出ることを許されていませんでしたし、一度も屋敷の外に出た事もありませんでした。だから、今、この目に映るもの、そのすべてが初めてて、私、すごく嬉しいんです」
雪ばかりの山には、枯れた木と青々しい竹林があるだけで、生き物も少なく寂しい印象さえある。しかし、外のセカイを知らなかった楪には、視界に映るすべてが美しく見えた。
「俺のせいだな。すまない。代替わりをした山神の番に選ばれたせいで、辛い思いをさせた」
「そんなこと、ないです。たとえこの身を食べられてしまっても、私はこの景色が見られただけで幸せです。銀花様と最期にお話ができて、幸せです」
「食べられる? さいご?」
怪訝そうに眉を顰めて、その秀麗な顔に浮かんだ表情。楪はそれに対して首を傾げる。なにか間違っていただろうか?
「違うんですか? 花嫁というのは名目で、贄として食べられるんじゃ····」
「花嫁の役割は、俺と一生共にいることだ。なぜ俺がお前を食べるんだ?」
盛大に勘違いをしている花嫁に、銀花は思わず笑ってしまう。そして本来の花嫁の役割を、楪に簡単に説明する。
山神はある一定の周期で代替わりをする。前の山神はすでにこの山を去っており、代わりに選ばれた銀花がその役割を担っていた。山神の役割は、どこからか生まれる"穢れ"をその身に宿すこと。
花嫁の役割はそんな山神に喰われることではなく、その身に宿した"穢れ"を浄化すること。穢れのない清らかな身はそのためのもので、山神と"真の番"となることでその能力が発揮される。
「ええっと、真の番ってなんですか?」
銀花は本当になにもわかっていない純粋な少年に対して、握っていた手を離し、そっと抱き寄せた。そして耳元で囁くようにその答えを告げる。
「身も心も俺のものになること」
「で、でも、私は、男ですよ?身も心もって······どうしたら、」
抱きしめられたまま、動揺しつつも疑問ばかりが頭を巡る。そう、楪は見た目こそ少女のように可憐だが、身も心も男なのだ。
銀花がどんなに秀麗で素敵な旦那様でも、そもそも他人と話したことも触れたこともない楪は、その手のことに関してもまったく経験がなかった。
それなのに、心臓はばくばくと大きく音を立てている。ここに来る前、母親から同じように抱きしめられたが、こんな風にはならなかった。
「何事もやってみなければわからない。まあ、今の頃はそこまで"穢れ"も多くないから、気長にいこう。俺も無理強いはしたくない。けれども、お前は俺の花嫁であり唯一無二の番だ。お前もそのつもりでいて欲しい」
離れた身体に安堵しつつも、薄れていくぬくもりに心臓の音も少しずつ元に戻って行き、今度は物足りなさを感じた。
あの心地好いぬくもりに、ずっと包まれていたいと思ってしまったことに恥ずかしくなり、色白な頬も耳も真っ赤になっていた。
「頬が赤い。ひとの子は弱いから、病にでもなったら心配だ。もっと色々と見たいだろうが、まずは俺の社に急ぐことにしよう」
赤く染まっている理由を勘違いした銀花は、再び楪を引き寄せてその軽い身体を抱き上げると、地面から空へと舞い上がった。
地面から遠く離れ、空に浮いている事を驚いている間もなく、目下に広がる白を纏った木々、冷たい空気、近くなった青い空に感動してしまう。
「銀花様、すごいです! 私たち、空を飛んでますよ! 地面があんなに遠くに見えます!」
実際は銀花が飛んでいて、楪はただ抱き上げられている状態なのだが、本人が楽しそうなのであえてなにも言わなかった。
「寒くないか? 少し我慢してくれ。社に着けば俺の領域だから、寒さも暑さも感じなくなる」
「大丈夫です。寒いのも暑いのも生きている証拠ですから」
そうか、と銀花は楪を見つめて優しく頷く。本当は、少しだけ不安もあった。自分の番が、自分を拒絶したらと。
皆が皆、楪のように真白い心の持ち主ではない。そもそも、幽閉されて生きて来た者が、こんな風に純真無垢であることなど稀だろう。
そうなれば、その心を無視して役割だけを受け入れてもらうしかなくなる。そうしなければ、山神が穢れ、荒神となってしまうからだ。荒神となれば、山どころか村まで吞み込み、穢れを広めてしまうだろう。
穢れはひとを死に追いやる。
そこからまた穢れが生まれる。
そうなっていないのは、今までの花嫁が良くも悪くも役割を果たしたからだろう。できることならば、楪には望んだ上でその役割を受け入れて欲しいと思っている。
籠から出て来た楪の姿を初めて目にした時、銀花は不覚にも心を奪われた。
番として生まれて来た目の前の者と、一生添い遂げようと思った。その想いは、言葉を交わし、触れ、楪を知る度に強くなる。
「銀花様は代替わりで山神様になったと聞きましたが、その前はどんな神様だったんですか?」
「ああ。俺は元々この山で生まれた神狐の類で、前任の山神は神格化した狼だったそうだ。この山はそういう者たちに昔から守られていて、代替わりは前任者からの指名で選ばれるんだ」
楪は自分で訊いておいて、色々と出て来た言葉をすべては理解はできなかった。でもなんとなく銀花の事が知れたので満足する。
「私、春も夏も秋も、ちゃんとこの目で見たことがありません。銀花様は見たことがありますか?」
「この山の春は野桜が綺麗だな。夏は蝉が煩い。秋は木々が黄色や赤に色付いて、圧倒される。お前もきっと気に入るだろう」
「蝉は知ってます!」
得意げに楪はそう言ったが、実際には鳴き声を聞いたことがあるだけで、どんな姿かは見たことはなかった。
「あんまりあれは、見て楽しいものではないよ」
夏は蝉が煩い、と言った銀花。蝉はあんまり好きではないようだ。
そんな他愛のない会話をしている内に、着いたよと銀花が言う。だがそこに社などなく、楪は首を傾げたが、不思議なことにある一定の距離に地面が近付いた時、景色が一変する。
目の前に現われたのは、立派な社。先程まで広がっていた雪景色は消え、代わりに青々とした竹林が広がっていた。社の周りをぐるりと囲むように伸びるその竹林は、まるで空に届きそうなほど背が高かった。
「ここが今日からお前の住まいでもある。俺と一緒じゃないと出られないから、外に行きたい時は遠慮なく言ってくれ」
楪を抱き上げたまま、地面に降り立った銀花がゆっくりと歩き出す。
「自分の足で歩いてもいいですか?」
「俺はこのままでもいいけど、お前がそうしたいのなら」
残念そうに楪を下ろすと、代わりにその手を取って一緒に歩き出す。楪はひとりでも大丈夫なのに、と思ったが、すぐに違うものに興味を惹かれた。社の左右にある小さな池。そこに浮かぶ花があまりにも美しくて、「あれはなんですか?」と銀花に訊ねた。
「あれは蓮の花だよ。綺麗だろう?」
「はい! 近くで見てもいいですか?」
もちろん、と銀花は蓮の花が咲く池の前まで導く。初めて見る蓮の花を色んな角度から観察し始める楪を、飽きることなく見つめていた。
こんな風にどんなものにでも驚いてくれるので、それを教える銀花も気分が良かった。
「これからはたくさんの"はじめて"を、お前にあげるよ」
「はじめて、ばかりですけど、どうぞよろしくお願いします」
満面の笑みを浮かべて見上げてくる楪の頬にそっと触れ、銀花は「こちらこそ」と同じように笑みを浮かべるのだった。